第四楽章 「岐路」
試みを怖れされることで、勝ちとれたはずのものまで失わせる。
――ウイリアム=シェイクスピア――
声にならない言葉の数々は、音楽によって語られることができる。流麗はピアノでそれらを語り、カイン=ロウェルはヴァイオリンでそれらを語る。
「えっ」
と言ったきり、流麗は息をのんでソファから半分腰をあげた。カインの唇には、相変わらず穏やかな笑みがある。
「ダルムシュタット音楽学院に、いっしょにおいで、ルリ」
「…………」
何度か口を開け閉めしたが、流麗の唇からはどんな言葉も出てはこなかった。
「そんなに驚くことでもないだろう? きみのピアノを聴いたら、学院の教師も理事も、目のいろを変えるよ」
そう、ピアノにだけは自信がある。だがカイン=ロウェルに真正面から「いっしょにダルムシュタットに行かないか」と言われて、いったい誰が「ハイ、分かりました」などと答えられるだろう? 流麗は、世にもまぬけな顔をしてカインを見あげた。
「はは……」
驚きが過ぎると、乾燥した笑いが洩れるものらしい。
「ルリ」
カインが、まっすぐに流麗を見つめている。流麗の両手をとり、ふたたびソファに座らせて、
「僕は本気で言っている」
と言った。
「僕はきみのピアノに、心を奪われた。聴いたその瞬間に、だ。あの楽器店ですでに、心奪われていた。きみは? 僕のヴァイオリンを聴いて、きみはどうだった。僕のヴァイオリンは、きみにとってどうだった?」
おなじだ。聴いたその瞬間に、魂ごと奪われていってしまった。あの付録CDの『チャルダッシュ』を聴いたときから、流麗はもうすでに、カイン=ロウェルの虜なのだ。
「僕たちは、似ている。そう思わないかい? 楽神に愛された片羽根どうしが、ここでようやく、おたがいを探しあてた」
と、カインは聞いているこっちが赤面しそうなことを言ってのけた。実際、流麗は自分の頬が赤くなっていることを自覚している。恥ずかしいのだか嬉しいのだか、いよいよ流麗はパニックに陥った。流麗の動揺を見透かしたのか、カインはさらにつづけた。
「僕のエゴかもしれないと分かっているけれど、僕はきみをドイツに連れていきたい。きみといっしょに、音楽をやりたいよ」
と、言う。
「ずっと、きみのピアノを聴いていたい」
彼の口調は冷静だし、その美貌もけっして人の好いあたたかみのあるものではない。そのくせペリドットの双眸はたいそう熱っぽく、まるでプロポーズでも申しこむような真摯さで口説いてくる。ああ、本気にしてはいけない、だめ、そう思いながら、
「わ、私、でも、ドイツ語なんてできないし……」
と言っていた。
(ああ、違う……!)
そういう問題ではないのだ。
「僕がちゃんと教えてあげる。ずっと傍にいて、きみを助けるよ」
「でも、学校だってあるし」
そういう問題でもない。
「何なら僕が、直接きみのご家族を説得しよう。きみのご両親も、音楽家なんだろう? きっと分かってくれるよ」
信じられないような猛プッシュだ。流麗の息は、いまにも止まってしまいそうである。カイン=ロウェルが、そんなことを本気で言っている? いいや、嘘に決まっている。
「ドイツに行ったって、住むところだって……それにお金だって」
「僕の家に住めばいいじゃない。家賃だっていらないし、きみなら特待生として学費も免除されるに決まっているよ。僕の家なら、いくらでも部屋は空いている。きみに変な手出しをしないと、もちろん誓う」
駆け引きも何もあったものではない。流麗がぽかんとしてしまうほど、カインは直球で攻めてくる。
(馬鹿! 嘘に決まってる!)
流麗は、心のなかで悲鳴をあげた。だが、目を逸らすことのできない自分の本音がある。もしも、このひととドイツへ行って、毎日彼と音楽を学びながら――好きなだけピアノを弾き、好きなだけ彼のヴァイオリンを聴きながら過ごせたら、どんなにかいいだろう!
