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怨霊の世界に囚われた男







 黒い雲がたれ込めている。その重さに耐えきれぬかのように、雲は手を差し伸べれば届くほど垂れ下がっている。

 夜のように暗いが、雲間から薄日が射し込んでいる。腕時計を見る。朝10時。周囲はほんのりと明るい。

 切通勇二は茫然と立ち竦んでいる。目に前に波が押し寄せている。黒い海が白い歯牙を逆立てている。絶え間なく押し寄せては、彼の足元を洗っている。


 ・・・これは夢か・・・

 樹木の間を縫うようにして、波がひたひたと襲っている。彼は恐怖のあまり叫ぼうとする。体が硬直している。声すら出ない。果てしなく拡がる海原が、切通の思考の全てを麻痺させていた。

 明け方5時頃、切通は波の音で目を覚ます。

 9月中旬、日中は残暑の厳しい季節の筈だ。身震いするような寒さとリズムカルな波の音で、眠りの世界から、現実の世界に引き戻される。

 目覚めの前、切通は夢の中にいた。

小雨の降りしきるような、さわさわと、竹の葉がこすり合うような暗い夢だった。それがいつの間にか、波打ち際の砂浜を歩いている夢に変わっていた。

 夢うつつの中で、切通は波の音を体感として、とらえるようになっていた。

・・・波の音・・・覚醒した意識の中で、それが窓の外から聞こえてくるのを知った。彼は薄い掛け布団をはねのける。起き上がって窓の方を見る。窓は掃き出し窓だ。木枠造りで、少々ガタが来ている。ガラスはスリガラス。西向きの窓だ。窓下1メートル下に道がある。一間幅の2枚引きの窓は古くて、開け閉めもままにならない。風のある日はガタガタ揺れる。

 切通は窓を少し持ち上げ気味に開ける。外を見る。

「これは!」絶句する。窓下の道、と言っても道幅が50センチしかない。歩道と言った方が適切だ。道の西側は防風林の樹木が植えられている。樹齢2~3百年は経っている。桜や松が主だ。椿もある。建物と樹木の間の歩道はコンクリート敷きだ。道は窓の下の所から西の方に降りている。道はジグザグとなって、30メートル下の町の県道につながっている。

 波が歩道すれすれの高さまで押し寄せていた。樹木の向こうは側は真っ黒な海が横たわていたのだ。

 切通の家は丘の上だ。はるか2キロ先に常滑港が見下ろせる。常滑港の3キロ沖合に中部国際空港がある。切通の家からは飛行機の離発着がよく見える。西北の方角には常滑競艇場、市役所が見下ろせる。

 伊勢湾を挟んで、遥か西の鈴鹿山脈に、夕日が沈むときの赤い風景は絶景である。


 今――、常滑港の堤防が消え失せている。常滑港を包み込むように出来ている保示町の町並みは跡形なく海のもずくと化している。市役所も常滑競艇場も、丘の下の町並みも、そして、飛行場も、一切が海の下に消えていた。黒い雲が異常なほど低く垂れさがり、鈴鹿の山々は視界から消滅していた。

「おーい」切通は張り裂けんばかりの声をあげる。部屋を飛び出す。呆然と立ち竦む。家の中には誰もいない。いないばかりか、何十年も人が住んだ事のないように荒れ果てている。蜘蛛の巣がかかっている。畳に埃が積もっている。

 切通の家は約80坪ある。明治20年代に建てられた。この地方独特のの田の字型の造りだ。築百年は建っている。伊勢湾台風にも持ちこたえた程の頑丈な造りだ。

 南側の鎧戸のついた玄関を入ると、6帖程の三和土たたきがある。玄関を入った左手西側が田の字型の和室となる。襖を取り払うと、8寸角の、黒々とした大黒柱が威容を誇る。三和土の北側が台所。昔は三和土で、かまが2基ついていた。

切通が小学生の頃に板の間となる。テーブルで食事をするように変わっている。

 玄関の東、右側は昔は納屋だった。切通が中学生の頃に和室と洋室の3部屋に改装している。

 切通の部屋は10帖の洋室だ。田の字型の母屋の北側が空き地だったので、昭和28年に増築している。終戦から間もない頃の物不足の時代の為に、造りは雑だった。2枚引きのガラス戸は早くから締まりが悪かった。


 切通は大黒柱を背にして、呆然と立っていた。

中2階の家屋だ。天井はむき出しの梁が、煤けた姿を晒していた。西側の8帖の和室には仏壇や神棚があった筈なのに、今は埃と蜘蛛の巣の覆われて空洞となっている。畳もボロボロだ。襖や障子も荒れたまま放置してある。

 中2階の家は天井が高い。その為に、1メートル80センチの背丈がある切通も小さく見える。彼は5分刈りの頭と、一文字の濃い眉が印象的だ。威圧するような大きな眼も今は虚ろだ。長い鼻と薄く引き締まった唇が、人を寄せ付けない厳しさを漂わせている。頬が突き出ている。骨格が逞しい。空手三段という大柄な体も、異様な雰囲気にのまれて、萎びて見える。

「そうだ、幸子は!」彼の眼に一条の光が宿る。

裸足のまま、玄関先の三和土に降りる。東側の別棟に走る。

「幸子!」彼はあらん限りの声をあげる。そこで彼の見たものは、敷かれたままの、ボロ屑と化した布団だ。

 彼は寒々とした気持ちで、長袖の柄物のシャツの襟を立てる。たててはっとする。彼はズボンを穿いている。

 昨夜酔っぱらって帰宅している。妻の寝所にはいかず、自分の部屋の布団に、着替えもせずにもぐりこんでいる。


 呆然自失の状態から、少しは冷静さを取り戻していた。しかし周囲の不可解な状況に言いしれぬ恐怖心に襲われている。

「さちこぉ――」彼は絶叫する。玄関の鎧戸に付けられたくぐり戸を開ける。追い立てられるようにして外に飛び出す。

 家の前は10坪ほどの庭になっている。庭石が好きな父が、生前に庭園を造っている。きれい好きな幸子が庭の手入れをしていた。庭の空き地に花を植えている。門まで5メートル程。

 今、庭は荒れ果てて雑草が生い茂っている。門扉も倒壊している。庭を出て、切通が目にしたものは、家の南側にある2百坪の工場が半倒壊の姿を晒していた。

 腕時計を見る。朝6時過ぎだ。東の空の厚い雲間から、薄日が射している。それだけが、今の彼には慰めとなっている。

 切通の家は父の代まで土管を造っていた。工場や納屋を改造して、作業場にしたり借家にしたりしていた。

 彼の家を中心にして、東側に一軒の借家がある。切通の部屋の北側に長屋式の借家が3軒、その長屋の北裏は崖地となっている。その崖下に1戸建ての借家が3軒ある。

 西側、切通の部屋の歩道の下に長屋式が4軒ある。工場の南側に長屋式が6軒。工場の東側は崖だ。10年程前に工場と陸続きに3階建ての建物が建っていた。土管を焼くための窯場と2階3階が乾燥室となっていた。今は煙突や建物を壊して、一軒の借家が建っている。

 切通は家の周囲や借家を駆けずり回る。目を血走らせて、1間1軒見て回る。誰もいない。どの建物も数十年も放置されたままのような荒れ方だった。

 窯場後に建てられた1軒屋の東側に、車が1台通行できる程の道が南北に走っている。その道の東側は3百坪程の空き地がある。昔の土管置き場である。その東側は谷となっている。谷の向こうは小山だ。そこは丸山墓地だ。墓地の南側の高台に寺院の屋根が聳えている。常滑で一番大きな寺――天沢院だ。

 窯跡の1軒屋は平屋だが、窓下まで真っ黒な水が漂っている。その家の下の道路から北に下ると、山方町内の人家が群れている筈だが、今は海中に没している。

 切通は一旦、自分の家の前に戻る。気が狂いそうになるのを我慢する。


 ・・・これは夢か・・・

 樹木の間に打ち寄せる白い波を見て、ふと思う。夢にしては生々しすぎる。海水に手を触れる。頭の芯がつんとくるような冷たさが伝わってくる。

 切通は戸惑いと恐怖に中にいる。夢でないとしたら、ここは一体・・・。

考えられる事は異次元世界に入り込んでしまったという事か。どちらにしても彼の神経はズタズタになろうとしていた。

 彼は頭を抱えて泣き出す。気が狂いそうになるのをかろうじて押しとどめている。

 と、その時、泣き叫ぶような唸り声が、大地の底や海の中から、彷彿として湧き上がってくる。

 恐ろしさのあまり、切通は呆然と立ち竦むのみ。その顔は怯えて、醜く歪んでいる。

「家が・・・!」切通は瞼をかっと見開く。自分の家が音もなく崩れ去っていく。スローモーション映画でも見る様に、ゆっくりと、実にゆっくりと崩壊していく。

 母屋の外壁は杉板をはっている。コールタールを何度も上塗りしている。海から吹き上げてくる潮風に浸食されないためだ。

 それがぼろ切れをはいでいくように、剥がれ落ちていく。その中の土壁や竹小舞が姿を現す。と見る間もなくボロボロと大地にこぼれる。柱がくの字に曲がる。曲がる間もなく腐食して、この世から消えていく。

 建物は屋根瓦の重さに耐えきれず、崩れ落ちていく。瓦は葺き替えて20年程、陶器瓦で比較的新しい。それでも、粉々に砕けながら大地に吸い込まれていく。

 崩壊した家は跡形もなく消え去っていく。切通の家だけではない。工場も、その隣や東側にある借家も崩壊して、一片残らず消滅していく。

 建物が終わると、次は樹や庭石、草なども枯れ果てて、もろくも、ボロボロと砕け散っていく。

 30分ならずして、切通の周囲の物は、大地と海を残して胡散霧消する。天沢院の大伽藍の屋根も、その周囲を埋め尽くす森も、跡形なく消え去っている。あるとすれば、谷の向こうの高台に林立する墓地の石碑のみだ。


 切通は絶叫する。その声がワンワンと跳ね返ってくる。耳をふさぐ。

彼は樹木の消え去った波打ち際に、ぺたりと腰を降ろす。

 彼の性は豪気だ。相手が誰であろうと、ケンカは負けぬ自信がある。そんな彼が、心の中は打ち震え、恐怖と戦っている。発狂しない方が不思議なのだ。

 今、”この世”にあるものと言えば、肉体を持った切通、その肉体を包み込むシャツとズボン、それに手首に巻いた時計のみ。時計の針はすでに8時を回っている。

 彼はうなだれている。もはや声も出ない。波の音だけが、規則正しくし耳朶に伝わってくる。それ以外の音は聞こえない。

 と思う間もなく、かすかだが梵鐘を打つ音が響いてくる。切通は顔を上げて耳をすます。梵鐘特有の、長く尾を引く響きが全身を包み込む。救われたような気持ちが心の中に拡がる。

 音は海中から響いている。

「これは真福寺の除夜の鐘・・・」反射的に思い浮かぶ。

 真福寺は切通家の丘の下にある寺だ。周囲5百坪程の境内地を占める。梵鐘は境内地の南東の角にある。傍示港へは3百メートル、丘の上の切通の家までは約5百メートルある。

 真福寺の西側の参道の出口に、切通の母の実家がある。子供の頃、ここでよく遊んだものだ。

 真福寺は毎年、歳の暮れには除夜の鐘を鳴らす。切通は部屋からこの音を聞いて、年の瀬を迎えている。その日以外、鐘が鳴った事はない。

 それが今、海底から湧き上がるようにして、鳴り響いている。救われたような心の中に、真っ黒な煙が渦巻いて大きくなってくる。心一杯に拡がる。

「あっ!」切通は喉の奥で叫ぶ。忌わしい記憶が蘇生してくるのだ。

・・・麗子・・・先妻の顔がありありと浮かんでくる。

 彼女を殺した日、年の暮れでもないのに、何処で打つのか梵鐘の音が鳴り響いていた。それが妙に耳にこびりついていた。

――麗子の死の間際の顔は鬼女に似て、思い出すのも忌わしかった。

 これは真福寺の鐘の音ではない。切通は締め付けられるような恐怖に囚われて、頭を抱える。

 その時、背後の東の方で、物のはじける音がする。驚いて振り返る。見ると、厚い雲の垂れ下がった下に、墓地が白く輝いている。それは東の空に登り始めた太陽が、雲間の間から差し込んでいるのだった。

 だが切通の心をとらえた怖ろしい光景があった。

墓の中から花火がはじける様に、白い球の光が飛び出しているのだ。

 それは2体、墓地の上で旋回する。やがて1つの塊となって、激しい勢いで切通の方へ飛んでくる。避ける間もない。強い衝撃と共に、彼は地面に倒れて失神する。


 ・・・あなたを許さないわ・・・鬼女の形相で麗子は切通を睨む。それが麗子の最後の言葉だった。

 それから――、彼女は死んだ。

「死んだ、嘘おっしゃい、私はあなたに殺されたのよ。埋められて・・・」


 切通は我に還る。彼の片方の腕が波打ち際に浸かっている。波が押し寄せ、引くたびに、彼の腕を海中に引き込もうとしている。慌てて腕を引いて立ち上がる。

 その時、彼の目に映ったのは、黒い海に漂う白い肉体だった。

 仰向きの姿で波間を漂う肉体は、明らかに女性と判る。こんもりと盛り上がった乳房、肩までありそうな長い髪、それが波に揺れている。股間の黒い茂み。

――男はよう、女に覆い被さるだらぁ、女はよう、仰向けで男を受けいれるだらぁ、無理心中した男女はよう、その格好で、水の上に浮かび上がるんだわぁ――、

 いつだったか、物知りの友人が得意げに話す。その言葉を思い出す。

・・・死体・・・

 切通はその肉体から目をそらす事が出来ない。

始め、眼にしたときは、僅か10メートル程先の海の上だった。いつ現れたか判らない。立ち上がって気が付いた時には、波間に漂っていたのだ。

”それ”は徐々に波打ち際に近ずいてくる。切通の1メートル程手前にに来る。”それ”を見て彼は絶叫する。

「麗子!」

 瓜実顔で、彫りの深い顔立ちだ。白人系の容貌は凄絶なほどの美しさをたたえていた。薄い唇の下の大きな眼は、妥協を許さない力強さに溢れている。切通と同じ、空手で鍛えた肉体だ。生唾を飲み込みたくなるほど艶めかしい。

 均整のとれた肢体は、切通を魅了するに十分だった。

”その”肉体は眼をかっと見開いている。怨みに満ちた表情だ。負けん気の強い薄い唇がきっちりと締まっている。

岸に打ち寄せられた肉体は、丁度切通の目の前に横たわっている。雪のような白い肌が、今しも起き上がるような輝きを放っている。

「麗子・・・」切通は力のない声で2度3度呼びかける。

肉体はピクリともしない。

 と次の瞬間。

 光るような白磁の肌から、輝きが失せていく。艶が無くなっていく。老婆のように肌がしぼんでいく。体中に黒い斑点がぽつりぽつりと現れてくる。それが次第に数を増していく。肉体全体が黒ずんでいく。ミイラのような腐食した肉が、ボロボロとはげ落ちていく。骨があらわれる。目や鼻が欠け落ちていく。髪は抜け落ちて海面に吸い込まれていく。

 切通は黒色化した死体に釘付けとなる。大きな真っ暗な眼孔が切通を見上げている。物言いたげな表情に見える。泣き叫ぼうとするその口からは、茶褐色化した髪の毛が、わっと飛び出してくる。

 切通はよろめく。倒れようとする体を必死に踏ん張る。彼は絶叫する。その声は虚しく、黒い海や雲間に吸い込まれていく。


 昨夜、自分の部屋で寝ていた。起きたら今朝だったと思っていた。それが錯覚である事を、彼は悟る。

昨夜と今朝との間には、隔絶した黒の風景が拡がっている。それが断層となって、切通の記憶を押しつぶしていた。

 「ここは地獄か!」


 切通勇二が佐原麗子と結婚したのは平成10年春。彼が36歳の時だ。

 幼い頃に父が亡くなり、母の手1つで育てられている。幸い、母は商才に長けていた。昭和60年頃、当時稼業だった陶管製造から手を引いた。

 父の死後、父の弟が番頭格として工場の経営を任せられていた。母は専ら資金くぐりや常滑市内の問屋廻りに精を出していた。

 昭和20年代後半から続いている常滑市内の土管屋は造ることのみで、販売は市内の問屋の専職だった。問屋から注文が入るとその品物だけを製造する。

 母は問屋を廻りながら、土管や駄鉢、その他の焼き物の売れ具合を尋ねる。昭和40年代末からヒューム管やビニール管の普及が始まろうとしていた。

 この先、土管の需要は頭打ちから減少に転ずると判断した母は、おじに因果を含めて、土管製造から手を引く決心をする。

 母屋を中心とした、約千坪の敷地や工場に長屋方式のアパートや一戸建ての借家を建築する。アパート経営に乗り出す。

 株の売買にも手を出す。商才をいかんなく発揮する。その母も息子の結婚式を見ることなく死んでいる。切通勇二は名前の通り、次男だ。彼が10歳の時、兄が亡くなっている。


 母の死後、切通は母の遺産を受け継ぐ。月々の家賃で充分な暮らしができる。その上、数千万円に上がる蓄えが彼の生活を支えていた。

 切通は小さい頃から体格が良く、運動は抜群の成績を残している。長じては、柔道や剣道などに励む。20歳前後から友人の勧めで空手一筋の道を歩む。

 24歳の時に空手3段の有段者になる。武豊町の丘陵地帯、六貫山にある、空手道場の師範を務めるまでになる。

 切通は食うに困らない身分であるが、彼を慕って、揉め事の相談を頼み込む者が後を絶たない。その謝礼として金一封を置いていく。その金だけでも、普通のサラリーマンの1ヵ月分の収入になる。

