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執務室で朝食後の紅茶を飲みながら、届いている手紙を確認するのはいつもの日課だった。ここ最近、届く手紙はいつもより多い。届いている手紙の大半は次女テリーサの結婚を祝うものだ。
まず、どこの誰から届いているのか封筒の住所を一通り確認し、内容を確かめる。
ある一通の手紙の宛名を見て、手が止まった。もう一度読んで、隣の執務机で書き物をしていたアシュレイに声をかけた。
「ねぇ、アシュレイ。このロイ・ハームズワースって誰だか覚えてる?」
「は?」
アシュレイは顔をこちらに向けてぽかんとしている。生真面目な彼がこんな表情をするのは珍しい。
「……覚えていらっしゃらないのですか?」
「うーん、確かにどこかで聞いたことのあるのよ。でもどうしても思い出せなくて……」
この名前の響きは確かに聞き覚えがある。しかし、それをいつどこで聞いたのか思い出せない。
ノーラが領主となってから、頭の中に各地の貴族や重要人物の名前、特徴を徹底的に叩き込まれた。その中にいた人物だろうかと、ノーラは思い出そうと頭を抱える。
そうしていると、深いため息が聞こえる。言わずもがな、アシュレイがため息の主だ。
「その苗字に覚えがないとは言わせませんよ」
「苗字? ……あっ!」
思い出したノーラが声をあげる。その声でアシュレイは再びため息をついた。その名前こそ、ノーラの元縁談相手のものだ。
「まさか元婚約者の名前をお忘れになるとは……」
「ハームズワース伯爵と手紙のやりとりは年に数回程度だし、ど忘れしてただけ! それに婚約者じゃなくて、婚約話があったってだけって言ったじゃない! ……それにしても、どうして今になって手紙なんて……」
ロイから手紙をもらったことは一度もなかった。五年前、ノーラも縁談白紙の謝罪の手紙を書き、それを伯爵に託した。後日伯爵からの手紙が届き、「息子も承知した」と書かれていた。手紙のやりとりはそれきりしていない。
一体なぜ今更手紙を……?
困惑しながら手紙の封をペーパーナイフで開け便箋を取り出す。中には品の良い手触りの滑らかな便箋が二枚。広げて見れば美しい文字が書き連ねてある。
──手紙は時候の挨拶と久しぶりの手紙をお送りすること、以前送った手紙に返信ができなかった無礼を詫びる文章から始まっていた。次女テリーサの結婚を祝う言葉と共にこう書かれてあった。
“爵位継承後、慣れない職務を果たしながら妹君の後見はご心労があったとお察し致します。テリーサ嬢が素晴らしい貴婦人に成長し、立場のある方の妻となったのもノーラ様の教育と愛情の賜物と存じます。きっと、テリーサ嬢もそれを身に染みて存じていることでしょう。”
“今後も苦労や困難に見舞われることがあるでしょう。お役に立てることがあれば、何なりとお申しつけください。”
“新たな夫婦の輝かしい門出を祝福し、ブライトン家の末永いお幸せとご発展をお祈り致します。”
──手紙はそう締めくくられていた。
他に届いている手紙と変わらない、テリーサの結婚の祝福の手紙のようだ。動揺した割には内容は大したことがなく、安堵した。唐突に彼から手紙が来たことには驚いたが──悪い気はしなかった。
ハームズワース伯爵は、ノーラの決心に理解を示してくれた数少ない理解者だ。ほとんどの者は、ノーラの爵位継承に否定的だった。そのため、元々ハームズワース家にそれほど警戒はしていなかった。
「テリーサの結婚のお祝いの手紙みたい」
「さようでしたか」
「びっくりしたけど、大ごとの手紙じゃなくてよかったわ。それにしても……ふふ」
「? 何か、面白いことでも書いてありますか?」
アシュレイの問いかけにノーラは首を振りながらも嬉しそうに笑った。その文を自分の指で撫でる。
「私のことを手紙で褒めてくれているの。テリーサが立派な貴婦人になったのも私の教育と愛のおかげでしょうって」
テリーサの結婚を祝う手紙はいくつも届いているが、ノーラのことを褒めるものはこれが初めてだった。
「会ったことはないけれど、嬉しいわね。こうして自分のことを褒めてくださるのは」
「……そうですね」
はにかんでみるとアシュレイも僅かに笑いながら同意してくれた。ノーラはその手紙を再び便箋に戻し、大切に引き出しにしまった。──今日の仕事がひと段落したら、手紙に書かれていたことが嬉しかったと返事を書こうと、心に決めた。