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とある雨の日

 身を切るような冷たい雨の中、父が倒れていた。

 全身を切り刻まれ、出血は夥しい……すでに致死量に達しているだろう。地面には這いずってきたであろう真紅の痕が残っており、渾身の力を振り絞ってここまで来たのだということが窺い知れる。そして、その背中には武骨で肉厚なナイフが深く、深く突き刺さっていた。


 雨の降る中、そのナイフはまるで墓標のように、不気味で残酷な存在感を発していた。

 もしも、見る者が見たのならば、そのナイフが恐ろしい精度で肋骨を掻い潜って、動脈を突き破っていることが分かったことだろう。


「え……あ……父さん……?」


 天気が悪くなってきたことから、少し早く遊んでいた森から帰ってきた幼いファルシリアは、凄惨な父の状況を一目では認識し切れなかった。生まれてこの方、友も母もなく、父としか過ごしたことのないファルシリアにとって、世界の大半は父親によって構成されていた。

 言ってしまえば……この瞬間、ファルシリアは自己を構成するその大半を失ったのである。


「父さん……父さん……?」


 まるで、ショックで泣けないファルシリアの代わりとでも言わんばかりに、降り注ぐ雨がその強さを増す。少しずつ……けれど、次第に強く。凄惨な現場を洗い流すように。


「ファル……シリ……ア……」

「父さん!」


 ひゅーひゅーと空気が抜けるような音と共に、父が言葉を発する。ファルシリアが急いで駆け寄ると、生気あふれる普段の父からは想像できないような弱々しい仕草で顔を上げ、彼は自分の娘の頬をゆっくりと撫でた。


「……逃げな……さい……。ここにいては……いけない……」


 ファルシリアは頬に触れた手を両手で包み込んで、必死に父に向けて呼びかけた。


「や、やだ……やだよ、お父さん……」


 触れて揺する訳にはいかない、けれど、適切な応急処置をすることもできない。涙目になって、必死に父を呼ぶファルシリアの前で、父は淡い笑みを浮かべた。


「……因果応報……と、いうことか……。ファル……シリア……お父さんのことは良いから……早く……逃げなさい……」

「で、でも……でも、お父さんが……」


 医学の知識がないファルシリアでも、この状況の父がいかに危険であるか察することができる。少なくとも、父を置いて自分だけ逃げるなどということは、ファルシリアにはできなかった。

 次第にぐずり始めたファルシリアを見て、父はまるで痛みなど感じていないかのような、穏やかな笑みを浮かべた。


「泣かないで……くれ。ほら……これがあれば……父さんは……いつでもそばに……いるからな……」


 そう言ってファルシリアが渡されたのは、父が普段つけていたチョーカーだった。

 『魔創のチョーカー』と呼ばれる極めて希少な装備品なのだが、もちろん、その時のファルシリアはそんなことは全く知らない。


「お母さんの……顔に、良く似てきた……な……。叶うなら……もう少しだけ……一緒……に……。ファル……シリ……」


 そうして、父がファルシリアの名前を最後まで呼ぶことはできなかった。

 力の抜けた手、地面に伏せられたまま動かない頭、全身から流れ続ける真紅の血、投げ出されるように伸びた足……そして、真っ黒な空から降り注ぐ重い雨。


「あ……あぁ……ああぁぁぁぁ…………」


 生者から死者へとなってしまった父の姿を目の前にして、ようやくファルシリアの中で認識が追いついた。

 欠損――そう言うに相応しいほどに、心をゴッソリと持って行かれた感覚。そら恐ろしいほどの寒気が全身を覆いつくし、絶望が土足でファルシリアの心の中に入ってくる。

 小さな呻きはやがて叫びへと姿を変え、そして絶叫へと変わる。


「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」


 何を恨めばいいのか、誰を恨めばいいのか、どこに逃げればいいのか、何から逃げればいいのか……何も分からず、何もできず、幼いファルシリアは天に向かってひたすら泣き声を上げ続けたのであった……。



―――――――――――――――



 目を覚ました時、まず真っ先に目に入ってきたのは見慣れた天井だった。

 体全体が鈍く重く、起き上がることだけでも億劫に感じたファルシリアだったが、ゆっくりと体を起こした。まるで、頭の中に鉛が入っているかのように、考えが纏まらない。

 家の外は大雨が降っているようで、ガタガタと大粒の雨滴が窓を絶え間なく揺らしている。焦点が曖昧な頭に、雨滴がガラスを叩く音だけが入ってくる。


 誰かに運び込まれ、自分の家のベッドに寝かされていたと気付いた時だった。


「起きたか」

「……ひっ!?」


 雨滴の音に混じって、聞き覚えのない声が聞こえて、ビクッとファルシリアは身を震わせた。

 体に掛けられていたタオルケットを慌てて引き寄せたファルシリアは、声の方へと視線を向けて恐怖に体を凍りつかせた。


 そこにいたのは、異様な風体をした人物だった。


 身長が低めの人物……それぐらいしか分からない。

 ジャケットの上からスッポリと頭を覆うような厚手のコートを纏っており、顔が見えないのだ。恐る恐る、ファルシリアが顔を傾けて、相手の顔を覗き込んでみると目には包帯が、口元にはマフラーが巻きつけてあって、鼻の形しか確認できない。

 下半身は厚手のスラックスを履いており、その上にアサルトブーツを履いている。


 ――だ、誰なの……!?