 切通は性格的には面倒見が良い。悪く言えば何でも口を出したがる。人が困っていると、しゃしゃり出る事が好きなのだ。加えて負けず嫌いなので空手の試合でも、相手が負けを認めるまでは攻撃の手を緩めない。

 威圧するような眼つきは迫力がある。その目で睨まれると、大抵の者はすごすごと引っ込んでしまう。いつの間にか、彼は揉め事の解決屋との異名をとる。

 彼の通う空手道場は、武豊の市街地から離れた一角にある。知多半島のほぼ中央の丘陵地帯の尾根に当たる。空手道場からは、伊勢湾や三河湾が見渡せる。

 東側に武豊町の繁華街が見下ろせる。南には知多半島中央道や武豊高校が眺められる。西と北は田園風景が拡がっている。3百坪の敷地に2階建ての80坪の建物が建つ。

 1階部分が道場や更衣室、厨房設備がある。2階が道場主の、石原誠吉5段の住まい。鉄骨造りである。

 切通25歳の時、1人の女性が石原空手道場の門をたたく。佐原麗子、23歳である。

空手道場への入門者が多いのは、一般的には小中学生、次に高校生、大学生や大人はめったに来ない。小中学生の頃は男女はほぼ同数だが、歳を重ねるに従い、男性の数が圧倒する。20歳以上の入門者は、ほとんど男性。

 空手を護身術として身につけようとするのが入門の動機だ。中には体を丈夫にしたいとか、ストレス解消が目的という人もいる。

 佐原麗子は大きな眼をしっかりと見据える。

「強くなりたい」入門の動機を的確に述べる。

身長は、切通よりも少し低い程度。彫りの深い顔立ちと白い肌が印象的だ。その上、彼女の自慢は肩まである長い髪だ。漆黒の艶のある髪と白い肌がマッチして、表情の美しさを際立たせている。高校時代は陸上の選手をしていたという。社会に出てからは余暇に、テニスやジョギングで汗を流している。

”強くなりたい”と聴いて、切通は戸惑う。

 男が言うならいざ知らず、妙齢の美人が、真剣な眼差しで言うのだ。

切通は彼女の大きな眼を見て、背筋の寒くなるのを覚える。意志の強い表情だけでは済まされない、底光りのする陰湿な雰囲気を感じるのだ。

・・・まるで蛇の眼・・・不気味な光りさえ宿していそうな目の輝きが、切通の心を支配する。


 空手道場は知多半島に50余軒ある。お互いが連絡を取り合い、技を競い合う。知多空手連盟協議会を作り、年に1度大会を開く。

 小学生の部、中学生、高校、一般と別れて、空手の試合を行う。優勝者は県大会に出場できる。県大会で優秀な成績を修めると、全国大会に出られる。それだけでも名誉とされている。

 石原空手道場でも、まずは知多半島大会での優勝を目指して、皆、猛稽古に励む。


 佐原麗子は強くなりたいと公言しながら、大会出場には関心を示さない。専ら高校生や社会人を相手に突きの練習に余念がない。

 もっとも、石原空手道場は純然たる空手のみを教えている訳ではない。少林寺拳法の技も加味している。

 突きは空手の基本だが、蹴りの稽古も必要になる。初心者はこれを別々に行うが、慣れてくると、突きと蹴りを同時に行う。

 稽古には稽古用の柔道着を着用する。佐原麗子は長い髪を後ろで束ねる。柔道と異なるところは、相手と組み合ったり、寝技に持ち込むことがない。柔道のように稽古着が乱れる事は少ない。

 稽古に入る前の佐原麗子は、寂しい表情をしている。いったん道場の畳の間に上がると、表情が厳しくなる。凄絶な美貌が際立ってくる。蛇が鎌首をもたげて相手を睨みつけるような凄まじさを感じる。

 彼女の立ち振る舞いを注視している切通は、背筋の寒くなるような思いにとらわれる。


佐原麗子は半田の大手スーパーで経理の仕事をしている。経理と言っても、すべてコンピューターで管理されている。何が一番売れているのかなどの、商品管理が主な仕事だ。

 彼女が道場に来るのは、夕方7時ごろ、7時半に道場に上がる。9時に帰る。1週間の内4日間通っている。人一倍熱心で、飽きずに基本の繰り返しを行っている。

 稽古は1時間。道場の後片付けや掃除を終えると9時になる。時間の余裕のある者は、石原道場主(彼は菅長とよばれている)や切通師範を囲んでの雑談に花を咲かせる。佐原麗子がそのような席に腰を降ろすことはまずない。

 彼女は母と2人暮らし。

彼女の父はアメリカ人。東京で生活していたが、父親の急逝で、母の実家の名古屋での兄夫婦の所に身をよせる。移転してしばらく生活していたが、兄夫婦への遠慮もあって、半田に移住する。

 母の高校時代の同級生からの誘いもあり、自分の店で働かないかと誘われて引越ししたのである。

その店は大手スーパー乙川店の中にある、フジ洋装店である。母娘共々、そこで働く。佐原麗子はパソコンが得意なので、経理を任せられている。

 佐原麗子は夕方5時に仕事を切り上げる。

彼女達の住まいは半田市清城町にある市営住宅。夜7時まで働く母の夕食の支度と、自分の食事を済ませて、道場に駆け込む。9時に道場を出て、自宅まで車で15分。11時に就寝の間、風呂や食事の跡片付け、母娘水入らずの団欒で時を過ごす。

 女性が武道を習う目的は、大半が護身である。彼女の場合、強くなりたいの言うのみだが、空手を習う理由として、ジャーナリストだった父親が来日して空手を習っている。その父を見習いたいという単純なものだ。


 切通が不思議の思うのは、佐原麗子の空手に対する程の異常な執念である。

 石原空手道場は入門者が多いほど経営としては楽になる。入門者に辛い修行を押し付けるとやめてしまう。だから楽に習得できる方法を講じることになる。早く言えば手抜きだ。

 その中から、将来有段者として向上できる者を選別していく。空手大会に出場させて、道場の中核を担う人材として育てることになる。

 女性の入門者は、ほとんどがある程度の技を身に着けると、稽古がおろそかになる。1週間の内4日通っていた者が、3日、2日と出席回数が減っていく。その内に姿が見えなくなる。

 入門者がまず身に着けるのは、立ち方の練習だ。一般的には閉足立が基本となる。これは自然に直立した形で、両踵と爪先を軽く接する。攻めと守りの両方に適した姿勢だ。

 その他に、結び立、八字立、平行立と、立ち方の変化形がある。それらを習得して、次に拳の握り方を教えられる。

 正拳、人差し指と中指の付け根の拳頭を中心とした基本形で、空手では最も多く使われる。手首を真直ぐ伸ばして強く締め、手の甲と手首が一直線になるようにする。手首を捻挫しないために、徹底した鍛練が必要となる。

 その他裏拳、一本拳と実に多くの拳がある。これらが時と場に応じて、自然に繰り出す様に練習する。

 以上普通の人で約1ヵ月かかる。入門者によっては退屈な稽古だが、これを徹底して身につけないと、実技の時にケガをする因となる。

 それから念願の突きと蹴りの技の稽古となる。突きの基本は直突きが主だ。前腕を内方にねじり込みながら真直ぐ突く。その他の突きとして、縦突き、揚突き、裏突きなどがある。

 蹴りは突きを習得してから、はじめて稽古が許される。

蹴るためには、片足で上体を支えるだけでなく、蹴った瞬間、強烈な衝撃に耐えねばならない。その上、蹴りっぱなしで、相手に足をすくわれたリ、掴まれたリする可能性がある。突きで身体の筋肉を鍛えてはじめて出来る動作だ。

 前蹴りが主となる。正面の目標を構えた足の虎趾、爪先、背足などを用いて蹴る。その他横蹴り。、回蹴り、飛蹴りなど、突きと同様多彩を極める。

 当然相手が繰り出す突きや蹴りを防御する方法も考えねばならない。これが受けである。揚受け、腕受け、下段払いなどがある。

 以上のような基本をマスターしてこそ、実技が許される。女性の多くは基本をマスターして良しとする。道場側も、その点は充分に心得ているので、2,3ヵ月で基本を習得する方法を講ずることになる。

 佐原麗子の場合、それだけでは満足しなかった。さらに上を狙う。あらゆる型をマスターすると、形を演ずることになる。形によっては二十拳動、四十拳動と動作の数が決まっている。前後左右への進退転身を示す路線を演武線といい、演武開始の位置から出発し、定められた路線を移動する。形の中にある一挙手一投足は、全て攻防の動作である。一つの形には幾多の攻防技が収められている。それごく自然な動作で行えるよう厳しい訓練を積むことになる。

 佐原麗子はその形も見事に、我がものとする。

 彼女が空手道場に深入りすればするほど、彼女のもつ孤高的な雰囲気に厳しさが加わっていく。人目を惹くほどの美人であるだけに、近寄りがたさが加味されていく。

佐原麗子が入門して1年がたつ。

 入門当初は白磁のような肌と、艶のある長い黒髪が際立っていた。陰のある表情には特徴があった。大きな瞳は焦点の定まらぬような不安げな色が滲み出ていた。

 今は大の男と互角に勝負しても引けをとらない。表情は明るい。負けん気の強い性格そのままに、動作は自信にあふれている。眼は炯々とした光が宿っている。朱に染まった唇は強者の余裕をみせて、微笑んでいる。

・・・まるで豹だ・・・際立った美貌であるだけに、柔道着に白帯をきりりと締めた姿は、戦いに出陣する女神を想像させる。近寄りがたさを全身に漂わせる。静かな動作の内に火のような闘志を漲らせている。

 石原空手道場は1ヵ月に1回、空手試合が行われる。道場だけに通用する段や級を授与する。入門者の励みとするためだ。

 佐原麗子は試合には必ず出る。1ヵ月2ヵ月と稽古を積むたびに、彼女の腕は着実に上がっていく。道場に貼られた彼女の名札は上位へと繰り上がる。


 佐原麗子24歳の春のある日、いつもは稽古を終えて9時になるとさっさと帰る彼女だ。この日は石原管長の講話に出席する。10時に管長の講話が終わる。

「師範、お願いがあります」

 麗子は道場の片隅に切通を呼ぶ。真剣な表情だ。「

「明後日の休みの日、私に稽古をつけてください。

挑むような眼差しだ。蛇の眼のように底光りして、白い頬が紅潮している。


 石原空手道場は水曜日を休日としている。

 切通は約50名の入門者には、突きや蹴り、受けの仕方を教えはするが、実技を主とした稽古試合はしない。休日は道場主も家族も外出する機会も多い。切通も名古屋まで出かけて買い物を楽しむ。

 稽古をつけてくれと言われて、切通は面食らう。

「道場の方針で、私は試合をしない事にしているが・・・」

「判っています。でも私・・・」佐原麗子は大きな眼で、切通を見つめる。ぞっとするほど美しい。魅入られるようだ。言い出したら一歩も退かない強さがその表情に滲み出ている。

 切通は稽古をつけてやろうという気持ちになる。彼女は人一倍稽古熱心だ。真摯な態度も好感がもって眺めている。

 それに・・・。切通は彼女に恋心を抱いている。

 一度ぐらいお茶でも誘おうかと思っていた。だが彼女は受け入れる隙を与えない。というよりも、切通は師範としては一目置かれているが、男としては無視されている。

「判った。ただし、管長の許可が得られればだが・・・」

 佐原麗子の眼が輝く。頬が緩む。軽く一礼すると、石原管長の元に駆け出していく。一言二言管長と話をする。管長は軽く頷くと、2階の自室に消える。

 麗子は小走りに切通の所に戻ってくる。

「管長の許可を頂きました」明るい声で答える。切通は鷹揚に頷く。


 2日後、午前10時。切通は黒帯を持って道場にあらわれる。佐原麗子はすでに胡座して待機している。

 動場の正面は2間幅の床の間となっている。天照大神の掛け軸がかかっている。その下に一輪挿しがある。季節によって違うが、いつも清楚な花が活けられている。

 稽古の時は、床の間を背にして管長が胡座する。管長の横手に切通師範が座を占める。入門者や門下生達が、東向きの管長と師範を横手に眺める形で、道場の南と北の壁を背にして胡座する。

 その日、切通が見たのは、北側の壁を背にした佐原麗子だ。胡座して眼を瞑る。両手を膝に乗せて微動ざにしない。

 切通は、もう少しで声をあげるところだった。

彼女の柔道着が紺色だった。白帯をきりりと締めあげた姿は、簡素な服装なだけに、清純な美しさに溢れていた。

「佐原君!」切通は甲高い声をあげる。

 佐原麗子は静かに目を開ける。豹のような眼で切通を見る。炯々と光る眼は、臆することなく切通に向けられる。

「君、その柔道着は・・・」

 稽古着や試合着は白と決まっている。

「いけませんか」詫びれる様子もない。

「いや、別に、それに今日は君と2人だけだから・・・」

むしろ切通の方が歯切れが悪い。空手は柔道衣でなければならぬという定めはない。試合以外ではトレーナーでも黙認している。小中学生の中には体操着で来る者もいる。

「この柔道衣、父のです」

一言口にすると、麗子は唇を閉ざす。切通の威嚇するような大きな眼を穴の開くほど見上げている。

 しばらくの沈黙。

「では始めようか」切通の声で、2人は対峙する。一礼して、麗子は外受けの姿勢をとる。蟹がハサミを振りかざす形に似ている。

 切通は自然受けの形をとる。足は八の字、両手をだらりと下げて、麗子を眺めている。

麗子の眼は炯々と輝いている。怒りにも似た色が宿っている。飢えた猫がネズミを捕らえようとする激しい気迫が漲っている。

 切通はそんな麗子を意に介していない。半眼の、茫漠たる表情で彼女の動きを見ているのみ。水のように静かだ。

「エイ!」麗子の緊迫した気合が、朱に染まった唇から洩れる。

「トウ!」右手を後ろに引く。左手を手刀として突きだす。気合と同時に一歩前にでる。切通を誘いこもうとする。

切通はびくともしない。茫漠とした眼で麗子の突き技を眺めているのみ、呼吸は静かだ。一方の麗子は早くも息が荒い。富士額から、うっすらと脂汗がにじむ。

 切通には隙がない。このまま対峙していたら、分が悪くなる。麗子は一歩前に出る。気合を入れる。直突きと見せながら、前蹴りをかける。右足を大きく跳ね上げる。切通の鳩尾を急襲する。初心者同士の試合なら有効な攻めだ。

 切通は3段だが、実力はそれ以上だ。突きと見せかけた蹴りを一瞬の内に、中段腕受けでかわす。と同時に、麗子の左足を前蹴りの形から横に払う。

 麗子の体は激しく横転する。畳の上に背中を叩きつけられる。柔道の受け身を習得していないと、胸や心臓を圧迫される。ひどい時には失神する。

 さすがに麗子は顔をしかめる。すぐに立ち上がる。

「まだまだ」声に気合が入る。足を四股立のの体勢をに取る。

 騎馬立てに似た立ち方だ。爪先は外側を向く。さらに腰を落とす。両手のこぶしに力を入れる。腰のあたりで弓を引く体勢となる。切通の蹴りを封じ込めようとする。防御の形でありながら、隙あらば飛びかかろうとする。

 彼女の頬は紅潮している。横転した時に、後ろに束ねた髪の毛がほどけて、肩まで乱れている。顔を覆う髪の一部が口の中に入っている。それをはぶこうともしない。髪の毛の間から、大きな眼が獣のように光っている。

 切通はゾクッとする。その野生的な美しさに、思わず身震いする。性的な興奮が彼の心を襲う。

 麗子は低く身構えた姿勢から、突きと蹴りを同時に繰り出す。右こぶしを下段から突き上げてくる。いわゆる揚げ突きの構えだ。左こぶしで切通の腿のあたりを攻めようとする。肘を深く曲げる。釣突きとも言われる。同時に左足を回転させて、切通の足を払おうとする。

 切通は麗子の攻めを冷ややかに対応する。彼女のこぶしを封じながら一歩後退する。その瞬間、回転する麗子の左足を、そのまま突き揚げる。

「あっ!」麗子の体は一回転しながら、もんどり打って畳の上に転がる。

 さすがに全身を打ち付けて、麗子は激しい痛みに襲われる。仰向きになったまま、しばらくは起き上がれない。口の中に入った髪の毛をぷっと吐き出す。必死になって起き上がろうとする。