朝倉夾に怪我をさせた、あの事故さえなければ、それはおそらく流麗が迷わずに選びとっていた道だ。自分の人生はすべてピアノに彩られ、きっとピアノを弾くことで暮らしをたてていくのだろうと、信じて疑わなかった過去が、確かにある。
時には居眠りをしながら授業を受けて、友だちと楽しくおしゃべりをして、そして放課後に一時間ほどだけ松田楽器店でピアノを弾く、その生活はけっしてつらいものではない。いまの暮らしは楽しいし、じゅうぶん幸せだ。本格的なピアノレッスンはやめる――そう決めたのは六年まえの流麗自身であって、誰のせいでもない。
だがどこかに、朝倉夾を羨む気持ちがある。カイン=ロウェルに憧れる気持ちがある。私もその場所で、ピアノを弾きたい。好きなだけピアノを弾きたい。すべてをピアノに捧げる暮らしを、私も手に入れたい。
「ルリ、いっしょに来ないか。きみの音色は、僕の理想だ。きみほどピアノに愛されたひとを、僕は見たことがない。きみのことは、必ず僕が守るから。きみはもっと、もっとピアノを弾きたいはずだ」
「……あの、あの」
流麗はみっともなく口ごもった。
「その、もう少しだけ、あの、時間を……」
「……もちろんだ。ルリ、僕は明後日までこのホテルに滞在している。自分がどうしたいか決まったら、ここに来てくれ。フロントには、話を通しておくから」
彼の熱っぽい口説きから、逃れてしまいたかった。ペリドットの双眸を見つめることが、いまはとても怖い。もちろんここに連絡をくれてもいい、と言いながら、カインはホテル備えつけのメモ用紙にさらさらと何かを書きつけて、流麗に寄こした。パソコンのメールアドレスだ。
「ルリ」
キスもハグもしないかわりに、カイン=ロウェルは流麗の手を強く握った。
「ルリ、僕は待っている。どうか、自分のほんとうに望む道を選んでくれ。きみには手に入れられるものがたくさんある。いいかい、試みることを怖れないで。いつだって道はひらかれているんだ」
怯えたように重ねてうなずきながら、流麗は手をひいた。心臓がばくばくと音を立てていて、だがそれは、昨日とはまた違う胸の高鳴りだった。
「あの! 私、今日はこれで……」
「……ああ、もうこんな時間か。送ろう」
「いえ、その、タクシーで帰るのでだいじょうぶです、ひとりで!」
「でも、ルリ」
「ほんとうに、だいじょうぶです! あの、今日はありがとうございました」
カイン=ロウェルは、何ともいえない困惑したような表情で、流麗を見つめていた。あまりにも強引に口説きすぎただろうかと、自問自答している表情にも思われた。流麗は、彼の腕をすりぬけるようにして部屋を出た。後を追ってくる気配から逃れるように、流麗は途中から走りだした。豪奢なホテルの部屋の造りが、いまはまったく目に入らない。
これは岐路だ。
(私が、これからどうやって生きていくかの……)
想像してみる。ピアノとともに、ピアノにすべてを捧げて生きていくか。それともいつか、ピアノとは関わりのない仕事に就いて、仕事の隙を縫うようにしてピアノを弾くだけの道を選びとるか。人生は一度きり、陳腐な言葉だが、しかしそれは動かしがたい事実である。
夾の指に怪我を負わせたあの罪は、もう許されるだろうか、許されてもいいものだろうか――。それにダルムシュタットへ行くということは、カイン=ロウェルとだけではなく、つまり夾やマリア=フォン=ルッツとともに学ぶということでもある。きっとつらい。それに耐えることが、果たしてできるだろうか?
(でも、ピアノが弾ける。それ以上の何を望むっていうの)
暮らしのすべてがピアノに彩られる。それは幼いころから心のどこかに抱きつづけてきた、輝く夢ではなかったか? 後悔はしたくない。しなくてすむなら、それがいちばんいい。「夾の怪我はもう治ったよ、おまえは許された、もうピアノを弾いていいんだよ」、誰かがそう言ってくれたなら!
