7 運命の分岐点
月曜日、リコはいつも通り登校した。怪しまれないようにフルタには極力話しかけないようにしたが、フルタのほうはあらゆることでリコを質問責めにした。たまりかねたリコは適当なところで授業を抜け出し、いつも拝借している音楽室の備品のアコースティックギターを持ち出し、屋上に上がっていつものフレーズを淡々と練習した。フルタの種族には音楽という文化はなかったらしい。宇宙空間には大気がないため音が伝わらないし、仮に大気があったとしても個体間は音ではコミュニケーション不可能な距離であることがほとんどだった。リコは自分たちが暮らしている世界はとても狭いのだと思った。出不精のリコは生まれてから住んでいる街の外へ出たことは数えるほどしかなかったうえ、記憶も曖昧になっていた。唯一鮮明に思い出せるのは、リコがまだ小学生で施設で暮らしていたころ、研修旅行でナラに行ったときに見た、巨石で組み上げられた石舞台古墳だった。どことなくアンバランスなチャコールの石組みは、今よりも小さかったリコにはとても巨大なものに見えた。中に入ると外から差し込む光が青く石の壁を染めていた。誰かの墓だったというその大きな構造物を作ったのはどういう人たちだったのだろうと考えた。
サーシャはいつも通り弁当をふたつ持ってやってきた。リコはフルタのことは黙っていることに決めた。海苔で巻いた俵おにぎりと骨つきの唐揚げを一緒に食べ、膝枕に顔を埋めて弾力のある太ももの感触に安心した。リコが横目にサーシャを見上げ、ふたりの目が合った。リコの機能を取り戻した目は、サーシャの顔が少し温度を上げたことを感知した。リコはその意味を考える前に自分の鼓動が早くなるのを感じ、慌ててサーシャの下腹に顔を押し付けた。フルタが何か言っていたが、リコは無視した。
放課後、リコはいつもより遅い時間にテンポウザン教授の研究室を訪れた。夕日がオレンジ色に室内を染め、資料の山を黒い影にしていた。
「待っていたぞ、ヒラカタユウエンマエくん」
教授はリコより先に声をかけてきた。
「長いよ」
「それで何か効果あったのかね?」
リコは頷いた。
「気をつけろリコ、この人物からは得体の知れないものを感じるぞ」
フルタの忠告を聞きながら、リコはパーカーのフードを上げて前髪を分け、機能が復元された目を教授に見せた。教授は顔を近づけ、モノクルでリコの眼球をじっくりと観察した。リコの目は教授の体温が上昇するのを捉えた。
「ほかには何か?」
リコはフードを被りなおしてから右手の人差し指を差し出した。指先の皮膚が黒く変色し、蔓のように伸びて先細りの螺旋を描いた。
「ほほう、バリアブル・スキンか」
「これはちょっとしかできないよ。これが限界」
リコは嘘をついた。
「予想以上の結果だ。じゅうぶんだ」
教授の声のトーンが上がり、興奮しているのが誰の目にも明らかだった。
「すばらしい。これでようやくはじめられる。われわれポストヒューマンの理想を受け継ぐものとして、人類の進化を正しい方向に矯正できるのだ。いやよくやったニシナカジマミナミカタくん」
「だから長い……」
「ははは! 残念だ! わたしにポストヒューマンの能力が一切遺伝していないことがこれほど残念とは! ははは!」
教授の目はもうリコを見てはいなかった。教授は一本調子に笑いながら呪詛とも受け取れる言葉を上機嫌で発していた。
「今日はもう遅い。気をつけて帰りたまえ! ははは!」
教授は激励のつもりかリコの両肩をぽんぽんと叩き、研究室の奥へ消えていった。笑い声が時折聞こえてきた。リコはそっと後ずさりして研究室を後にした。すでに太陽は沈み、残った赤い光だけが雲を染めていた。
リコは暗くなった帰り道をエアバイクで飛ばしながら得体の知れない怪物を起こしてしまったのではないかと考えていた。千年の間封印されていた頭が七つある怪物を縛る鎖を自分が率先して切ってしまったような気がした。
日付が変わった深夜、リコとフルタは学校に忍び込んだ。学校のどこにも監視装置がついていないことは確認済みだった。校門は施錠せず閉じられており、三棟ある校舎にはそれぞれ入り口に古風な南京錠がついているだけだった。リコはフルタの助けを借りてスキンを使ってピッキングし解錠に成功したが、南京錠を取り落としゴトリと鈍い音が無人のはずの建物にこだまして、全身の毛が逆立ち内蔵が口から飛び出すかと思った。誰もこなかった。リコは南京錠をそっと脇に置き、ゆっくりと引き戸を開けた。引き戸の滑車が立てるゴロゴロという音がやたらと大きく聞こえた。非常用の蓄光灯が青く光り、コンクリートの壁とリノリウムの床を地下墓地のように浮かび上がらせていた。リコは拡張された視力で暗闇を見た。すべての形が青に染まってくっきり見えた。
リコたちはテンポウザン教授の研究室へ最短距離で向かった。研究室の鍵はかかっていなかった。教授が片付けるという行為がまったくできない人物であることをリコは知っていた。鍵のあるロッカーの鍵という鍵を紛失しており、重要なものは冷蔵庫に入れていた。古の種族から抽出した液体の瓶も冷蔵庫にあるはずだった。
リコは冷蔵庫を開けた。瓶はひとつもなかった。リコはがっくりとうなだれた。
「ほかに当ては?」
「ない。ここにないなら教授が持ってる」
「そうか」
フルタはそれ以上何も言わなかった。
「ごめんね、仲間……」
「これも運命だ。しかたがない。帰ろう」
リコは運命を信じていた。賭けに勝ったのは教授であり、自分ではないことを受け入れようとした。教授と自分の運命はすでに分岐してしまったのであり、今後も交差しながら勝者と敗者を産み出していくだろう。リコは運命の輪が自分に有利な目を出してくれることを願ったが、未来はまだ誰にもわからないことも知っていた。




