11 心のかたち
リコが操縦するエアバイクのタンデムシートに座ったサーシャは空を眺めて円盤の痕跡を探した。月が雲に隠れてぼんやりとした光の円になって空を覆い星はほとんど見えないはずだったがサーシャの視力では満天の星空が雲の隙間から溶け出すように見えていた。
「あれだけ派手なんだから見つかってもよさそうなんだけど……」
リコも空を見上げたが彼女の視力でも飛行する円盤は見つけられず、操縦しなければいけない立場では長いこと空を見つめているわけにもいかなかった。
「雲が増えてきたね」
サーシャが言った。リコは右手に鋭い痛みを感じた。手のひらの皮膚に裂け目ができて血が滲み出ていた。エアバイクのスロットルも血でぬらりと光った。
「リコ、手、怪我してるじゃない! 大変」
サーシャが背後から覗き込んだ。サーシャはポケットを探ってハンカチを取り出したが、泥水が染み込んで汚れていた。サーシャはハンカチをそのままポケットに押し込んだ。
「とにかく手当てしなきゃ。わたしんちに行こう。救急キットがあるから手当てできるよ」
「ええっ」
「リコんちには置いてないでしょ」
「そうだけど……」
「じゃあ決まりだね」
「ちょっとサーシャ危ないよ、免許持ってないじゃん!」
サーシャはリコの後ろから両手を伸ばしてハンドルを握った。
サーシャの住んでいるアパートメントは知っていたものの、サーシャの部屋を訪れるのはリコにとってはじめての経験だった。サーシャの部屋は広い間取りのモダンクラシックな和室できれいに整頓されておりユーカリの香りがうっすらと漂っていた。ガレージに最低限の住居機能を備え付けただけといった体のリコの部屋とは大違いだった。リコは自分の汚いニーハイソックスが明るい木の板間を汚していることにとてつもなく罪悪感を覚えた。猫の置物が自分に非難の眼差しを送っているように感じた。
「洗濯物はこれに入れてね」
サーシャは大きな洗濯カゴを床に下ろすと、タイツを脱いでカゴに放り込みカーディガンとブラウスも手早く脱いでカゴに放り込みプリーツスカートに手をかけた。
「あれ、リコ。どうしたの?」
リコはサーシャの下着姿を呆けた顔で見つめていた。
「お洗濯してあげるから早く脱いで」
「あっ、ちょっと自分で……」
「もう、恥ずかしがることないでしょ」
リコはサーシャのなすがままパーカーを剥ぎ取られブラウスとスカートがそれに続いた。
「リコ、細くてちっちゃいねー」
「下着、下着は自分で……」
リコはうつむいたままブラジャーとパンツを脱いでカゴに入れた。
「靴下は脱がないの?」
リコは慌てて靴下を脱いだ。サーシャは自分も残りのスカートと下着を脱いでカゴに入れた。サーシャはカゴを抱え全自動洗濯機に泥で汚れたふたりの衣服を丸ごと放り込んでからリコの手を引いて浴室に入った。リコはおずおずとついていった。浴室は広く浴槽は体を伸ばして浸かれる広さがあった。サーシャは洗い場でリコの傷ついた右手をお湯で洗い、次に用意していた消毒薬で洗った。それからガーゼで残った血糊をきれいに拭い皮膚の再生を促進するフィルムを手のひらに貼って防水の包帯で丁寧に巻いた。リコは長くてしなやかな指が器用に動くのをじっと見つめていた。
「はい、できあがり。しばらく動かさないほうがいいから、体洗ってあげる」
「い、いいよ、自分でやるから……」
「遠慮しなーい」
リコは子供のように風呂椅子に縮こまってサーシャに全身を洗ってもらった。サーシャは鼻歌を歌い笑顔で上機嫌だった。サーシャは洗い終わったリコを湯船に入れ、次に自分を洗いはじめた。リコは泥と石鹸の泡の混じった水が排水溝にカフェラテのような渦巻きを描くのを見ていた。サーシャは自分を洗い終わると髪をまとめリコと向かいに湯船に入った。
「お風呂、広いでしょ?」
「うん」
「借りるときにちょっとこだわったんだよね。ロシア風だと狭いから」
リコはサーシャのメリハリのある肢体をまじまじと眺めた。湯船の中で触れるサーシャの感触は上質な鎮静剤の柔らかさでリコの気分を落ち着かせた。サーシャはいつもの聖母の笑顔だった。ふたりは黙って湯船に浸かった。
