第七楽章 「季節はずれの木枯らし」
視線でひとを殺せるのなら、私はいまごろ八つ裂きにされているわ。
流麗は誰とも目をあわせないようにして、堂々たる――とはけっして言えない足どりで講堂ステージのうえに向かった。「カイン=ロウェルが女を連れてもどってきた」、というのは集まった学生たちにとっての一大事らしかった。すべての視線が、自分に突き刺さっている。
舞台袖からステージに上がりながら、流麗はそのステージに見事なグランドピアノがあるのを見た。音楽学院らしい、コンサートグランドピアノ。ちらりと側面の銘が目に入る。
(ベヒシュタインだ!)
流麗の神経が、そちらに逸れた。逸れたことで、落ち着きを取りもどした流麗である。カインと講師陣とがいくらか言葉を交わし、もっとも年若そうなひとりの講師がマイクを持ってまえに進み出た。何を言っているか分からないが、ただ雰囲気だけで、おそらく自分の紹介をしてくれているのだろうと流麗は察した。講師が顔をめぐらせ、流麗にマイクを差しだしてくる。背後からカインが、「ルリ、自己紹介を」と囁いた。ああ、いやだ。流麗は一瞬だけ眉をひそめ、渋々マイクを受けとった。
『Ich heiβe Ruri』
私の名前は、ルリです。それ以外にはドイツ語が分からないので、しかたなく流麗は日本語で言った。
「ドイツには初めて来ました。よろしくお願いします」
すかさずカイン=ロウェルが通訳をしてくれて、それから学生と講師たちの拍手が流麗を包んだ。流麗にとってはありがたい拍手だったが、それでも流麗はかすかに感じていた。警戒心と嫉妬、好奇心と敵意。カイン=ロウェルについてダルムシュタットで音楽を学ぶというのは、つまりこういうことなのだと流麗は思った。
前途多難かもしれないな、と思ったとき、
「ルリ、きみ、いますぐにピアノを弾けと言われて、弾けるかい?」
カインに声をかけられて、流麗はぽかんと彼を見つめた。特別措置として入学試験を早めてもらう、そのことについては流麗も聞いていたが、それがまさかこんな唐突に、これだけの人数のまえでなどとは想像もつかなかったことである。
「い、いま?」
「そう。どうせならここで、みんなのまえで披露してもらってはどうだろうと先生がたが」
特別措置をとることにたいして講師たちにも不安があるのだろう。カインはそうとは言わなかったけれど、おそらく学生たちから不満が噴出することを講師たちが不安視したのに違いない。つまり、力試しだ。この場で学生たちを納得させられるだけのピアノを演奏できなければ、流麗がここで受けいれられることは、けっしてないだろう。
(き、緊張する)
だがこのベヒシュタインを、弾けるのだ。慣れない挨拶をさせられるくらいなら、ピアノを弾くほうがよほどいい。
「ルリ」
講師陣とあれこれ話していたカイン=ロウェルが、やや緊張した面持ちで流麗の手をとった。
「ルリ、暗譜で」
「うん」
「ショパンの『木枯らしのエチュード』を」
講師たちが、流麗の反応を窺っているのが分かる。学生たちの視線もまた、流麗に注がれていた。試されているのだ。
「うん。分かった」
「……ルリ、僕が聴いているよ」
つい、流麗は笑った。よく使いこまれていそうな、美しいグランドピアノ。流麗の表情を見て、カインは安心したらしい。彼もまた微笑んでうなずき、すっかり審査員と化した講師陣たちにしたがって客席に下りていった。
『木枯らしのエチュード』。
ショパンの、練習曲作品25の十一番。いちばん最初の、四小節のメロディー。ああ、いい音だ――レントからはじまる四小節、古めかしい音楽学院の大講堂にふさわしいベヒシュタインは、プロを目指すピアニストたちに奏でられたせいで、どこか熟した雰囲気を漂わせる。よく弾きこなされたピアノらしい、鍵盤の薄い黄ばみ。鍵盤の端々の塗料は剥げ、だがそれが彼の品格をおとしめることはない。
(……この季節の課題曲としては、ちょっとナンセンスだよねえ)
いまが七月であることを忘れさせる木枯らしの予感、冷たい風の兆し、
♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪……
そして荒々しく吹き荒れる第一主題だ。この、たった三分間の木枯らし。これはパリの冬だろうか。それともショパンの心のなか――そういえば彼が恋をしたひとの名前も、マリアといったはずだ。叶わなかった恋が、ショパンの心に冷え冷えとした木枯らしを吹かせたのかもしれないし……。
……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩……
指が動く。ショパンが大好きで、松田楽器店のピアノコーナーでひとり楽譜を探しては、練習をしていた。ショパンのこの鋭い繊細さが、流麗は好きだ。とても人間らしい。山から木枯らしが吹きおろしてくる。体が冷え、心も冷えていく。
ピアノを弾く。あまりにも鮮やかに浮かんでくる情景がある。流麗の胸はいつも、つんとしたせつなさを感じるのだ。木枯らしに吹かれる並木道。強く吹き荒れる冷たい風に、はげしく舞っては落ちていく木々の葉。それはどこか死を連想させる。曇天のもとにひっそりと佇む教会と、木枯らしの声にまぎれて遠く聞こえる鐘の音。このときジョルジュ=サンドは? それとも失ったマリアとの愛に、まだ苦しんでいただろうか。
(さみしかったのかもしれない)
このはげしさは、さみしさの吐露なのかもしれない。流麗の奏でる音色は、やがて色彩を持ち、情景を持ち、聴衆にドラマをみせる。聴衆は、百七十年以上もの時を経て、ショパンの心のなかを知り、ショパンがかつてみた風景をみるのだ――。
……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪
最後の一音までを弾きあげて、流麗はゆっくりと鍵盤から指を離し、ほうっと大きく息をついた。ああ、なんて素晴らしいピアノだろう! 松田楽器店のスタインウェイより少し繊細で、そのぶん気位の高い音色を奏でだす。流麗はそっとピアノを撫でて、それからはっと我にかえった。
(……あ)
そうだ。ひとりじゃなかった――流麗はあわててピアノから指を離し、立ちあがった。講堂がしんと静まりかえっていた。忘れていたはずの緊張が、そのせいでふたたび流麗を硬直させた。
前のほうの学生のひとりが、ごくりと息をのんだのが分かるほどの静けさである。この沈黙はいったい何だろう、私は何か粗相でもしただろうか。泣きたい気持ちで客席前列の端に座るカイン=ロウェルに視線を投げて、しかし流麗はそのおかげでほっと安堵した。彼が満足げな表情をしていたからだ。
ようやく、講師の幾人かが手を拍ちはじめた。最初はぱらぱらとした拍手だったが、それがさらに拍手を呼び、まるで大きな波のようになって流麗を包んだ。さっきの自己紹介のときとは、比べものにならない大きな拍手が、講堂を揺るがしていた。
*
斜め後ろの学生が泣いていたのを、カイン=ロウェルは知っている。講師のひとりが目頭を押さえたことも、カイン=ロウェルは知っている。それはほとんど誰にも気づかれないような静かな涙だが、しかし確かに涙だった。
神に愛されたものが奏でる音色には、その力がある。涙をあふれさせる、あらがうことのできない力が。聴いたことのないひとは、きっと信じない。だが、こぼれる。涙がひとりでにこぼれていく。心の奥から何か深く大きいものが、ぐいぐいとこみあげ、迫りあがってくるのだ。胸の奥は心地よく、だがはげしく締めつけられ、快感ともいえる身震いが体を襲い、そして涙が頬を伝っていく――。
『素晴らしかった、ありがとう』
オットー=エアハルト講師が流麗の手を握るのを、カイン=ロウェルは誇らしく思った。気難しく厳しいこの白髪の講師は、めったに賛辞を口にしない。何も知らない流麗は、「ありがとう」だけを聞きとったのか、花が咲くように笑って「ありがとうございます」と返している。
