堕天使の迷宮
右も左もわからず、ともすれば上下すら見失ってしまいそうな深い闇の中を、マリーは歩いていた。しばらく進むと、少し先に黄色い光がぽつりと灯った。光に駆け寄ると、それは灰色のローブをまとう老人が手にするランプの灯りだった。
「やっと来たか」
老人は言った。
「こんにちは、おじいさん」
マリーがお辞儀をすると、老人は小首を傾げて見せた。
「ついてこい」
老人の後をついていくと、マリーはいつの間にか赤い絨毯が敷かれた廊下に立っていた。窓がひとつも無いことを除けば、どこかのお屋敷のようにも見える。想像していた迷宮の姿とはかけ離れていて、マリーは拍子抜けした。
「このまま真っ直ぐ進むといい」
老人は言うと、近くにあった青い扉を開け、それからふと思い出したかのように振り返り、言った。
「ここで、わしと会ったことは誰にも言うなよ。わかったな?」
マリーが頷くと、老人は扉の向こうに消えた。マリーはすぐに追いかけ扉を開けようとするが、鍵でも掛かっているのかびくともしなかった。仕方なく老人に示された方へ進むと、向こうから見知った顔が現れた。
「遅かったな。外で何かあったのか?」
ハリーだった。
マリーは「ちょっとね」と人差し指と親指にすき間を作り、他のみんなの所在について尋ねた。
「わからないよ。俺が来たときは、誰もいなかったんだ」
「探した方がいいわね」
しかし、マリーが歩き出しても、ハリーは動こうとしなかった。訝しく思いながら振り返ると、彼は言った。
「なあ、マリー。もう、やめないか?」
マリーは首を傾げた。
「鏡のマリーだよ。あいつを捕まえてどうするんだ?」
「家へ帰るの。影がないと、きっとママはびっくりするもの」
すると、ハリーはため息をついて首を振った。
「家に帰ってどうするんだ。ママに会いたいのか?」
「そうよ。当たり前じゃない」
「仕事、仕事って、いつもお前をひとりぼっちにするママに?」
マリーは答えを返せなかった。
「俺は、今が一番じゃないかって思ってるんだ。だってさ、今のお前には俺もジローもいて、ひとりぼっちじゃないじゃない。辛い思いをして家に帰ったって、なんにもいい事ないだろ?」
ハリーの言う事はもっともだ。家にいたときのマリーは、いつもひとりぼっちだった。遊び相手はウサギのハロルド一匹と、本の中のお話だけ。しかし、今は冒険があり、仲間がいる。辛いことも怖いこともあったが、少なくとも寂しくは無かった。
「もうみんなやめにしようぜ。そうして、俺たちといつまでも幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたしで、このお話を終わらせるんだ」
ハリーが右手を差し出した。マリーは彼に歩み寄った。そして、渾身の蹴りを放つ。
「何するんだよ。危ないな!」
マリーの蹴りを飛び退いてかわし、ハリーは抗議した。マリーはふと笑みを浮かべ、彼に指を突きつけた。
「あなた、ハリーじゃないわ」
「何を言ってるんだ?」
ハリーはぎょっとして言った。
「だってハリーは、いっぺんだって私のキックやパンチを、よけたことないもの」
ハリーは目を丸くして、それからマリーの声で笑い出した。
「確かにそうね。うっかりしてたわ」
「次からは気を付けたほうがいいわ」
「ええ、そうする」
ハリーの偽物は手鏡を取り出すと、それを覗き込みマリーの姿に戻った。
「ここを抜け出すのに、協力するつもりはある?」
マリーはだめもとで聞いてみた。鏡のマリーは首を振った。
「そう。あなたには、あてがあるのね」
鏡のマリーは頷き、マリーの脇を通り過ぎて立ち去った。今なら、追いかけて取り押さえることもできるかも知れない。しかし、マリーはそうしなかった。彼女は、このゲームのルールを理解し始めていた。鏡のマリーとの鬼ごっこの決着は、そんなことではつけられないのだ。
マリーは両手で自分の頬をぺちんと叩き、迷宮の廊下を歩きだした。他に手掛かりは無いのだから、老人が言った方向へひたすら歩いてみるつもりだった。もっとも、その試みはすぐに頓挫した。角を曲がると右手の壁にはずらりと扉が並び、左手には枝道もある。迂闊に歩き回れば、すぐ迷子になってしまいそうだ。