「これまで、勝負あった」

切通は麗子の意欲はかうものの、実力の差が歴然としている。勝負にならない。

「まだまだ」それでも麗子は立ち上がる。中段外受けの構えに入る。八の字型の足がふらついている。腰も砕けている。もはや戦う姿勢ではない。

 切通は一歩身を引く。両手を腰に当てる。試合は終わったのだと、形で知らせる。

「師範、お願いです。試合を続行して下さい」麗子の凄まじい形相が切通の心を打つ。

 恐ろしい訳ではない。その表情にあらわれる一途な思いが切通の心を打つのだ。

・・・なぜ、こうまでに・・・

必死になって戦わねばならないのか。麗子の心の内は判らないが、気迫だけがひしひしと伝わってくるのだった。

 切通は両手をだらりと下げる。戦意喪失の体だ。隙だらけの構えとなる。すかさず麗子は切通の懐に飛び込む。切通の柔道着の襟首をつかむ。

「負けたくない」必死な顔つきで切通を見上げる。大内外掛けの技をかける。麗子の足が切通の足を外側からかける。麗子は腰をつかって、切通を叩きつける。

 叩きつけられるとみせて、切通は麗子の腕をしっかりと掴んで離さない。

 あっという間もない。2人の体は折り重なるようにして、畳に上に転がる。

 麗子は切通を羽交い絞めにする。麗子のされるがままになりながらも、切通は彼女の体をしっかりと握り締めて、畳の上を転がる。

 やがて動きが止まる。麗子は覆いかぶさるようにして、切通の体を押さえつける。

「どうだ。参ったか」

 麗子の朱に染まった美しい唇から白い歯がこぼれる。桜色に上気した肌からは艶めかしい匂いが漂ってくる。

 切通の体から情欲の炎が燃え盛る。彼は麗子を見つめたまま何も言わない。大きないかつい眼を、かっと見開いたままだ。

「まいったか、参ったと言え」

 絹をさくような声だ。彼女は切通を征服しようとばかりに、豊満な肉体を押し付けてくる。

「参った、まいったよ」

 切通は押し切られたように叫ぶ。その途端、我が意を得たとばかりの、麗子の高笑いが道場内に響き渡る。

 その瞬間だ。切通は佐原麗子を抱きしめる。逞しい男の腕に抱きすくめられて、麗子は身動きできない。

あっと叫ぶ。その声が消えぬ内に、切通は麗子の唇にキスをする。

 その手から逃れようと、麗子は必死の抵抗を試みる。やがて力尽きる。切通の腕の中にわが身を託す。


 空は相変わらず低い雲が垂れ下がっている。太陽は東の上空にあるらしい。雲間から淡い光が漏れている。聞こえるものと言えば、波の打ち寄せる音ばかり。

黒い海と、茶色の大地。そして、灰色の雲のみ。

 ・・・もしかして、ここは・・・

 死んだ麗子の世界ではないのか。

 切通は不安気にあたりを見る。麗子の死体はすでにない。

 

 南の方角、天沢院のあった周辺が明るくなる。地の底から光が湧き出している感じだ。その光の中に、1本の松の樹が出現する。八の字型の枝が垂れている。大人2人がかりで、一抱えする程の大きさだ。

 切通はハッとする。動悸が激しくなる。唇がわなわなと震える。顔面が蒼白になる。

 後ろの方で声が聞こえる。ぎょっとして振り返る。

 大きな屋敷から切り離された、1つの部屋があらわれている。東と北が壁だ。南にドアがある。西側は海に面している。掃き出しの窓だ。明かりが煌々とついている。スリガラスなので部屋の中は見えない。先程闇の中に消えた消え去った切通の部屋だ。

”麗子、辛抱して、あの人が死ぬまで、ね”

その声は麗子の母だ。

 切通は部屋に近ずこうとする。足が石になったみたいに固い。身動きすら出来ないのだ。

「れいこぉー」彼は思い切り叫ぶ。声は届いている筈なのに、部屋の中の会話は機械的に進行している。

 後方で呻き声が聞こえる。慌てて振り向く。松の枝に1人の女が首を吊って苦しんでいる。麗子の母だ。

 切通は絶叫する。彼はすべてを理解した。麗子と母に彼は断末魔の苦しみを与えたのだ。

”ここは因果応報の世界か”

「麗子!」部屋の方を振り返る。手を差し伸べる。殺した相手に何と叫べばよいのか。


 切通は佐原麗子と結婚する。切通の稽古試合が縁となっている。それ以来度々2人だけの稽古試合が行われた。

 プロポーズしたのは切通。麗子は勝ち誇った顔で受け入れる。負ける事の嫌いな性分だ。条件として、週に1回稽古試合をする事。実に他愛もないものだった。

 彼女の負けず嫌いな性分はどこからくるのか、切通は麗子に尋ねるが、薄笑いを浮かべるだけで答えようとはしない。

「あの子は、自分の悩みを打ち明けたことがないのよ」

 彼女の母、静子の言葉だ。母親に聞く事になる。

”我が子ながら、内心は判らないが・・・”と断りを入れて、以下のように答える。

 麗子の父親はアメリカ人。日本に来て、政治や経済の雑誌記者として生活を送る。静子と結婚して麗子をもうける。

 彼は日本の武道に興味を持っていた。たまたま住んでいた近くに空手道場があった。週に2回、稽古に通う。

 麗子が小学校6年生の時、父と2人で夜中の公園をぶらついていた。そこへ物取りを目的とした3人の暴漢に襲われた。彼女の父は空手を習っているとはいえ、鉄パイプを手にした屈強な3人にかなう筈がない。1人を蹴りで倒す。後頭部を鉄パイプで殴られる。倒れるところを寄ってたかって滅多打ちに会う。

 巡回中のお巡りさんに助けられるが、彼女の父は瀕死の重傷を負う。幼い麗子は事の成り行きを見守るのみ。恐怖に打ち震えて、しばらくは口もきけなかった。

 数日後、彼女の父は死亡する。死の直前、うわ言のように「残念、負けてなるものか」こんな言葉をつぶやいていた。

「多分としか言いようがないが・・・」と前置きして、麗子の母は答えている。

 麗子は小さい時から我の強い子だった。欲しいもののがあると、それが自分のものになるまで泣き続ける。父は我が子に甘い。欲しい物は何でも与えている。その父が眼の前で殴り倒される。世界中で一番尊敬し、強いと信じていた父が負ける。

「負けない人間になれ」日頃、男の子に言い聞かす様に父は麗子に語っていたのだ。

 父が死んでからの麗子は、心の奥に籠るようになる。人に接して得も、めったに喋らない。どんなことも泣き言1つ言わずにこなしていく。


 切通は静子の言葉から、麗子の性分を推し量ろうとした。情報としては不十分であるが、後は結婚後の彼女の態度から判断するしかないと考えた。


 結婚後、2人はよくドライブに出かける。

「バラ色の人生だね」麗子を愛していた切通は囁くように言う。

「バラ色なんてないわ。この世はすべて黒なのよ」

射るような大きな眼で切り返す。

「えっ?」愛の言葉を語り合おうと、彼女の肩に手を触れた切通は興ざめする。

「この世はすべて、白と黒の混ざりあった光景よ」

 麗子の眼は醒めている。愛された喜びを味わった事がないのか、口元は冷笑している。切通は冷ややかな気分になるが、あえて反論しない。

 麗子にはもう1つ趣味があった。絵を描く、と言っても画用紙に鉛筆のデッサンだ。切通は絵の鑑賞眼はないが、素人目でみても良いと感じる。ドライブの時には必ず画用紙を持参する。約1時間の素描ながら風景や人物画など、素人離れした腕の冴えを見せる。

「水墨画ってあるでしょう」麗子は勝ち誇ったように説明する。

 水墨画の世界は墨の濃淡を通じて、無限の色彩の世界を想像する事にある。青い水の色は、淡い灰色から青々とした世界を想像する。

 今、我々がいる世界も同じ事。青とか赤とか言っているけれど、それはすべて光の反射の色でしかない。光りがなければ色は存在しない。元々の色は黒と白だけだ。

 切通は麗子の説明を聴いても要領を得ない。反論したくなるが、したところで、きっと睨み据えられて有無を言わさず納得させられる。

”この強さはどこからくるのか”ただ単に父親譲りだとは思えない。もっと他に、麗子の心の奥底から湧き上がる何かがある筈だと考える。

 切通は麗子の際立った美貌と、空手で鍛えられた見事な肢体に魅せられている。白い球を見せられて、これは黒よと言われれば、そうですと答えるしかない。反論でもしようものなら、冷たくあしらわれて、取りつく島もない。切通にはそれが辛いのだ。


 麗子と結婚して、彼女の母親も切通の家に同居する。切通の家は大きいが古くて住みにくい。田の字型の家だ。

 家の真ん中に、8寸角の太さの大黒柱がある。中2階の建物で、天井の梁は剥き出し、煤けて黒い。襖も板戸で黒光りしている。母屋の東側は昔は納屋だった。改造して2間の和室と8帖の応接室にしている。ここも改築40年はたっている。

 結婚を契機に家を建て直そうかと思ったが、私好みにぴったりと、麗子が眼を輝かせる。麗子が持ち込んだ家具類や箪笥も古色蒼然として、切通の家にあつらえたように収まる。

・・・これが新婚生活か・・・

 切通はあきらめの境地で麗子に従うしかなかった。この事さえ我慢すれば、結婚生活はバラ色で蜜月の日々の筈だった。

 しかし・・・。彼の甘い生活は長くは続かなかった。


 麗子の母が切通家の家計を切り盛りするようになる。切通本人は家計には無頓着、というより数字に弱い。家賃収入などのお金の出入りは帳面につけてはいるが、後は会計士任せだ。

 麗子の母がそのすべてを肩代わりした事で、切通は煩わしさから解放された気分になった。有難い人が来てくれたと、結婚当初は喜んだものだ。

 だがそれが後々、とんでもない事態になろうとは、切通は思いもしなかった。

切通は茫然と黒い海を見つめている。麗子の母が語り合っていた部屋は消滅している。あるのは南の方に聳える1本の松の樹のみだ。

 分厚く垂れこめた雲間から、かすかに陽の光が射し込んでくる。日は中天にさしかかっているようだ。

今は天沢院の伽藍堂も墓地も、借家も何も存在しない。松の樹が1本あるのみ。陸地に押し寄せる白い波のみが、規則正しい音のさえずりを運んでいる。

 朝の寒さも消えている。

 切通はその場に蹲る。

・・・自分は何故ここにいるのだ・・・

 黒い風景の中で、否応なしに思い出すのは、麗子の事ばかりだ。

・・・俺は麗子を恨んではいなかった。彼女に惚れて一緒になった。麗子の願いは出来るだけ叶えてやった。譲歩できるところはしてやった。なのに、麗子は・・・。

 切通は涙を浮かべる。

”妥協する事の知らない女だった”

 どこまでも我を押し通す。自分の思った通りに言が運ぶと、勝ち誇った顔になる。相手への感謝の念は一かけらもなかった。

・・・麗子の人生そのものが黒色ではなかったのか・・・


 結婚前――。

 朝起床すると、母親と朝食を済ます。親子の会話もない。

早々に職場に出かける。昼食時や休憩時の同僚との会話に花が咲くわけでもない。色恋の話も聞かない。

 あれ程の美形だから言い寄る男もいたろうに、恋をしたと言う風聞も聞かない。仕事が終わると、その足で真直ぐに空手道場に来る。真剣な眼差しで稽古に打ち込む。9時に終わるとさっさと帰っていく。

 夕食後、母と語り合う。その中身は明日の仕事の打ち合わせに過ぎない。

 休日にドライブに出かける。と言っても、風景画のデッサンのためだ。描くだけ書くと、さっさと帰宅の準備をする。どこかホテルに宿泊して手足を伸ばす事は念頭にはない。

 普通ならば、花をめでるとか、絵を描くにしても、絵画のグループに入って、友好を深めるとか、情緒的な面での潤いを求めてもいい筈だ。

 それが色、赤と青の色彩感覚ではないのか。

 麗子にはその感性が欠落していた。


 結婚後も、切通は麗子から個人的な悩みを聞いた事がない。赤の他人同士がそのまま1つ屋根の下に寝起きしている。夫婦としての会話もない。砂を噛むような生活感覚しか味わえなかった。

夜の生活も新婚当初の1年ばかり続いてだけだ。いつの間にか、麗子は母と同居するようになった。


 切通の家は何時しか佐原母子に占領される。切通は一番北奥の自分の部屋の押し込められてしまう。家計も麗子の母が采配を振るうようになる。彼は1ヵ月に1回、小遣いをもらう身分になり下がる。

 それでえも彼は辛抱していた。お金には大して執着心がない。”用心棒代”や事件の解決のお礼金が入ってくる。欲を言えばきりがない。1ヵ月の小遣いとしては十分すぎるのだ。


 切通は天を仰ぐ。灰色の雲間から淡い光が射し込んでくる。それが唯一の救いであるかのように見つめる。

・・・麗子は死んでもなお、この俺を支配しようとしているのか・・・この世界からどうしたら抜け出せるのか、何の方策もない。

 天を仰ぐのみだった。


 麗子と結婚したのが平成10年、彼女と死別したのが平成17年。後妻として迎えた片桐幸子が切通家に嫁入りしたのが平成18年。切通34歳、幸子25歳の夏の事だ。


 麗子との結婚生活は僅か7年で幕を閉じている。

 結婚当初の2~3年は2人でドライブを楽しんだりしたが、麗子の気ままな行動に嫌気がさして辞めてしまう。

 一家団欒という言葉に縁がなかった。

佐原母子は結婚後、一時期職から身を引いたが、家庭に落ち着くと、前に勤めていた職場に復帰する。

 麗子が結婚を条件に出した稽古試合も解消する。

 何の事はない。赤の他人が2人、切通家に入り込んだだけだ。

 それでも結婚して2~3年は朝夕の食事も家族”3人”揃って摂ったものだ。それ以後、切通勇二は仲間外れ。

麗子たちは朝早くから仕事に行くという事情があった。切通は朝8時に起床する。その頃には2人の姿はない。朝食の味噌汁も自分で温める。夜5時の食事も出来合いのおかずを冷蔵庫から取り出す。電子レンジでチンするのみ。2人が帰宅するのは夜9時頃だ。

 この頃は麗子はもう空手道場に通ってはいない。切通は夕食後空手道場に向かう。帰宅は9時半から10時頃、2人の姿は寝室に消えている。

 切通家でちょっとした事件が持ち上がる。

平成14年の春、切通30歳、麗子28歳の年だ。

 バブル経済崩壊後、世の中の景気は少しは上昇気配にあった。デフレ経済の影響で物価は上昇していない。麗子たちの職場も客足が良かった。2人の収入も申し分もない。珍しい事だが、5月の連休を家の中で過ごしている。久し振りの一家団欒だ。仕事場でよい事があったと見えて、麗子の機嫌も良い。明るくて白い頬が紅潮している。切通に冗談さえ飛ばす。母の静子は還暦に近い年だが、麗子同様華やいで見える。麗子程美人ではないが、目鼻立ちの整った表情をしている。愛想がよく、表情が豊かだ。ただ腹の中では何を考えているのか判らないところがある。気の許せない女だった。

 切通はあまり酒を飲まない。飲むときは近くの居酒屋で飲む。結婚当初は家族3人、水入らずで飲んだものだ。それもいつしか途絶えてしまった。以来切通1人で飲んだり、外で友人と飲んだりするのみ。

 普段は飲まなくても、切通は5合はいける。麗子たちも3合はいける。3人とも悪い酒ではない。

 酒が入ると、舌も軽くなる。和やかな雰囲気だ。黒一色の家の中に色とりどりの花が咲いた気分だ。切通のいかつい顔もエビス顔になる。

「ねえ、あなた、何か欲しいものある?」

 麗子が洋服でも買ってやろうと、気前のいいことを言う。

「勇二さん、お金の事なら任せといて」静子がお腹をポンと叩く。

「俺は・・・」切通は大きな眼を天井の煤けた梁に向ける。

 着る物には興味はない。かといって他に欲しい物など思い当たらない。欲しければ自分の小遣いで賄える。

「欲しいものと言えば・・・」

 切通は暖かい家庭を切望している。

・・・そうだ、子供さえいれば・・・」

 夫婦の間はもっと円満になるかもしれない。麗子たちが外に出ていって働いてもいい。自分が子供の面倒を見ても良いのだ。人生に張りが出るかもしれない。

「俺は・・・」切通は子供のように口ごもる。

「子供が欲しいんだ。もう30になるしな」

 そろそろ子宝に恵まれたいと切り出す。麗子も28歳だ。頑強な体とはいえ、子供を産む歳の限界に来ているのではないのか。麗子だって内心、母親になりたいと願っているのではないのか。切通は喋りながら、心の中でそう感じていた。

 急に、やわらいだ麗子の表情が硬くなる。酔った目が正気になる。 

「私、子供なんて欲しくないの」切通を直視する。

 切通は麗子の詞に我が耳を疑う。

「しかし・・・子供がいないとこの家は・・・」後継ぎがいなくては、家が絶えてしまうのだ。

 麗子は薄笑いを浮かべて、切通を見るのみ。

 和やかな雰囲気は醒めて、そのままお開きとなった。以後、麗子が死ぬまで、団欒の場は縁のないものとなった。

 このささやかな事件が、後々、切通家の崩壊のきっかけとなる。


 この事件が起きるまでは、麗子たちが何をしようと黙認してきた。”主人”を差し置いて親子2人で旅行に出かけようと、おいしい物を食べに行こうと、文句は言わなかった。家の中で切通をのけ者にしようとも、じっと耐えてきた。

