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その日、午後からヴィンズレット伯爵との会談のため外出することになっていた。
フィルポット領はヴィンズレット伯爵の領地と隣接し、その境に川が流れている。今年の夏の初めに大雨が降り、その川に掛かっていた橋が流れてしまった。幸い死人や怪我人が出ることはなかったが、ひと月経った今でも復旧の目処が経っていない。この橋はフィルポット領内に備わっているもののため、厳密にいえば工事の責はフィルポット領側にある。しかし、この橋はどちらの領にも関わる関所に繋がる重要な橋だ。そこで、ヴィンズレット伯爵に援助を願い出るために会談の席を用意した。
姓は違うがヴィンズレット家は元々、ブライトン家の家元に当たる。分家したのはノーラの高祖父に当たる人らしく、その人物を知る人はブライトン家にもヴィンズレット家どちらにもいない。
ヴィンズレット邸の豪華な屋敷についたノーラとアシュレイはメイドに案内され客間に通された。この屋敷には何度か来たことがあるが、久しぶりの訪問だった。
「……はぁ」
ノーラの表情は暗く、ため息も重い。そんな主人の様子にアシュレイはわざとらしく咳をして嗜めた。
「何ですかその顔は。伯爵の前でそんな顔でお会いになるのですか。しゃきっとなさい」
「分かってるわよ……最後のため息くらい見逃して」
今回は仕事のだから仕方なくここに訪れたが、そうでなければ好き好んでやってこない。言われることは大体想像つくからだ。
「いやぁ、待たせて申し訳ない。ノーラ嬢」
そう言いながら客間に入ってきたのは中年の男だった。ふくよかな体で、顔もふっくらとしているせいか皺が目立たない男だった。彼こそ、ヴィンズレット伯爵だ。
伯爵が部屋に入ってくるとノーラとアシュレイは立ち上がり、笑顔で会釈をする。
「お久しぶりです。ヴィンズレット伯爵。お元気そうで何よりですわ」
「ノーラ嬢も元気にやっているようで何より。堅苦しい挨拶は無しにいたしましょう」
伯爵は朗らかにノーラ達に椅子を勧める。ノーラは椅子に座りながらも、内心緊張が抜けなかった。メイド達が客間に入り、茶や菓子を机の上に並べ始める。それを伯爵が眺めながら談笑を続ける。
「初めはどうなることやらと思っていましたが……あれからもう五年も経つのですね。いかがです? 調子は。針の筵の椅子に座っているような気分でしょう?」
伯爵の皮肉めいた冗談にノーラは笑顔で答えた。
「大変なことには変わりないですが、私を助けてくれる人もいるおかげでやっていけているのです。……今回ばかりは伯爵のお力添えをいただかないといけないのですが」
ノーラは早めに本題を持ち出した。あらかじめ手紙で説明はしていたため、概要を簡単に説明し、具体的な工事にかかる費用や人手、期間などこと細やかに数字で割り出したものを見せて説明する。どれもアシュレイと共に徹夜で用意したものだ。
費用も膨大だし、人手もいる。通常であれば、金も人も出すのに難色を示すだろう。しかし、今回の場合はまるっきり拒否されることはないはずだと、アシュレイは予想していた。
アシュレイの予想通り、伯爵は補助しようと申し出てくれた。ノーラは丁寧に礼を言い、細かな段取りを打ち合わせした。
メイドが何度目かのお茶の入れ直しをしてくれたところでひと段落となった。やっとで終わった……と心の中でほっとすると、伯爵が思い出したかのように「そうそう」と口を開いた。
「言い忘れておりました。テリーサ嬢のご結婚、おめでとうございます」
「ありがとうございます。伯爵にはお祝いの品もお送りいただいて」
「何、大したものではございません。しかし、こうなるとノーラ嬢もうかうかとしていられないのでは?」
その言葉に「きたな」と心の中で独りごちる。自然と背中が伸びた。
「いいえ、私は自分の結婚よりも、今は自分の仕事に専念したいのです。やっとでこなせるようになってきたところですから」
「しかし、女一人では苦労されるでしょう? 聞くところによると、直属の部下もヘイズマン氏一人だとか。私も日頃お父上と親しくしておりましたし、人ごとには思えないのです。婚期が遅れてしまうのではないかと、私もですが家内も心配しておりましてな」
「まぁ、そうでしたか。ご心配痛み入ります。そういえば、夫人とは最近お会いしていませんが──」
話を逸らすつもりだったが、伯爵は強引に話を続けた。
