第五楽章 「予感」
カイン=ロウェルは、こちらがいらいらするほどゆったりとした様子で紅茶を淹れ、トレーにシュガーポットとティーカップを乗せてリビングにもどってきた。確かにカインの淹れる紅茶は驚くほど美味いが、かといって、それを暢気に味わう気持ちの余裕は、いまの夾にはなかった。香りはアールグレイ、美しい色あいの紅茶がカップのなかでゆらゆらと揺れている。
『……どういうつもりなんだよ、カイン』
紅茶には口もつけずに話を切りだした夾を見て、カインは穏やかな苦笑を唇に浮かべた。
『本気で流麗を、ダルムシュタットに呼ぶつもりなのか』
ルリをダルムシュタットに誘ったよ――カインがそう言ったのは、東京での公演が終わった翌日、つまり夾が流麗との再会を果たした翌日のことだった。マリア=フォン=ルッツがつねに傍にいるせいで、その件については触れるに触れられず、大阪での公演を終えた今夜ようやく隙をみて、カインの部屋を訪れた夾である。マリアは、マネージャーとして学院側からつけられたギルバートをお目付け役に、一日だけ夜遊びをさせてくれと言ってミナミの街へと出かけていた。
プライドの高いひとであるし、気性の荒さにかけては天下一品といったところのあるマリアのまえで、べつの女の話をするわけにはいかなかった。
『本気だよ』
と、カインはあっさり答えた。
なぜ流麗のことをカインに話したりしたのだろうと、いまさら後悔しても遅い。だが渡独したばかりのころ、言葉も分からない異国の地で夾が思いだすのは流麗のことばかりだった。そのころすでにプリカレッジに在籍していたカイン=ロウェルは、夾にとっては優しい兄貴分だった。日本が懐かしく、日本語が懐かしく、そして何よりずっといっしょにいた幼馴染みのことが慕わしかった夾は、とにかくそれらのことについて誰かに話したくてたまらなかったのだ。
東京の国際ホールで再会した幼馴染みの顔を、夾は思いかえした。一見しただけでは、それが流麗だとは分からなかった――それもあたりまえのことだ、十歳から十六歳までの六年間は長い。大人になってからの六年とは、わけが違う。小学生だった少女は、高校生になっていた。
夾を認めた瞬間に、流麗の顔はかすかに曇った。そこに純粋な再会の喜びはなく、それで夾は、はっきりと悟ったのだった。ああ、流麗は忘れていない。俺との約束を、流麗は忘れてはいなかったのだ――「ひ、久しぶり……その、元気だった?」、彼女の声を聞いた瞬間、夾は罪悪感と後悔に押しつぶされそうになった。
自分にはいま、マリア=フォン=ルッツという恋人がいる。そして指の怪我も完治し、ドイツを拠点にして好きなだけピアノを弾くことができている。それにたいして、流麗は? あれほどピアノが好きで、あれほどピアノが上手だった流麗は?
『何でわざわざおまえが……だいたい俺は聞いてないぞ、あれよりもまえに、とっくに流麗と会っていたなんて』
『報告すべきだったか?』
『いや、そういうわけじゃ……』
聞けば、夾の知らないところで毎日のように松田楽器店に足を運び(しかもひとりで勝手に日本を訪れていたのだ!)、流麗と出会ったのだという。流麗はまだ、幼かったあのころのように松田楽器店に通っていたのだ。
『言っただろ? 僕は、彼女のピアノに惚れた。何としても、傍におきたい』
詐欺だ、と夾は思った。流麗にたいして、日本語で優しく「きみ」「僕」と語りかけていた態度と大違いじゃないか! だがこの貴族然とした傲慢な言いぐさも、カイン=ロウェルにはよく似合うのだ。
『だからって、そんな無責任にダルムシュタットに呼んでどうする気だよ。カインが生活から何から面倒見ることができるわけじゃないだろ!』
『彼女を傍におくことができるなら、何でもするさ』
『カイン、ペットを飼うのとはわけが違うんだぞ』
夾はなぜか、むしょうに焦っていた。カイン=ロウェルが他人にたいしてこれほど積極的に関わろうとするのを、夾ははじめて見たのだった。
彼が流麗の傍らに立ち、深緑の眸を優しく伏せるようにして語りかけたのを見たあのとき、夾は確かに思った。「流麗が、カインに奪われる」――流麗はけっして夾のものではなく、それどころか夾のほうから連絡を断ったというのに、だ。「奪われる」、そう思った自分がどうしようもなく恥ずかしく、また情けなかった。
『キョウ』
カイン=ロウェルの物腰は、いつでも穏やかである。誰にでも優しく、だがどこか一線を踏みこませない冷ややかさがあり、たった三つほどの年の差しかないというのに、自分よりもずっと大人であるように見える。
『訊くけど、おまえ、彼女のピアノを聴いて何とも思わない?』
『何とも、って……何とも思わないってことはないけど……』
『何としても自分の傍におきたいとか、何としてもいっしょに音楽をやりたいとか、そう切望することは?』
ぎくりとして、夾は唇を震わせた。
(……流麗といっしょに、音楽をやりたい……?)