 切通は麗子を愛していたし、いつか自分の懐に戻ってきてくれると信じていたからだ。

 だが、この事件以来、切通は麗子親子の行動にいちいち文句をつけるようになる。

”今度の休日に買い物に出かけるわ”と言えば、何処へ買い物に行くのか、何を買うのか、いくら使うのか、詮索するようになる。

 夜の帰宅が遅いと、今まで何処で道草を食っていたのか、ねちねちと追求する。

 我の強い麗子も負けていはいない。

「あなたにいちいち指図される覚えはないし、何処へ行こうと、報告する義務もない」

 事実、今まで自由奔放に暮らしてきたのだ。

 結婚する時、束縛しない事も条件に入っていた筈だいきり立つ。

 お陰で切通の家は終始険悪な雰囲気に包まれる事になる。切通が声を洗立てれば立てる程、麗子母子が家にいる時間が短くなる。

 朝8時に家を出たきり、夜9時頃まで帰ってこない。勤務がある日はともかくとして、休日も早朝に家を飛び出していく。

 その内、夜帰らない日が出る。1泊2泊と外出して、3日後に何事もなかったような顔で帰ってくる。帰ってきても切通とは口もきかない。

 平成15年の冬、麗子親子を呼びつける。

「これ以上、こんな生活はゴメンだ」たまりかねて言う。

 麗子の母、静子は世渡りが上手だ。話し方や、身振りにソツがない。切通が何を言いたいのか、とうに見抜いている。

 切通を上目使いで見ている。大きな眼は麗子とそっくりだ。違うところは、麗子は直情型だ。感情に起伏が目や顔に出る。母の静子は心の動きが顔に出ない。

 静子は臆病そうに切通を見ているのみ。腹の中で何を考えているのか、切通は掴みようもない。

「ごめんなさいね、勇二さん」

 静子は両手を合わせて、切通を伏し拝む。先手を打つことがうまい。以下にもすまなさそうに言う。

自分たちが外泊するのは、遊び惚けるためではない。仕事が忙しいからだ。幸いに自分は職場の責任者に抜擢された。麗子も、自分の右腕として頑張っている。

 飲み歩いたり、旅行するために家を空けた事はない。切通家の為になると思うからこそ必死ななって働いている。

 立て板に水、間髪を入れる間もない。まくしたてられ、のらりくらりと言いたてられて、切通の気勢がそがれる。体力には自信はあるが、会話はへただ。機関銃のようにポンポンと言葉が出てこない。

 それでも負けてなるものかと、

「しかし麗子は子供は欲しくないと言っている」

鬼の首を取ったように言う。

「ねえ、勇二さん、麗子も朝から晩まで働いているんですのよ」

静子は眼を細めて口をへの字に結ぶ。世辞に長けている。

「麗子は、いま花なんですのよ」

 花と言われて、猫のように、真ん丸な眼で切通を見詰めていた麗子、勝ち誇ったように、ふっと笑う。長い髪が肩で揺れる。鼻筋の通った形の良い顔が緩む。白い表情にうっすらと赤みがさす。

 静子が言うには、花はまだ盛り。実がなるまでまだ何年か先になる。それまで待って欲しい。身勝手と言えども麗子も女だ。いつか子供が欲しい時が来る。それまで黙って見ていてくれまいか。

 声に抑揚がある。響きに情が籠もっている。落としどころを充分に心得ている。

 切通が麗子たちを自分の部屋に呼びつけたのは、寒々とした家庭生活に耐えきれないからだ。今までは何とか我慢してきた。心の中は麗子たちの事ばかりだ。今頃、外で何をしているのか、遊び歩いているのだろう。それとも、”夫”をないがしろにして、浮気でもしているのではないのか。

 こんな事ばかりが頭の中に浮かんでは消える。疑心暗鬼にもなる。心が集中できない。酒を飲まないと、気が休まらない。ちょっとしたことでもイラつく。

”いっそ、別れようか”

 独身時代はこんな気苦労はなかった。気楽で、いつ寝ようと、朝何時に起きようと、気兼ねなしの生活だった。

”離婚”の二文字を切り出そうかと麗子たちを呼んだのだ。だが静子の言葉に翻弄されて、離婚の事は口に出来なかった。

 だが、それでも一応の成果はあった。外泊しなくなった。麗子は相変わらず、赤の他人のように、切通と口をきかない。静子は2人の間を取り持つ様に「勇二さん」と声をかけてくる。

 静子は客あしらいがうまいのだろう。客の表情をみて、その気持ちを汲み取ることが出来る。切通に呼びつけられて、彼の心中を読み取っていたとしても不思議ではない。

 しかし、静子のその対応も長くは続かない。平成16年の春に入る頃には、母親もいつしか切通に声をかけなくなる。

”元の木阿弥”

 小姑のように、2人に小言を言っていた切通も生活に疲れが出る。声を出すのも億劫になる。


 平成16年夏、家庭に愛着を持てなくなった切通、前にもまして、空手道場の師範として、武道に打ち込む。酒や遊びにのめり込む事を知らない切通は、武道は我を忘れて気持ちを集中できる場所だった。

”結婚は失敗だった”

 そうは思うものの、麗子たちに非はない。切通家の家計はきっちりと守っていてくれる。麗子たちの収入も馬鹿にはならない。切通の1ヵ月分の小遣いも満足している。紛争の解決のお礼金も入ってくる。

 それでも心の中には空虚な風が吹いている。

”黒の風景・・・”切通は自嘲的に笑う。

 独身時代と違うところは、子供が欲しい。暖かい家庭が欲しいと切望する事だった。それが叶わないと知った時、切通は切ないほどに胸が苦しくなる。


 そんなある日、道場の門弟の1人と、武豊町塩田にある、少々古びた喫茶店に入る。入り口のドアを開けて、切通は苦笑する。

 天井に照明灯があるものの、店内は薄暗い。壁という壁には、黒色を背景とした柾目模様だ。少々色褪せて茶色がかっている。床もカーペットも黒。テーブルは黒の木目調。

 そういえばと、切通は駐車場に車を駐車して、店舗の外観を眺めた時の印象を思い起こす。切妻の黒色のカラーベスト。外壁のサイジングも黒。長い年月に日焼けして、灰色がかっているが、 店内は10ぐらいテーブルが並んでいる。

・・・俺は黒に縁があるのか・・・苦笑を通り越して泣きたくなる気持ちだ。

「師範、何にします?」連れの門弟が椅子に腰を降ろすなり、声をかける。

「そうだな、コーヒーでも」

 切通は喫茶店にはあまり入った事がない。以前麗子とドライブを楽しんだ時も、レストランに入ったのみ。

「師範、奥様はお元気で・・・」

 門弟は半田からきている。稽古熱心だ。最近腕を上げてきている。古い門弟の1人だ。

「ああ・・・」切通は曖昧に答える。美貌の妻を持って、さぞ幸福だろう。道場内には羨望の声が聞かれる。

 「いらっしゃいませ。何にしましょう」ウエイトレスが水とおしぼりを持ってくる。切通が顔を上げる。

「レイコ2つね」門弟がすかさず注文を取る。

「判りました」ウエイトレスは踵を返して、カウンターに向かう。

 切通は一瞬、ウエイトレスの顔を見る。胸を突かれるような衝撃を受ける。

 瓜実顔で可愛い顔をしている。眼が大きく、鼻筋が通っている。白い肌はどことなく麗子に似ている。

麗子は挑みかかるような顔をしている。ウエイトレスは柔らかな表情をしている。それが親しみを覚える。

「お待たせしました」コーヒーを運んで、テーブルに置く。

 切通はウエイトレスの表情を、じっくりと観察する。小柄で、全体的にほっそりしている。紺の半袖のジャケットを着ている。髪は短い。

 切通と眼が合う。にっこりと笑う。白い歯がこぼれる。愛嬌のある顔が美しい。

「師範、ここね、私の知り合いの店なんですよ」

 大塚と名乗る、四角い顔の門弟は聞きもしない事をべらべら喋る。

 ここ塩田町は、武豊と半田の臨海工業地帯に面している。大手の工場が軒を連ねている。このような喫茶店が10軒ほど軒を連ねている。労務者が常連のようだ。

 この店、茶舗は朝8時から営業をしている。朝食やコーヒーのモーニングサービスを摂る客で,席が満席となる。ランチや夕方も席をとる事さえ難しい。

 切通は上の空で聞いている。眼はウエイトレスの後を追っている。

「あの子・・・」

 切通は喉の奥から淡でも吐き出す様に喋る。

「えっ?、あの子?」

 大塚は話の腰を折られて、ウエイトレスの後ろ姿を見る。

「ああ、あの子ね、この店のね、マスターの遠い親戚の子でしてね」

 片桐幸子を見たのは、この時が初めてだ。

「師範、ひょっとしたら・・・」大塚はこずるそうな眼で切通の顔を覗く。

「いや、どことなく、妻に似ているもんだから」

 切通は真っ赤になって言い訳をする。大塚はそれ以上追求しない。話題を変える。空手の事、仕事の事、とにかく喋ることの好きな男だ。


 日は少し西に傾いている。相変わらず分厚い雲が天を覆っている。黒い波の音だけが響いている。あるものと言えば、南の方の、八の字型に垂れ下がった松のみだ。

 ・・・あの松の枝で、麗子の母は首を吊って死んだ・・・

そして・・・。切通は恐怖の形相で松を眺める。

・・・松の下に、俺は麗子を埋めた。生きながらに・・・


 喫茶、茶舗で片桐幸子と出会ってから、切通の人生は変わった。彼は毎日のように茶舗に通う。空手道場の師範以外何もしていない。家の帰っても、冷えた料理をレンジで温めて1人寂しく食事をするのみ。

 空手道場は土曜、日曜、祭日以外は夕方から開く。平日は昼過ぎ、1時間ばかり茶舗でランチを食べる。

大塚から、茶舗のマスターに話が伝わっている。切通が空手道場の師範と知って、下に置かぬ扱いをする。

 切通は女性との扱いになれていない。

「幸子さん、今度の休みにね、ドライブしない?」ストレートにデートの申し込みをする。

 片桐幸子は驚いた眼で、切通を凝視する。申し出を受けてよいのかどうか、戸惑っている。急な申し込みだ。突飛な事で、判断に迷っている。彼女はカウンター越しのマスターの顔色を伺う。マスターは軽く頷く。彼女は意を決して、にこりと笑うと大きく頷く。

 この年、切通勇二、32歳。片桐幸子、24歳。

片桐幸子は切通が妻帯者である事は知っている。それでも、週に1,2度のデートや食事に付き合うのは、切通の男らしさ、力強さに惹かれるからだ。

 いかつい顔で眼が大きい。やくざでも一目おく程の威圧感を漂わせている。怒ると怖いが、礼儀正しく”けじめ”をつけた付き合いが出来る男と、幸子は見抜いている。

 ドライブや食事に誘っても、幸子の体に触れるでもない。空手や男女間のきわどい話はするが、ユーモアというオブラートで包み込む。卑猥な感じはしない。

 幸子と突き合う様になって、切通は人生に花が咲いたように楽しい。

 ドライブの場所も公園や庭園、花の咲き乱れる景勝地だ。それも麗子のように一方的に指定はしない。

「ここはどうかしら」必ず切通の意見を聞く。

 切通に異論があろうはずはない。ドライブする場所もすんなりと決まる。

 突き合って切通が目を丸くしたのは、幸子の花や草に関する知識力の深さだ。

 例えば福寿草。

 雪中でも咲く黄金色の可愛らしい花だ。ふくよかで、初々しい草花だ。新年を寿ぐ気分によく似合う。昔から正月の飾り花として喜ばれている。

 花菖蒲ーー。剣状の鋭い葉から抜き出る様に花茎が伸びている。色鮮やかな花弁が垂れた花姿の対照が美しい。小湿地を好む多年草で、日本に自生する野花菖蒲から改良された園芸種だ。

 昼顔ーー昼間咲いて夕方にはしぼむため昼顔という。朝顔に似た簡素なたたずまいの小花。野原や道端に生え地茎から長い蔓性の茎を出して、他のものに巻き付いて伸長する多年草。

 その他、雪柳、紫陽花、黄蜀葵とろろあおいなど、難しくて読めないような字の花など実によく知っている。

「ねえ、見て、この花ね・・・」

 片桐幸子は大きな眼を輝かせる。切通の腕を引っ張るようにして、花の側にしゃがみ込む。朱に染まった唇から白い歯がこぼれる。興奮した口調で喋りまくる。表情が生き生きとしている。

 切通は幸子の豊かな風貌に見入る。妻の麗子を思い浮かべる。人目を惹くほどの美人だが、表情が冷たい。

 切通が浮かぬ顔で、幸子の指さす花を見ていると、

「あら、ごめんなさい。勇二さん、退屈ね」眉を顰める。申し訳なさそうな顔になる。

「いや、こちらこそ、ちょっと、考え事をしてたもので」

切通の方が恐縮する。

 太い眉の威圧するような眼が、だらしなく垂れさがる。柔和な表情だ。

 幸子はくすりと笑う。子供のような顔だ。

「勇二さんって、すごく優しい方」

「お花の講釈、続けて」切通もつられて笑い顔になる。

 幸子は大袈裟に頷く。切通の顔色を伺いながら喋りまくる。話す事が楽しくて仕方がないという表情だ。

ほっそりとした、小柄な女性と、大の男の取り組みは奇妙に写る。傍からみると、やくざの用心棒が可憐な乙女をいたわっている風景だ。女は花のようだ。幸子と一緒にいる時、切通の心はバラ色だった。赤や青、黄色、紫と、あらゆる色彩に囲まれた景色の中にいるのを実感する。

 幸子は喜怒哀楽の情がすくに顔に出るが、それは人を不快にする表情ではない。人への愛情にあふれている。

切通の心は、片桐幸子に傾いていく。

・・・幸子は愛されるために存在するのだ・・・

幸子と一緒になりたい。花に囲まれた、夢のような生活に浸りたい。胸の内が痛くなるほどに、幸子への思いが強くなっていく。


 平成16年秋。

 空手道場も着実に規模が大きくなっていく。稽古に通う入門者も増えている。切通1人だった師範も4人になる。実力は切通よりもはるかにおちるももの、指導者としてはまずまずの実力を備えている。

 平成17年正月明けから切通が道場に通う日数も減って行く。入門者に稽古をつけて、帰宅するのは夜の10時半から11時頃。麗子たちはすでに就寝している。冷えた夕食を電子レンジで温めて寝るだけ。

 切通が3名の門下生を師範に育て上げたのも理由がある。幸子とドライブできる日は、1週間に1~2度しかない。

 喫茶”茶舗”は夕方7時まで営業している。喫茶店のアルバイト終わると幸子は帰宅する。夜はめったに出歩かない。暇がないというよりも、疲れて家の中で1人ぼーっとしていたほうが良い。

 夕食は茶舗で済ませている。改めて友人にお茶に誘われても、仕事の延長のようで、嬉しくもない。しかし切通に誘われるお茶なら嬉しい。

 切通は幸子との夜のドライブを計画していた。幸子の了解も得ている。その為には師範の仕事を辞めねばならない。責任感の強い切通は平成16年の暮れまでに3人の師範を育て上げたたという次第だ。

 切通と幸子の付き合いは、男女の割のない中へと深くなっていく。付き合った当初は、気の合う人だと思っていた。幸子も自分の趣味を理解してくれる良い人だとの印象を持っていた。とはいえ、初めの頃は”怖い人”だった。

 切通は近寄りがたい風貌を備えている。大の男でも睨まれたら足がすくむ。

 だが、毎日のように、喫茶店で接していると、礼儀正しく、心優しい人だと判る。真面目だが冗談も言う。

 幸子が花が好きだと知ると、切通は喫茶店に花の本を持ち込む。必死になって勉強する。そんな切通を、初めの内はおかしくて仕方がなかった。切通はそんなことにお構いなし。本の中の花を指さして、幸子に質問したりする。幸子はそんな切通に好意を抱く。

 夜のドライブに誘われて時、幸子はこの人ならと、心の中で受け入れる余裕が出来ていた。


 幸子と付き合う切通の心の変化に、麗子たちが気付かぬはずがない。同じ屋根の下で生活している。いつも不機嫌な切通の顔が晴れ晴れとしている。

 麗子たちは仕事から帰宅すると翌日の切通の食事を作る。切通はそれを不要という。帰宅時間も夜11時を過ぎるようになる。

 切通は朝早く起きるようになる。麗子たちと顔を合わすようになる。

「勇二さん、近頃、帰りが遅いみたいですね」母の静子が皮肉をこめる。

 「ああ、色々あってね」切通は意に介さない。

麗子たちは切通が空手道場で師範をやっていると思い込んでいる。それ以上追求しない。

 好事魔多し。切通と幸子の付き合いが麗子たちの耳に入ったのが平成17年の夏である。切通と幸子がレストランにいるのを見たとか、ドライブ中の切通の車に、若い女性が同乗しているのを目撃したとか、そんな情報が麗子たちの耳に入る。

 朝食中、麗子は切通に詰め寄る。

静子は、自分達は朝から晩まで働いている。それは一体誰の為か。切通家、ありていに言えば、勇二さんの為ではないか。それなのに、仕事もせずに、若い女と遊び歩いている。麗子の何が不満なのか。

 立て板に水のように喋る。言い返そうにも切通は口下手だ。麗子たちへの不満を並べ立てようと思っても上手くしゃべれない。ついかっとなる食卓をひっくり返す。暴言を吐いて、荒々しく自分の部屋に閉じこもることになる。

