第四章 貴族と娘の立場【5】
「貧民がそんなにまるまると太っているわけがないだろう?」
男性はリュケシスのすぐ側に寄り、口元を歪める。
「昨日はガキに邪魔されたが、今日はいないようだからな」
「ガキって……フィルの……ことか?」
リュケシスはがくがく震える足に動くことが出来ずにいた。口元も恐怖で閉じることが出来ない。
「ああ。昨日はあのガキに返り討ちにあったからな。行方不明とか騒いでるから、天罰でも当たったんだろうよ」
まあ、神などいないが。と男性は笑うと、リュケシスの首元に手をかけた。
男性の赤毛が木々の間から見える曇り空にやけに浮いて見える。
「貴族の……特に男は殺したいほど嫌いなんだ」
リュケシスは声も上げることが出来ずに、体だけ後ろに下がる。
足がついてこなくてそのまま倒れるが、男性はその上からリュケシスを押さえ込んだ。
首に触れている手に力が入る。
「あ……あぁ……」
あまりの恐怖に目を見開いた瞬間、男性の髪が数本はらりと落ちてきた。
赤毛はさらに数本宙を舞い、男性は手を離し顔を上げた。
「そいつ、俺のツレなんだ。離してやってくれよ」
リュケシスは目だけで声の主を追う。
男性の後ろに木の剣を持った銀髪が見えた。
「レスト……今度はお前か! 貴族を恨んでるのはお前も一緒だろうが!!」
男性はレストに叫び、レストは男性を押しのけてリュケシスに手をのばし、笑いかける。
「こいつは特別なんだよ」
リュケシスを立たせてレストは男性の肩を叩いた。
「じゃあな」
男性は木を殴り、うなだれる。リュケシスは引かれるままレストについて行った。
しばらくは残る恐怖によたよたと歩いていたが、やがて少し落ち着く。
「お前は誰だ? 俺を知っているのか? あの者はなぜあんなに俺に……怒っているんだ?」
「俺はレスト、お前のことは知らん。ただ、あの場はああ言うのが最適だったからな」
リュケシスの質問にレストは振り返らずに答える。
「あいつは娘を貴族に奪われてから、人一倍貴族を恨んでるんだ。お前がどうこういうわけじゃない」
リュケシスはそれ以上は言葉を出せずにレストの後ろを追った。
「どこに行くつもりだ?」
レストは立ち止まり振り返る。
「俺は行くところがあるが……」
「酒場に行きたい」
リュケシスの言葉にレストは頷くと、すっと一本道を指差し、リュケシスはその道を見つめる。
「この道を行けばすぐだ。雨が降るから入って勝手に休んでいろ。店の者は相手できないと思うが、しばらく待ってたら俺が戻る」
酒場の者なのか? と聞こうとした時には、レストはもう走って逆の方向に行っていた。
甘いりんごの匂いがかすかにして、リュケシスは空腹に気付く。
「酒場なら、ケーキが売ってるのかも知れないな」
腹をさすりながらリュケシスは道を歩き、酒場の看板を見つけた。
「ここか……」
リュケシスは扉を開けて中に入る。
机の上には皿が置いたままだったが、誰もいなかった。
「今日は休みだよ、すまないね」
中から女性が声をかける。リュケシスが帰ろうとしないので、カウンターから顔を出した。
柔らかく波打つ肩までの髪が綺麗な女性が、リュケシスを見て目を丸くする。
「見たことのない子だね……」
「ひんみ……フィルくんの御母堂ですか?」
リュケシスは女性に声をかけて、女性はカウンターから出て歩み寄る。
「いいや、私は単なる手伝いだけど……フィルを知ってるのかい?」
「フィル!!」
突然大声が聞こえて、カウンターから少女が飛び出した。
足は傷だらけで、膝には布が巻かれているが、血がにじんでいる。
泣き腫らした目は青い瞳を半分隠し、金の髪には木屑が絡まっていた。
「……フィルくんの……」
リュケシスは言葉に詰まり、少女は落胆した表情を見せる。
「ミイ、足が痛いんだろう? フィルはまだいないよ、少しお休み」
女性はミイの肩を抱き、椅子に座らせる。
「昨日からフィルが行方不明でね、この子は夜中探し回ってたんだよ。怪我して動けなくなってたところを私が見つけて……」
「フィルが怖い思いをしてるかも知れないから……。どこかで怪我して動けなくなってるかも。まだ小さいから、あたしが守らなきゃ。だって帰ってこないなんておかしいわよ……」
ミイはうわごとのように呟き、ぽたぽたと涙を落とした。
「フィルが……いないよ……」
「…………」
リュケシスは唇を噛んでうつむく。
どうして分からなかったんだろう。考えれば、分かるはずなのに。
自分を責めた。
責めてもミイの心労を無くすことなんてできないが。
家族がいる。
それを分かっていて、外出許可を得られなかったからといって引き延ばした。
違う、馬を返す前にだって来れたはずだ。
一刻も早く伝えるべきだったのに……。
「あんたはフィルのなんだい? ホントに見たことない子だね……」
「……俺は……、私はシュトゥーリ家のリュケシス。貴族です」
リュケシスはうつむいたまま言葉を絞り出した。
「貴族……?」
ミイがゆっくりと顔を上げ、リュケシスを見つめる。責めるような目に感じて、リュケシスは拳を握りしめた。