マリーは名案を思い付いた。エプロンのポケットを探れば、ルクスのクッキーが二枚出てきた。一枚をポケットへ戻すと、残った一枚から小さな欠片を折り取り、砕いて足下にぱらぱらと落とした。ほんのわずかな量だが、それでじゅうぶんだった。白いクッキーの粉は、真紅の絨毯によく映えたからだ。調べ終えた部屋の前や分かれ道に、こうやって目印を付けて行けば、そうそう迷うことは無いだろう。そうやってくまなく辺りを探索し、彼女は降りの階段を発見した。今のフロアには誰もいなかったから、ハリーたちがいるとすればこの先だ。
しかし、探索はすぐに行き詰まった。この階には、先ほど降りて来たものを除いて、他に階段らしきものが見当たらなかったのだ。もちろん天使たちの姿も無い。仕方なく彼女は、一度覗いた部屋を一つずつ調べ直すことにした。最初に入ったのは、彼女が勝手に「武器庫」と名付けた広い部屋だった。壁紙も絨毯もなく、壁や天井や床は石のブロックがむき出しになっていて、辺りには凶悪そうな武器がずらりと並んでいる。圧巻なのは、マリーの背丈の倍近くもある巨大な戦斧だ。それは壁の高い場所で水平に掛けられており、子供のマリーでは手を伸ばしても指先すら届かなかった。三日月形に磨き上げられた刃は、あちこちの壁面に掲げられた燭台の灯りを受けて、禍々しく輝いている。
武器庫を念入りに調べ上げたマリーは、そこには何もないと結論付けて次の部屋の調査に取り掛かった。武器庫の他には「図書室」と「書斎」があり、マリーが選んだのは書斎だった。机がひとつあるだけのその部屋は狭く、怪しげな物も場所も何一つ無かったが、それは彼女が予想した通りの結果だった。なぜなら、最後に残った図書室こそ、マリーの本命だったからだ。
図書室に入って目を引くのは、三方の壁面に設えられた大きな書架。部屋の中央には、本を読むための大きなテーブルと六脚の椅子がある。よくあるお話のように、本を動かすと仕掛けが作動して隠し扉が現れるのを、マリーは期待していた。ところが、手の届く範囲の本を書架から全て引っ張り出しても、それらしい仕掛けは見当たらない。残るは書架の一番上の段だが、背伸びをしてようやく棚板に指先が掛かるくらいの高さなので、中を調べるなど到底無理な話だ。床の上に積み上げた本の山に座り、マリーは考えた。大人に変身すれば楽に届きそうだが、生憎とこの部屋に鏡になりそうなものは一つも無かった。もちろん、積み上げた本を踏み台にすることも考えたが、重たい本を抱えたまま、ぐらぐら揺れる足場を降りるのは名案ではないと、すぐに思い知らされた。
頭にできた大きなたんこぶをさすりながら、マリーは「そうだわ」と呟き、本の山から床の上にぴょんと飛び降りた。迷宮の入口で、短剣の刃を鏡代わりに変身したことを思い出したのだ。武器庫へ向かい、様々な形の武器を一つずつ吟味する――が、いくら探せど鏡代わりになりそうなものは一つも無い。中には薄っすらと錆が浮かんだものまであり、手入れもされず長らく放置されていたことがわかる。がっかりして武器庫を後にしようと扉へ向かったとき、彼女ははっと息を飲んで振り向いた。見上げれば例の戦斧がぎらぎらと刃を光らせている。もちろん背は届かないから、それに顔を映すには工夫が必要だった。彼女は武器庫と図書室を何度も往復し、戦斧の下に本を積み上げた。突貫工事で完成した足場は不吉にぐらついていたが、大人に変身する間くらいはもってくれるだろう。
用心しながら本の山に這い上り、懐中時計を取り出すと、果たせるかな大人のマリーの顔が、三日月形の刃に映し出された。ぱちんと蓋を開け、くるくる渦巻く光に包まれて、マリーは大人の姿に変身する。しかし、しめしめとほくそ笑むのも束の間、彼女は計算違いに気付いた。子供の小さな足ならともかく、変身した彼女には足場が狭すぎたのだ。マリーはバランスを崩して石の床へと落下し、お尻を強かにぶつけるハメになった。
「ひどいわ」
崩れた本の山に抗議し、マリーは立ち上がった。お尻をさすりながら目を上げ、ふとあることに気付く。戦斧を支える掛け金の付け根に、スリット状の穴が空いていたのだ。ひょっとしてと重たい戦斧を壁から外せば、掛け金は音を立てて跳ね上がり、背後から石臼のような音が響いてくる。振り向けば床の一部がぽかりと消え、そこには降りの階段が現れていた。マリーは大きなため息をつき、戦斧をぽいと投げ捨てた。戦斧は床に落ちて、けたたましい音を立てた。誰かにからかわれてるような気分を味わいながら、彼女は階段を降りた。
