第八楽章 「未来はすでにはじまっている」
流麗がドイツへやってきてから、四日が経った。流麗のドイツ滞在は、十日間である。そのあいだに最低限の手続きを終え、学院の雰囲気に少しでも慣れることが目的だった。カイン=ロウェル以外の学生たちは積極的に流麗の面倒を見ようとしてくれたが、彼らには日本語が分からないし、さらに言えばカイン自身も流麗の世話を他人に任せようとは思ってもいなかった。
『よろしく、お願い、しまス?』
「そう。ちゃんと発音できているよ」
流麗は耳がいい。そのせいなのか、彼女の語学習得能力は非常に高いようだった。人見知りをしない明るい性格ということもあって、カインとともに立ち寄るスーパー、雑貨屋、パン屋、屋台――いろいろなところで物怖じせずに、ひとに話しかける。
『ドイツ語、ムツカシイネ』
カインは笑った。片言のドイツ語が可愛い。じゃがいもを塩でふかしながら、流麗のドイツ語練習の相手をする。
『でも、きみが家事いっさいできないなんて意外だな。できそうな雰囲気なのに』
『……家事? イガイ?』
「うん。家事ができないのは意外だなって。できそうなのに」
『よく、言われまスー』
流麗は明るかった。悩みや不安がゼロとはとても言えないだろうに、彼女はよく笑い、よくしゃべる。もともと暗さとは無縁の少女であるように、カインには見えた。
「さあ、ルリ。食べようか」
『Ya』
メインはポークソテー、付け合わせはいんげんと塩じゃがいも。長ネギのクリームスープも、ドイツでは一般的な家庭料理だ。カインがつくった料理を、流麗はいつも美味そうに、そして行儀よく食べる。昨日、「私も何かつくらなきゃ申し訳ないかなあ」と彼女が言ったので、キッチンをまかせてみた。最初から塩と砂糖を間違え、野菜の皮むきもほとんどおそるおそるといった調子だったので、早々に流麗の家事能力に見切りをつけたカイン=ロウェルである。幸いカインが家事をこなすことが苦ではない性格だし、流麗には料理をするよりもピアノを弾いているほうが似合っている。
「カインって、何でそんなに料理が上手なの?」
「僕? ひとりで暮らして、もう長いからね。いつのまにか慣れてしまったな」
ダルムシュタット音楽学院にやってきてからずっと暮らしているこの家は、学院から車で東に三十分ほど走った場所にある。学院のある中央区まで歩いていける距離には、暮らしやすい物件も多かったが、カインはとにかく早朝深夜を問わずに好きなだけヴァイオリンの練習ができる一軒家が欲しくて、学院から少し離れた東区のはずれに家を買ったのだ。部屋数が多かったので、そのうちの二部屋を防音室仕様にしてある。ベッドルームはもともとカインの使っていた一部屋だけだったが、流麗の訪れを機に彼女のための部屋をつくった。広い間取りにゆったりとした大きなベッドを入れ、シンプルだが可愛らしさのある家具を買い、カインは流麗を迎えた。
マリア=フォン=ルッツの顔を思いだす。学院ではきっと、嫌なことも苦しいこともあるだろう。だからせめて、家では快適に過ごせるようにしてやらなければならない。マリアの性格を知っていながら流麗の手をとった自分の、それは最低限の責務であるとカインは思っている。
『おいしいです』
『それはよかった』
食べ終えた皿の片づけは、流麗の役割になった。「ピアノを弾く以外、何にもしなくたってかまわない」、カインは甘やかしたかったが、これは流麗が聞き入れなかった。「お皿くらい洗えるよ」、と言って洗いはじめた一枚目をさっそく落として欠けさせた流麗だが、まあ、大怪我をするようなとんでもない洗いかたではないからだいじょうぶだろうと、カインもその申し出を承諾した。
夕食の片づけを終えると、ふたりは食堂を出て階段をのぼり、防音室へ向かう。夕食後は好きなだけ防音室で練習をする、それがふたりの日課である。好きなだけ練習をし、好きなときに防音室を行き来してたがいの音楽を聴く。こんなに満たされた日々があっただろうかと、カインは考えた。自分とヴァイオリンだけで完結していた世界に、新しいひかりが射しこんできたような気がしていた。夢に見ることさえしなかった未来が、すでにはじまっているのだ。
*
『ねえ、伴奏してもらいましょうよ。何か、伴奏を』
ドイツへやってきて一週間が経った。声楽もたしなむ明るい声が、教室のなかに響いた。マリア=フォン=ルッツの声である。「伴奏」という単語が分からずに、流麗はきょとんとしてピアノの蓋にもたれかかるマリアを見あげた。この金髪の美しい女性は、なぜか自分にたいして憎悪を抱いている――夾と恋人どうしなのはマリアのほうなのに、いったいなぜ? カイン=ロウェルが私につきっきりでいてくれるのが、気に入らないのだろうか? 燃えるようなマリアの眸が、流麗には怖い。
