いんじゃたちのかいこう そのⅠ
半分は優しさでできた錠剤を飲むほどもないくらいの微熱が強いて男の目を覚ます。
薄汚れた布団にまだ夢心地で寝転がっている無精髭の冴えない者。彼の名は、松葉生夫<まつばいくお>という。39歳にして家庭などは持っておらず安アパートで独り暮らしをしている。小企業に勤めており、可もなく不可もない賃金をもとに生活している。中肉中背であり、ほどほどに身なりを整えていれば悪い印象は与えない。そんな男だ。
唐突ではあるが、彼の生き甲斐は風俗だった。風俗に通うために生きていた。他になんの趣味もない。
会社の上司に誘われて、なくなくついていった風俗にハマってしまったのだ。三大欲求をこれほどまでに満たすサービスがこの世にはあるのかと彼は当時震えるほどの感動を得た。
何を隠そう、彼は素人童貞なのだ。
はじめての風俗も童貞が故の感動だったのかもしれない。31歳での発体験は凄まじかったのだろう。想像に難くないはずだ。
(さて、顔を洗って……)
彼はオートマチックな朝の作業に向かう。月曜日だ。昨日から少し体調が悪い。しかし、そんな中の出勤は慣れたものだ。床に転がる飲み残しペットボトルたち、無作為に積まれた段ボールを器用に避けながら出勤に必要なものだけをとっていく。
準備を終え、自宅を後にする。財産も何もない簡素なつくりのアパートの一室ではあるが、鍵をかけることは忘れない。
(さて、行こう。)
空は晴れている。
空の調子と同じく、生男の心情は晴れ晴れとしていた。理由はごく単純。彼は恋をしていたのだ。
風俗で女遊びを覚える前も、彼にとって恋という一文字は、遠く崇高な存在であった。しかし、ここ数日で手に届くような場所にまで「恋」は降りてきた。
僥倖である。しかし、それは彼の大胆な行動に要るところでもある。一目惚れをした相手に話しかけるなど、夢のまた夢であったのに、成し遂げてしまった。さらにデートまで取り付けてしまった。
軽やかな足取りで電車に乗り込み、二駅先の会社へ向かう。変わらない日常は、恋によって多分に色づいていた……
(今日のおやつは大福にしよう……そんな気分だ。)
彼もおやつは食べる。
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一方、また恋に浮かれている者がいた。それは、間田 揺美<かんだ ゆれみ>という女であった。
(私が声をかけられてしかも、連絡先を好感した上にデートまで取り付けられるなんて……)
皆さんもうお分かりだろう。彼女がまさに、生男が声をかけ、デートを取り付けた張本人である女性だった。
彼女も生男と同じく恋とは縁の遠い存在だった。近くて遠かったとも言えるだろう。
なぜか。
何を隠そう。彼女は風俗嬢という職業に就いている。就いているのかはさておき、それで食いつないでいることは間違いない。
このような仕事をしているのは不本意であるという意識は彼女の中にもあった。恋も知らないまま、この仕事をしていることも自責の念を掻き立てる。現に、彼女はお付き合いなどというものをしたことはなく、
体の関係を持った人間も客のみだった。28歳とさほど若くはないものの、自らに金をかけてはいる。その姿は化粧と相まって美しく見えた。
彼女が住まう場所は、小綺麗に整頓されたマンションで、出勤の時間を待ちながら待つ姿は乙女と称するに値する麗しさを認められた。
そして、彼らの時は平等に流れた。
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デート当日。天候に恵まれ、出掛けるには吉日となった。
生男は緊張の中で待ちわびた日の到来を嬉々として受け入れた。アパートは片付いている。
(待ち合わせは10時にドィズニーランドのゲート前だ。忘れ物はないな……)
集合場所に急ぐ。
揺美もまたドィズニーランドに急いだ。
一足先についたのは揺美だった。
(本当に来るのかな……)
清楚な格好で固めた彼女はその鎧の下に不安で満たしていた。男性に裏切られたことさえもないのではあるが、不安なものは不安である。