考えたこともない。だが、「考えたこともない」などとは言えなかった。
『僕は、彼女といっしょに音楽をやりたいね。ルリ=ホウジョウは、世界にたったひとりのピアニストだ、ひとりしかいない。このさき出会おうと思っても、無理だ。彼女との出会いを逃がすわけにはいかない』
カイン=ロウェルは言った。森林のような深い眸が、まっすぐに夾を見据えているのが怖かった。彼は、本気だ。どうにかして止めなければ――明確な理由もなくそう思って、夾はみっともなくもがいた。
『……マリアが、黙ってないぞ』
『まあ、そうだろうな』
ゆっくりと長い脚を組みかえて、カインがようやく視線を伏せる。夾はこっそり息をついた。カイン=ロウェルのことは嫌いじゃない、むしろ好きだ。尊敬もしている。渡独してダルムシュタットに入ったときから、彼にはずいぶんよくしてもらってきた。だが、そうやって慕う気持ちとおなじだけ、あるいはそれ以上に劣等感を抱いてもいる。
常軌を逸している、といってもいいほどの天賦の才能に恵まれたこの男には、どうあがいても追いつけない。自分と彼とのあいだに存在する圧倒的な才能の差を、夾はすでに知っている。
『分かっているなら何で……そうやって無責任に呼び寄せて、流麗がいじめられでもしたらどうするんだよ。おまえ、自分がどれだけ女に人気があるか、自覚しているだろ? そんなおまえが、日本からいきなり女なんか連れて帰ってみろよ、どんなことになるか……』
差別もある。夾自身、たくさんの差別と戦ってきた。激しい競争のなかで、情けなくなるほどの醜い蹴落としあいもあった。あのなかに、流麗を飛びこませたくはない――そう思うのは確かだ。
(……でも、それだけじゃないだろ……)
流麗といっしょに音楽をやりたい、カインのようにそう切望できない理由が、夾にはある。
『僕は、僕に出来得るかぎりのフォローをする。妬みや嫉みは避けられないだろうが、たぶん彼女は、乗りこえるはずだ』
『どこにそんな根拠が』
粘る夾に苦笑して、
『ピアノを愛しているからだろ』
と、カインは言った。
『おまえにたいする罪悪感を抱えて、ピアノを弾きたい気持ちを抑えてきたんだろう、彼女。おまえ、死ぬまで彼女に罪悪感を抱えさせておきたいのか?』
『そんなわけ……ないだろ』
『だろう? なら罪悪感から逃れさせてやればいい。逃れさせてやりさえすれば、もう彼女は、ぜったいにピアノから離れたりしないだろう。ピアノのためになら、たいていのことは泣いてでも何をしてでも乗りこえるさ』
おまえに何が分かるんだ、と叫びたくなった夾である。おまえはたった二日間の流麗しか知らないじゃないか、俺は生まれたときから十年間ずっと彼女の隣にいたんだ!
だが、かといって何を言いかえせるわけでもなかった。いちばん「新しい流麗」を知っているのは、目のまえにいる、このカイン=ロウェルなのだ。夾は、ただ悔しい気持ちを抱えて黙りこむはめになった。
『キョウ、おまえいったい何を怖がっているんだ』
夾はついに、黙ったまま立ちあがった。カインにすべてを見透かされそうで、怖かった。夾の様子をみて何を思ったのか、
『だいじょうぶだよ、キョウ』
カインはいつものように穏やかで優しい声を出す。
『おまえの幼馴染みを傷つけたりなんてしないよ。安心しな』
(そういうことじゃない!)
『部屋、帰る』
こういうところが、俺は子どもなんだ――歯噛みしたい思いで、夾はぼそりと言った。カインはただ、「そうか」とだけ言った。あきれたような、だが優しい笑みを浮かべている。紅茶にはまったく口をつけないまま、夾は無言でカインの部屋を出た。
エレベーターのなかで、暴れだしたい気持ちになった。心だけではなく、体までざわざわとしている気がする。流麗は果たして、カイン=ロウェルの誘いに乗るだろうか? もしも彼女が、ほんとうにダルムシュタットにやって来たら、どうなるだろう。
(来るなよ、流麗)
おまえが来てしまったら、俺はけっして認めたくない感情をいくつも認めなくてはならないことになる。それはいやだ、いやなんだ。俺に怪我をさせた罪悪感が、おまえをピアノから遠ざけてくれるというなら、これからもずっと罪悪感を抱いていてくれ――。
(来ないでくれ……!)
