第三楽章 「せつない夜はクライスラーに癒やされて」
空白の六年間がもどってきたような気がしたのは、ほんの一瞬のことだった。はっとしたときにはもう、扉の傍らに立つ男はまるで知らないひとのようだった。
流麗は、一度は伏せた視線を、ふたたびそろりとあげた。髪をダークブラウンに染めているせいか、カインよりも幼げでやんちゃめいた印象がある。
「驚いたかい?」
と、カインは日本語で言って、微笑んだ。
「じつはルリと会えたんだよ。噂の、きみの幼馴染みと」
夾は、なかば茫然とした顔でこちらを見つめていた。カイン=ロウェルに悪意は感じられない。彼のほうは単純に互いを――というよりは夾を、驚かせてやろうとしていただけのことらしい。彼はおそらく知らないのだ。夾が「待っていて」と言い残して渡独したこと、流麗がそれを信じて待ちつづけたこと。けれど夾からは何の音沙汰もなかったこと、流麗がいまでも淡い恋心を抱いていること。
「……流麗……」
(いやだな)
と、流麗は思った。気まずい。夾の茫然とした顔、困惑したような表情、彼は確かに幼い日の約束を忘れたというわけではなく、約束を覚えていながら連絡を寄こさなかったのだ。うっかり涙ぐみそうになって、流麗はまたうつむいた。
「キョウ、マリアはどうした? せっかくだから、四人でも夕飯でも」
流麗の音色に惹かれたかたちで、彼はどうやらまだ、流麗と離れがたいらしい。夾がいやに慌てた顔をして、流麗はまた溜め息をつきたくなった。ああ、やっぱり。やっぱり私が待っていることを承知で連絡をくれなかったんだ。だって、罪悪感たっぷりの表情をしている。
「いやマリアは……それより、おまえがいないから探しに来たんだけど」
「何だ、キョウ。幼馴染みよりも恋人を優先するつもり?」
「カイン」
悪意がなさそうに見えるだけに、カインの素朴な物言いを夾も思うように牽制できない。この部屋のなかで、ピアノとカイン=ロウェルだけが堂々としていて、流麗はやけに恥ずかしくなってしまった。もともと諦めのほうが大きかった恋なのだからと、流麗はようやくうつむいていた顔をあげた。夾をこれ以上困らせたくはなかったし、何より彼があらわにする罪悪感を、これ以上見ていたくはなかったのだ、自分のプライドのためにも。
夾はいま、流麗のことを“約束を破られて傷ついている女の子”として見ている。たまらない気持ちだ。
「流麗、……あの」
「ひ、久しぶり……その、元気だった?」
付き合いたての中学生でもこれほどではないだろうというぎこちなさだったが、流麗は精いっぱい嬉しげな声を出した。ぎゅっと胸の奥をつかまれるようなせつなさを感じながら、流麗は、幼馴染みとの六年ぶりの再会を喜ぶ顔をしてみせた。
(私は、夾がいないとだめってわけじゃないんだから)
ピアノがあるし、それにまだ夢みたいだけれど、カイン=ロウェルと出会えたんだから。それに夾がいなければ、きっとカイン=ロウェルとあんな出会いかたはできなかったわけだし。べつに何てこともないんだから――だからそんなに、申し訳なさそうな顔をしないでほしいの。悲しいし、それにちょっとは、腹も立つ。
「え。あ……ああ、うん、……流麗は」
元気だよ、と流麗は言った。ピアノの鍵盤に乗せたままの左手が、ほんのかすかに震えた。カイン=ロウェルの眸が、それをちらりととらえた。
「…………」
つかのま奇妙な沈黙があって、ふいにカインが微笑んだ。
「まあ、恋人どうしの邪魔をするのも悪いかな。ルリ、久々の再会なのに悪いけど、僕に時間をくれる気はない?」
流麗の手を鍵盤のうえからそっと退けて、カインはさっさと鍵盤蓋を閉めてしまった。あ、と未練がましい声が流麗の唇からこぼれて、カインの微笑みはさらに優しくなったようだ。
「ちょっと、カイン、おまえ何を」
夾の焦ったような声を無視したカインの手が、流麗の腰にそっと添えられる。優しいが、しかし有無をいわせぬ強さで、流麗はさらりと部屋の外へ連れ出された。触れあいそうな距離で、夾とすれちがう。流麗は、わけがわからないままカインに従うしかなかった。
通路から、流麗をひとの少なくなったホワイエにそっと押しだして、カインは長身をそっとかがめるようにして言った。
「すぐに戻ってくるから、ルリ、ここで待っていてくれる?」
嫌です、と言えるはずもなく、流麗はこっくりとうなずいた。
言葉のとおり、カイン=ロウェルはほんとうにすぐ戻ってきた。
「えっ」