「私には甥がいるのですよ。身内の贔屓目かもしれませんが、真面目で優秀な男です。いかがでしょう、まずは会ってみては?」
伯爵の目がまっすぐノーラを見る。微笑んでいるが、射抜くような鋭い目。ノーラはその目にたじろぎながらも、断ろうと口を開こうとするが、伯爵はそれを悟ったのかさらに言葉を重ねる。
「これ以上続ければお辛い目に遭うのはノーラ嬢、あなた自身です。
あなたはよくやっていると、私は思います。ですが、それには限度がある。あなたは女で、また違う役目があることをよくご存知でしょう? 結婚し、子を成し、将来のため次世代を育てるのも大切な勤めです」
ノーラは笑顔を貼り付けたまま頷いた。伸ばした背中に冷たいものがつうっと走ったような気がする。
「ご忠告、ありがとうございます」
まるで蛇のようだ。その目を見てそう思った。
***
ノーラは自分の体を引きずるように馬車に乗り込んだ。馬車が動き出すのを確認すると、深いため息を吐いた。アシュレイもそれを聞いていたはずだが、今度は注意されなかった。
「お疲れ様です」
「ありがとう。何とか乗り切ったけど、次会った時は釣書を見せられそうね」
再びため息。力の入っていなかった体に空気を入れるように深呼吸し、座り直した。
あれからずっと伯爵には見合いをしつこく勧められた。もし時間に余裕があれば、ここに呼びましょうと言われ、今すぐにでも見合いを始めさせられそうになったのには言葉を失った。
申し訳ないが、今日は帰らせてもらうと言ってもなかなか引き下がってもらえず、アシュレイにも口を出してもらいどうにか帰ることができたのだ。
もう陽は傾いて橙色に空を照らしながら山の向こうへ隠れようとしている。農作業をしている人影も帰り支度をしていた。そんな田園風景をぼんやりと眺めながら、ノーラはぽつりと呟く。
「……いっそ、適当な人と結婚した方がいいのかしら」
「それは……お答えいたしかねます」
「あなたらしくない曖昧な答えね」
ノーラは苦笑してアシュレイを見る。彼は表情は崩していないが、困惑しているようだった。
「ごめんなさい、変なこと言って。伯爵の言うことも間違ってないことは分かってる。私が男だったらもっと話は単純だったんだろうけど……こればっかりは仕方ないわ」
自分は女として生を受けた。貴族の女はほとんどが他の家に嫁いでいく。本来なら、自分もそうなるはずだった。自分の決めた道に後悔はない。しかし、時々挫けそうになることもある。
馬車の中では会話は少なかった。ノーラもアシュレイも疲れていたというのもあるが、会話が続かなかった。
やがて馬車がフィルポット領の屋敷について、降りると、アシュレイがくるりとこちらを振り返った。
「先にお部屋に戻っていてください」
「え?」
「少し所用を済ませてから参ります」
アシュレイはそれだけ言うと、さっさと屋敷へと入っていく。ノーラはさして疑問に思うことなく、自分の執務室へ戻り、打ち合わせた書類の整理を始めた。
そうしていると、ノックの音が聞こえ扉が開かれる。そちらを見ると「あ」と声が漏れた。それに遅れてふわりと甘い匂いが鼻をくすぐった。ことん、とアシュレイがそれをノーラの机に置く。
「お疲れでしょう? 今日頑張ったご褒美、とでも思っていただければ」
それはホットチョコレートだった。甘いものは好きだが、ここ最近飲んでいない。最後に飲んだのは、子供の頃体調を崩した時に母が作ってくれた時以来だろうか。
まろやかな焦げ色のチョコレートがカップに注がれている。カップに触れれば手をじんわりと温めてくれる。一口飲むと、撫でるような甘みが口の中に広がっていった。
大人になった今、失敗したことをしつこくつつかれることはあっても、成功したことを褒められることはほとんど無い。大人になり、責任のある仕事をしているのだから仕方がないが、こうして自分の頑張りを認めてくれる人がそばにいることが嬉しくて、カップの熱と同じように心の中に温かいものが広がっていく。
「アシュレイからご褒美をもらったのは初めて。今日は記念日にしないと」
「また大げさなことを……早く召し上がってください。飲み終えたら仕事の続きですよ」
「せっかくアシュレイが作ってくれたんだもの。味わう時間くらい、いいでしょう?」
ノーラは微笑んでアシュレイを見上げた。すると、ふいと顔を逸らされてしまう。ノーラは赤くなった彼の顔を見ることができなかったので、彼の表情には気づかなかった。