 体型も、胸のふくらみがない所から男性にも見えるが、肩は撫で肩なため女性にも見える。更にいえば、先ほど聞こえた声はハスキーであり男性とも女性ともとることができた。

 とどのつまり……全く何も分からないのだ。

 執拗ともいえるレベルで自身の存在を隠蔽しているその姿は、ファルシリアの中にある不安を簡単に煽った。少なくとも、父と以外、他人と交流を持ったことのないファルシリアには、なにがなんだかわからない。この時点で、ファルシリアは軽いパニック状態であった。


「落ち着け。お前を害するつもりはない」

「ひっ……ひっふ……は……ぁ……」

「大きく深呼吸をしろ。そして、考えろ。お前を害するつもりなら、既にやっている」

「すぅ……はぁ……すぅ……はぁ……」


 指示された通りに深呼吸をすると、少しだけ頭に昇っていた血が下がってくる。浅く、早い呼吸を繰り返すファルシリアを見ながら、ある程度は落ち着いたと判断したのだろう……不気味なその人物は静かに頷いた。


「よし……まずは聞け。私の名前はスウィリス。お前の父親の戦友だ」

「お父さんの、友達……」

「そうだ。お前の父に頼みがあると言われて、こうして家まで足を運んだ……もっとも、私が来た時にはもう何もかも終わっていたようだがな」

「お父……さん……」




 墓標のように立つナイフ/血まみれの体/鮮血で作られた道/『逃げなさい』/お父さんから預かったチョーカー/暗転する視界/『泣かないでくれ』




 『お父さん』というワードが口を突いて出た瞬間、怒涛のように気を失う前の光景がフラッシュバックする。ファルシリアの中にあった恐怖が一瞬にして霧散し、彼女はタオルケットを跳ね除けて、スウィリスにしがみ付いた。


「おっ! お父さん! お父さんが、お父さんが――」

「殺されていた。すでに埋葬済みだ」

「……………………」


 あっさりと……まるで、日常会話をするかのような口調で告げられた事実に、ファルシリアは頭の中が真っ白になった。泣くことすらできずに、ファルシリアは悲壮な表情を顔に張り付けたままに、ぺたんとその場で尻餅をついた。


 ――あぁ、そうか……お父さんは死んだ……。


 もともと、ファルシリアは賢い子どもだ。

 頭の中に次々と浮かんできた光景が、嫌でも父の死を明確に浮き彫りにする。

 足元からガラガラと世界が壊れ、深く、暗い絶望の中を、無音で落ちてゆくような感覚。明日の糧を得る方法などとても思いつかず、ただただ、幸せだったころの父の笑顔だけが心に浮かび上がってくる。

 再びジワリと目頭が熱くなってくる。

 ひっく、ひっくとしゃくり上げ、もう一度大声で泣き出そうとしたその時……スウィリスが静かに腰を落としてファルシリアと視線を合わせてきた。


「どうしたい」

「え」


 機先を制され、涙が引っ込む。

 呆然とファルシリアが目を見開くと、スウィリスは畳み掛けるように言葉を繋げてくる。


「どうしたいか聞いている。父親を殺されて……お前はどうしたい?」


 その言葉に凍り付いた。

 今までは、いつだって父親が傍にいて、指針をくれた。

 どんなに辛いことがあっても父親が励ましてくれた。

 悲しい事があっても、優しく背中を叩いてくれた。

 だからこそ、父親を失ったファルシリアは、己の中にある不明瞭な感情を――どす黒く、濁ったソレを、表情に出すことができずに戸惑った。

 少なくとも……今の今まで生きてきて、そんな感情に駆られた事なんてなかったのだから。

 そして、ソレは一度認識すると、まるで清水の中に垂らされた一滴の毒のように、瞬く間にファルシリアの中に広がっていった。もどかしく、狂おしいまでの衝動と共に。


「憎いか?」


 憎い。


「父親を殺した相手が憎いか?」


 憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。


 まるで、じっくりと言葉を浸透させるようにスウィリスは言葉を紡ぎ……そして、止めを刺すように、最後の一言を形にする。


「殺してやりたいほどに……憎いだろう?」

「…………うん……憎い」


 言葉にした瞬間、ソレがファルシリアの中でほの暗いものとなって結実する。


「お父さんを殺した相手を……殺してやりたい…………」


 ソレの名は『憎悪』。

 他者を呪い、嫌い、忌む、淀んだ感情。

 ただ、その感情を自覚したファルシリアはむしろ、憎悪を心地よく感じていた。父親が亡くなったことでぽっかりと空いてしまった感情の欠落が、満たされていく気分だったからだ。

 スウィリスは何も言わずに立ち上がると、部屋の奥へと入っていき……そして、鞘に収まった一振りの剣を持ってきた。そして、それを小さなファルシリアに向かって無造作に放り投げる。

 剣を受け取って……そして、予想外の重さにひっくり返るファルシリアへ、スウィリスは顔を向ける。


「それはお前の父親が使っていた、得物だ。今日からそれを使って、お前に殺し方を仕込んでやろう」

「……うん、教えて。お父さんの殺した相手を……殺す方法を」


 一切躊躇うことなく、ファルシリアはスウィリスに向かってそう言葉にする。そこにいたのは、純粋無垢で無知な少女ではなく……鮮血にも似た色をした瞳に、仄暗い闇を宿した一人の復讐者だった。

 窓を強く叩く雨の音以外、全ての物音が消えた家の中……ファルシリアの復讐は静寂と共に始まったのであった……。


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