ピアノのまえに立つまで、彼女はずっと緊張のただなかにいた。ピアノに触れ、椅子に腰かけた瞬間、まるで波がひくように彼女から緊張が消えていくのを、カインはまるで夢でもみているかのような気分で見つめていたのだった。どんなときでも、ピアノだけが彼女を救ってやれるのだ……。学院生の多くはもう、流麗を受けいれはじめていた。類稀なピアノの演奏力と、ひとを疑うことなど知らないといった風情の明るい笑顔、体格のいい多くの欧米人のなかで埋もれてしまいそうな華奢な体――それらが学生たちの心にはやくも刻まれつつあるのだ。
冷たい眸で流麗を見つめているものもある。カインはそれを承知のうえで、流麗に歩み寄った。
「素晴らしかった。いいピアノだっただろ?」
嫉妬、羨望、恐怖。それらが憎しみになって流麗に降り注ぐのは、そう遠い未来ではないだろう。
(ルリ、負けるなよ。これから長く、僕と暮らしていく未来のために)
「負けないよ」
カイン=ロウェルは、驚きのために一瞬言葉を失った。負けるなよ、心のなかでつぶやいた言葉がまるで聞こえていたかのように、流麗は「負けないよ」と言って微笑んだのだった。
「……僕もいっしょだ。負けないよ」
流麗が「負けない」と言うのなら、きっと負けないだろう。彼女はだいじょうぶだ。これから、ちゃんとダルムシュタットでやっていける。容姿の美しい女なら、たくさんいる。だがカインの眸には、流麗が世界でいちばん可愛く、美しく、そしてきらきらと輝いて見えていた。
人の好い、明朗な学生たちが何人か、流麗の傍に寄っていくのをカインは見ていた。このあと彼女を学院事務に連れて行き、手続きをしなければならないが、
(せっかくだから、しばらくはいいか)
ピアノ科のジュリア=インガルスが、満面の笑顔で流麗に何かを話しかけている。かけられた言葉を理解しているのかいないのか、流麗はただにこにこと笑って片言で返事をしているようだったが、ジュリアがいるならさほど心配はないだろう。
『ちょっと、カイン。来てよ』
背後から声がかかったのは、ちょうどカインが一歩後ろに退いた瞬間のことである。そらきた、とカインはかすかに眸を細めた。女王様のお出ましだ。
『ねえ』
『分かった、分かった。すぐに行くから、講堂の外で待っていてくれないか』
『すぐよ』
マリア=フォン=ルッツは激怒している。逆らわずにカインはうなずいて、マリアの背をそっと押しだした。
「ルリ」
カインが流麗のほうへむかって歩いていくと、彼女はようやく親を見つけた迷子のように、ほっとした顔を見せた。
「ルリ、少しのあいだだけ、ここでみんなとおしゃべりしていてくれないか」
「……ここで? カインは……」
「ちょっとだけ、用事をすませてきたい。いいかい?」
かすかに不安げな色を浮かべたが、流麗は素直にうなずいた。隣には、すっかり友だち気取りといった様子のジュリア=インガルスが立っている。
『ジュリア、少しのあいだ、彼女を頼む』
『べつにいいけど、何で』
『爆発しそうなお嬢さんがひとりいるのでね』
『は、ご苦労なことで。とっとと行って帰って来なよ!』
ジュリア=インガルスとマリア=フォン=ルッツは、たがいに嫌いあっている。学院のピアノ科のなかでは、有名な話だ。そのせいなのかジュリアは、マリアを伴奏ピアニストとして使い、それなりに距離の近い関係をもっているカインのことも、煙たがっているふしがある。だが、だからといって陰湿なことを言ったりしたりしないのが、ジュリアの美点でもあった。そういう意味では、カインは彼女のことを信頼している。
ジュリアはどうやら、流麗のことを気に入ったようだ。
「ルリ、すぐにもどってくるから心配しないで。彼女はジュリアというんだ。気のいいひとだから、信頼していい。彼女はアメリカ人だ、英語なら多少片言でも通じるよ」
「わ、分かった」
また緊張しはじめた様子だが、問題はないだろう。ここにマリア=ルッツはいないのだし。ジュリアに目配せをして、カインはその場を離れ、講堂の外へ向かった。
『ちょっと、どういうこと。ルリって、あれ、キョウの幼馴染みってやつでしょう?』