次のフロアはひどく単純な構造をしていた。廊下が一本、曲がり角すら無く、ひたすら真っ直ぐに伸びるだけだったのだ。廊下を歩き続けるうちにマリーは子供の姿に戻り、右手の壁に銀色の扉を一枚見つけた。しかし、扉は鍵が掛かっているようで、押しても引いてもびくともしなかった。開かない扉なら壁と同じよねと、マリーはクッキーの粉を落とさず、そのまま通り過ぎた。しかし、行けども行けども廊下に果ては無く、マリーは次第に不安になってきた。三枚目の銀色の扉を見付けたところで、彼女は自分の考えを疑いながらも、その前にクッキーの粉を落としてから、再び歩を進めた。そして、四枚目の扉を見付けたとき、彼女は盛大なため息を落とした。そこにはクッキーの粉が落ちていた。つまり、この廊下は果てが無いのではなく、堂々めぐりを繰り返すようになっているのだ。それは降りてきた階段も消えてしまったと言うことだから、もはや上へ戻って別な道を探すことも出来ない。何か見落としがあるかも知れないと、マリーは再び歩き出した。そうして、何も発見できないまま銀色の扉の前にたどり着いたとき、彼女は目を疑った。そこには半分になったクッキーが、ぽつんとひとつ置かれていたのだ。クッキーをエプロンのポケットに入れて、マリーがノブに手を掛けると、扉は素直に開いた。中に入ると奥には金色の扉があり、その隙間に滑り込む金色のお下げ髪と、緑色のスカートの端が見えた。慌ててノブに飛び付きがちゃがちゃ捻るが、扉が開くことは無かった。部屋の隅に目をやると床に四角い穴があり、そこから下へはしごが伸びていた。子供にはやや広い段を一つずつ慎重に降り、マリーは新たなフロアの探索を始めた。
最初のうちは順調だった。降りの階段はすぐ見付かったし、おかしな仕掛けも無かったからだ。しかし、ここはやたらと広かった。道は複雑に入り組み、部屋の数は両手の指に余るほど。ルクスにもらったクッキーはみるみる小さくなり、フロア全てを調べ終わる頃には、銀色の扉の前で拾った半分も使い切ってしまっていた。それなのに天使たちは見付からず、迷宮はまだまだ続いている。降りの階段を前にして、マリーはため息をおとした。ともかく、みんなを探さなくては。マリーは不安を抑えながら階段を降りた。
階下へ着くと辺りの様相が一変した。そのフロアは武器庫のように石の壁がむき出しになっていて、壁に掛かるのは蝋燭ではなく松明だった。そのいがらっぽい匂いが、いかにも迷宮と言った雰囲気を漂わせている。思わず怖じ気付きそうになるが、マリーは再び自分の頬を両手でぴしゃりと叩き、決然と足を進めた。ありがたいことに、そこは一本道で、堂々めぐりの仕掛けもなさそうだった。何度か角を曲がったところで、行く手は鉄の扉に遮られた。扉の前には知った顔があった。
「やあ、マリーちゃん」
と、彼は笑顔で言った。
「こんにちは、ルクスさん」
マリーはお辞儀をしてから、こんなところで何をしているのかと問うた。
「君を待ってたんだ。ちょっとアドバイスをあげようと思ってね」
そう言って彼は、肩越しに親指で背後の鉄の扉を指し示した。
「出たいと望めば、この扉は出口になる。望まなければ、迷宮はまだ続く。君はどっちを選ぶ?」
マリーは何も考えず扉に手を掛けた。そして、ふと振り返りルクスを見上げる。
「どうかした?」
「あのクッキー、もう一つもらっていいかしら?」
「構わないけど、一つでいいの?」
マリーは考え、「やっぱり七つ」と言い直した。ルクスはくすっと笑って、空中からお皿を取り出し、マリーに差し出した。もちろん、お皿の上にはクッキーが七枚乗っている。
「ありがとう、ルクスさん」
「どういたしまして。でも、どうして七つなんだい?」
「みんなで一つずつ食べて、残りは目印に使うの」
マリーは答え、お皿を傾けてクッキーをポケットに流し込んだ。ルクスは目を丸くして、それから笑い出した。
「君は賢いね。でも、ここで僕に会ったことは、みんなには言わないで欲しいな」
「わかった、内緒にするわ」
マリーは空っぽのお皿をルクスに返して、重たい鉄の扉を押し開いた。
扉の向こうは迷宮の外ではなかった。そこは蜂の巣のような六角形の部屋で、それぞれの壁にマリーがくぐった物とそっくり同じ、鉄の扉が取り付けられている。そして扉の前には、彼女より先に迷宮へ入った天使たちが立っていた。
