9 追憶/追跡/追悼
屋上でサーシャが体を反らせ後ろに両手をつき片足をあげゆっくり後転するのを、リコはスモークチキンのサンドイッチを咀嚼しながら見ていた。教授は授業の後、姿を消していた。午後の授業はなく研究室にも不在で職員の誰も行き先を知らなかった。
サーシャは続けてもう一回後転した後、両手を今度は前について勢いよく前転し両足を揃えて踏み切ると高く跳び上がり空中で横にひねりを加え後ろ向きに両足を揃えて柔らかく着地した。猫だ、とリコは思った。リコはサーシャの体が、足を伸ばして座ると片手でもつま先がつかめない自分と違って柔軟であることは知っていたが、ハイブリッド種族の本来の能力についてはほとんど知らなかった。筋肉と骨格が作る動きにリコは魅了された。
サーシャは大きく伸びをしてからリコの所に駆け寄ってきて隣に座り、自分もパストラミのサンドイッチをつまんで食べはじめた。
「サーシャ、ほんとにだいじょうぶ?」
「うん」
サーシャは笑顔で答えた。
「なんか今までが中途半端だったんだなって。これくらい普通じゃなくなると逆に覚悟ができるっていうか」
サーシャのしっぽがひょこひょこと動いた。
「それに誰かの声がした気がして。追いかけろ、後悔するぞって」
サーシャの頰が赤くなった。リコは自分の手と口が止まったことに気がつかなかった。
「ひとつ聞きたいことがある」
リコの指先からフルタが黒いミニチュア版で実体化した。
「ちょっとフルタ」
「サーシャといったな。きみの中にも共生者がいるということか?」
「えと、リコ、こちらは?」
「サーシャ、驚かないの?」
「わたしの本来の名前は発音できないが、この姿ではフルタという」
「はじめまして」
「ちょっとふたりとも、ていうかフルタ普通に喋ってるし」
リコはフルタとの顛末をサーシャに説明した。フルタは本人曰く普通に発話するのにかなりのエネルギーを消耗するため、もっぱらリコがひたすら説明する役になった。
「うーん、わたしには自分の中に誰かがいるような感覚はないかな……」
「そうか」
フルタが少しうなだれたようにリコには見えた。
「でも、あなたは悪い人……悪い宇宙人じゃないって、直感でわかった。それに懐かしい感じがしたの」
「そうか」
「だから、完全な形じゃなくてもわたしの中にあなたの仲間はいるんだと思う」
「そうか」
「フルタ、そうか、ばっかじゃん」
「きみに触れさせてもらってもいいか?」
「フルタ?」
「いいよ」
フルタは体を伸ばして、たくさんぶら下がった小さな腕でサーシャに触ろうとした。リコはフルタが生えている手をサーシャの顔に近づけた。フルタはサーシャの頰にたくさんの手で触れた。サーシャは目を閉じ、フルタは手を触れたまま、ふたりとも動かなかった。聖母の像から何か啓示を読み取ろうとする異世界の信者のようだった。リコは神を信じなかったが、その光景を神聖だと思った。
「ありがとう」
フルタはそう言うとリコの中に引っ込んでいった。
「フルタ、どうだった?」
フルタは返事をしなかった。
「サーシャは何か聞こえたりした?」
「ううん。でもやっぱりものすごく懐かしい、あったかい気持ちになった、かな」
リコとサーシャは午後の授業を自主休講して、教授が見つかったりはしないかと淡い期待を抱いて街をあてどもなくさまよった。古いアーケードの商店街や幹線道路沿いを教授がママチャリで移動している姿をリコは全く想像できなかった。教授がこの世に出現したのは、人類を再び進化のレールに乗せるための突然変異のようだった。リコは教授が精子と卵子が受精して胎児になり赤ん坊として産声を上げたことを想像できなかった。教授が何を食べていたのかも見ていたはずなのに思い出せなかった。
リコとサーシャは何の成果も得られず、とりあえずリコの部屋に集まって作戦会議と称した漠然とした時間を過ごしていた。返信はないだろうと思っていた教授へのメッセージに返信はなかった。