『おい、マリア……』
カインの言葉を遮るようにして、マリアはやや語気を強めた。
『何よ。何か文句ある? カイン、あなたが言ったのよ。その子に伴奏してもらいたいって』
『それはただの僕の希望だ。彼女にはまだそんな……』
『いいじゃない、あなたにとっても悪くない話よ。その子の伴奏の腕が、どの程度のものなのか見せてもらいたいわ。ねえ、とってもピアノのお上手な子なんだから、カインと彼女の演奏、みんなだって聴きたいわよねえ』
早口のドイツ語に、流麗はもうついていけない。ちらりとカインを見て、彼の頬にほんのわずか、冷ややかな緊張があることを知る。
(……何か深刻な話なんだろうか)
そう心配になった直後、カインがふとこちらに顔をめぐらせた。
「ルリ、きみ、伴奏をしてくれる? マリアが聴きたいと言っているんだけど」
「……伴奏?」
「そう。僕のヴァイオリンの伴奏を」
「はあ、なんだ、そんなこと。びっくりした……」
カインの眸が、ほっとしたように優しくなる。
「何を弾けばいいの?」
「サラサーテ、『プライェーラ』を弾いて」
と、ふいにマリアが日本語でしゃべったので、流麗は驚いた。『プライェーラ』、サラサーテのスペイン舞曲だが、伴奏譜などは持っていないし、弾いたこともない。嫌がらせだな、と流麗も察した。
「……弾いたことはある?」
カインに訊かれて、流麗は首を横にふった。アッハ、と声をあげて笑ったのは、もちろんマリアである。
『弾けないの?』
「え?」
「弾けないのかって訊いているのよ。お嬢さん」
「マリア、やめろ。急すぎる。いまは伴奏譜だってないじゃないか」
流麗の横で、ジュリア=インガルスがうんざりしたようにためいきを落とした。
『出た出た、性悪女の転校生いびり……』
傲然と腕を組んだマリアは、まっすぐに流麗を見おろしている。ジュリアとは犬猿の仲らしいが、いまのマリアは、彼女には見向きもしない。
「どうなの、返事もできないの」
「マリア」
「あなたは黙ってて、カイン。私は納得していない。こんな卑屈な東洋人に伴奏をさせるなんてこと」
なるほど、と流麗は思った。夾がどうこうというわけではなく、単純にこのマリア=フォン=ルッツは、流麗の存在そのものが気に入らないのだ。世界のカイン=ロウェルを独占し、彼にあれこれと世話を焼いてもらっている流麗が。彼に「僕の伴奏をしてもらいたい」と言わせる流麗が、猛烈に気に入らないのだ。
(でも、それにしたって卑屈な東洋人は言いすぎだと思うんだけど……)
少しばかりむっとしたので、
「じゃああの、『プライェーラ』のお手本を弾いて聴かせてほしいんですけど」
と、殊勝な顔つきで言ってみた流麗である。案の定、マリアの柳眉はいっそう逆立った。
「何なの、あなた本気でカインの伴奏をするつもりでいるの?」
視線でカインをおさえ、流麗は立ちあがった。立ちあがってもなお、目線の高さはマリアのほうが上である。一七〇近い身長を持つマリアがすっと背を伸ばして立つと、ずいぶんな威圧感になる。流麗は、しっかり顔を上向けなければマリアと視線を合わせられない。
「伴奏しちゃいけないの?」
はっきりと流麗がそう言ったので、マリアはわずかに虚をつかれたような顔をした。
「……よく伴奏する気になれるわね。世界のカイン=ロウェルよ、分かっている? あなた、独奏では多少聴けるものを弾くかもしれないけど、ヴァイオリンの伴奏となるとまた話が違うのよ」
流暢な日本語である。マリアは、まるで「ちょっと脳みその足りない幼い子どもに言い聞かせる」ように流麗に言った。
『いいかげんにしろ、マリア』
ついに我慢しきれなくなったカインが視線を厳しくしたが、
『何よ、嘘は言っていないでしょうよ』
マリアは一歩も退かない。
どうしたらいいだろう、流麗は一瞬、躊躇した。黙って、おとなしくカインに守られているべきだろうか。けれどこれからの人生を、永遠にカインに面倒をみてもらえるわけでもない。このダルムシュタットで音楽を学ぶなら、ドイツ語も話せるようにならなければならないし、カインがいなくても他人とコミュニケーションをとれるようにならなければならないのだ。いずれ、自分ひとりできちんとやっていけるようにならなければ。
「私は負けないよ」、カイン=ロウェルにそう約束した。東洋人だからといって、カイン=ロウェルといっしょにいるからといって、いじめられてダルムシュタットから逃げだすなどということがあってはならない。ひらけた道への扉を、ふたたび自分から閉ざすような真似はしてはならないのだ。