「マリー、無事だったんだな!」
ハリーはマリーに飛び付き、彼女を抱きしめた。ラグエルも歩み寄ってきて、頭をくしゃくしゃと撫でてくる。ラファエルとミカエルは肩を並べ、そんな彼らを笑顔で見つめていた。そして、青い顔で自分の肩を抱くローズもいる。マリーはハリーを押し退けると、ローズに歩み寄って聞いた。
「大丈夫?」
ローズは気弱な笑みを浮かべ、首を振った。それから彼女は膝を突き、マリーに抱き付いてわっと泣き出した。
「資料室から戻る途中、影に会ったんです」
ひとしきり泣いて、落ち着いたローズに何があったのかと問うと、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。手の中にはマリーにもらったクッキーが一枚乗っている。
「影は手鏡を取り出して、私そっくりに変身すると、今度は私にその手鏡を向けてきました。鏡から目がくらむような光があふれて、それが収まると私はあの子の姿になっていたんです。私の姿をした影は私を縄でぐるぐる巻きにすると、カマエル様のところへ連れて行きました。私は彼に、自分こそ本物のローズだと訴えましたが、彼は全く信用してくれませんでした。だって、私の姿をした影が、私の言葉を嘘だと決め付けたんですもの。そして私は、カマエル様の手で迷宮に投げ込まれました」
話しを聞きながら、マリーは頷いた。本当のことしか言えない天使が嘘だと言うのだから、それは嘘なのだ。カマエルが信用しないのも当然だろう。
「暗闇を抜けると私は元の姿に戻っていて、どう言うわけか役所のロビーに立っていました。私は急いで空中庭園へ向かいましたが、そこには誰もいませんでした。カマエル様も、偽物もです。それでオフィスへ向かいましたが、そこも空っぽでした。わたしは窓口係に彼の行き先を尋ねましたが、おかしなことに彼女は、ロビーの案内係に聞けと言うんです。私は彼女に言ってやりました。ふざけてないで、さっさとカマエル様の居場所を教えなさい、と。でも、窓口係はそれっきり何もしゃべらなくなって、まるで私は幽霊か何かになってしまったような気分になりました。仕方なく、私はロビーの案内係に同じ質問をしましたが、彼女は別の窓口を案内しただけでした。そうやって、いくつもの窓口をたらい回しにされ、私はようやく、ここが迷宮だと言う事に気付いたんです」
ローズはふっとため息を落とし、クッキーを一口かじって目を丸くした。
「まあ、美味しい」
「でも、恐ろしいクッキーだよ。これを食べたせいで、ミカエルはマリーちゃんの言いなりなんだ」
ラファエルがにっこり笑って言った。
「困ったぞ。私のクッキーの借りが、また二個に戻ってしまった」
そう言うミカエルは、ちっとも困っているように見えなかった。
「最初に意地汚く三個も食べるからだ」
ラグエルが指摘した。
「そうは言うが、ラグエル。このクッキーは本当に美味いんだ」
「わかってるよ。俺もさっき食べたんだから」
「結局さ」ハリーが話に割り込んだ。「ここにいる天使はみんな、マリーにクッキーの借りが出来たって事だよな。どうする、マリー。みんなの力を借りれば、人間界くらいは簡単に征服できるぞ?」
「そうね。この、おかしな迷宮を出られたら、どうするか考えて見るわ」
マリーが言うと、ハリーは自分で提案しておきながら、ぎょっと目を見開き「冗談だよな?」と聞いてきた。マリーはくすくすと笑った。
「それにしても」ラグエルが言って、ローズをじろりと見た。「あんた、どうして出口の扉を選ばなかった。カマエルに会いたかったんだろ?」
ローズは肩をすくめた。
「なんだか、腹が立ったんです。扉に二つの可能性が重なって見えたとき、『降参するか?』と聞かれているように思えたので」
他の天使たちが、その言葉に頷くのを見て、マリーは自分の前にルクスが現れた理由に思い当たった。天使たちのように扉の本質を見抜くことが出来ない彼女のために、彼は代わりに言葉で選択肢を与えてくれたのだ。
「それが正解だったのだ」ミカエルが言った。「この迷宮を脱出した唯一の天使は、すっかり正気を失っていた。きっと彼は迷宮に降参してしまったのだろう。恐らく、それが代償なのだ」