「教授が行きそうなところ、かあ……」
「リコにわからないなら、わたしにも無理かな」
「だよね……」
リコは思いつくままネットのローカルなフォーラムを徘徊し、サーシャはゲームをはじめた。進化したイカとタコが戦うシューティングゲームでサーシャは圧倒的な能力を発揮し、敵プレイヤーを次々とリスポーン地点送りにしていた。
「うーん、それじゃどこかの遺跡とか」
「オオサカにはたくさんあるんだよね……」
「そっか……」
サーシャはその試合で二十キルを超えてさらにキルを伸ばしていた。リスポーン地点に釘付けにされた哀れな相手チームは虚しくジャンプを繰り返し、ひとりまたひとりと自ら切断して消えていった。
「ちょっとみんなヌーブすぎ」
「わたし、気持ちわかる」
「えー」
結局その試合は相手チームが全員切断して終了した。キル数は三十二を記録していた。
「チートだと思われてもしかたないレベルだよね、これ」
「そうかなあ……」
サーシャはしぶしぶコントローラーを置いてグラスに注いだコーラをひとくち飲んだ。フルタは沈黙したままだった。ふたりは手持ち無沙汰にソファに深く腰掛けて、ため息をついた。
「教授、次は何をやらかすのかな……」
「うーん……」
「次はなんかでっかいことをしそうな気がするんだよね」
「でっかいことって?」
「わかんない。それがわかればいいのに」
リコは両手でフードを顔が完全に隠れるまで引き下げた。そうすれば何かいいアイデアが思いつくかもと思いついたからだが、何も思いつかなかった。リコは教授が人を欺くような人間だとは今でも思っていなかった。教授は理念が歩いているような人間だと思っていた。教授は人間だった。人間でなければ人間を超えようとは思わないという当たり前のことにリコは気づいた。
リコのタブレットが着信音を鳴らし沈黙が破られた。リコは慌ててタブレットを持ち上げてメッセージを見た。
「教授からだ……!」
「ほんと?」
リコは震える指でメッセージを開いた。
——杭全くん。きみはきっと怒っているだろう。本来ならきみとこの偉大な成果を分かちあうべきであった。謝罪する。すまない。
——しかしわかってほしい。わたしは待てなかったのだ。単なる人間であるわたしの残り時間は短い。
——このメッセージを読んでいるなら計画は遂行されたということだ。カルサトオオツカ古墳に来るといい。
「カルサトオオツカ古墳ってどこ、あんのクソ教授、てか読めない名前つけるな」
リコは大急ぎでタブレットを手に検索し、古墳はハビキノ市にあることがわかった。
「ハビキノのフルイチか、エアバイクだと一時間はかかっちゃう。サーシャ、行こ」
「了解!」
リコとサーシャはヘルメットとゴーグルを掴み、部屋を飛び出した。
リコの年齢で乗れるタイプのエアバイクは法定制限速度が時速六十キロであり百キロでリミッターがかかる設計になっていたうえ、市街地では道路上空の低高度空路しか飛行できずリコは相当にイライラを募らせることになった。
「リコ、慌ててもしょうがないよ。教授はもう何かした後なんでしょ?」
「わかってるけど……」
外環状線沿いのかつては郊外型の店舗だった廃墟が自動輸送車のライトに白く照らされて灯篭のように流れていくのが眼下に見えた。戦争で著しく減少した人口はさらに減少を続けており、それがリコやサーシャがこの世に生まれてくることになった原因でもあった。人口復元プログラムで人口子宮から産まれた子供は日々増えていた。その事実は記録的には秘匿されていたものの公然の秘密であり、そういった子供たちはリコにはすぐ見分けられた。リコは車間距離を一定に保って走る無人車の列を見て、人がいなくなった後もあの自動運転車たちは走り続けるのだろうか、生物発光を利用した街灯はいつまでも輝いているのだろうかと考えた。リコが見てきた遺跡ではほぼすべてのものが朽ちて動かなくなっていたが、基本機能は生きており手入れする人間もしくはそれが可能な存在がいればかつての姿を取り戻し、再び戦争を起こすのだろうか。古墳に向かう間、ほかの有人エアビークルとはほとんどすれ違わなかった。リコは人間が作ったものが主人がいなくなった後も永遠に動き続けているところを想像した。
