第六楽章 「音楽とは、言葉を探している愛である」
六月最後の木曜日、ようやく流麗は、カイン=ロウェルからもらった宛先に携帯からメールを送信した。「ダルムシュタットへ行きます」とははっきり言えずに、「会って話ができますか」、ただそれだけをメールに書いた。返信がきたのは、流麗がメールを送ってからわずかに一時間後、「今日にでも会いたい」――流麗は両掌で顔を覆った。続けざまに、宿泊先の場所と号室が送られてくる。「行きます」、流麗は放課後を待てずに職員室に飛びこみ、おなかが痛くって頭が痛くって気持ちが悪くって、と言い募って早退許可を勝ちとった。めったに学校を休まない流麗だったが、一度言いだしたらてこでも動かない性格であることを、担任はよく知っていたのだった。
学校を飛びだして、流麗は駅に走った。午後早く、空いた車内でそわそわと目的駅まで立ちつづけ、着いたとたんにまた走った。先月の公演後に連れて来られた、あのホテルに流麗は走り、格調高いロビーを突っきってフロントに飛びつく。学校の制服姿であることを思いだして不安になったが、当たって砕けろとばかりに、物腰柔らかなホテルマンにカイン=ロウェルの名と、そして自分の名とを告げた。
ホテルマンはけっして怪訝そうな顔を見せず、すぐに客室に連絡をあげてくれたようだった。
「お待たせいたしました、ホウジョウ様。お部屋のほうへご案内いたします」
若い男性ホテルマンが、これもまた柔らかな物腰で流麗を導いてくれる。エレベーターに乗ると、彼は上階の階数ボタン下にキーを差しこんで、くるりとまわした。キーなしではあがっていけないところに、カイン=ロウェルはいるのだ。
落ち着いた照明のフロアには、小さくクラシック音楽が流れている。フロアのいちばん奥、部屋のまえに着くとホテルマンはドアホンを鳴らした。
(運命の扉みたい)
その扉が開くのを、流麗はじっと待った。「道はひらけている」、そう言ってくれたのはカイン=ロウェルだった。歩きだすべきだと、流麗も思った。まだたった十六歳の自分ではあるけれど、それでもさまざまな過去の出来事を、しがらみを押しのけて、進みたい道がある。
ゆっくりと扉が開いた。
扉を開けてくれたカイン=ロウェルは、微笑んでいた。ホテルマンに礼を言った流麗を、カインはいつかのようにリビングに通した。リビングで、確かにつかのま、ふたりは見つめあった。
「……良かった」
と、カイン=ロウェルはほとんどつぶやくように言った。心底ほっとしたような、嬉しげな気配に、流麗まで嬉しくなってしまったほどである。
「あの……」
「うん。きみがきっといい返事をくれるだろうとは信じていたけれど、それでも少し、不安だったよ。ドイツは遠いから……とりあえず、ほら、座って」
流麗はおとなしくソファに腰をおろした。感慨深げに、カインは流麗を見つめていた。
「制服、似合うね。可愛い」
真っ向からそんなことを言われ、すっかり頬を赤くしてしまった流麗である。カインはふたたび微笑んで、ホテルマンからの電話を受けた時点で淹れはじめていたらしい紅茶をテーブルに出した。
「ほっとした。おかげでお腹が空いてしまったよ」
と、カインは声をたてて笑った。彼の表情に嘘はなく、ああ、ほんとうに私のことを待っていてくれたのだと流麗はこのときあらためて知った。はじめて、生身のカイン=ロウェルと相対している気分だった。
つんのめるように、流麗は訊いた。
「毎日、ヴァイオリンを弾いてくれますか」
唐突な問いに驚くでもなく、
「もちろん弾くよ。きみがいっしょに来てくれるなら、僕はいくらでも。きみは好きなだけ僕のヴァイオリンを聴き、僕は好きなだけきみのピアノを聴く」
そして、「どう?」というような表情をしてみせた。流麗は泣きたくなった。自分さえ一歩踏みだす勇気を持てば、確かに道はひらけるのだ。まだ十六歳だ。遅くはない。
「私、行きます。私、いっしょに音楽をやりたい」
カイン=ロウェルがゆっくりと立ちあがって、自分の隣に腰をおろすのを、流麗は不思議と落ち着いた気持ちで見ていた。彼はその男らしく、だがとても美しい手で、流麗の手を包みこんだ。
「……ありがとう、ルリ」
冷ややかにも見える美貌だというのに、手はあたたかかった。
「必ず、きみを幸せにするよ」
流麗は、その言葉を信じた。カイン=ロウェルとともに音楽の世界に飛びこむ――それは確かに、自分の未来に最大の幸福をもたらしてくれるだろう。
*
フランクフルト・アム・マインの南およそ三十キロのところに、ダルムシュタットという都市がある。流麗にとっては、どこがドイツの大都市で、どこがそうでないのかさっぱり分からないが、とにかくフランクフルトといえばミュンヘンやケルンに次ぐ、ドイツ第五の都市なのだそうだ。
カイン=ロウェルたちの来日公演がすべて終わったのは六月末のことである。一度帰国したあと、カインだけがふたたび単独で来日した。流麗の両親と会うことが、もっとも大きな目的だった。両親はひとり娘の進路変更について何の反対もしなかった。カイン=ロウェルが北条家の玄関先に立ったとき、父は感慨深げな表情で青年と自分の娘とを交互に見つめ、母は「あらまあ、ほんとにカイン=ロウェルだわ」と言って笑った。「あの、ドイツで暮らすことになるんだけど……」と言うと、お手製のベイクドチーズケーキを切り分けてサーブしながら、母は「そりゃそうでしょうとも」とあっさり答え、カイン=ロウェルを微笑ませた。