マリーはぞっとした。もし出口を選択していたら、自分もそうなっていたかも知れなかったのだ。もっとも、ここにいる天使たちを見付けられないまま、一人で逃げ出すなど考えられない事ではあるが。そしてマリーは、ある可能性に思い至った。ローズが語った迷宮は、マリーの迷宮とは全く様相が異なっていた。つまり、彼らはそれぞれ異なる迷宮を抜けて、ここへたどり着いたのではないか。
「恐らく、その通りだ」ミカエルが認めた。「私は怪物があふれる洞窟のような場所を通り抜けてきた。みなはどうだ?」
ラグエルとラファエルとハリーが語る迷宮は、いずれもマリーたちとは全く異なるものだった。
「でも、それならこの先、どこへ行けばいいの。だって他の扉は誰かの迷宮なんでしょ?」
「マリー、上を見てみろ」
と、ラグエルが言った。見上げると天井の真ん中に、ぽっかりと四角い穴が空いていた。
「俺たち天使は飛べるから、出入り口が扉だけとは限らないのさ。それで、誰に抱っこしてもらう?」
ハリーが笑いながら聞いた。
「ミカエル様にお願いするわ。彼だけクッキーの貸しが一個多いんだもの」
「仰せのままに」
ミカエルは優雅にお辞儀をしてみせると、マリーに右手を差し出した。マリーがその手を取ると、ミカエルは彼女をひょいと抱き上げた。彼は金属のような光沢を持つ赤い翼を広げ、ふわりと舞い上がり、たちまち天井の穴を通り抜けた。ミカエルは部屋の中をくるりと飛んでから床に降り、他の天使たちがやって来るのを待った。
「いつまでそうしてるつもりだ、ミカエル?」
ラグエルが床に降り立つなり、じろりと睨んで言った。
「クッキー一枚でこき使われてるのだから、ちょっとくらいの役得も構わないだろう?」
ミカエルは笑いながらマリーを床に降ろした。
全員が集まると、彼らは辺りの探索を始めた。と言っても、そこは狭い部屋で、探すべき場所は少なかった。ほどなくハリーが天井の仕掛けを見付け、それを操作するとはしごがするする下りてきた。はしごを昇った先の部屋で、マリーは見覚えのある金色の扉を発見した。扉にはかんぬき式の錠がしてあって、マリーはそれをぱちんと外してから、みなに言った。
「こっちを調べて来るわ」
「一人で大丈夫なのか?」
心配そうに聞くラグエルに、マリーは笑みを返して見せた。
「この先は私の迷宮なの。私に任せて」
それでラグエルは渋々頷き、マリーが行くのを認めた。マリーが金色の扉を抜けると、案の定、銀色の扉が見えた。金色の扉と同じようにかんぬき式の錠が掛かっていたので、彼女はそれを外し、エプロンのポケットから最後のクッキーを取り出して、半分に割った。扉を開け、半個のクッキーを床に置き、閉める。扉に耳を付けて待つと、足音が聞こえてきて、それは扉の前で止まった。マリーはそっと銀の扉を離れ、金の扉を開けた。銀の扉が開くのを見計らい、金の扉をくぐり抜けると素早くかんぬき錠を掛ける。もの問いたげな仲間たちに向かって、唇の前に人差し指を立てて見せる。扉ががちゃがちゃなって、しばらくするとそれは収まり、扉の向こうから人の気配が消えた。
「さあ、出口を見つけましょう?」
彼らは探索を再開し、ほどなく昇りの階段を見つけた。昇った先はひどく狭い部屋で、扉は無く、さらに上階へと昇る階段が一つあるだけだった。
「選択肢が無いって、時には幸せな事だと思わない?」
ラファエルの言葉に反対するものはいなかった。階段を昇ってすぐ、マリーは見覚えのある青い扉を見付けて複雑な気分になった。これは出口だろうか。それとも? 扉を開けたのはミカエルだった。マリーは最後に扉を抜け、大きなため息をついた。それは、彼女が暗闇を抜けて最初に訪れた場所だったのだ。散々苦労して、たどり着いた先がスタート地点とは、あまりにも馬鹿げた結末だった。
マリーがその事を説明すると、天使たちはああでもないこうでもないと議論を始めた。彼らの姿を見つめながら、マリーは気が付いた。ここはスタート地点と同じように見えるが、丸っきり同じと言うわけでない。今や、彼女はひとりぼっちではなかった。彼女は迷宮を退け、仲間たちと一緒にこの場にいる。だったら、ここから歩き始めた時と、まったく同じことを繰り返しても無意味だ。きっと、正しい方法が他にある。そしてマリーには、その方法に心当たりがあった。ここで会った時、あの老人はなんと言っていた?