カルサトオオツカ古墳はほぼ完全な闇に包まれていた。周囲の民家はかなり昔に廃屋になっており畑があったところは深い草むらになっていた。古墳は古代の皇族の墓とされていたのでこぢんまりとした石造りの門と鳥居の拝所が前部に建てられ、その周囲にはわずかに照明がつけられていたが手入れはほとんどされておらず草がコンクリートの隙間から生え放題になっていた。リコがネットで調べた伝説によれば、勇猛な皇子が帝の命であちこち戦争に駆り出されて戦い疲れ最後には敵の毒に倒れ故郷を想いながら辞世の歌を謡い死んだ後、白い鳥になって飛び去ったのだがその鳥が飛んできて留まった地にこの古墳を作ったということだった。
リコは拝所にエアバイクを着陸させ教授の痕跡を探した。サーシャの暗視能力とリコの赤外線視力は誰かが徒歩で草むらを踏み分けて古墳にやってきた跡を発見した。草むらの通路は古墳の水の溜まった堀で途切れていた。
「教授、ここから渡ったのかな」
「たぶんそうだと思う」
「堀の水、たぶん汚いよね」
「めっちゃ深いかも」
「どうしよっか」
泳げないリコはしばらく悩んでから草の生えた土手をゆっくりと降りて堀に入ろうとしたが、途中で足を滑らせ尻から堀に落ちた。
「リコ!」
リコは浮き草にまみれ胸まで水に浸かっていた。
「もう何これ、浅いじゃん!」
リコは立ち上がろうとしたが泥から腕を抜くのに苦労し、結局サーシャに助け起こされた。リコは膝上、サーシャは膝下まで水に浸かり、リコはさらに足元にまとわりつく泥の抵抗に苦労しながら島のように水に浮いた墳丘を目指した。リコは濡れた服の中に環形動物や甲殻類など無脊椎動物のうねる細長い動きの気配を感じ、制服のプリーツスカートのままなことを後悔した。水と悪臭のする泥をたっぷり含んだコットンのパーカーのフードはさすがに被る気になれなかった。
木に覆われた墳丘の端は急な勾配になっていたが、今度はリコが無茶をする前にサーシャが先に上陸してリコの手を取り水と泥から引っ張り上げた。サーシャはリコが知っているよりずっと力強く軽やかになっていた。
「サーシャ、わたしとおなじくらい運動できなかったのに……」
「へっへーん」
サーシャは得意げに鼻を鳴らした。
「リコ、なんだか変なにおいがする」
「この泥くさいんだもん、しょうがないよ!」
「リコの話じゃなくて、何か別の……血?」
リコは何も嗅ぎ分けられなかった。
「教授はたぶん円墳のほうに行ったと思う。前方後円墳はそっちに玄室が作られるって」
サーシャは頷いた。ふたりは木々の間を円墳のほうへ歩いていった。地面には長い年月の間に土が覆いかぶさっていて、造成された当時の石段も列に並べられていたという素焼きの埴輪も土の下に埋まっていた。リコはここも自分が探索した遺跡とおなじだと思った。地質学的な時間のスケールにおいては、リコは教授の講義を思い出した。一万年単位の時間はほとんど一瞬に等しい。
「サーシャ、あれ……!」
リコが見つけたのはうつぶせに倒れている人影で、まだ温かい状態だった。サーシャは口に手を当て、月の光が木々の隙間から差し込んでいる夜の闇の中、青ざめて絶句していた。リコは倒れている人影に近づきかがみこんでそっと手で触れてみた。なんの反応もなかった。リコはおそらく数時間前まではテンポウザン教授だった肉体の顔を覗き込んだ。顔は横を向いていて口や鼻や耳から出血しており眼球が失われた眼窩は闇の中でもひときわ暗い穴になっていた。リコはその穴を以前にも見たことがあるような気がした。