講堂の外に出るなり、ゆるくウェーブのかかった金髪の美女が噛みついてきた。そう、美しい女ではある。だがその気性の荒さといえばダルムシュタットで知らぬものはいないほど、マリア=ルッツのせいで泣きながら祖国に帰っていった留学生も、じつは少なくない。
『そう、そのとおりだ、マリア』
マリアの青い眸が、怒りのあまり潤むように輝いている。豊満な胸の谷間を強調するようなタンクトップに、長い脚を惜しげもなくさらしているミニスカート。どうぞ好きなだけごらんなさい、とでも言いたげな服装は、確かに彼女にはよく似合う。
『そのとおり! 何が、そのとおり!? 何考えて、あんなの連れてきたのよ!』
こんなときにためいきを吐こうものなら、いっそう厄介なことになる。分かっているから、カインは微笑んで、
『彼女はいいピアノを弾く。いっしょに音楽をしてみたいと思っただけだよ』
それでもはっきりと本音を言った。
『何がそんなに気に入ったの? 顔?』
だからピアノだというのに。
カインは心のなかでつぶやきながら、何ともいえない表情で微笑んでみせた。
『マリア。僕は彼女のピアノが気に入ったんだ。顔とか、容姿とか、そういうことじゃない』
顔、容姿、スタイル! そんなものだけでいうなら、流麗よりも美しい女なんて星の数ほどいるに違いない。
『独奏でももちろん活躍してほしいし、それに……』
これを言えば、マリアの敵意はいっそうはげしく燃えるだろう。カインは一瞬、躊躇した。
『それに何!』
と、マリア=ルッツはもはや鬼の形相である。すまないルリ、そう思いながら、
『それに、いずれは僕の伴奏もしてもらいたい。彼女にね』
あえてカインはそう言った。
『何ですって!?』
案の定、マリアは激昂した。
『あなたの伴奏を、あの子が!? 冗談じゃないわ!』
いままで、カインの伴奏はマリアがつとめてきた。こんな気性の荒さと性格の悪さではあるけれど、伴奏ピアニストとしてはいい腕を持っているのだ。そうでなければ、扱いにくい彼女をどうして自分の伴奏ピアニストに選ぶだろう?
マリアの心情を思えば、激昂するのも無理はない。何の前ぶれもなく自分の地位が脅かされる事態に陥る、彼女にとっては許せないことだ。極東からやってきた、しみったれたモンゴロイドに、カイン=ロウェルの伴奏ピアニストという誇り高き立場を奪われるなんて!
(だが、僕は妥協できない)
マリア=ルッツをはるかに凌駕するピアノを、あの子は弾くのだ。カインにとって、ヴァイオリンほど大切なものはない。ヴァイオリンは生きる指針であり、希望であり、そしてまたあまりにも馴染んだ体の一部である。いままでは、マリアでよかった。だがあの日、日本の小さな楽器店で流麗と出会ってしまった――もうカインは、マリアの音色では満足できない。至上の音色を、探しあててしまった。自己満足、考えてみれば確かに、なんと思いやりのない行動だろう。だが僕は、自分の満足ゆくまで、よい音色を求めたいのだ……。
僕は逃がさない。あの音色とともに、歩んでいきたい。流麗がたとえ、どんなに傷つき苦しい思いをするとしてもだ。カインは知っている。彼女なら、どんなに傷つき苦しい思いをしても、ピアノを弾くことを選ぶだろう。僕のヴァイオリンと触れあうことを、選ぶだろう。
『マリア、どうか僕のために受けいれてくれ』
我ながら残酷なことを言うものだな、とカインは思った。
『彼女をいじめたりしないでくれよ?』
冗談めかして言うと、マリアの赤い唇が見てそれと分かるほど引き攣った。
『彼女を失うなんてことになったら、僕はきっときみを許せなくなるから』
『……それはこっちの台詞よ』
ぎりぎりと音がしそうなほど唇を噛みしめて、マリアは言った。ここでけっしておとなしく引き下がらないのが、彼女なのである。
『ひとを馬鹿にして。私こそ、許さないわ』
マリアは、肘でカインの胸を思いきり突いた。そして女王様というよりはむしろ軍隊長といった風情で、踵をかえし、靴音を高く鳴らしながら遠ざかっていった。
北条流麗は、まだ十六歳である。そして、その十六歳の夏、ダルムシュタット音楽学院の特別措置試験に合格した。