「みんな、お願い。何があっても絶対に私から離れないで。これで、みんなのクッキー一個分の貸しをちゃらにするわ」
マリーが言うと、天使たちは神妙に頷いた。マリーは正面を見据え歩き出した。曲がり角に突き当たっても、彼女は歩をゆるめなかった。周囲の風景がぐるりと捻れ、迷宮の壁はマリーたちに道を開けた。階段を降れば天地はひっくり返り、彼女たちは逆さのまま迷宮を歩き続ける。そうしてマリーたちは、いつの間にか大理石の扉の前に立っていた。扉の前には見知った顔があった。
「お見事」
ルクスはぱちぱちと拍手した。彼の傍らには鏡のマリーがいて、マリーをじっとねめつけている。
「ルキフェル、邪魔をするつもりか?」
ミカエルは炎の剣を空中から取り出して言った。
「おいおい、ミカエル。そんな物騒なものはしまってくれ。もちろん邪魔なんてするつもりはないさ。迷宮を打ち負かした君たちには、この扉をくぐる権利がある。それを邪魔することは、迷宮の主である僕にだって許されることじゃない。それに僕らが本気で争ったりしたら、人間のマリーちゃんは無事じゃ済まないよ?」
「それもそうだな。思い出させてくれて助かった」
ミカエルはあっさりと剣を消し去った。ルキフェルは彼にお辞儀をしてから、マリーに目を向けた。
「まさか、僕のクッキーをあんな風に使うとは思わなかったよ。君が贈り物のルールでみんなを縛ってなかったら、きっと途中で一人か二人は迷子になってたんじゃないかな」
天使たちはぎょっとして顔を見合わせた。すると彼らは、マリーの「お願い」の意味に気付いてなかったと言うことか。
「あなたが気前よくクッキーを分けてくれたおかげよ。ありがとう、ルクスさん」
マリーが言うと、ルキフェルはくすくす笑って小首を傾げて見せた。
「どういたしまして。ところで、今は何時かな?」
マリーは懐中時計の蓋を開けて見せた。
「もう、そんな時間か」ルキフェルは眉間に皺を寄せた。「ちょっと急ぐから、僕たちはこれで失礼するよ」
すると鏡のマリーが、エプロンのポケットからピンクの口紅を取り出し、それで大理石の扉に「負けないわ」と書いてから、マリーに向かってあかんべえをした。マリーも同じくあかんべえをして、「私もよ」と言い返す。鏡のマリーはぷいっとそっぽを向いた。ルキフェルはそんな彼女たちを見て、少し苦笑を浮かべてから扉を開けた。鏡のマリーはその中に飛び込み、ルキフェルはみなに会釈をして彼女の後を追った。扉は重たい音を立てて勝手に閉じた。
「あのさ、ラグエル様」ふと、ハリーが言った。「マリーはクッキーの貸しを使って俺たちをここまで連れてきたけど、そのおかげで俺たちは迷宮を脱出できるんだから、彼女に新しい借りを作ったってことにならないかな?」
ラグエルは腕組みをして、しばらく考えてから真面目な顔でマリーに言った。
「世界征服をしたいなら付き合うぞ?」
「まあ、そんなことしないわ」
マリーは腰に手を当てて怒ったふりをしてから、少し考えて言った。
「でも、ひとつお願いがお願いがあるの」
「構わんが、なんだ?」
「練習よ」
マリーはラグエルに抱きついた。
「愛想や目つきが悪くっても、私はラグエル様が大好きよ。だから、誰かに嫌われて平気そうにしないでね。あなたを好きなみんなは、そう言うの平気じゃないもの。私やハリーや、ラファエル様、それと売店の店員さんに、ミカエル様。あなたを好きな人は、あなたが思ってるより、いっぱいいるんじゃないかしら。そんなにたくさんの人を悲しませるのは、きっとよくないことだと思うわ」
