8 教授の仕事は早い
睡眠薬でようやく眠れたリコは次の日を思い切り寝過ごしたが、よくあることなのでのんびりと昼休みを目標に朝の準備をしていた。目が覚めてみると自分が慌てても打てる手が何もないことを実感し、次に何が起こるのか待つ決心をしていた。
シャワーを浴びて濡れた体をタオルで拭きながら、タブレットのメッセージ着信通知に気づいた。メッセージはサーシャからだった。
『リコどうしよう〜』
『学校いつくるの?』
『屋上で待ってる』
リコは慌てて『すぐ行く』と返信して、大急ぎで制服を着るとヘルメットとメッセンジャーバッグを掴んでアパートの部屋を飛び出した。
階段で完全に息の上がったリコは屋上に出る前に両膝に手をついて呼吸を整えた。春の陽気で背中が汗ばんでブラウスが貼りつくのを感じた。パーカーのジッパーを下ろしフードを脱いで服の隙間から涼しい空気が入ってくるのを感じた。それからリコは屋上に足を踏み出した。
「サーシャ?」
リコはできるだけ平静なトーンでサーシャを呼んだ。
「サーシャ?」
「……」
「サーシャ、どこにいるの?」
リコはか細い声が聞こえた気がした。自分の目のことを思い出し赤外線を見てサーシャの形を探した。サーシャは塔屋の日陰になっている面で小さくなってうずくまっていた。
「サーシャ、どうしたの?」
サーシャはいつも持ち歩いているいいにおいのするタオルをほっかむりしていた。リコを見上げたサーシャのエメラルドグリーンの目には涙が潤んでいた。
「……リコぉ……」
「サーシャ?」
「うぅ……」
リコはサーシャの隣に並んで座った。リコより背が高くてスタイルもいいサーシャがとても小さく見えた。そのまま絞った肘のあたりから内側に縮んで消えてしまいそうだった。
「ね、サーシャ。わたし、ちゃんときたから」
「……うん」
リコはそっとサーシャの肩に触れた。サーシャが小さく震えているのが感じられた。
「あのね、リコ……」
「何?」
しばらくしてサーシャが口を開いた。リコはできるだけ不安を与えないような口調を必死で考えて話したが、それがうまくいっているのか自分でもわからなかった。
サーシャがタオルをゆっくり外した。サーシャの小さな頭には、いつものきれいなブルーグレイの長いウェーブのかかった髪と、そこからおなじ色のふたつの猫耳がぴょこっと……
「……かっ、かわいい?」
「リコぉ〜! 何言ってるの!」
サーシャの目からたちまち涙が溢れ、彼女はそのままリコに抱きついてきた。
「ごっ、ごめん」
「どうしよ〜! わたしどうなっちゃったんだろ〜」
リコはサーシャの頭をそっと撫でた。サーシャの本来あった耳はなくなっていた。
「リコ、この少女は何かおかしい」
それまで沈黙していたフルタがリコだけに聞こえる声で言った。リコは思わず返事をしそうになるのをぐっとこらえた。
「サーシャ、何があったの?」
「あのね、あのね……」
サーシャがつっかえつっかえ語ったところによると、それはテンポウザン教授の歴史の授業中のことだった。教授は瞑想について講義していた。さまざまな宗教で瞑想は、たとえば神を体験することであったり自身の意識をより高い段階へと導く方法であった、もちろんそれは脳の状態が遷移した結果として感覚される現象にすぎないわけだが、それはそれとしてなかなかおもしろい体験であるから少し実践してみよう、香りと音楽はよく用いられたから気分を出すために用意してきた、そう語ると教授はアンビエントミュージックをかけ、お香を焚いた。ドローンの低音と濃密な甘い煙が漂ってきて、クラスのみんなもその気になり瞑想がはじまった。