*
彼女は、必ず決断する。
しょぼくれたのだか、ふてくされたのだか分からないような顔つきで夾が部屋を出て行ったあとも、カインはじっとソファに腰をおろしたまま、カップのなかで揺れる紅茶を見つめていた。北条流麗からは、まだ連絡が来ない。だがカインは信じていた。あんな音色を奏でるピアニストが、「僕といっしょにダルムシュタットで音楽をやらないか」、カイン=ロウェルの誘いに勝てるはずがないのだ。あのピアノの音色が、耳奥から消えない。たちのぼる音色の波が、まるで七色のしゃぼんになって目に見えるようだった――。
(僕と彼女は、おなじ魂の持ち主だ)
想像しようとするわけでもないのに、情景が脳裡に広がっていくあの感じ。心がピアノと共鳴しているから、奏でられる音色だ。
(たがいの音色を知ったいま、離れていられるはずがない)
彼女のピアノを聴けるなら、僕はどんなことだってする。カインは深く息を吐いた。カイン=ロウェルは想像する。彼女がダルムシュタットに来てくれたなら、好きなときに好きなだけ、あのピアノを聴くことができる。そしてきっと彼女なら、僕のヴァイオリンの伴奏だってしてくれるに違いない。彼女のピアノと僕のヴァイオリンは、きっと世界でいちばんの音楽を奏でてくれるだろう。
朝倉夾が原因で、ピアノにどっぷり浸かることを躊躇しているのだとしたら、これほど愚かなことはない。そんなことで諦めていいような、才能ではないのだ。朝倉夾に怪我をさせた罪悪感、その彼の手はもうとっくに完治して、好きなようにピアノを弾いているじゃないか。もう何も、罪悪感を抱く必要などないのだ。
朝倉夾への恋! そんなものがブレーキになってしまうのなら、どんな手だって使おう、僕に恋をするよう仕向けてやる。それほどまでに僕は、北条流麗が欲しいのだ。
(どうかルリ……決断してくれ)
カインはゆっくりと息を吐き、ソファから立ちあがって、ライティングデスクに置いてあるパソコンのまえに移動した。一度祈るように目を閉じてから、立ったまま、電源を入れる。昨夜は、仕事関係のメール以外に受信はなかった。
メールボックスを開く。送受信の時間にじれったい思いをしながら、カインは舞いこんでくる新着メールをじっと見つめた。
(ドイツ語、ドイツ語、これもダルムシュタットからだ……これは……英語?)
二通ほど混じっていた英語のメールにどきりとして件名を読んだが、どちらも母国の友人からだった。諦めきれずに本文を開けてみてもやはり、母国の友人からのものに間違いはなかった。日本語のメールは、ひとつもない。新着のメールを一から確認してみても、結局、流麗からのメールは見あたらなかった。
(今日も来ないか……)
カインは、デスクに両手をついたまま、目を閉じた。
(いいや、彼女は必ず決断する)
必ず、だ。言い聞かせながら、カインはパソコンの電源を入れたままバスルームに向かった。服を脱ぐ。嫌でも目に入るのは、自分の腕だ。利き手の肩ぐちから肘上にかけて、一直線にはしる傷痕がある。一瞥して、カインは熱いシャワーを頭からかぶった。
そう、才能はある。神から授かった、類稀な才能はある。だが、何事もなく平穏無事に、ヴァイオリンを弾きつづけて来られたわけではない。一度だけ、諦めかけたことがある。
(ルリ、断るな)
そのときのことを思いだすといっそう、カインは流麗をドイツに連れ帰りたいと思うのだった。
(断れば必ず、きみは後悔する)
ピアノが好きで、好きでたまらないという眸をしていた。「ピアノが好き」「ヴァイオリンが好き」、それはひとの恋に似ている。ピアノを愛しているからといって、ピアノに愛されるとは限らない。それが現実だ。自分が注ぐのとおなじだけの愛情を楽器に返してもらうことができず、涙を流した音楽家の卵たちを、カイン=ロウェルは何人も、何人も見てきた。北条流麗のような弾き手は――あれほどピアノに愛されている弾き手は、幾千億もの砂にまぎれたひとかけらの金のようなものだ。その類稀な存在と出会った奇蹟を、カインはけっして逃がしたくはなかった。
(ごめんな、キョウ)
カインは気づいている。夾が心の奥底に隠そうとしている、複雑な感情に。
(おまえ、マリアよりもむしろ、ルリのことを大事に思っているんだろう)
だが、ああ見えて律儀な少年だから、マリア=フォン=ルッツを捨ててふたたび流麗に寄り添うことなどはできないに違いない。それからもうひとつ、夾がもっとも隠したいと思っていること――。
(彼は怖れている)
流麗のピアノを。
流麗を愛おしく恋しく思う気持ちとおなじだけ、彼は流麗のもつピアニストとしての凄まじい才能を、怖れているのだ。
(それでいい。悪いけどキョウ、彼女のピアノは僕がもらう)
北条流麗が、この手をとるかどうか。彼女の決断次第で、自分の人生も大きく左右されることになるだろう。彼女がこの手をとりさえすれば、僕にはもっと素晴らしく豊かな人生が授けられる。カイン=ロウェルは、そういう予感をいま、胸に抱いている。