第二章 夜明けの眠り姫【3】
「何……だと? この貧民が……」
「出来損ないで人前に出せないから俺が雇われてんだ。気付けよ、バカが」
フィルは少年から離れると、クローゼットを開けて衣装を物色し始める。
「で、お前の情報を早く言えよ。時間ねーんだからよ」
一瞬薄笑いを浮かべた少年を横目で見ると、フィルはため息を深くついた。
「嘘つくのは勝手だけど、お前の家に傷が付くぜ? 俺は一回報酬を逃すだけだけどな。銅貨3枚」
「……」
少年は苛々したようにソファーを蹴ると、コインをフィルに投げ付けた。
金色したコインはフィルの頭に当たり、床でくわんくわんと回る。
「俺はリュケシス。お前のような貧相な奴が一生かかっても稼げない金貨を1枚毎月の小遣いに貰っている。年は14。将来の結婚相手はパデュマ姫しかいないと思っている」
フィルは頷くと金貨を拾い、リュケシスに手渡しする。
「金は大事にしろ。いつか後悔する」
フィルは一番小さな服を選び、鏡の前で合わせる。
パーティ用ではあるが、嫌になるくらい固いボタンに重いベルト、首まで覆う襟が煩わしい。
「おい、着れるのか? それは俺でも着るのがややこしい……」
「……覚えてるよ」
フィルは呟く。
小さな頃、何でも自分でしたかった。メイドの手を借りずに服を着る事で、もう大人だって気分になった。
こんな風に役立てるなんて考えてもいなかったが。
「なぁ……」
着替えているフィルの後ろからリュケシスが声をかける。
「お前、名前は?」
「今はリュケシス」
素っ気なく答えるフィルにリュケシスは苦笑し、黙った。
着替え終えた頃に夫人が部屋に入って来た。
「いつまで待たせるの? 着替えもしなくては……あら」
夫人はフィルの姿に一瞬止まる。
服を着たフィルは貴族の子息として問題ないくらい立派で、とうてい先程までのボロ衣装を纏った少年には見えなかった。
「服がいいんだな。馬子にも衣装?」
嫌味に笑うリュケシスを夫人は軽く睨んだ。
「貴方もこの子に礼儀でも習うといいわ。この子には上流階級の中でもマナーを学んでいる人もいるのよ」
リュケシスは舌打ちをするとソファーに寝転がる。フィルは一礼すると夫人にひざまづき、手の甲に口付けをした。
「今夜はよろしくお願いいたします。母上」
フィルはリュケシスの両親と馬車に乗り、屋敷へと向かった。
「こんな貧民に代役を任せるなんて、落ちたものだ」
「あなた……、この子は何故か皆の中で一目置かれている子なのよ。よく見てください、どことなく高貴な感じも……」
フィルは会話に入らずに馬車から屋敷を見つめていた。
そびえ立つレンガの屋敷は太陽の光を目一杯浴びた木々で囲まれている。
遮られた光は自分達の住む場所には暗い影しか落とさない。
昔は気にならなかったが、住んでみるとやはり辛い。洗濯物は乾かないし、朝陽で目覚めることもない。
貧困層の地で暮らすと分かったが、ミイの家はまだ恵まれていた。サムエルの政策も隅々までは行き届いておらず、目を覆いたくなるくらいの生活をしている人達もいた。
そんな人達は政治にも王族にも興味はない。あるのは、明日、生きることのみだった。
もしも、自分があのまま城で暮らしていたら……何の助けにもなれなかった。
皆と力を合わせて酒場を作ったことも、兵士とこそっと仲良くなることもなく、銅貨一枚がどれだけ重いのかも知ることはなかった。
「どこでマナーを学んだの? 貴方の洗練された物腰は貴族を越えて王族にすら通用するものだと噂よ」
夫人はフィルに声をかける。めずらしく、自分なんかに雑談を振ってくる人だとフィルは思った。
上流と呼ばれる人達は仕事以外ではフィルを見下し、話しかけてはこない。
「私のマナーなど子供のお遊戯レベルですよ」
8歳で止まってるんだから。
またフィルは屋敷を見つめる。
この屋敷の主アバダンが一方的に独立しなければ、今のような状態になることはなかった。
3年後には自分が領主として治めたはずだ。
「……でも」
結局何も見ることが出来ない、理想だけを掲げる駄目な主になっていた。
「着いたな」
シュトゥーリ家主人が馬車から降りる。従者はリュケシスに任せているから、家族と御者だけだ。
屋敷の入口に立つ主人の後にフィルは降りた。
「母上、御手を」
フィルは手を差し出し、夫人をそっと降ろす。まだ背の低いフィルは少し不安定だったが、夫人は満足そうだった。