ルクス・フェロ
扉を抜けると、目の前には黄金色に輝く雲海が広がっていた。足下に硬い石畳があることはわかっていたが、それでもマリーは、高いところから落っこちた時のような錯覚を抱いて、お腹の下の辺りがもやもやするのを感じていた。
マリーは、ぐるりと周囲を見渡した。彼女が立つ石畳の床は一〇ヤード四方ほどの広さで、不揃いに崩れた四辺は虚空に断たれている。床の中央あたりの、壁も何も無いところに、ぽつんと一枚きりで立つアーチ形の扉を除けば、他に目立ったものない。マリーは試しに扉を開けてくぐって見るが、当然のように裏側に出るだけで、どこにも通じていなかった。おかしな扉ねと仲間たちに話し掛けようとして、彼女は初めて自分がひとりぼっちであることに気付いた。
「ようこそ、天上の国へ」
声がした方を見れば、真っ白なスーツをぴっちり着込んだ、金髪の青年の姿があった。微笑みを浮かべる顔は息をのむほど美しく、瞳は夏空のような青だった。
「僕はルクス・フェロ。ルクスと呼んでくれるかな?」
マリーは、こんにちはルクスさんと言ってお辞儀し、自己紹介した。
「はい、こんにちは。ところで、小さな女の子が、こんなところに一人ぼっちでいる理由を、聞いても構わないかな?」
マリーは、母の口紅を持って逃げた自分の影を追う中で、仲間たちとはぐれてしまったことを告げた。
「何やら、大変なことに巻き込まれてるみたいだね。よければ詳しく話してくれないか。最初の最初っから?」
長くなるけどとマリーが念押しすると、ルクスはにこりと微笑んで見せた。
「もちろん構わないよ。でも、それなら座って話した方がよさそうだ」
ルクスが言って指差す先には、白いテーブルと二脚の椅子が、こつ然と現れていた。テーブルの上には白磁のティーポットと二客のカップ、そしてお皿に山盛りのクッキーが乗っている。
ルクスは椅子を引いてマリーを座らせると、自分も席に着き彼女のカップにお茶を注いだ。マリーがお茶の香りにうっとりしながら、ありがとうと言うと青年は小首を傾げ、笑みを返した。
「正直に言うと、僕はお茶よりもこっちの方が好きなんだ」
ルクスはクッキーを一つ取って、気取らない仕草でそれを口へ放り込んだ。マリーも彼にならい、クッキーを摘まむ。
「遠慮しないで、どんどん食べてくれていいよ。でも、お話は忘れないで欲しいな」
マリーは頷き、口の中のクッキーを飲み込んでから、これまでのことを話し始めた。
全ては彼女が、母の口紅をイタズラしたことに始まった。どう言うわけか、鏡の中のマリーはそれを嫌い、鏡から飛び出して姿を消してしまったのだ。鏡の姿を失ったマリーは溶け崩れた世界に飲みこまれ、狭く薄暗い石積みの部屋の中で目を覚ます。部屋にいた老人から、大人に変身することが出来る不思議な懐中時計を手渡されたマリーは、追い立てられるようにして、ラビーノ伯爵の館へとやって来る。そこで彼女は危うく魔物たちの夕食にされかけるが、天使のハリーや魔物の子供ジローの助けを借りて魔物たちを撃退し、屋敷を後にする。
次に彼女が訪れたのは、黒騎士レイブン男爵が治める小さな領地だった。マリーはそこで、身に覚えのないイタズラの犯人と言う濡れ衣を着せられる。イタズラの真犯人が、マリーになりすました鏡のマリーの仕業であることを見抜き、どうにか誤解を解くことはできたが、今度はレイブンが、友人である白騎士ペイル伯爵の屋敷から、高価なメダルを盗んだとして逮捕されてしまう。マリーはレイブンの従者ドロシーや仲間たちと協力し、それが鏡のマリーが仕組んだ陰謀であることを突き止め、黒騎士を危機から救い出す。二人の騎士はマリーと彼女の仲間たちに感謝し、彼らへの助力を誓った。そうして、仲間たちと共に冒険を再開するが――
「いつの間にか、その仲間とはぐれてしまったわけだね?」
マリーは頷き、ルクスに心当たりを尋ねた。
「ジロー君が魔物の子供だとしたら、ここにはいないだろうな。魔物は天界に入っては行けないルールなんだ。ハリー君は天使だから、どこかで会えるとは思うけど、詳しい居場所まではわからない。ところで、今は何時かな?」
マリーは懐中時計の蓋を開けて見せた。
「しまった、もうこんな時間か」
ルクスは慌ただしく立ち上がり、クッキーの皿を未練がましく見つめてから、ため息を落とした。
「楽しいお茶をありがとう、マリーちゃん」
マリーは椅子から飛び降りて、こちらこそとお辞儀を返す。ルクスは笑顔で頷き、扉をくぐって姿を消した。一人残されたマリーはクッキーを何枚かエプロンのポケットに入れてから、ルクスの後を追った。しかし、扉を開けても向こう側が見えるだけで、やはりどこにも通じていない。扉を閉め、首をひねりながら反対側に回ると、彼女はようやく合点が入った。扉は赤く塗られていて、それには見覚えがあった。マリーはノブに手を掛け、思い切って扉を押し開いた。