「ご、ごめんなさい。待ちましたか?」
生男が3分遅れて待ち合わせ場所に登場した。時刻は9時49分。緊張もある。彼らの帰来の律儀さでもあってのことだろうが。
「あの時以来ですね……」
初心そうな笑みを浮かべながら揺美は話しかける。
自らの状況に混乱しているものの、その甘い瞬間を享受する気持ちは二人に共通して存在していた。
他愛ない会話から笑顔が生まれる。
デートは順調に進んだ。ドィズニーランドのマスコットキャラクターたちはとてもフレンドリーで、二人の肩を抱きながら写真をとらせてくれたりもした。こんなときは、こういうあつがらみキャラも悪くはないものだと二人は感じた。
遊園地であるため、様々なアトラクションが存在するが生男が最も心を、もとい股間を熱くしたのはコーヒーカップが回るアトラクションだった。回れば回るほど揺美との距離は遠心力で縮まる。
何より胸が当たる。揺美はGカップという胸を持っている。風俗においてもその凶器が猛威を振るっていたことは言うまでもないことだろう。彼はより彼女を好きになった。
揺美もまた、生男とこのような暖かい触れ合いができて良い心持となっていた。
生男は不器用な人間ではあるのだが、根は思いやりのある人間であったため、彼女はその優しさに触れ、完全に彼に恋をしてしまったようだ。
楽しい時間は早く過ぎる。
閉演時間になり、二人は人の少なくなった路地を歩いていた。
「これからどうしますか?」
生男は揺美にこれからの行き先を問う。
「帰りますか、それとも晩御飯はたべましたから……どこか他の……」
生男はこう言って、突然口をつぐんだ。
何かしらの下心が感じられるのではないかと咄嗟に思ったからだ。
しかし、彼女から予想だにしない答えが返ってきた。
「どこか行く予定ですか?……私はもうホテルに行くのだとばかり……」
生男はギョッとした。しかし、同時に熱い何かが昂ってきた。
「ホテルに行きましょう!!」
このとき、風俗が趣味である彼の脳裏には揺美の裸が充満していた。
さきほどまでは、手をつなぎもしていなかったのに、彼は彼女の手を引っ張り歩き出した!
揺美も喜ばしいことのように着いていく。先ほどまでの純朴さはどうしたのだろうか。
いや、純朴さゆえになのだろうか。
彼らはドィズニーランドのゲートを抜けようと急いだ。しかし、ゆっくり歩いていたこともあってどうやら遊園地の中には彼らのほかに人はいない様だ。止まった観覧車が遠方にみえた。
「もう人はいないみたいだね。さ、急いで!」
小走りで彼らは急ぐ。
ゲートが見えた!
ゲートからは最後に残ってしまった客が次々と出て行っている。
客が全員出るまでは職員がしっかり管理をしているはずだと二人とも疑わなかった。
しかし、それは違った。
ゲートから二人以外の客が完全に出て、彼らは本当に最後の客となった。
「迷惑になるからいそがないとね……」
軽く笑いながら駆けた。
しかしながら、彼らが笑うという行為などもうできない状態であった。
ゲートは完全に閉まっていたのだ。外に出られそうな場所はまったく見当たらない。
更迭であろうと思われるゲートはピクリとも動かない。
「え……どうして?出口は入り口とかわっちゃうの?というか職員さんとかは……?」
状況など理解できるはずもない。
狼狽していると、後ろから甲高い声が聞こえた。
この遊園地ならではのあの声が。
「ハハッ!君たちは閉じ込められたんだよ!おとなしくしてね!」
そしてその獣まがいの狂った生物は鋭利な齧歯をむき出した。
人間の二人は戦慄した。えも言われぬ恐怖に。
かくして素人童貞と風俗嬢の恋愛物語は終わりを告げた。
鮮血をもって……
そのとき!
血しぶきがあがるなか、ゲートのほうで轟音が響いた。
げっ歯類の生物は反射でその方向を見た。そこには瓦礫と化した正面ゲートの姿があった!
「遅かったかよぉ」
瓦礫から野太い声が響く。
さぁ、混沌の幕が上がった!!!!!
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じかいへつづく☆