あなたがありがとうと言ったから
あとがきに夫視点を追加しました。
おはよう
今日は寒いな
先に顔を洗ってくる
いただきます
ごちそうさま
いってきます
ただいま
先に風呂にはいる
いただきます
今日? 別に何もなかったよ
ごちそうさま
チャンネル、かえていい?
明日早いから先に寝る
目覚ましで起きられないかもしれないな
え? ああ、そうだな。覚えてたら声かけて。
ありがとう。
おやすみ
* * * *
……もう、駄目かと思ったわ。
あなたがありがとうと言ったから、明日はちゃんと起こしてあげる。
今日1日、あなたがありがとうと言わなければ離婚を切り出すつもりだったの。
つまらない賭けよね。
本当にギリギリだったわ。
最後、賭けを無かったことにしようと思ったから、私にはまだ想いが残っていたみたい。
思ったより冷めていなかったようよ。
寂しいなら素直に甘えればいい。
変な顔をされたって構わないじゃない。
好きと伝えることがなぜ負けになるの?
心に再び灯った火は小さいかと思ったけれど、言葉にしたら結構大きいわね。
私も早く寝よう。
明日は絶対に寝坊をしてはならない日だから。
明日の朝からよ。
明日は夫の腕に触れて起こそう。
夫の温もりを忘れてしまったから、思い出すことから始めるわ。
どうしよう……
わたしが今日は夫にありがとうを言わなかった。
夫が同じ賭けをしていないといいけれど。
少しドキドキしてる
ふふ…明日が待ち遠しいなんて久しぶり。
明日は私からおはようを言うからね
〜夫視点〜 本編前から本編と同じ時間まで
ソファでうたた寝をしてしまった妻の、規則正しく上下する胸元に手が伸びそうになって、俺は慌ててその場から離れる。
最後に妻に触れたのはいつだったか。
夜の生活を拒否され続けていたある日、妻の髪についたほこりを取ろうと手を伸ばしたら露骨に避けられて――あの時から俺は妻と距離を置くようになった。
倦怠期……一時期はまさにそれだったのだろう。
今は少し落ち着いたようだが、同居人のように扱われているのはわかる。必要最低限の会話。静かな家。
妻のことは大事だ。情もある。欲情もする。
言葉やコミュニケーションが足りていないのはわかっている。
もちろん、このままでいいとは思っていない。
けれど、もうどうやって近づけばよいかわからない。
どうすればよいか思い悩んでいたある日、同僚が新婚の部下に、夫婦のソーシャルディスタンスの話題で自虐ネタを披露していた。
皆がその話題にのって盛り上がる。俺も自嘲の笑みを漏らしながらも会話の輪に入ったところで、突如疑問が浮かんだ。
……妻は、誰かと会話があるのだろうか
子がいない。仕事も今はしていない。俺の仕事の都合で引っ越したからすぐに会える友人もいない。
そうだ、妻には誰もいないじゃないか
俺は会社に来れば人を頼り、人から頼られ、バカ話をし、人に囲まれている。
妻は?
もしかしてとても寂しい思いをさせているのでは?
* * *
気がついたところで、俺は何もできなかった。
そう、怖気付いている。
またあんなふうに避けられるのではないかと。
彼女は寂しそうなそぶりは見せない。
彼女にとって俺はなんなのだろう。
俺の方が寂しい。
手の届くところにいるのに、遠い存在に思える。
何を思っているかもわからない。
君は寂しくないのか?
このままじゃだめだ。
こんなの夫婦じゃない。
ちゃんと、伝えなければ。
君と触れ合いたいと。
身体だけでなく心も。
でも…急に触れたら嫌がるだろう
だったら
言葉で、心に触れられないだろうか。
最近、挨拶はちゃんとしようと心がけている。
挨拶は当たり前すぎて、彼女には何も届いていないようだ。
何を言えば彼女の心に届くのか……
“ありがとう”
ふと耳に入ってきた言葉。帰宅途中、前を歩いていた夫婦らしき男女の幸せそうな笑顔と会話。
そういえば、妻の笑顔もずっと見ていない。
そうだ、最近は感謝の言葉も忘れていた。何をしていたんだ俺は。
今日こそ勇気をだして、違う何かを彼女に届けなければ。
『ありがとう』
言った…… ちょっと変だっただろうか。
さりげなく言えただろうか。
俺の気持ちは届いただろうか。
心臓がうるさくて、彼女の顔が見られない。
明日からはもっと言葉を増やそう。
君が大事だとちゃんと伝えよう。
これからも支え合っていこうと、伝え続けよう。