 1週間後、切通は2人を呼ぶ。

「離婚してくれないか」努めて冷静に言う。

 2人は予期していたと見えて、驚いた風を見せない。黙したまま、切通の顔を見るのみ。

 息苦しい沈黙に耐えきれず、

「で、どうなんだ」切通のが催促の口を切る。

「勇二さん、私達、どうしてこの家を出ていかなければならないのでしょうか」母の静子が端正な顔を曇らせる。

 切通は冷静にと、自分に言い聞かせる。結婚して今日までの、不平不満のうっぷんをはらす。とつとつとした話し方だが説得力がある。

 聞き終わって、静子は薄い唇をきっと噛む。

「そりゃ、家をほったらかしにして、悪いと思いますよ」小さな声で非を認める。すぐにも顔を上げる。

「麗子だけは、仕事を辞めさせますわ」それでどうだと言わんばかりの表情だ。

 それを言われると切通も無理強いは出来ない。彼らに非はない。むしろ切通の方が後ろめたいのだ。

「でもねえ、勇二さん、女遊びだけは謹んで下さいましね」静子は切通の心を読んで、にんまりと笑う。


 静子に揶揄されても、切通は幸子と別れるつもりはない。もっともらしい顔で頷く。

麗子を見る。彼女は冷たい表情で切通を見詰めている。何を考えているのか、ふっと薄笑いを漏らす。

 離婚の話はお流れとなる。仕事を辞めると言った麗子は今まで通り、母と一緒に家を出ていく。

 麗子たちが家に居ようといまいと、切通には何の影響も与えない。今まで通り、朝9時に家を出る。夜11時過ぎに帰宅する。

 切通の頭の中は幸子の事で一杯だった。

彼女は武豊の南端にある富貴駅の近くのアパートに住んでいる。早くから両親を亡くして、1人で暮らしている。叔父夫婦に育てられたが、20歳になってその家を出る。本当は役場か大手の会社に就職したかった。

 叔父夫婦のたっての依頼で、喫茶”茶舗”で働くことになる。ここは叔父の親戚の店だ。


 切通の胸の内には、いずれ幸子と一緒になりたいという夢があった。幸子が花好きでも、アパートでは花壇つくりもままにならない。古家でもいいから庭付きの家を買って、当面そこに住まわせたいと願っている。

 そう考えると、矢も楯もたまらない。不動産屋へ駆けこむ。家は古くてもいい。敷地の大きな物件を捜してもらうよう依頼する。

 いったん、こうと決めると、遮二無二に突っ走る。それがどういう結果をもたらすか考えもしない。詮索好きに加えて、これが切通の性格なのだ。

 麗子との結婚がそうだった。稽古試合で彼女を好きになる。前後見境もなくプロポーズする。本当ならば、結婚後うまくやって行けるかどうか見定める。1~2年の付き合いが必要だ。それをしなかった切通、結婚後悔やんでも悔やみきれない思いにとらわれる。

 古家を手に入れたいと言っても幸子の了解を得たわけではない。庭付きの家を手に入れたら、幸子を抱きかかえてでも、その家に押し込んでしまえばいいと思っている。

 庭付きの家となると、古家でも2千5百万円はするときいて、切通は改めてお金の心配をする。

不動産屋は2千万円ばかりの住宅ローンなら利用できるという。ローンを利用しても、購入後の家の修理代などを含めて、残金はざっと1千万円は必要と知る。

 切通家の家計は麗子の母に任せてある。

幸子と同棲すれば、いずれ麗子たちにバレる日が来る。そうすれば行き着く先は離婚だ。もう一度家計を自分に戻しておこうと考える。


 西の空が慌ただしくなる。分厚い雲が激しく動いている。雲間から洩れていた昼下がりの太陽も消える。あたりが急に暗くなる。風も出てきた。波頭も高くなる。

 南の方にある松の樹が激しく揺れる。切通は不安げに空を見上げる。地響きのような音が大地に伝わってくる。それが切通の体を締め付けようとする。

 波の音なのか、風の音なのか判らない。何かの怨念の叫びのような、鈍い音が切通の肉体を包み込こうとする。と見るまに、西の彼方で、竜巻が雲と海の間を身をよじるように揺れ動いている。


 風が強くなる。はっとして後ろを振り向く。

「勇二さん、私がお金をくすねたとでも言うんですか!」

 不思議な光景が展開している。

切通の部屋があった位置に、切通と静子が対坐している。切通の部屋は8帖の大きさだ。壁を背にして本棚が4段ある。大型のテレビやビデオデッキが置いてある。事実上1人暮らしだ。1人用のベッドもある。西に面した窓もある。

 その光景は、丁度歌舞伎の舞台をみるようなものだ。

壁だけを取り払った部屋が出現している。テレビの前にソファがある。テレビを背にして、切通がソファに腰を降ろしている。怖い顔で静子を睨んでいる。彼はダークネイピーのパジャマを着ている。

 対坐する静子はピンクの婦人用パジャマを着ている。

テレビの上にあるデジタル時計が夜の11時半を指している。2人とも風呂上がりのような上気した表情をしている。

「そんな事言っていない。家計簿を見せろと言っているんだ。それとも不正でも働いているのかね」

 切通は努めて冷静に話をしている。

”観客席”から眺めている切通は2人の会話を見ている。

・・・この日をもって、切通と麗子たちの反目は決定的となったのだ・・・

 事の成り行きは、切通が幸子の為に中古住宅の資金を捻出しようとした事だ。それまでは家計には無頓着だった切通が、静子に代わって、切通家の金の出入りを切り盛りしようと考えた。

 その日幸か不幸か、麗子は友人と一泊旅行に出かけていて留守だった。

 切通に金をくすねているのかと迫られて、静子はしぶしぶと家計簿や預金通帳を提出する。

 切通家は十数軒の借家やアパートを経営している。土地も貸している。それらの収入でも充分に潤っている。その上麗子たちの収入もある。切通はそう思っていた。

 帳面は1年に一回、会計士に提出するので、きちんとつけてある。小さい金額も漏れがない。細かい所に手が行き届く静子の性格がにじみ出ている。

 だが、しばらくすると切通の表情が険しくなる。

「何だね、これは!」

 麗子たちの収入が記されていないどころか、月々、百万、2百万の支出だ。電卓で合計すると2千万円はくだらない。

 問い詰められて、静子は重苦しく口を開く。

「お店の経費にお借りしましたわ」

「お店って、何のことだ!」

 気性の荒い切通が起こり出すと怖い。静子は充分に心得ている。

「実は・・・」と切り出す。聴いていた切通は唖然とする。しばらくは口もきけない。

 半田の乙川の大型スーパーで働いているとばかり思っていた。2,3年前から、半田の住吉で店を開いたという。

 乙川のスーパー内のフジ洋装店で働いていた時、静子は数十人の常連客を持っていた。独立しないかと誘われる。雇われていると、いくら働いても月の収入は知れている。

 その気になって自分の店を持つ。

「麗子や勇二さんの為に、もっとお金が欲しかったの」静子の眼がうるんでいる。切通の情に訴えようとしている。

 半田市住吉町は、裁判所や税務署、県の出先機関などが並ぶ繁華街だ。貸しビルの一角を借り切る、店を持った当初は客足も良かった。売り揚げも順調だった。

「成功したら、勇二さんにお話しようと思っていたんですよ」

静子のすがりつくような眼つきだ。

 開店当初は順調に言っても、利益を出すには程遠い。貸しビルのテナント料、家賃、仕入れ代金、店内の改装費など、多額のお金が飛んでいく。今までの蓄えを吐き出しても足りない。国民金融公庫からも運転資金を借りる事になる。

 1年2年と立つ。客をとられたフジ洋装店や他の同業者からの妨害が始まる。安売りの広告が目に付きだす。客足が遠うのき、売り上げが減少していく。

 資金不足に見舞われて、切通家の家賃収入に手を出すようになる。


 話を聴き終わった切通は怒りがこみあげてくる。ぶん殴ってやりたい気持ちを抑える。低いが力のこもった声で「今後は俺が家計簿をつける。家賃の集金も俺がする」

 この時、切通の心の中に、残酷な考えが浮かぶ。ぶ厚い唇を醜く歪める。

「2千万円は返してもらうからね」

静子に眼をやる。彼女は俯いたままだ。ピクリと肩を震わす。

「そんな大金ありません」情けない声を出す。

「それなら仕方がない。月々50万円ずつ入れてもらおうか。それが駄目なら・・・」一旦口を切る。

「それが駄目なら・・・」静子は風呂上りに化粧気のない顔を切通に向ける。この時静子は55歳。未だ老ける歳ではない。毎日、仕事仕事で明け暮れている。朝、家を出る時の顔は艶がある。とはいうものの、体力的には無理を重ねている。化粧を落とした後の顔色は半病人のようだ。肩の肉も落ちている。

 切通が何を言い出すのか、固唾を飲んで見守っている。その表情には不安と困惑が交差している。

切通から、突然、家計簿を見せろと強要された時、大金の使い込みを恐れて抵抗する。が、却って切通の疑惑を呼ぶ事になる。まな板に載った鯉のように、彼女はおどおどした顔で切通を見詰めるのみだった。


 切通は小動物をいたぶる猫のように、静子を見ている。麗子との離婚の話を持ち出した時は、すげなく断られている。今、切通家の金が無断で流用されている。一時はカッとなった。努めて冷静に対処しょうと、気持ちを抑えている。

「静子さん・・・」小さい声だが力強い。普段なら”お義母さん”と呼ぶところだ。

「生命保険に入ってね、死んでくれるとありがたいのだが・・・」

 静子は唇をわなわなと震わす。

「私に死ねと・・・」

 静子の眼から涙があふれる。

「そんな・・・あんまりです。死ぬ気になってお返しします。ですから・・・」

 うろたえる静子を、切通は残酷な表情で見下している。

「それが嫌なら・・・」

切通は一呼吸入れる。

「この家から出ていってほしい」

 喉に引っかかるような声で言い放つ。

「麗子と別れると・・・」

 静子は顔を伏せる。重ぐるしい沈黙が漂う。5分ぐらいして顔を上げる。泣いてはいなかった。眼に異様な光りが宿っている。

「別れるか、別れないかは麗子が決める事です」

 荒い息を吐き出す様に言う。開き直った表情だ。

 一息つく。

「切通家のお金を無断で流用した事、悪いことをしたと思っています」

 一言一言しっかりと喋る。物の怪の憑いたような喋り方だ。眼がすわっている。

「これは私の一存でやった事。麗子には何の関係もありません」後には引かぬという気迫さえ感じられる。

 切通はそこまで言うならとしか言えなくなった。別れるという話はそれ以上進展しなかった。

 その代り・・・家計簿、家賃の集金は切通が行う。食事代等の生活費は出すが、後の始末は自分達でやる事。2千万円の穴埋めは何らかの形でカタをつける事。

 切通は冷たく言い放つ。


 ”観客席”にいる切通は当時の状況を思い出している。あの時、いずれ別れる時が来るだろうと察していた。お金さへ与えなければ、麗子たちはいずれ家を出ていくと読んでいた。

 切通は片桐幸子と一緒になれる日を夢見ていたのだ。

”舞台”は消える。切通と静子の姿はない。

 西の空に稲光が見える。

――嵐が近いのか――

・・・違う、これは麗子たちの怨念の叫びなのだ・・・

 切通の大きないかつい眼に、不安に影が宿る。がっしりとした体格だが、風に押されて委縮して見える。

南の方にある一本松だけが、ぐんぐんと天に伸びる様に大きく見える。

 ――悲劇は、この日から始まった――

 これから何が起きるのか、切通は予測がつく。怖ろしい出来事が、目の前で再現されるに違いないのだ。


 切通が静子から家計簿を取り上げたのが平成16年秋。

その日以来、麗子たちは朝一番に家を出る。切通の朝食だけを作っている。と言っても前の晩に電気炊飯器にお米を入れてタイマーを押すだけ。みそ汁の具なども夜に作っておく。ガスで温めるだけ。

 昼食や夕食はない。夜9時から10時頃に帰宅する。風呂に入り、自分達の部屋に入ってしまう。極端な話、1つ屋根の下に赤の他人が2組住みついているだけ。以後顔を合わせない日が日が続く。

 家は古い。今様式に、各部屋に鍵をかける構造になっていない。母屋の田の字型の1部屋を食堂としている。母屋の東側の納屋を取り壊して、8帖2間の和室と、一間幅の広縁、それに8帖の応接室を作っている。それは切通が生まれる前の事だ。すでに40年はたっている。

 板障子を開ければ誰でも入れる。開放的な造りだ。中にいる者の話し声も聞こえる。

 今は麗子たちの住まいとなっている。

 家内平穏を考えるなら、切通が板障子を開ければ済む事だが、片桐幸子に恋をした今、、切通の心の中は、そこは開かずの間になっている。


 秋も深くなる。冬の到来だ。武豊町富貴に一軒家を借りて、片桐幸子を住まわせている。中古住宅の購入は、”静子”の件があって見送っている。

”あの2人”を追い出す事を前提としている。長くても2~3年で決着をつける気でいる。

 9月に切通の部屋で静子と会って以来、切通の体調がすぐれない。もともと頑強な体だ。ちょっとやそっと無理をしてもびくともしない。

 10月、11月となり、朝起きると気怠い。幸子とのドライブも疲れが残る。空手の稽古も気合が入らない。相手が思い切りぶつかってくる。普段なら、ぐっと踏ん張れる。

今――相撲のように寄り切られて後ずさりしてしまう。

「師範、近頃、元気がありませんね」言われても否定できない。

 12月になる。

 年の暮れになると、知多半島を中心とした空手道場の懇親会兼忘年会が開催される。場所は主催者が決定する。

 今年の主催者は石原空手道場だ。本来ならば石原管長が出席する。管長の父親が高齢で、武豊町内の病院に入院している。担当医から明日も知れぬ命と言われている。万一の事を考えて、病院に詰める事になった。代わりに切通が出席することになる。場所は長野県下高井郡山ノ内町にある木戸池温泉ホテルと決まった。

 親睦会は15日の夕方から始まる。木戸池温泉ホテルには午後5時までに到着する。

 麗子たちとの関係が冷え切っているとは言え、無断で家を空ける訳にはいかない。一応15日の昼から17日の夕方まで、長野県に行くと伝える。

 宴会は夜7時から始まる。翌朝7時に解散。切通はせっかく長野まで来たのだから、もう一泊して、志賀高原まで足を伸ばそうと考えていた。

 15日、夕方6時ごろ、石原管長から父親が死去との訃報が入る。切通は石原管長に次いで、石原空手道場ではナンバーツーの実力者だ。石原管長の右腕でもある。

 訃報の事実を他の出席者に知らせる。すぐに帰った方が良いとの返事をもらう。懇親会の幹事役を、急遽、他の出席者に代わってもらう。

 ホテルを出たのが7時頃。ここから中央自動車道で車を飛ばしても5時間はかかる。

携帯電話で連絡を取りながら、葬儀の進行状況を把握する。自宅にも連絡を入れて、麗子たちにも事の次第を話しておこうと思ったが、彼女らの帰りは夜中の11時だ。

 いったんは自宅に帰り、喪服や葬儀に必要なものを用意しなければならない。道場で一泊して、翌朝には主だった門弟たちと葬儀の準備に追われることになる。


 切通が常滑に到着したのは夜中の1時頃。

切通は車の運転には慣れている。遠乗りで5時間や6時間運転してもびくともしない、筈だった。

、 近頃は疲労が激しい。仮眠すれば回復するので医者には診せていない。

 今日とて早めに家を出ている。サービスエリアの駐車場で1時間ばかり休憩している。帰りも同じだ。

 家の玄関の鎧戸は内側から閂が懸けてある。携帯電話で麗子を呼び出そうと思ったが、彼女達は帰宅して風呂を浴びて早々に就寝する。多額の借金を抱えて、必死に働いている。起こしては可哀そうだと思った。2人に対する好き嫌いはともかくとして、切通家からは資金援助が期待できなくなっている。寝る間も惜しんで働いているのだ。

 切通は屋敷の西側に回る。切通の部屋の西側の窓は掃き出し窓だ。木製の窓枠で、内側から鍵が懸けてある。しかし相当古いのでガタがきている。ガラス窓を持ちあげると簡単に外れる。これは切通の秘密だ。

 部屋の中は暗いが自分の住まいだ。どこに何があるかはわかっている。部屋から母屋へのドアを開ける。

母屋は田の字型だ。南の部屋は仏間だ。そこに洋服ダンスがある。部屋の間仕切りは襖だ。明かりをつけて喪服を取り出す。

 玄関の三和土の東側が麗子たちの部屋となっている。仏間の襖をそっと開けてみる。三和土の向こうは板障子の引き戸だ。少し灯りが漏れている。

・・・麗子たちはまだ起きているのか・・・

喪服をその場において、そっと忍び寄る。

 建物が古いので建具の建付けが悪い。壁が薄い。耳を近ずけると話し声が漏れてくる。

 酒でも入っているのか、声が高い。にぎやかだ。

「今日ね、石原道場の門下生が喪服を買いに来たの」

麗子の甲高い声。呂律が回らない。

――近頃、切通師範、元気がないですよって――

「そう、だんだん効いてきたわよね」静子の得意げな口調。

「猫いらずって、効くのね」麗子の同調する声。

「昔ね・・・」静子が笑いながら話している。

――ある小説で読んだ。耳かき一杯ぐらいの猫いらずをみそ汁に入れて飲ませる。猫いらずには独特のにおいがする。みそ汁ならば臭いが消える。大の男でも半年もすると死ぬとあった。これは小説の世界なので、信じてよいかどうか不安だった――