サーシャの出してくれた下着はリコにはサイズが大きすぎた。リコはサーシャのジャージトップだけを着て畳敷きの居間で座布団に座っていた。ジャージはやはりリコにはサイズが大きく、ぶかぶかのワンピースのようだった。服からは清潔な石鹸とサーシャの香りがした。
「はい、どうぞ」
サーシャはテーブルにグラスに入ったティーソーダをふたつ置いた。サーシャはリネンのシャツとデニムのショートパンツに着替えて髪は頭の後ろでまとめていた。リコはタブレットでニュースを検索した。古墳の崩壊はニュースになっていた。
——カルサトオオツカ古墳崩落、局所的な地震の影響か。地下空洞の可能性も。
円盤に関しては目撃報告がありすぎて絞ることができなかった、というのもオカルトマニアが毎晩大量の目撃報告をネットに拡散するからだった。オオサカ周辺の目撃情報はいつもと変わらず似たようなジャンクばかりだった。リコはため息をついてタブレットをテーブルに置いた。
「教授、古墳で何してたのかしら……」
「わかんない。けど、あの教授がむだに死ぬとは思えないんだよね。ぜったい何か考えてたはず」
「うーん……」
ふたりは黙り込んでしまった。何、何か、なんで。リコはここ数日の何が積み重なり混乱を通り過ぎて感覚が麻痺していた。冷静に考えるとめちゃくちゃなことばかりだった。
「もうわけわかんなーい。こんなのどうしたらいいの」
リコは畳にひっくり返った。
「自分の能力もよくわかってないのに。地球外生命体に変死事件にUFOとか。めちゃくちゃだよ」
リコは右手を伸ばして巻かれた包帯を見つめた。薬で痛みは抑えられていたが傷は疼いた。
「リコはわたしを守ってくれたよ」
「え?」
「屋上に隠れてたとき、リコが来てくれなかったらどうしようかと思ってた。来てくれてありがとね」
「わっ、わたしこそありがとう言わなくちゃいけないのに……」
リコは慌てて起き上がったが言葉を詰まらせた。顔に血がのぼって何か言うどころではなかった。リコの冒険はいままで自分ひとりのものだったのが成り行きとはいえ三人のものになっており、リコはそのことに改めて気がつき動揺していた。運命の糸が三本よりあわさっている状況はリコの計算外だった、というのも賭けるときはひとりで賭けるのであり、配当も個人に配られるからだった。運命を共有するチームというものをリコは経験したことがなかったし想定もしたことがなかった。そしてリコには三倍の責任と重圧がのしかかっていた。不意にリコの頬を涙がぽろぽろと流れ落ちた。
「わっ、わたし、もうどうしたらいいかわかんなくて……自分の力もうまく使えないし……わたしがしっかりしなくちゃいけないのに……」
「そんなこと言うの、リコらしくないかな」
「でも……」
「違うの! リコは雑でなくちゃダメなの。ちゃんとするなんてリコがいちばん苦手なことじゃない」
サーシャがテーブルに両手をついて身を乗り出した。
「それ、褒められてる……の?」
「そうだよ! 責任を感じてちゃんとしようとするなんて人間的なことだと思うかな」
「人間的……」
人間的な行為とはどういうことかについて、実のところリコはあまり深く考えたことがなかった。今のリコの能力は確実に人間離れしたものになっていたにも関わらず、リコには自分が人間とは違う何かになれたとは感じていなかった。リコは自分の心というものについて考えた。自分の心が自分を縛るということについて考えた。自分の心のままに生きようとすることは心の在り方に人生を規定されるということだと考えた。しかしそこから自由になるということは自分はどうなってしまうのだろう、さすがにわたしがわたしをわたしと認識しなくなったらそれはそれで問題ではないだろうかと思った。だが、それで何か問題でも?
「そうか……」
「そうかって、何が?」
「教授がどうなったかわかった気がする。教授はあの円盤になったんだよ」
「ほんと?」
「教授はそういうことに迷わないと思う。わたしみたいに」
「なんで円盤なんかになったのかしら?」
「それは本人に聞いてみようと思う。間違いなくあの円盤は戻ってくるよ。今度は捕まえなきゃ」




