第二章 夜明けの眠り姫【9】
パデュマの話では、屋敷に到着して、リュケシスを呼ぶと、大きな体格のフィルとは大違いの少年が出て来たらしい。
こんな夜中に物乞いは捨ててしまえと従者に伝え、パデュマはこの付近に馬車で連れて来られたということだ。
暗くてどうしようもなく、見つけた教会で一晩を過ごしたらしい。
「……あの方はどなたですの? 確かに瞳の色はリュケシス様に似ていらしたのですが……」
「彼は本物のリュケシス・シュトゥーリであります。私が偽物なのです」
苦笑して答え、フィルは聖書を開いた。
「私は……ってか、俺は貴族が貧民と蔑む身分の人間だ。多少マナーを知ってるから、昨夜のリュケシスの社交界デビューの身代わりを請け負っただけだ。だから言っただろ? ヒメサマ。もう会えないって」
何か言おうとしたパデュマを制してフィルは聖書を読んだ。
「せっかく珍しく祈りに来たんだから、ちょっくら待っててくれよ。後で屋敷近くまで送るからよ?」
「……」
フィルは聖書を置いてため息をついた。
「アンタも俺を汚いと思うなら、神父様の部屋で休ませてもらえよ。いいだろ? 神父様」
「いいえ」
パデュマはフィルの座った椅子の隣に腰掛けた。横から聖書を覗き込む。
「私は、貴方にお会いしたかったのです。リュケシス様という名前にお会いしたかったのではありませんわ」
フィルは少し驚いた目でパデュマを見たが、すぐに聖書に視線を戻して小さく読んだ。
「王……」
司祭の言葉にフィルは言わないで欲しいと視線を送り、パデュマにも聞こえるように聖書の一節を読む。
「読み込んでいらっしゃいますのね。いつも訪れる教会で聞くどの貴族の朗読よりも心地良く染みますわ」
「……嫌じゃないのか? 貧民なんかの隣で」
パデュマは困った顔をして、フィルの瞳を覗き込んだ。漆黒の瞳はやはり吸い込まれそうに深く、綺麗だった。
「貴方はどうしてそんなにも貧民を蔑んでいらっしゃるの? 貧民という言葉も私は嫌いですわ。貧民とは心が貧しい方を言うのです。お金がないから貧民というのはおかしいですわ。貴方のように心が豊なのに」
貧民を蔑んでいる……?
貧民として暮らす自分が差別している……まさか。
フィルはパデュマの言葉にひどくうろたえた。完全に否定などできない。
確かに、自分の中でも、王族や貴族と平民と貧民は壁で分けられていた。
まるで、同じ心を持つ人間ではないかのように。
「ここの教会は私知りませんでしたが、好きになりましたわ」
パデュマは微笑み、古い木の机をそっと撫でた。
「ステンドグラスから注ぐ光が暖かくて、すごく空気が澄んでいますもの。純粋な想いで満たされている感じがいたしますわ」
「当時8歳のフィリップ王子もそうおっしゃって下さいました。その言葉をお聞きした時、私はこの方に治めていただきたいと思ったものです」
ふと司祭が呟いた。フィルには視線を合わせずに、それでもフィルに向かって。
「フィリップ様、私は一度だけすれ違いにお会いしたことがございます。そう……お城に急がれていて、思わずぶつかってしまいましたのよ」
貴方と同じ蜂蜜色が美しい瞳をお持ちでしたわ。とパデュマはフィルに笑いかけた。
「どうでもいい。祈り終えたし屋敷まで送るから、二度とこんな所へは来るな」
フィルは聖書を閉じ、少し震える体に気付かれないように、わざと大きく伸びをした。
先に教会を出るフィルに続いて、パデュマも司祭に礼をしてから出る。
「また、こちらに訪れますわ」
「聞こえてないのか? 来るなっつーただろ」
フィルはパデュマを見もせずに告げると、屋敷に送る一番の方法を考えた。さすがに姫を歩かせるわけにもいかない。それに……貧民と姫の取り合わせじゃ目立ち過ぎる。
国境への道を見つめて、ぽんと手を叩く。
「おっさんに馬借りるか……。今日は仕事だったよな。一気に駆ければ何とか……」
呟いて振り返る。パデュマが少し離れたところで数人の男に囲まれて困った顔をしていた。
豪華な刺繍のされた服を着ているパデュマは誰の目から見てもお金持ちのお嬢様だ。そんな人間が貧困層の通りに居ては目を付けられても仕方がない。
誰の目から見ても……。少なくとも『本物の』リュケシスは物乞いだと追い返している。
「あいつ……本当に出来損ないだな」
フィルは苦笑を浮かべてパデュマのところへ駆け寄った。
「悪い、お前ら。そいつ俺の仕事相手だから離してやってくれよ」
身ぐるみ全て置いていけだの姉ちゃん付き合えだの言っている間にフィルは割り込んだ。酒場の仲間ではないが、顔見知りではある。
「おう、ガキ。まだ貴族相手に日銭を稼いでんのか?」
「将来はいい詐欺師になれるぜ」
笑いながらも男達はパデュマから離れなかった。
「詐欺師もいいかもな。とりあえず、こいつ連れて行くから」
またな。とパデュマを促して立ち去ろうとしたフィルの前に一人の男が立ちはだかった。後ろには後二人がいる。
「そいつ、姫様だろ?」