「勇二さんの朝食のみそ汁に入れて出したのは9月下旬、もう2ヵ月半になるのね」麗子は物思いにふける言い方をしている。その声の響きには雄二への愛情のかけらもない。

 聞き耳を立てていた勇二は、飛び出して殺してやりたい衝動に駆られる。それをこらえてなおも聞き耳を立てる。

 酒が入ると人は冗漫になる。

 今日は昼から家に閉じこもっていると判る。もう1つ判明したのは、彼女達が早朝に家を出るのは、切通と顔を合わせたくないためだ。独立した仕事も上手く行っていない。麗子が1人、店の番をしている。静子は阿久比の大手スーパーの洋装店に勤めている。

「勇二さんは明後日でないと帰ってこないから、明日はゆっくり休みましょう」

 静子のいたわりの声。

「これからどうするの」麗子の心配そうな声。

「待つのよ、勇二さんが死ぬのを・・・」

静子の非情な声に、麗子は嬉しそうに笑っている。


 切通は仏間に戻る。喪服などの葬儀に必要な物を手にすると、そっと自分の部屋から外にでる。

切通の頭の中は目まぐるしく動いている。

・・・俺を殺して、この家の財産を乗っ取るつもりだ・・・


 結婚して数か月後、静子から生命保険に入るように勧められる。受取人は麗子だ。今にして思えば・・・

 これ以上想像を逞しくはしたくない。腹の中が煮えくりかえる。

「今にみていろ・・・」切通は残忍な計画を思いめぐらす。

 翌朝、静子から、切通の携帯に電話が入る。

石原管長の父が亡くなった事は聞いている。葬儀は手伝ったほうが良いかとの事だ。

切通は訃報を聞いて、昨夜長野県から道場に直行したと伝える。その上で、通夜に出席してくれと話す。

 3日におよぶ石原空手道場主催の葬儀も無事終了する。石原管長の脇役を無事に果たしたものの、切通の心の中は、麗子たちへの憎悪で膨れ上がっていた。

 葬儀終了後、切通は骨休みを兼ねて、名古屋の栄界隈をぶらつく。古本屋街を闊歩する。

見つけた本がパルピュスの”地獄”だった。死体が腐乱していく様を、克明に描写している。その文章を読んだ時、激しい衝撃を受けた。切通の心の中に残忍な心が目覚めていく。

――麗子たちを殺してやる――

 殺される前に殺すしかないのだ。


 西の空は、ますます風が激しくなる。黒い海が怒り狂っている。白い三角波が牙のようだ。竜巻が不気味な音を立てて、2つ3つと数を増していく。

 南の方に聳えた松がぐんぐんと大きくなる。切通を圧倒するかのようだ。

 すべての悲劇は、この松の下で行われたのだ。


 平成17年春、切通は計画を実行する。

 昨年12月に、板障子の物陰で怖ろしい計画を聞いている。以来、切通は家では食事はおろか、お茶さえ口にしていない。夜寝る時も部屋に鍵をかける。自宅の玄関をくぐる時も細心の注意を払う。

 麗子たちを欺くために、朝食を摂っていると見せかける。石原道場内では、元気のないふりをする。度々道場を休む。門弟やその家族は度々麗子たちの店で服を買っている。切通の事は麗子に筒抜けになっているのだ。

 平成16年の暮れは片桐幸子の家で過ごしている。喫茶”茶舗”は暮と正月の3日間は休みだ。切通と幸子は思う存分正月気分を味わう。

――来年の歳末と正月は切通の家で過ごす――

 その願いを胸に抱いて、麗子たちの殺害計画を練る。


 4月に入る。切通は石原空手道場を休む日が続く。道場に電話を入れる。気分がすぐれず、家で寝ていると話す。この風聞はすぐにも麗子たちの耳にも入っている。だが、2人とも切通の見舞いに来た事がない。

 4月中旬、道場の門弟から連絡が入る。

「奥さんのお店、たたむそうですね」驚いた声。切通は予期している。来るべきものがきたと感じた。

「ああ・・・」切通は肯定とも否定ともとれぬような返事をする。4月末には店じまいするらしい。

 多額の借金を抱えている。2人は東海市の某スーパーの洋装品店で働くとのこと。

 それから2日後の夕方、静子が珍しく切通の寝室に入ってくる。

「勇二さんお体の具合はどうお。道場の門弟さんから聞いてね、びっくりしちゃったのよ」

 見舞いが遅くなって申し訳ないと言いながら、店を閉めた事を話す。

「借金は返したのかね」切通はわざと力のない声を出す。静子は切通の表情を伺っている。眼が底光りしている。不気味な顔だ。

「借金を返すために必死なんですよ」その割には暗さが感じられない。口元が薄く笑っている。

「どうだね、お金を出すから、麗子に温泉でも行かせたら」

切通の誘いに、静子は彼の心中を計りかねている。

 静子の話は続く。5月から働きに出る。それまで暇だから、切通の誘いに応じても良いという。

 切通は静子を見つめている。

・・・母と娘が離れ離れになる。この日こそ、切通が待ちに待った千載一隅のチャンスなのだ・・・

 2日後、麗子は友人と温泉旅行に出かける。2泊3日の計画だ。

 朝10時、切通はベッドから起き上がる。鏡を見る。1週間ばかり剃刀を当てていない。濃い髭が顔中を覆ている.食事もわざと節食している。頬がこけて、いかにも弱々しい。2~3日前から静子が食事を寝室に運んでいる。切通はみそ汁は窓の外へ捨てる。ご飯やその他のおかずはゴミ箱に入れる。買いだめしたパンやインスタントラーメンで空腹を満たしている。

 練りに練った計画を実行に移す時が来たのだ。半田の店を閉めた事は予想外だったが、切通にとってはチャンスとなった。

「お義母さん、ちょっといいかな?」

 切通は無精ひげのまま、今起きたという顔で部屋の外から声をかける。

「何でしょうか」板障子を細目に開けて、静子は怪訝そうに切通はを見る。

「話があるんだが、入っていいかな」

「ええ、どうぞ」

 ここは切通の家だ。嫌とは言えない。静子は伏し目がちに板障子を開ける。切通を招き入れる。

 結婚して、2~3年はこの部屋で過ごしたものだ。久し振りに入る部屋の中は掃除が行き届いている。部屋の中は暖かい。きれい好きの静子は、どんなに遅く帰宅しても部屋の掃除は欠かさない。台所も和室も掃除が行き届いている。

 彼女はピンクのベージュのブラウスを着ている。髪は短い。整った顔立ちに化粧が似合う。

 切通の腹の中は憎悪で煮えくり返っている。今すぐにも殺してやりたい衝動に駆られる。空手を通じて自制心を養っている。

 彼はパジャマ姿だ。髪も櫛が入っていない。いかにも弱々しそうな表情で部屋に入る。板障子を閉める。部屋中に入ると、その場に崩れるように腰を降ろすして、部屋を見渡す。8帖2間だ。南側の紙障子の向こうに、父が生前使用していた8帖の洋間がある。

 開け放した8帖2間には箪笥やダブルベッド、洋服の整理戸棚などが所狭しと並んでいる。ダブルベッドは新婚時代に麗子と閨を共にしたものだ。今は母と娘の眠りの道具となっている。

「ごめんなさいね.勇二さん、何のお構いもできなくて・・・」

 静子はいそいそと座布団を敷く。壁には色のくすんだ壁紙が貼ってある。窓のカーテンは白と黒の水玉模様だ。部屋の奥に、畳一枚程の大きさの絵が立てかけてある。大きな松が八の字型に枝を垂らした図柄だ。

 絵を見た瞬間、切通の脳裡には静子を殺す場所が決まる。ここ数日、どうやって2人を殺すか思い悩んでいた。問題は場所だ。

 当初、切通が考えたのは、海に連れ出して溺死させる事だった。モーターボートを借りて沖に出る。後は海中に突き落とすだけだ。麗子たちは泳げないと聞いている。

 ただ、1つ困った事がある。沖と言っても伊勢湾の外に出る事は出来ない。ボートが転覆する恐れがある。漁船やタンカーの出入りも多い。湾内は釣り人の船の往来も多い。

 静子の部屋に入るまで、場所選びに苦慮していたのだ。それに、最適地があるとしても、静子たちがすんなりと付いてくるかどうか・・・。

・・・ここだ・・・松の絵を見て切通は決心する。

 この松のある場所は、静子や麗子のお気に入りの場所だ。切通も麗子に催促されて度々ドライブしている。

「雄二さん?お体、大丈夫?」

切通がぼんやりしていると思ったのだろう。静子が声をそえる。

「いや、近頃、生きていく気力もなくてね・・・」

「そんな気弱な・・・」静子の声。落胆した顔ではない。

「お義母さん・・・」切通の声は小さい。

 静子の方がピクリと動く。切通から義母さんと呼ばれたのは、麗子との結婚当初ぐらいなものだ。麗子との仲が気まずくなるにつれて”静子さん”と呼ばれている。

 静子は疑心暗鬼の顔で切通を見ている。

 事業に失敗して、多額の借金を抱えている。顔艶に精彩がない。大きな眼と柳眉は麗子そっくりだ。麗子は無口でめったには喋らない。人を見る目も冷たい。観察しているような眼だ。絶世の美女だが能面のようだ。これでよく客商売が出来るものだと感心する。

 一方、静子の眼は生き生きしている。表情が明るい。よく喋る。如才がない。その彼女が、切通が何を言い出すのか、固唾を飲んで見守っている。その眼つきが麗子そっくりだ。

「去年、石原管長のお父さんが亡くなってね」

静子は大袈裟に頷く。切通の言葉1つ1つに敏感に反応している。腫れ物に触られてビックとしているような感じだ。

「あの時は・・・」葬儀の時を話す。

大変辛かったと話す。横になりたいのを我慢していた。葬式が終わっても、断れない用事があって名古屋に行った。辛かったことを強調する。以後、寝たきりだった。

「病院に行ったんですが・・・」何処が悪いのか医者も判らずじまい。

「次は俺かもしれない・・・」弱々しい声。

 静子は思わず頷く。はっとして「まさか・・・」とってつけたように顔をゆがめる。

 切通はここで言葉を切る。静子は瞬きもしない。切通を見詰めている。黒目が忙しなく動いている。切通が何を言い出すのか、必死になって模索している顔付だ。

・・・この女、内心不安なのだ・・・

 切通は余裕を持って喋っている。これからどう料理してやろうか、静子に悟られぬように、くくっと喉を鳴らす。

「お義母さん」切通の声に慈しみがある。

「使い込んだお金、返さなくてもいいんですわ」

親しみを込めた目で見る。

「えっ?」静子は一瞬戸惑いの表情を浮かべる。

「今、お金に困っているんでしょう。お店が潰れたって噂ですが・・・」

 静子は薄い唇をギュッと噛む。切通には自分たちの恥を知られたくなかった。知られた以上は否定しても仕方がない。静子は軽く頷く。眼だけが切通の顔を射ている。

「その借金、私が肩代わりしましょう」

「えっ!」静子は2度驚きの声をあげる。

「それはまた・・・」予想外とはこの事だ。今の今まで敵同士のように顔を背け合ってきた。それが突然、借金を棒引きにしてやる。その上他の借金も肩代わりしてやるというのだ。

・・・どういう風の吹き回し・・・

 静子の頭の中は目まぐるしく動いている。切通の腹の中を計りかねている。

「お義母さん、俺、麗子を愛しているんですわ」他に女をつくったのも、麗子に冷たくされたからだ。

「それに・・・」体力がすぐれない。死という悪い予感さえする。このままいがみ合いたくない。死ぬときぐらいは、さっぱりしていきたい。

 切通は胡坐をかいたまま、軽く頭を下げる。

「あっ」静子は叫ぶ。切通の真意を理解したようだ。表情が見る見るうちに明るくなる。

「雄二さん、有難いわ」涙ぐんだ声だ。

 早朝家を出る。夜遅く帰ってくる。仕事は上手くいっていない。借金に追われている。

 その重圧から解放される。麗子の喜ぶ顔が目に浮かぶ。喜びでくしゃくしゃ顔の静子を、切通は冷たく見ている。

「お義母さん、お願いがあるんですが・・・」

切通は以下のように言う。

――自分の命は長くないような気がする。それで河和の母の生家に行ってみたい。小さい頃はよく遊んだものだ。思い出深い場所なのだ。母は保示の実家に養女としてもらわれている。――

「河和まで連れて行ってもらえませんか」

もう運転は無理だと話す。入院したくないので、自宅で療養したい。死ぬなら家で・・・切通のしんみりとした声。

 静子は眼をうるませて、少女のように聞いている。

「河和へはいつ・・・」

「今日の昼過ぎではどうですか」切通は畳みかける。

「まあ、急ですね」

「善は急げと言いますから・・・」切通はにこりと笑う。

 静子は軽く頷く。

 切通は奥の部屋を指さす。

「あの松の絵、懐かしいなぁ」切通は感嘆するように言う。

 松の絵は、結婚して2年目に、丹精込めて描き上げた麗子のお気に入りだ。夫婦仲もうまくいっていた。生活にも張りがあった。作風ものびのびとしている。切通も素人目にも素晴らしいと思っている。松のある場所に、麗子たちを連れて、何度も行っている。いわば麗子のお気に入りの被写体なのだ。

 静子は切通の眼の後を追う。

「麗子の一番好きな絵ですわ」我が子の自慢をする。

「そうだ、お義母さん、ここへ寄っていきませんか」

「この松の樹の所へですか」静子の声は弾んでいる。

「あっ、それと、明日、師崎の療養所へ行きたい」

静子達は近くの温泉旅館で一泊したらいい。麗子にそう連絡して欲しい。

 麗子は明日午後4時頃に帰宅する予定だ。静子は携帯電話をかける。


 西の空がますます険悪になる。冷たい風が吹き募る。竜巻の数も増える。何者かが怒り憎しみ、狂っている。波が岸に押し寄せる。陸地と呼べる場所は、切通のいる場所と南側の松の樹のある所だけだ。

 松が大きくなってくる、と思ったのは目の錯覚だった。、松の樹がじわじわと、切通の方へ移動しているのだ。

 うずくまる姿勢で松の樹を眺める。信じがたい事だが、松は足が生えたように動いているのだ。

 その松の枝に、白とピンクのパンツスーツ姿の女が、首を吊って死んでいる。その姿をみて切通は恐怖の叫び声を上げる。


 その日の午後4時頃、切通は静子と河和に出かける。彼女は久し振りに華やいだ表情をしている。服装も白とピンクのパンツスーツだ。若く見える。

 切通の母の生家は名鉄河和駅の東側、海岸沿いにある。静子も何度か行っている。静かで落ち着いた屋敷だ。

 車の運転は静子。切通は後部座席で横になっている。明日をも知れない病気という事になっている。それと静子と一緒にいると頃を、人に見られたくないのだ。

 常滑を南下する。坂井の町を抜け、海岸沿いに小鈴谷の国道247号線を下る。しばらく走る。野間部落の手前を右折する。名鉄線、上野間駅前を通過して、東上する。

 知多半島を横断する形になる。河和駅まで10分位。

その途中左折して脇道に入る。約2キロ走る。鵜の池の手前に出る。鵜の家の向こう側に鵜の山がある。鵜の繁殖地として有名だ。

 鵜の池に入る道は未舗装だ。雑木林に囲まれて、昼なお暗い。こんな所へは人はめったには来ない。しばらく登り道を進む。ぽっかりと雲間が晴れたように明るくなる。周囲百メートル程の広さがある。ほぼ真ん中に松の樹がある。八に字型の枝ぶりが見事だ。

 知多半島で松枯れ現象が起きて久しい。切通が子供の頃は青々とした松があたり前だった。環境悪化が原因で松の葉や枝が枯れていく。切通も家の前にある松も生気を失って、松葉が茶色になっている。

 この鵜池の奥にある、松は青々としている。生気が漲っている。高さも10メートルはあろうか。しっかりと大地に根を張っている。

 黒の風景を好む麗子には例外的な景色だ。

――松の王様ね――麗子の感想だ。


 切通と静子は車から降りる。松に近寄る。

「いつ見ても見事ね。力強いものは美しいわ」

静子は眼を細める。

 時刻は4時半。空もまだ明るい。

 静子の横顔を見る。厚化粧を施して白々しい顔だ。

 切通は静子に声をかける。麗子が石原道場に来た動機を話す。”強くなりたい”という返事だった。

その原因として、父親の無惨な死にざまを目撃した事ではないか、静子の答えだ。

「俺はね、その原因がお義母さんにあると思っているんだ」

「えっ?」静子は驚いて切通を直視する。白とピンクのパンツスーツが艶やかに映える。

「俺はねえ・・・」切通の言葉遣いが荒くなる。

「あんたが、麗子をあんな女にしてしまったと思っている」

静子は不審そうに大きな眼で凝視する。弱々しかった切通が大きく見える。だが切通の心の変化に気付いていない。

 切通は構わずに言葉を続ける。

確かに父親の死が麗子の心の中に暗い翳を投げかけた事は事実だろう。だがそれ以上に、静子は娘に影響を与えている。

 朝から晩まで働き続ける。思春期には誰もが異性に興味を持つ。その暇さえ与えない。勉強や家事に追い立てる。

 麗子の父が死んでからその傾向が謙虚になる。半田に引き移ってきてからもそれは変わらない。仕事仕事で追いまくる。麗子が始めた唯一の息抜きは空手だった。

 彼女は、負けたくない、口癖のように言った。

 切通は当初麗子自身に言っていると思っていた。結婚して9年、麗子との間に溝が生じたとは言え、仮にも夫婦だ。”負けたくない”のは母親に対してではないか、と思うようになった。