カイン=ロウェルがしめしてくれた、その道を選びとることが許されるなら――「……ドイツ」、と流麗はつぶやいた。
(やっぱりピアノを弾きたい、私)
諦めなくてもいいなら、諦めたくない。「試みることを怖れるな」と、カイン=ロウェルは言った。ホームにすべりこんできた電車に乗ることも忘れて、流麗は立ち尽くしていた。その体を押しのけるようにして、ひとびとが電車のなかへ乗りこんでいく。舌打ちをされてようやく正気にかえり、流麗はよたよたとベンチまで退き、腰をおろした。
ほんとうにいいか? 一歩踏みだしてしまえば、きっともう二度と後戻りはできなくなる。そういう躊躇があったのに、流麗はいつのまにか父親の電話番号を呼びだしていた。
『……はい、もしもし?』
穏やかで優しい、父の声が聞こえてきた。
「……お父さん、私」
『どうした、るー。ちょうどいま、連絡しようと思っていたんだけど、おまえちょっと遅すぎるじゃないか?』
私はいま岐路に立っていて、ひとつの道を選ぼうとしている。けっして平坦な道でないと知りながら。ピアノが好きというだけでは、乗りこえられない壁もおそらくあるだろう。
「あのね、お父さんね、もしもの話なんだけど」
いつもとは違う流麗の声音を察したのか、父親は一瞬の沈黙のあと、「はやく帰って来なさい」とは言わずに、
『うん。もしも、何?』
と言った。そのうながしのせいもあったかもしれない。
「私が、また本格的にピアノの世界にもどりたいって言ったら、どうする?」
つるりと唇から言葉がこぼれた。ああ、これですべては動きだしたのだ。言ってしまった瞬間に、流麗はそう悟った。ひとりでは踏みだせない臆病な自分だから、とっさに父親に電話をしたのだ――。
『……それは本気で言っているの?』
「うん」
『なら、お父さんは大賛成だ』
そう、父親はこうやって背中を強く押してくれるだろうと、流麗には分かっていた。
(お父さんに、言っちゃった)
だがもしもこれを逃がしたら、きっともう二度とチャンスはめぐってはこないだろう。
「ねえお父さん、私がピアノをはじめても、夾のお母さんたちは怒らないと思う?」
『流麗』
父親が「るー」ではなく「流麗」と呼ぶときは、真面目な話をしようとするときだ。流麗はどきりとして、「はい」、と返事をした。
『夾くんの指の怪我は治った。彼に怪我をさせたことは忘れてはいけないけれど、かといっておまえがピアノを弾いちゃいけないということじゃない。お父さんはそうやって何度も説得したろ。朝倉さんのところとはもう連絡を取っていないけど、少なくともおまえにたいして怒ったりはしていなかった。仮に怒っていたとしても、おまえがピアノを諦める必要はどこにもない』
駅のホームに設置されたベンチで、じわじわと滲んでくる涙をもてあましながら、流麗はうつむいていた。ひょっとしたら何も知らないひとには、失恋した女の子にでも見えているかもしれない。流麗がピアノのことについて自分から言及したのは、これがほとんどはじめてのことだった。父も母も、確かに何度も流麗をピアノの世界にもどそうと説得した――どんな言葉にも耳を貸さなかったのは、流麗だ。父は、突然の娘からの電話に何かを感じたのかもしれなかった。彼は、「帰ってきてから話そう」とは言わなかった。
『おまえがピアノの世界にもどると言うんなら、お父さんもお母さんももう、遠慮なんかせずに応援する』
ここで押しておかなければ、娘の気が変わるとでも思っているような雰囲気だった。こちらもそれに乗せられるようにして、流麗はうっかり勢いで、
「お父さん、私もダルムシュタットに行きたい」
そう言っていた。
『うん。……ン!?』
「お父さん、夾のお母さんたちが気を悪くしないなら、私もダルムシュタットに行きたい」
『ダッ……』
心臓がばくばくと音をたてている。
「あのね、お父さん」
声がかすかに震えた。
「私ね、今日、ダルムシュタット音楽学院の来日コンサートを聴きに来てたの。カイン=ロウェルのヴァイオリンを聴いた」
カイン=ロウェルに誘われたのだとは、なぜか言えなかった。だが、流麗のその言葉だけで、父親はさまざまなことを理解したようだった。カイン=ロウェルがいったいどういうヴァイオリンの音色を奏でだすのか、ヴァイオリニストの父だから、もちろん知っているのだ。そしてその類稀な音色を奏でだす若いヴァイオリニストが、自分の娘にどのような影響を与えたのかということも。
『……聴いたのか』
「うん。聴いたの」
『それで、ダルムシュタットに行きたいと思ったのか』
うん、という答えが声にならなかった。ついに涙がこぼれ落ちたのだった。なぜ泣いているのかは分からなかった。ようやくそこで、
『……流麗、とりあえず帰って来なさい』
と、父が言った。人目も憚らずに、流麗は叫ぶようにして言った。
「お父さん、私、迷ってるの。ダルムシュタットに行きたい。いいか、だめか、いま言って!」
『……流麗、それは……』
「お願い、お父さん、いま言って」
父親はいま、心配している。「行きたい」と言われて一分で決断を下すには、ダルムシュタットは遠すぎる。流麗にだって分かる。もしも自分が親なら、いいからとりあえず帰って来いと言うだろう。電話のむこうで、父親がひどく迷っているのが分かる。
「お父さん」
自分でもみっともないような、涙声だった。父親が深く息を吸ったのが聞こえた。
『いいか、だめか、とりあえずそれを言えばいいのか』
「……うん」
『いい。どうしても行くというなら、行っていい』
「え」
我ながらまぬけな声だと、流麗は思った。よりによってそれはないだろう、というような間の抜けた返事だった。
『行っていいかだめかという話なら、行っていい。あとの話は、帰ってきてからだ』
すぐに帰って来なさいという父の命令に、流麗は弾かれたようにベンチから立ちあがった。
「い、急いで帰る! お父さん、寝ないで待ってて! すぐ帰るからね!」
次の電車が来るのは、十分後だった。自分の指が小刻みに震えているのを、流麗はほとんど夢心地で見つめていた。