両親は喜んでいるのだ。音楽家の両親だからこそ、我が子の才能には早くから気づいていた――ピアノをやめるという流麗の決断を覆せなかった自分たちを、両親は長いこと静かに悔やんでいたのだった。その両親が何の躊躇もせずに高校に事情を説明したので、担任も学年主任も校長も、七月末日での退学願を受理せざるをえなかった。逃げ道は、なくなったのだ。
ダルムシュタット音楽学院との橋渡しについては、カイン=ロウェルがすべてを引き受けてくれた。入学は、十月の冬ゼメスターから。本格的にドイツで暮らすのは、八月中旬からと決まった。入学試験もまだというのに、誰もそれに落ちることなど想定していないのがおかしかった。
そうして七月初旬のいま、期末考査前後の一週間を利用して、流麗はカインに連れられてダルムシュタットにやって来たのである。学院側との面談を経て、もしも可能であれば特別措置として早めに入学試験を――カイン=ロウェルが学院側にそう交渉してくれたのだそうだ。つまりそんな交渉が通ってしまう、カイン=ロウェルはダルムシュタット音楽学院にとってそういう存在なのだった。
「緊張していたね。すっかり固まっちゃって」
カインは悪戯っぽい表情を見せながら、流麗の顔をのぞきこんだ。
「だってこんなに長い時間、飛行機に乗ったことってないもの」
もともと人懐こい性格ではあったから、一度慣れてしまえば、あとは早い。カインにも、流麗はすぐに懐いた。ドイツにまでやってきてしまった以上、もうカインと出会ったのは夢だ幻だなどとは言っていられなくなったし、カインはとにかく優しくあたたかな気遣いを見せてくれる。知り合ってからは数か月、実際に会ったのはそのうちの十日になるかならないかという関係であるのに、彼といっしょにいると、とても楽しい。流麗は、まるで雛鳥のようにカインに懐き、従った。
「体調は、悪くないね?」
「うん。緊張してるだけ……」
フランクフルト国際空港からは、カイン=ロウェルの車で南下する。ダルムシュタットの街なかに入るまでにさほど時間はかからず、ふたりはまもなくダルムシュタットの中央区に到着した。
「ほら、あれが音楽院の時計塔だよ」
と、カインが指をさす。教会のようにも見えるひときわ高い尖塔が、その時計塔であるらしい。その尖塔をかこむように、北・東・西に建てられた煉瓦づくりの建物が校舎なのだという。学校というよりはむしろ重要文化財といった荘厳さだが、「こんなふうに見えても、第二次世界大戦の空襲でずいぶん焼かれたらしいよ」と、カインは言った。
学院裏手に車を停め、敷地内を歩きはじめたカイン=ロウェルの姿は、多くのひとの視線を集めた。出会うまえには安っぽいとさえ思っていた「ヴァイオリン界のカリスマ」などという文句も、なるほどと納得がいくほどである。彼は、音楽家の卵たちの憧れなのだ。
「さあ、理事長のところへ行こう。話はもう通してあるから、だいじょうぶだ」
中庭に面した回廊を歩いていく。足もとは古めかしさを感じさせる石畳で、歩くたびに靴音が響いた。すれちがう学生たちはみな一様に、カイン=ロウェルを眩しげな眸で見つめた。嫉妬の眸もないではなかったが、圧倒的な力の差を知っているためか、眩しげな視線のほうがよほど多かった。そうして必ずその視線は、傍らの流麗を値踏みするように、訝しげに落ちてくる。「カイン=ロウェルの連れている、あのちっぽけな東洋人は何だ?」――心の声が聞こえてくるようだ。流麗の眸には、そんな彼らがたいそう華やかに映った。
(そうだ。ここに、夾も、マリアもいるんだ……)
つんとしたせつなさと、不安とも怯えともつかない胸の震えを、流麗はぐっとこらえながら歩きつづけた。
三階のもっとも奥まったところにある部屋に、カインは流麗を導いた。扉のうえのプレートに刻みこまれた文字の意味は分からなかったが、おそらくここが理事長室なのだ。失礼します、とでも言ったのかもしれない。カインが一言二言、ドイツ語で扉の向こうに声をかけると、くぐもった声が返ってきた。カインは「行こう」、そう囁いてから、重厚な扉を押し開けた。
開けた正面に、彫りの深い顔だちの老婦人がいる。気品のなる、凛と背の伸びた婦人である。
(ロッテンマイヤー先生だ)
と、流麗は思った。目立ちはじめた皺のなかから、鋭い眸がこちらを見つめている。すっかり緊張して立ち尽くしてしまった流麗をよそに、カインは流麗についての何らかの紹介を、老婦人にしたらしい。そっとカインの手に背を押されて、流麗はたたらをふむようにして婦人の目のまえに立った。
「グ」
どうしていいか分からないので、頭をさげる。
「グーテンターク」
『Guten Tag――Es freut mich,Sie kennnen zu lernen.』
(エスフ……ズ……?)