「あんたは、朝から晩まで麗子を仕事に駆り立てる」


 もともと負けず嫌いな性格だ。麗子は母親に負けまいとして、必死になって生きてきた。

彼女の唯一の趣味は絵だ。本当ならば青や赤、バラ色の色彩で飾りたかったろうに、毎日が緊張の連続だ、。青春期の夢を抑圧しなければならない麗子は、白と黒のタッチでしか、描こうとはしなかった。

「あんな味気ない女にしたのは、あんただ」

切通は語気鋭く言い放つ。

 静子の表情は見る見るうちに青ざめていく。唇をきっと噛みしめる。負けじと切通を見返す。

「あの子は、私の娘です」

 親が子をどうしようと、親の勝手ではないか。

「だからあんたは、麗子を自分の手足のように使ったんだ」

「あの子は私の宝です。あの子の為に良かれと思って、今まで生きてきたんです」

 そのどこが悪いのか、静子は感極まって、激しく泣く。

「その結果が今の様じゃないか!」

 切通は鬼の形相となる。

「麗子もそうだが、あんたには、苦い思いをさせられた」

「切通家のお金に手を付けた事はお詫びします。でもそれ以外は迷惑をかけていません」

 静子は血を吐くような口調で言う。

「そうかね」切通はせせら笑う。

「あんたからいつ、毒を盛られるか、毎日冷や汗ものだったぜ」


 切通は石原空手道場に父親が亡くなった夜、長野県から急遽自宅に帰った事を話す。9月頃からみそ汁に猫いらずを入れられて、体調を崩した事。以後、家の中の食べ物には一切手を付けず、仮病を押し通した事など・・・。切通の憎しみの声。

 静子の目は驚きを通り越して、恐怖の色が浮かび上がる。表情がめまぐるしく変化する。

「じゃ、私達を許すと言ったのは・・・」

「油断させるためだよ」切通の威嚇の声には凄みがある。

「殺される前に殺せってな」言いざま、静子に飛びかかる。静子は悲鳴を上げる。

「大声を立てたって、誰も来ないぞ」

 切通は内ポケットからビニールの紐を出す。静子の両手を後ろ手に縛り上げる。地面に殴り倒す。

 車のボンネットの中から太い麻縄を取り出す。3メートル程の高さの松の枝に掛ける。縄の一方を静子の首に巻き付ける。

「おい、起きろ」切通は乱暴に静子を蹴る。静子は呻きながらも上半身を起こそうとする。

 切通にためらいはない。松の枝にかけた縄を引っ張る。静子の体が起き上がる。というよりも、首にかけられた縄に引き上げられて立ち上がる。

 静子は苦しげな表情で棒立ちとなる。

「なにするの!こんな怖ろしい事、止めて!」

必死に叫ぶ。静子の足が爪先立ちとなる。切通はそこで縄を引っ張るのをやめる。

「心配するな。後で麗子も冥土に送ってやるから」

その声に、静子の目がかっと見開く。

「悪魔!人でなし!」

 切通はしばらくの間、静子半狂乱の姿を見ている。彼女の髪は振り乱れる。顔が醜く歪む。

 周囲が薄暗くなりつつある。麗子の黒の世界が闇の中から浮かび上がろうとしていた。静子の白とピンクのパンツスーツが黄昏の中に浮かび上がる。

「お願い、麗子だけは・・・」後は声にならない。

 切通は少し縄を引く。静子の足が大地から浮き上がる。首に食い込んだ縄が、ぐっと締まる。彼女の顔が苦し気に上を向く。足をばたつかせる。体が蛇のようにくねる。

 切通は無表情だ。静子の断末魔の苦しみを観察するように見つめている。最後の一撃を与えるように、ぐっと縄を引く。松の樹に縛り付ける。静子の体は地上から50センチばかり上がる。激しく揺れる静子の体は、少しずつ、動きが緩慢になる。口から泡を吹きだす。眼孔からは大きな眼の玉が飛び出す。縄が回転する。静子の体が左右に動く。それが制止した時、静子の上を向いた顔が切通と向かい合う。

 静子は最後の気力を振り絞っている。顎を引くようにして、顔を切通に向ける。

 眼孔の飛び出した眼で切通を凝視する。頬がたるみ、顔が真っ赤に充血している。触れば血が噴き出すほどだ。口は苦痛に耐え切れぬように、への字に曲がっている。

「お前は、、、。死んで怨んで、怨み通してやる」

 絞り出すような声だ。地の底を這うような響きがある。眼は見開いて、切通を凝視したまま、事切れる。


 切通は無表情のまま、静子の足元の地面を掘り返す。2メートル程掘るのに、彼の体力をもってすれば大して時間はかからない。穴の中に静子の死体を埋める。そのそばに、もう1つ、大きめの穴を掘る。

 切通はそのまま家に帰る。

 

 翌日、午後4時頃、麗子が旅行から帰ってくる。母がいないのに気付く。

「あなた、母は?」

彼女は只今帰りましたとは言わない。帰り様母の安否を尋ねる。その顔にはただならぬ気配がある。

 戸籍上は夫婦だ。一応、あなたと呼ぶが、もはや他人に等しい。眉間に縦皺が寄っている。長い間の気苦労が顔に出ている。

「お義母さんは師崎の旅館にいるよ」

 切通は自分の部屋で寝ている。病人らしく気弱な返事だ。

「でも、携帯電話をかけても不通なのよ」

 麗子の心配顔には、切通への警戒心がある。

「お義母さん、携帯電話、忘れていった」

 切通はゆっくりと話す。昨日、河和に行った事、その足で師崎の温泉旅館に行った。母はそのまま1泊して、今日麗子が来るのを待っている。

「それであなたは・・・」母が携帯電話を忘れる筈がない。

麗子は切通を信用していない。麗子に眼は猜疑心に満ちている。

「俺は、お義母さんと一緒に旅館に行ったが、気分が悪くなって、帰ってきた」嘘がばれないか、切通は冷や汗をかく。それでも大儀そうに起き上がる。

「一緒に行こう」切通は元気のない顔で麗子を見る。

 麗子は切通を睨んでいる。戦いを挑むときの眼つきだ。切通は気弱に、ふっと息を吐く。麗子とは肌が合わない。お互い妥協を知らない。一歩退いて、つまり負けてやれば、すべて円満に事が運ぶのは判っている。意地の張り合いだ。その結果が猜疑心を産む。

「師崎のどこ?私行ってみる」

 麗子は一刻も早く家を出ていこうとする。


 切通はノロノロとした動作で立ち上がる。服に着替える。

「まあ、座らないか」切通の声は切ないほど弱い。

麗子は仕方なさそうに、その場に腰を降ろす。足の長い彼女はグレーのパンツスーツを履いている。際立つ程の美人だが、着る物は地味だ。

「お義母さんから電話があったろう」

 麗子は頷く。仕事の借金を立て替えてくれる。その上、切通家から流用したお金はチャラにする。専用主婦に徹して、切通家を盛り立てていく。

 母がそういうなら麗子に異存はない。そのつもりで帰ってきた。

「いいかね、お義母さんは師崎の旅館でお前を待っている」

言いながら、切通は髭だらけで、むさ苦しい顔を麗子に向ける。

「俺はもう長くはない・・・」だから今までの事はすべて水に流して和解したい。切通家の財産を麗子に譲る。

「師崎へはお前と一緒に行きたいのだ」

――切通家の財産を麗子にやる――切通の言葉に、麗子の表情が変わる。勝ち誇ったような、切通を見下した眼つきになる。

 麗子はしばらくは無言で切通を見ている。いかにも弱々しい。明日も知れないような命なのだ。

「判ったわ、行きましょう」1人合点すると、すくっと立ち上がる。


 切通と麗子が家を出たのは4時40分。車の運転は麗子。切通は後部座席で横になっている。いかにも苦しそうな息をする。

 車中、切通は、昨日、静子と鵜池の奥の松の樹に立ち寄った事を話す。行く途中だから、もう1度立ち寄ってみたいと話す。

 松の樹の場所は、麗子のお気に入りなのだ。彼女は頷く。少しは切通の言う事を信じるようになっている。愁眉を開いた表情は生き生きとしている。

 麗子は新しく開通した道路を走らない。常滑、樽水、古場と海岸線に沿った旧街道を走行している。小鈴谷の盛田酒造沿いの道を走る。右手は海岸の堤防がある。坂井の町を通る。

 ここで不思議な現象が起こる。

海岸沿いの道は途中から東に左折する。坂井の部落に入る。部落と言っても周囲1キロぐらいしかない。

 丁度部落の中程までに来た時、梵鐘の音が鳴り響く。

「鐘の音だわ。すごく大きな音・・・」麗子の不思議そうな声。坂井の部落の真ん中を東西に走る道から南に5百メートル程行くとお寺がある。そこで鐘を打っているのだろうか。

・・・それにしては大きな音だ・・・

 車の窓は締め切ってある。なのに近くで鳴り響くような音だ。

「悲しい音色ね、何か、訴えかけているみたい・・・」

 麗子の声が感傷的になる。

切通の脳裡には静子の顔が浮かび上がる。

・・・静子の霊か、まさか・・・


 5時20分、目的地に到着。

車から降りると、麗子は両手を上げて背伸びする。

「この松、いつ見ても見事ね」久し振りにはしゃいだ声だ。

 切通は車から降りると、後ろのトランクから縄を取り出す。

 西の空はまだ明るい。森閑として物音1つしない。麗子は樹に近寄る。切通はその後ろに寄り添う様に歩く。松の樹に近寄る。麗子は驚きの声をあげる。

「何?この穴!」振り向いて切通を見る。その瞬間、切通は麗子に当身をくらわす。麗子はその場に崩れるようにして失神する。その体を切通は後ろ手に縛り上げる。

軽く頬を叩く。麗子は眼を覚ます。慌てて起き上がろうとする。身の自由がきかない。

「何?、何するの!」

 険しい目付きで切通を見る。切通の冷たい三白眼を見た時、麗子の顔に恐怖の色があらわれる。松の樹の方へ後ずさりする。切通は麗子の肩を抑える。頬を思い切り平手打ちする。麗子はあっと叫ぶ。歯を食いしばり、切通を睨みつける。

「何故、こんなことをするの! 私が何をしたと言うの!」

 麗子は負けていない。挑みかかるように叫ぶ。

「お前たちが邪魔なんだよ」切通は吐き捨てるように言う。

「邪魔?何のこと?」

麗子は鋭利そうな眼をしているが、人が思うほど敏感ではない。

 切通は勝ち誇ったように言う。麗子も知っての通り、自分には好きな女がいる。彼女と結婚したいと切望している。

「別れてやるわよ。あんな家、出ていくわよ」

麗子はヒステリックに喚く。大声を出せば、誰か気付いてくれるだろうという思惑が働いている。

「早くこの縄を解きなさいよ」

切通は立ち上がる。薄笑いを浮かべる。分厚い唇が歪む。いかつい眼が麗子を見下す。

「ダメだね。お前はもうすぐ、母親の所へ行くんだ」

 麗子ははっとして口をとざす。

「母さんは、師崎にいるんじゃないの?」不安げな眼を切通に向ける。

切通はにやりと笑う。

「お前の横」

「えっ?」麗子は白い顔を紅潮させる。身をよじる。長い髪が顔を覆う。

「ほら、土が柔らかいし、新しいだろう」

「まさか!」

「そのまさかよ。その土ン中に、お母様が寝ているって訳」

麗子の紅い顔から見る見るうちに血の気が失せていく。

「なんて酷いことを。どうしてこんなことをするの!」

麗子は気が狂わんばかりに叫ぶ。

「だから行ったろう。お前達が邪魔だって」

「殺すことないじゃない!」血走った眼が切通を見上げる。

 その途端、切通は麗子の顔に唾を吐きかける。その上で、石原空手道場の葬式の前夜、長野に一泊せず秘かに自宅に帰った事を話す。

「俺はね、聞いちまったんだよ」母親の静子が切通を殺して、切通家を乗っ取る計画。

 あの時どんなにショックを受けたか、憎々し気に言葉を続ける。麗子は瞬きもしない。顔を覆うほどの髪の毛の間から切通を見詰めている。

 瞬間、沈黙が漂う。風が出てきた。松の枝がさわさわ揺れる。西の空が明るい。それ以外は黒の風景だ。どこかでカラスの鳴き声が聞こえる。

 麗子の目が怒りに燃えている。

「私、あなたを許さないわ」

 凄絶な美しさだ。それだけに、怨み、憎しみ、怒りをあらわにすると、麗子の顔は鬼女に変貌する。

「よくも、母を殺したな」

 今にも口が裂けて、眼が血のように真っ赤になり、飛びかかってくるかと思うほど、底響きのする声だった。

 思わず、切通は後ずさりする。やくざも恐れる大男なのに、切通は全身冷水をかぶせられたような恐怖を感じた。

・・・こんな女に負けてなるものか・・・

「死ね!」麗子を足げにする。ぐうの音も上げない。

「この怨み、死んでも忘れないぞ!」

 麗子のしわがれた声だ。喉を切り裂くような響きがある。

「黙れ!」切通は麗子の口を塞ごうと、長い髪を口の中に押し込む。

 麗子は言葉を失う。眼をかっと見開く。血が迸るような眼差しだ。

 切通は麗子を穴の中に陥れる。彼女は穴の中で身をよじる。立ち上がろうとする。

 切通はスコップを手にする。土を放り込む。麗子の足元から埋まっていく。胴体が埋まる。ついに顔だけとなる。

 麗子は呻き声を上げる。眼からは大粒の涙がぽろぽろと落ちる。口に髪の毛を飲み込んだまま、哀願するように切通を見上げている。

――助けて――その表情は明らかに許しを乞うている。

・・・勝った。俺は麗子に勝った・・・

 切通は酔いしれたように、スコップに1杯、また1杯と土を落としていく。顔に下半分が土の中に消えていく。苦し気に呻く麗子、哀願するような表情だ。


 切通は全身が震えていた。得も言われぬ快感が体中を駆け巡っている。セックスの時の恍惚感が彼の下半身を襲う。勃起し、精射する、めくるめくような陶酔感が脳天まで突きあがる。

 麗子の顔も埋め尽くす。切通はスコップを放り投げる。天に向かって笑いに笑った。何という快感!