サーシャが目を閉じているとだんだん時間の感覚が曖昧になりこれが瞑想の感覚かと思っていたのだが、そのうち耳鳴りがはじまってだんだんと音楽と混じりあい、前衛的であると作った人間だけが思っている不愉快なノイズミュージックの大音量になった。我慢できなくなったサーシャは思わず耳を塞ごうと手をやったのだが、感触がおかしいことに気がついた。耳は思っていた場所になく、毛むくじゃらの大きな耳たぶらしきものが頭についていた。サーシャは目を開け、タブレットでセルフィーを起動して自分の顔を見て、それから頭に生えている耳を見、慌ててタオルを取り出して頭を隠し、教室を飛び出し、屋上に隠れてリコにメッセージを打った。
リコは教授の仕事の早さに素直に感心していた。リコのクラスでポストヒューマンの血統を持つ生徒はリコとサーシャしかいなかった。リコのナノテクの血が目覚めたのならサーシャのハイブリッドの血も目覚めるに違いないと推測するのは簡単なことだったが、生徒を堂々と実験台にするとは思っていなかった。そしてリコは怒っていた。リコはサーシャがポストヒューマンなんかになりたくなかったことを知っていた。サーシャは普通に暮らしたかった。リコとサーシャにはその点で決定的な違いがあった。だから遺跡探索の本当の理由は秘密にしていたし、いつかそのことがふたりを永遠に分かつだろうと思っていて、それがリコの心に癒えない膿んだ傷を作っていた。リコはサーシャの気持ちを無視した教授を絶対に許さないと思った。
「ごめんね、サーシャ」
「ぐすっ……なんでリコが謝るの?」
「わたし……わたしは……」
リコは出なくなる言葉を絞り出すために勇気を精一杯奮い起こさせた。
「わたしも無関係じゃないの」
「え?」
リコは指先を出して黒い皮膚を変形させた。
「リコ、それは……」
「わたしが遺跡で見つけたものを体に取り入れたから。ナノテクの能力が再生してるの」
「じゃあ、わたしの耳は……」
「教授がお香に混ぜてサーシャに吸わせたから。教授はわたしを裏切ったんだ」
「そんな……!」
「わたしはただの人間なんかでいたくなかったの。ポストヒューマンの能力が残ってるからって、まるで人間のできそこないみたいに扱われて。だったらなんでまだ胎児で保管されてたわたしを育成したんだろ。廃棄するのは人殺しみたいで心が痛んだのかもしれないけど、そんなの偽善。わたしの人生が理不尽だらけになっちゃってるのと、胎児のまま死んじゃったのと、どっちが幸せなのかずっと考えてた」
「リコ……」
「どうせ普通の人間じゃないんだからナノテクの能力を復活させて、人間からどんどん遠い存在になりたかった。価値観を共有したくなかった。だから教授の計画に乗ったの。人間をもっと進化させるって」
リコはむりやり笑顔を作ったので、サーシャに自分の言葉がより深刻に伝わってしまう結果になった。
「サーシャがそうじゃないのは知ってるよ。わたしと教授の計画に巻き込んじゃってごめんね」
リコは自分が泣き出しそうになっていることに気づいて、慌てて立ち上がった。
「教授を止めに行かなくちゃ。あいつ一発ぶん殴ってやる」
リコはサーシャを見ずにその場を急いで立ち去った。
「いいのか、リコ」
「聞くな!」
リコは階段を飛ばし飛ばし駆け下りた。涙で視界が滲んで鼻水をすすり、そして足を滑らせ前につんのめった。リコがその瞬間思ったのは、カッコわる、の一言だった。
リコが認識した次の瞬間は、自分が誰かに抱きかかえられてお姫さま抱っこ状態になっていることだった。
「よかった、間に合った」
自分を抱きかかえているのはサーシャで、リコは何が起こったのかまったく理解できなかった。呆然としているリコをサーシャは軽々と踊り場に下ろし、思い切り抱き締めた。サーシャの胸の圧力にリコは圧倒された。