「私は、誰かのためにピアノを弾いているわけじゃないわ」
「……カインに迷惑をかけるかもしれないとは、思わないの? 彼に失礼だとは、思わないわけ。無名の素人が伴奏だなんて。普通の神経なら、そんなこと出来ないわよ」
普通の神経なら、むしろこんなところで転入生をいびり倒したりしないと思うんだけど。だが言葉にはせずに、ぐっと心のなかに沈めこむ。
「何で失礼なの? 世界のカイン=ロウェルなんでしょう。無名の素人が伴奏したくらいで、そんな偉大なヴァイオリニストがどうなるっていうんですか」
『こッ……の、クソ猿……』
「え?」
いっそう緊迫した空気が流れた。
「何を馬鹿なこと……」
「だってそうじゃない。私は無名の素人だもの。私に伴奏させてくれるんだとして、そんなの、カインにとったら慈善事業みたいなものですよね」
と、流麗があっけらかんとした顔つきで言ったところで、マリアがとうとう言葉に詰まった。眩暈をおさえるように額を覆ったのは、おそらく彼女の芝居だろう。「マリアが言い負かされた」、どうあってもそう見せたくはないはずだ。呆れて声も出ない、そういう自分を演出しているのに違いない――と、流麗にしてはめずらしく意地悪く考えた。
『さあ、ルリ、もう帰ろう』
カインが流麗の手をひいた。しまったなあ、でもこれは不可抗力なんじゃないかなあ、すっかり困惑顔の流麗だったが、おとなしくカインの手に従う。『気にしないで、また明日ね』、ジュリア=インガルスがそう囁いてくれたので、流麗はほっとして微笑んだ。
『……そんなところで覗き見かい』
ほんのわずかに冷ややかさをふくんだカインの声にふと視線をあげると、扉を出てすぐのところに朝倉夾が立ち尽くしていた。カインに手を繋がれたまま、流麗はどきりとして足を止めた。夾がこちらと目を合わせようとしないので、自然、流麗もうつむきがちになる。あのマリア=フォン=ルッツが、夾の恋人なのだ。夾は、あの女のひとを選んだ。あの女のひとのことが好きなのだ。
(なんでマリアなんだろう……)
もしも夾の恋人がジュリア=インガルスだったなら、もう少し穏やかな気持ちでいられただろうに!
『だから言ったじゃないか、カイン……マリアが黙っていないって』
『おまえはいったい誰のことを心配しているんだ? ルリのことが心配なら、あの場に入ってきて恋人の暴言を止めるべきだった。マリアのことが心配なら、彼女といっしょにルリを責めれば良かったんじゃないか?』
自分の名前が出てきて、流麗はおそるおそる視線をあげた。夾は相変わらず視線を合わせなかったが、カインはほんの一瞬、「だいじょうぶだよ」というような微笑みを落としてくれた。
『そんな言いかたはないだろ!』
『……キョウ。マリアのことが大切か?』
『そりゃ……まあ』
『なら、あれの手綱をしっかり締めておくべきだよ。ルリは、何にも知らない仔猫じゃない。彼女は、獲物の喉に咬みつくことを知っている』
『おまえにルリの何が分かるっていうんだよ、こいつはそんなんじゃ……』
カインがかすかに笑った。美しいが、けっして機嫌がいいとはいえない笑みである。流麗は不安になって、繋がれた手に力をこめた。おなじだけの力が返ってくる。カインの手があたたかい。
「さあルリ、今日はもう終わりだ。嫌な思いをさせた」
「……ううん、私はべつに……」
夾は物言いたげな様子だったが、ついに何も言わないまま教室のなかへ入って行った。
(……夾)
もう二度と、彼と楽しく話したり遊んだりすることはできないのかもしれない。あのマリア=フォン=ルッツが、夾の恋人でありつづけるのならばなおさら。それは覚悟していないことではなかったけれど、あらためて考えると、とても寂しくせつないことだった。
「ルリ」
カインの声には、心配の色が濃くふくまれている。あわてて流麗は微笑んだ。もう一度、自分に問う。私はいったい何のためにドイツまでやって来たのか? ピアノを弾くためだ。そしてカイン=ロウェルのヴァイオリンを聴くためだ。何も迷うことはないし、よけいなことに心悩ませている暇もない。
「私はだいじょうぶなんだけど、でもあの、ちょっと意地の悪い言いかたをしすぎたかも……」
一瞬ぽかんとした顔をしてから、
「きみ、やっぱり最高だよ」
と、カインは声をあげて笑った。
「きみはそれでいい。それでいいんだよ」
そして彼はかすめるように流麗の髪にキスをし、流麗は恥ずかしさのあまり頬を真っ赤にした。