「わかった」
ラグエルはマリーの頭にぽんと手を置いた。
「僕にも借りを返させてほしいな」
ラファエルが片膝を突いて両手を広げるので、マリーは笑って彼を抱きしめた。
「ホットチョコレート、おいしかったわ。これからもラグエル様を助けてあげてね」
「言われるまでもないさ。だって、僕はラグエルのファンクラブ会員第一号なんだからね」
「会員証はあるの?」
ラファエルはくすっと笑っただけで、何も答えなかった。
マリーがラファエルから身体を離すと、ローズが彼女を抱きしめてきた。
「あの部屋で、あなたが『大丈夫?』って心配してくれた時、本当に嬉しかった。だから、私はあなたに二つの借りがあるの。あなたのお願いなら、どんなことでも聞くわ。それが、カマエル様を敵に回すことであっても」
「まあ、そんなことできるわけないじゃない」
マリーは、自分の間違いでローズを失ったと知ったカマエルが、泣いてそれを悔やんでいたことを思い出した。ローズも、子供のマリーにすがって泣くほど恐ろしい目に遭ったと言うのに、恋人に再会するために迷宮を打ち負かした。そんな二人を引き裂くような真似をできるはずがなかった。
「でも、カマエル様がラグエル様を、あまりいじめないように、それとなく言ってくれると嬉しいわ」
「ええ、やってみるわ」
ローズはくすっと笑って言った。しかしカマエルは、鏡のマリーが化けた偽物とは言え、ローズがそそのかしただけでミカエルにさえ立ち向かったのだから、案外、彼女はうまくやってくれるのではないだろうか。
それからマリーはミカエルに目を向けた。ミカエルが笑顔で頷くので、マリーは彼にも抱きついた。
「私、これからハリーを連れて行くけど、きっと届出書を書く暇はないと思うの。彼がルール違反にならないように、何かしてあげられないかしら?」
「任せたまえ。しかし私だけ、ずいぶん事務的だな?」
ミカエルは苦笑した。
「だって、一番偉い天使様なんだもの。でも、大好きなのは、みんなと一緒よ」
「その一言で、私はまた君に借りを作ってしまったわけだが、どうやってお返しすればよいかね?」
「ミカエル様は、私のこと好き?」
「もちろん」
「だったら貸し借りなしね」
ミカエルから離れ、マリーはハリーを見た。彼は自分の顔に指を向けるが、マリーが首を振るのを見て「そうだと思った」とため息をついた。
「そろそろ出発しましょう。ジロー坊ちゃまも探さなきゃ」
「そうだな。あのオンボロ兎、無事だったらいいけど」
マリーとハリーは並んで扉に歩み寄った。
「ねえ、ハリー。やっぱり、この扉って二つなの?」
ハリーは頷いた。
「一つは天界に、もう一つはどこかわからない場所に繋がってる。鏡のマリーがラクガキした時に、そうなったんだ」
「よかった。じゃあ、みんなはちゃんと天界へ帰れるのね」
「俺は当分、無理だけどな」
「そうね。大好きよ、ハリー」
「ちぇ、せいぜい頑張るさ」
ハリーは重たい扉をぐいと押し開き、マリーに右手を差し出した。マリーはその手を取り、振り返って天使たちに別れを告げた。マリーとハリーは頷き合って、扉の中へと飛び込んだ。新しい冒険の始まりだった。
鏡のマリー シリーズ第三幕。今回は、書き上げるのにずいぶん時間が掛かってしまいました。読み直すたびに登場人物たちの行動に一貫性が無いように思えて何度か書き直したのと、仕事と家事が忙しかったのが響きました。ロジックパズルについては、考えるのは難しかったのですが、解くのはどうでしょう。
(10/27)脱字修正
('17/1/10)修正