すぐに後ろからカインが顔を寄せてきて、
「きみに会えて嬉しいと、そう言っている」
通訳をし、微笑んでくれた。
「ミッ、ミートゥー」
と、英語で返すしかなかった流麗である。言ってから不安になったが、老婦人――ダルムシュタット音楽学院の理事長は二度三度うなずいてすっと立ちあがり、流麗に手を差しのべてきた。握手を求められているのだ。うながされるままに手を出すと、老婦人とは思えない力強さでその手を握られた。あたたかい手だった。
握手が終わると、ふたたび理事長とカインは早口のドイツ語でしゃべりはじめ、数分もしないうちにカインが流麗の肩を優しくたたいた。
「学生たちに紹介してくれるって。大講堂に行こう」
「ン? えっ!?」
「僕が通訳をするから、だいじょうぶだ。心配ないよ、ほら、おいで」
大講堂で紹介だなんて聞いていない、緊張のあまり内臓が飛びだしそうになるのを、流麗はこらえた。
(こ、心の準備が……)
さらにいえば、カイン=ロウェルの傍に立ち、彼に通訳をさせるだなんて、いったい何人の恨みをかうことだろう!
(どうしよう)
流麗は両手で顔を覆った。
「恥ずかしいの?」
笑いをふくんだカインの声が、耳もとで聞こえる。うなずきながら、流麗は自分に言い聞かせた。どうしようったって、ここで泣いて帰るわけにはいかないでしょ。駄々をこねたってしょうがないでしょ。何があったって、やっていくって決めたんだから。
熱い頬に、カインの手が添えられる。
「だいじょうぶだよ、ルリ。きみはピアノのことだけを考えていればいい」
幼い子どもに言い聞かせるように、彼の声は穏やかで優しい。流麗は何度もうなずいた。カインは、まっすぐに流麗の眸を見つめてくれる。その言葉は不思議なほど、流麗の胸によく響く。
「うん」
「きみにはピアノがある」
「うん」
カインは微笑んだ。
並んで歩きながら、「あのひとは理事長と学院長とを兼ねているんだよ」と、カインが老婦人について教えてくれた。カインに手をひかれ、流麗はどこへ連れて行かれるのかもよく分からないまま、ただおとなしく歩く。歩いているうちに緊張が薄れ――緊張しやすい性質だが、またすぐに緊張の冷めやすい性質でもあるのだ――こんなに歩いてもまだ着かないなんて、この学校はいったいどれほど広いんだろう、そう思いはじめたころに、
「ほら、あそこが講堂だ」
と、カインが正面を指さした。
「チャペルにもなっていてね。結婚式を挙げるカップルも、たくさんいるんだよ」
講堂まであと数歩、というところで、流麗はふたたび緊張した。
「あの、あの、ちょっと……」
「うん?」
「ものすごい……いっぱいひとが……」
カインが、茶目っ気たっぷりに肩をすくめてみせる。「結婚式を挙げるカップルも、たくさんいるんだよ」、こっちはそれどころではない。
「だいじょうぶ、ピアノのコンクールだと思って、ほら」
「そんな無茶な」
「僕がいるよ。ピアノもいる」
「……え?」
「僕と、ピアノが、ついているよ」
流麗は、一瞬のあいだに考えた。なぜ自分がいま、ここにいるかということを。なぜ? ピアノを弾くためだ。カイン=ロウェルのヴァイオリンを好きなだけ聴き、そしてピアノを好きなだけ弾くためにやって来た。
そう、カインの言うとおりだ。ピアノのコンクールだと思えば、大講堂を埋めつくしたたくさんのひとなんて、気にならない。
「おいで」
カインの優しい声に、流麗はひとつ息を吸いこんでから、ゆっくりと足を踏みだした。