 西の空は暗くなっていた。あたりは夕闇が地面を這っていた。黒の世界が切通を包み込んでいる。切通の心はバラ色だった。


 ――何故殺した――

 風は激しくなる。波のうねりも高くなる。分厚い雲間からは、もう日の光は届かない。闇が迫っている。西の空には無数の竜巻が海水を巻き上げている。

 松の樹が切通を睨みつけるように立っている。

・・・どうして殺したのだ・・・

 松の樹が叫んでいるように見える。

「俺は・・・」冷たい風にさらされる。切通は震えている。

――幸子と結婚したかったのだ――

 闇に向かって思い切り叫ぶ。


 ――何故殺した――

今まで何度自問した事か。麗子たちを殺さなかったら、幸子と一緒になれなかった。

――麗子は別れてやると言ったではないか――

 麗子はそうかも知れない。だが静子は決して娘の離婚には応じなかったろう。

麗子の方から切通の家を出ていく理由などないのだ。むしろ浮気をした切通の方が責められるべきなのだ。無理をすれば離婚できたかもしれない。したたかな静子の事だ。法外な慰謝料をむしり取られるだけだ。

 切通は自分の行為を正当化しようと、何度も自問自答した。


 切通は麗子たち母娘を、失踪事件として警察に届ける。多くの債権者たちが切通家に押しかける。切通自身も、佐原静子に、2千万円横領されたと主張。家計簿を証拠品として提出。筆跡は佐原静子のものだ。

 誰もが麗子母娘を、失踪したものと判断する。


 2人の”失踪”後、切通は片桐幸子と結婚する。切通の予想通り”幸福な結婚生活”だった。

 平成18年の事だった。

 殺風景な庭に、色とりどりの花の種がまかれる。春には見事な花畑となるだろう。切通の目に浮かぶ。

 古色蒼然とした家の中にも、黄や赤、青、原色の濃い色彩の壁紙が貼られる。窓には花模様のカーテンが引かれる。

 麗子たちの遺品の家具や衣類はすべて始末する。調度品など、捨てるのは勿体ないと思うものの、遺品の中から2人の偲ぶようで、切通には耐えがたかったのだ。

 2人の住んでいた部屋は、切通と幸子の新居となる。台所や応接室も改装される。古びた屋敷が新婚家庭の、華やかな雰囲気の趣に一新される。

「ねえ、勇二さん、今晩、何が食べたい?」

「どう、おいしい?」

 幸子は自分1人で決めようとはしない。切通の気持ちを尋ねる。食事から家の中の模様替えまで、全て切通を引っ張り込む。

 切通が満足そうな顔をすると、幸子は顔を輝かせて喜ぶ。切通は蜜月の生活にどっぷりと漬かる。酔いしれた月日を楽しむ。

 しかし、2人の幸福な日々は長くは続かなかった。

 平成19年の秋、幸子が死んだ。死因は気管支喘息。救急車で市民病院に運ばれる途中で死亡。

彼女が気管支喘息に罹った原因は不明。市民病院の主治医は、花粉が原因ではないかとの診断を下す。アレルギー的な体質も関与していると判断する。

 結婚して半年ぐらいは、気管支喘息の兆候は現れていない。当の本人も、小さい頃は季節の変わり目にはよく風邪を引いたが、歳と共に病気にかからなくなったと自慢していた。

 病気の兆候があらわれたのは、平成19年3月頃。夜間咳き込んで眼が覚める。当初は風邪を引いたという程度だ。

 武豊という知多半島でも三河寄りの土地から常滑の地に引き移った事にも原因があると、切通は考えた。

 常滑は昔から晩秋にかけて、南西の風が吹き荒れる。その理由として、四日市市の西側に伸びる鈴鹿山脈からの寒気が伊勢湾の暖かい海水に向かって下り降りる。それが知多半島に突風をもたらす。

 知多半島の伊勢湾側は、風さえなければ温暖で住みやすい土地柄である。

 その上、切通の家は築百年の古い屋敷だ。海に面してまともに突風を食らう。柱は太いが夏向きの造りなので壁が少ない。隙間風が入ってくる。冬はコタツに入っても底冷えする。

 切通は生まれた時から住んでいる。その上、体は丈夫だ。病気とは無縁だ。幸子が切通家にやってきた当初「毎日、台風みたい」と言って驚いていた。

 その上にもう1つ悪い条件が重なる。切通家の周囲、特に西側は、防風林用として、松や杉、桜などの樹木が生い茂っている。春先には花粉が舞い上がる。

 常滑港を中心とした町の中は、家々が建ち並んではいるが、緑が少ない。砂塵が吹き上がってくる。切通の西側の部屋は、1週間も掃除をしないと、白い埃のような砂塵が目に付く。

 幸子の咳き込みは夜中から朝方に多い。日中はケロリとしている。風邪のようだが大したことはない。という自覚が本人にあった。

 彼女は働き者だ。朝から晩まで家の掃除や庭の手入れ、花壇の草むしりに精を出す。家具の掃除も怠りがない。お陰で麗子たちがいた時よりきれいで、柱1本1本がピカピカに黒光りしている。

 4月になり、5月になる。症状は一向に良くならない。咳き込みが激しくなる。咳き止めの薬で一時的には良くなる。幸子は病院が嫌いで、嗽をしたり、自分で養生する。


 5月中旬に入った、ある夜の事だった。

夫婦の寝室は、麗子たちの寝起きしていた部屋だ。部屋の中は様変わりしている。明るく、色彩豊かな雰囲気に変わっている。

 夜中の11時頃、幸子の咳き込みが激しくなる。切通は幸子の背中をさすってやったり、咳止めの薬を服用させたりする。余程苦しいのか、幸子は顔をしかめている。唇を噛む。その表情を見て、切通ははっとする。その横顔が麗子そっくりなのだ。

 麗子はアメリカ人の父親似である。鼻梁が高い。目鼻立ちがはっきりしている。射るような眼と低く引き締まった唇が相手に威圧感を与える。腹の底から笑う事の出来ない性格で、厳しい雰囲気を漂わせている。

 一方、幸子は大きな眼と、筋の通った形の良い鼻は麗子に似ている。1つ大きな違いは、少し厚めの含み笑いをしたような唇にある。豊かな頬とうるんだような眼差しが、切通の情感をそそる。

 幸子は咳き込みの苦しみに耐えている。その厳しい表情をみて、切通は背筋が寒くなる。麗子がそこに”いる”ように思えたのだ。

 麗子たちを忘れたわけではない。2人の激しい憎悪は切通の脳裡に焼き付いている。

 幸子と結婚して、毎日、夢のような生活が続いてきた。忌わしい記憶は心の隅に追いやっている。

 今――2人の蜜月は終わろうとしている。軽い風邪とは言え、幸子の病気を切ない思いで見ている。

・・・幸子の病気は、もしかして麗子の霊の祟り・・・

 まさかとは思うものの、否定しきれぬ思いが心の底に淀んでいる。

 切通の眼が凍り付いたように幸子を見下ろしている。幸子は寝返りをうつ。切通と眼が合う。

「あなた・・・」切通異様な眼の光。幸子は不安そうに叫ぶ。切通に嫌われたと思ったのだ。

 その声に、切通は我に還る。

「あなた、ごめんなさい。風邪がなかなか治らなくて」

 幸子は床から起き上がろうとする。切通は慌てて、それを押しとどめる。普段の優しい夫の顔になる。

「あなた、先ほど、怖い顔をして、何か心配事でも・・・」

幸子の憂い顔に生気が戻る。咳きも収まったようだ。


 その夜を境にして、麗子の面影が切通の心を支配する。明るく、花のような幸子との生活に、黒い影が忍び寄る。

 8月に入る。切通は幸子を市民病院に入院させる。検査の結果、気管支喘息と診断される。吸収ステロイド薬が投与される。病状は眼に見えてよくなる。2週間で退院。1週間に1度の通院の他に、自宅でステロイド療法を行う。主治医より、無理をさせないようにとの指示を受ける。家事、食事なども切通が行う。

 だが、切通が不在の時、幸子は起き上がる。家事や庭の掃除を行う。切通が帰宅してそれを見つける。切通は幸子を叱責する。床に臥させる。

――寝ていては、あなたに申し訳ないから――

 幸子は哀願の眼で見る。この時ほど、幸子への愛情を感じた時はないのだ。

――結婚して良かった。家庭を守り抜いて見せる――決意を新たにする。


 9月に入る。幸子の症状は悪化する。ステロイド薬の大量点滴静注、酸素吸入が行われる。

 車で5分の所に内科の杉山医院がある。在宅治療のため、2日おきに訪問してくれる。市民病院に入院する程ではないと判断したからだ。

 幸子の症状と並行して、切通の心の内にも、麗子の影が大きくなっていく。

 麗子と静子、2人の死に際の呪いの言葉が生々しく蘇ってくる。

・・・麗子たちが、幸子を殺そうとしている・・・その恐怖が切通の心中を締め付けてくる。

 幸子は喘息の発作が軽い時、切通の手を握り、切なげに言う。

「あなた、何か悩みでも・・・」

彼女は自分の病気よりも、切通の心の苦しみを案じているのだ。

・・・夫は私の身を心配してくれている。でもそれ以上に、心の中に深い傷を負っている・・・

「大した事ではない」切通は幸子を抱き締める。妻の喘息が自分に移ってくれとくれとばかりに、力強く抱擁する。

 ステロイド薬の精脈注射は3日に1回だった。飲み薬のステロイドは3日に1回だった。飲み薬のステロイドは毎日1回となる。9月下旬から、精脈注射は2日に1回となる。

 この時期から、幸子は高度症状(苦しくて動けない)に入っていった。

 杉山医院の若い医師は、まだ入院するほど悪化していないと判断するが、自宅介護の訪問看護士をつけるように勧める。切通はそれを拒否する。投与ステロイドから、吸入ステロイド薬に代わった処置方法を学ぶ。

 喘息は発作的に起こる。切通の夜の睡眠生活が脅かされるようになる。

10月に入る。さすがの切通も体力の消耗に悩まされるようになる。有難いことに、借家の住人の主婦が切通家の食事を作ってくれる。

 幸子の横で仮眠している切通は夢を見る。

鵜池の、あの松の樹が天を覆い尽くす程の大きさで、切通の前に立ちはだかる。その下から麗子と静子があらわれる。切通を激しく睨みつける。いつの間にか、切通の側に幸子がいる。

 2人は幸子に襲い掛かる。静子は幸子の首を絞める。松の樹の下に真っ黒な大きな穴が開いている。麗子は幸子をそこに突き落とす。切通の体は凍り付いたままだ。必死になって体を動かそうとするが、自由がきかない。

 2人は石のようになった切通をあざ笑う。


 「あなた・・・」幸子の声だ。はっとして眼を覚ます。幸子を見る。彼女は不安そうに切通を見詰めている。

「あなた、うなされて・・・」

 切通の額から脂汗がにじんでいる。汗ぐっしょりだ。息も荒い。

「お願い、あなた、何があったのか、話して・・・」

幸子の眼から大粒の涙があふれている。病魔と闘いながらも、彼女は切通の身を案じているのだった。

 切通は幸子を抱きしめる。彼の眼からも大粒の涙がこぼれ落ちる。

 2人を殺した罪の意識が、切通の心に芽を吹きだしている。だがそれを告白する訳にはいかない。たとえ幸子でも、麗子たちを殺したとは、口が裂けても言えない。言ったら最後、切通家は崩壊するのだ。

 幸子を抱きしめる切通の心の中は黒の風景だ。幸子と築いたバラ色の家庭は色褪せいていた。


 10月下旬、幸子の気管支喘息はステロイド依存症になる。1日の内、2~3回の発作的な喘息も、数が増えていく。その時間も長くなっていく。気道壁閉鎖状態が頻繁に起こる。つまり息の出来ない状態となる。

 切通は救急車を呼ぼうとする。幸子はかぶりをふる。

「わたし、ここで、あなたの家で死にたい」

 切通の手を取らんばかりに懇願する。幸子はすでに死を予感している。切通は幸子に何もしていやれない自分の無力さに腹立ちを覚える。

 そんな中にあっても「あなた、心を開いて・・・」切通に訴える。

 幸子の眼は落ちくぼみ、頬がやせている。骸骨のような手で、切通の手を握る。


 10月30日、午前10時、激しい発作に襲われる。切通は救急車を呼ぶ。20分後、救急隊員は幸子を担架に乗せて、救急車に運び込む。

「幸子、気を確かにな」救急車の中で、意識のない幸子に呼び続ける。

 市民病院に到着する前に、幸子は息を引き取る。


 11月初旬、切通は自分の部屋から、海に向かって吠える。幸子を殺したのは俺だ。麗子も静子も殺した。酒をあおる。血を吐く思いで、幸子の霊に呼びかける。咆哮する声が虚しく響く。

 11月中旬、切通は警察に出頭する。全てを告白する。

松の樹の下の2つの穴が掘り返される。2つの遺体の検分が行われる。

 風もない穏やかな日和だ。土が取り省かれていく。切通は無表情だ。ふと空を見上げる。番のカラスが飛んでいる。

・・・結局、自分は1人きりだった・・・

麗子と結婚して楽しい家庭生活が送れるものと信じた。幸子と一緒になった時も、それを信じた。

 自分の人生とは一体何だったのか。空手という勝負の世界に生きてきた。勝か負けるか、そこに人生の全てを賭ける。勝った時のエクスタシーは全身が身震いするほどの歓喜だ。

 麗子との結婚生活は、勝負の世界から解放された癒しの場だったはずだ。現実は、麗子との息詰まる勝負の世界となった。彼女を殺した時、勝った悦びに全身が震えた。

・・・俺は麗子に勝ったのだろうか・・・

 2人の怨霊に幸子を奪われた時、狂おしい気持ちに襲われた。警察に自首、事情聴収を受けた時、麗子に負けたと感じた。

 今こうして、ここに立ってみると、負けたのではない。勝ったから殺せたのだと実感するのだ。

 どんなみすぼらしい姿で、2つの遺体が現れるのか、切通はふてぶてしい気持ちで眺めていた。


 2つの穴は、数人の手で同時に掘り起こされていく。庭の造園用に使われる小さなスコップで慎重に土が省かれていく。1メートル程彫ったところで頭部が現れる。白い縮れた毛のような髪が姿を現す。検死官は手袋をはめた手で、髪についた土をはぶいていく。

 2つの頭蓋骨には腐敗した肉がこびりついてる。眼はすでにない。黒い眼孔は申しわせたように、切通を見上げている。その表情はどことなく悲哀を帯びている。

・・・どうだ、負けていないぞ・・・

 切通は心の中で叫ぶ。頭蓋骨が完全に姿を現す。切通は声ならぬ声をあげる。

 静子の頭蓋骨は口の周辺に腐肉が付着している。黄色の歯がむきだしとなっている。顎が裂けて、口がかっと開いている。

 その時だ、悲しそうに見えた眼孔が喜色の表情に変わる。

・・・笑っている・・・切通はそう感じた。戦慄が身を包む。

 切通の眼は麗子の遺体に引き付けられる。その頭蓋骨は少し上を向いている。瞳孔が挑みかかるように切通を見上げている。その口の中に白い髪の毛が詰まっている。その周りの土がはぶかれる。口の中から吐き出されるようにして髪が飛び出す。

 切通は金縛りにあったように、身動きできない。

 麗子が生きている。口の中から毛を吐き出して、かっと口を開けた。切通の錯覚は恐怖をもたらした。

――勝つまでは負けないわよ――

 切通は錯乱する。狂気の奇声を発する。その声は青い空の中に、虚しく響いた。


 切通は絶体絶命の窮地に追い詰められる。

低く垂れこめた雲の中から稲光が光る。無数の竜巻が黒い海水を吸い上げて、身をよじらせている。

 松の樹はいつの間にか姿を消している。

 切通のいる足元の”大地”はだんだん小さくなっていく。海がせりあがってくる。大地を浸蝕してしている。波も荒い。

 ――俺はここで死ぬのか――

 いや、もう死んでいるのだ。切通は思い出す。

死刑の宣告を受けた。刑務所に収監。数年後に死刑執行・・・。

・・・ここは麗子たちの怨念の世界・・・これから麗子たちがいる地獄へ連れていかれるのだ。

――幸子――切通は必死になって叫ぶ。

 と思う間もない。竜巻の舞う向こう側、西の空が明るくなってくる。それが拡がってくる。

「あなた!」澄み切った声だ。暖かい、包み込むような叫び声だ。

「幸子!」切通は顔を上げる。

 西の空は雲が切れている。夕日が顔を覗かせている。

その声は天から聞こえてくる。

「あなた、その舟に乗って」

 いつの間にか、切通の足元には手漕きのボートが出現している。切通は素早く乗り込む。荒れた波間にオールを漕ぐ。小舟は枯れ葉のように揺れる。

「幸子!」切通は波しぶきを浴びながらも必死に漕ぐ。

 竜巻の間を抜け出そうとした時、黒い海から4本の手が船べりを掴む。船がひっくり返る。切通は海中に弾き飛ばされる。

「あの女の所に行かしてなるものか」

 骸骨のような2つの裸体が切通を掴んで海の底へ引き込む。

「麗子!」切通の体に長い髪がまとわりつく。

 3つの体は暗い海の底に沈んでいく。

「あなた・・・」

 幸子の必死な叫びが脳裏に響いている。切通は懸命に力を振り絞る。2つの体を引き離す。闇の中をぐんぐんと登りつめていく。

・・・幸子・・・彼女の側に行きたい。今はそればかりが心にある。息が切れてもまだ海面に到着しない。4つの腕が切通の足元に触れる。

 ようやく海面に顔を出す。竜巻は消えている。それでも波はまだ荒い。手漕きのボートが船底を見せて浮かんでいる。空は明るい。ほっと息をつく暇もない。切通はボートの船底にしがみつく。

「あなた・・・」

 見上げると、空の一点が光り輝いている。その中に幸子の姿がある。幸子は手を差し伸べて、海上に降りてくる。

 切通の手と幸子の手が触れ合う。その瞬間、4つの腕が切通を掴む。2つの体が海面に浮かび上がる。その姿は、松の樹の下の穴から掘り返された腐乱死体そのものだ。

 麗子と静子は切通体の前と後ろに取りつくと、がっちりと羽交い絞めにする。

 2つの腐乱死体は真っ黒な眼孔を天に向ける。歯のない口を大きく開ける。喉もないのに、天に届けとばかりに咆哮する。勝ち誇った高笑いが波間に響き渡る。

 切通と幸子の手が離れる。切通体は再び海中へと引き戻される。悲しい顔で幸子はその光景を眺めるだけだった。

「あなた、頑張って・・・」幸子の声が波間に漂う。


暗い海の中・・・。

 息の出来ぬ苦悶、幸子の声が脳裏に響く。

・・・俺は、幸子の側に行くんだ・・・

 切通はまとわりつく2つの体を、気力を振り絞って振りほどく。

「幸子!」天の届けとばかりに叫ぶが、声にはならない。それでも叫び続ける。海面目指して上昇する。海面に顔を出す。幸子の手がある。切通はその手をしっかりと掴む。切通の体は海面から引き上げられる。2つの腐乱死体が切通の足に絡みついている。切通の体が海面から浮かび上がる。麗子と静子、2つの体も海面から浮かび上がろうとした。

 だが海面から離れようとした瞬間、2つの体は海中に引き戻される。切通の体は海面から離れる。切通と幸子、2つの体は天に向かって、ぐんぐんと上昇する。太陽は西に傾いていたが、この世界の空は光輝に満ちていた。

      

                                    ―― 完 ――


 お願い―― この小説はフィクションです。ここに登場する個人、団体、組織等は現実の個人、団体、組織

      等とは一切関係ありません。

      なおここに登場する地名は現実の地名ですが、その情景は作者の創作であり、現実の地名の情

      景ではありません。

 


















 





































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