第二章 夜明けの眠り姫【1】
微かに鼻先をくすぐる甘い匂いが夏の訪れを告げる。
朝露の一本道をまとまりのない茶髪の少年が歩いていた。
服装はくすんだ緑のシャツにほつれた半ズボン。時折だらしなくあくびをしながら、頭をかく。
「おっさん、頼んだやつ持って来てくれた?」
少年は目の前にいる槍を持つ兵士に緩い声で尋ねる。兵士はぶっきらぼうに紙の束を少年に差し出した。
「へへ……いっつも悪いな。しっかし、おっさんは兵士のクセに物分かり良いよな。俺に対する償い? おっさんだけが見張りの時って少ないから困るぜ」
少年は顔を上げる。澄んだ蜂蜜色をした瞳。そのすぐ上の額には大きな傷痕が残っていた。
「償いなわけないだろう。そもそも、あれはお前が悪い。馬から飛び降りて怪我をするなんて自業自得だ。そのくらいで済んで有り難く思え!」
「あー……うっせぇ。んじゃ、またな」
少年がひらひらと手を振ると、兵士は呼び止めた。
「フィル、お前……本当にフィリップ王子ではないのだな? その……貧困層にしては字も読めるし……」
「あ?」
フィルと呼ばれた少年は不機嫌そうに振り返った。
「また、その話かよ。あん時も違うっつーただろ? 俺が王子なら、追いかけて来たミイを殺すとか言って。人違いもいいとこだぜ。人違いで俺の女を殺されるわけにもいかねーし」
フィルは兵士を一瞥すると、もらったばかりの紙を広げた。
「あぁ、この記事か。しっかし隣の国のサムエルって王様もしつこいな。4年も前に行方不明になったんなら、死んでんじゃねーの?」
フィルは行方不明の王子を探していると書かれた部分に目を通す。そして、そこだけを破り捨てた。
「こんなくだらねーのは必要ねーな。お、いい女」
にやけながら隣国の情報紙を見るフィル。兵士はため息をついた。
「むしろお前が王子じゃないほうが幸せだ」
「うるせー……。また頼みに来るからよ」
兵士が次に顔を上げた時にはもうフィルはいなかった。
「ミイ、酒持ってこいよ」
寂れた店のカウンターにもたれかかったフィルは内側で洗い物をしている少女に声をかけた。明るく抜けた金髪の少女はフィルの前にコップを出す。
「気が利くな。ミイが注いでくれんの?」
フィルの茶化したような声に、店のあちこちから歓声が上がる。
数人の男が朝っぱらから酒を浴びていた。
「お?」
フィルの目の前になみなみと注がれるのは井戸で汲んだばかりの水だった。
「おい、ミイ! ひでぇな……金なら払うって」
「アンタはまだ12歳。大人の真似事は早いわよ」
「そうそう、フィルちゃんはミルクだよな?」
絡むように肩に手を回して来た男性の鼻っ柱に肘打ちを喰らわせたフィルは、男性のジョッキを奪い取り、紫色のワインを飲み干した。
「こんな水みてーなワインで大人も何もねーだろ。ひっでぇな……今夜は仕事だってのに」
フィルはカウンターの中に入り込むと、中のベッドで横になった。
ミイは料理している女性にカウンターを頼み、フィルに駆け寄る。その姿にまた歓声が上がった。
「フィル……」
もう寝息を立てているフィルの顔を見つめる。
柔らかな唇や長いまつげ、目を閉じていると昔と……4年前と何も変わらない。
「王子……あたしなんかのために……」
深く目を閉じたミイは眉間にしわを寄せて唇を固く結んだ。