最初、それがカイン=ロウェルだとは分からなかった流麗である。色素の薄いきれいな髪が、黒くなっていた。眸の色はダークブラウン。ルリ、と間近で声をかけられてはじめて、流麗は彼を彼だと認識した。彼は悪戯っ子のような顔つきで、指先に引っかけていたサングラスを掲げてみせた。
「変装。そこそこいけると思わない? どう」
日本人にしては顔の彫りが深すぎるし、何にしても端整にすぎる美貌だから、けっして目立たないとはいえないが――まあ、カイン=ロウェルだとは気づかないかもしれない。びっくりした流麗に満足した様子で、カインは小さめのボストンバッグを肩に担ぎあげて、流麗をうながした。落ち着いたダークブラウンの、七分袖のフェイクシャツが、すらりとした長身によく似合っていた。
「行こう、おいで」
とんでもない度胸だ。彼は流麗の手をひいて、驚くべきことに一般のエントランスから外に出た。冷や冷やしたのは流麗のほうである。
「さきにタクシーを呼んでおいたんだ」
と、彼は笑った。
「あの、……あの、だいじょうぶなんですか」
あまりの自由奔放ぶりに不安になって、流麗は思わず彼を見あげた。
「何をそんなに心配しているの。だいじょうぶだよ、公演が終わったあとの時間、僕たちは自由を約束されている」
そして彼は、ホールまえのターミナルに停まった一台のタクシーに歩み寄り、その後部座席にまず流麗を乗せた。ボストンバッグを足もとに、ヴァイオリンケースを自分の膝のうえに置いて、カイン=ロウェルは運転手にひとこと、ホテルの名前を告げる。彼はまったく流麗の都合を聞かなかったが、まったく不愉快な感じはしなかった。会って間もない男にのこのことついていくことがどれほど危険か、分からないほど馬鹿ではない。それでも流麗は、おとなしくカインの隣に座ったまま、彼が口を開くのを待った。
「僕の滞在する部屋に、ピアノがある。弾いてくれるかい?」
「……え」
「キスもハグもしない。誓うよ」
と言って、カインはたいそう魅力的なウインクをしてみせた。世のなかのたいていの女なら、まず信用しない言葉だ――ホテルに招いておいて、キスもハグもしないだって?
「……はい……」
だが流麗は、それを素直に受けとった。カイン=ロウェルの誘いを断れるはずがなかったし、なぜか彼の言葉を疑う気持ちは、これっぽっちも湧いてはこなかった。流麗にとってはただ、隣に座るこのひとがカイン=ロウェルだというそれだけで、じゅうぶんだった。
夢かな、といまだに思うその気持ちが、今夜の流麗を少しばかり大胆にしている。カイン=ロウェルは満足げに微笑んで、ネオン輝く都心を走るタクシーの後部座席に、ゆったりと背をもたせた。
*
「どうぞ」
カイン=ロウェルは、流麗を部屋のなかへと導いた。リビングの手前にミーティングルームとダイニングを兼ねたスペースがあって、そこに小ぶりながらも質のよさそうなグランドピアノが置いてある。この立派なスイートルームが、東京公演のために準備された彼の拠点であるらしい。
「……すご」
ほんとうにこんな部屋に泊まるひとがいるんだ、と流麗はつかのま立ち尽くした。
「どうぞ、座って」
バストイレがどこにあるのかも、よく分からない。とにかくピアノのあるリビングの左手に、おそらくベッドルームやバスルームなどがあるのだろうと推測できる程度だ。流麗をゆったりとしたベージュのソファに座らせて、カインはキッチンへと立っていった。
静かだった。キッチンのほうで小さく物音がするほかは、備えつけの大画面液晶テレビから、リラクゼーションミュージックらしい旋律が流れてくるばかりである。夢かな、とふたたび思いはじめた数分後、カイン=ロウェルが銀のトレーにティーカップをふたつ、それから砂糖とミルクの小さなポットを乗せて戻ってきた。
「紅茶は飲めるかな?」
「あ、……はい」
まるいガラステーブルに、彼はそっとトレーを置く。骨ばって男らしいながらも美しい手指に、なかば見惚れながら、流麗は頭をさげた。あかるい夕陽いろの紅茶が、カップのなかで優雅に揺れている。
「飲んでみて。紅茶を淹れるのは得意なんだ」
うながされるまま、口をつける。正直なところ、緊張していて紅茶そのものの味わいなど分からなかったが、
「……美味しいです」
と、流麗は言った。カインは、流麗から少し距離をおいたひとりがけのソファに腰かけている。近すぎず、遠すぎもしない、絶妙な距離だ。美味しいです、といい加減なことを言った流麗に(たぶんそれはほんとうに美味しかったのだ)、彼は優しげな微笑みを返してきた。
女性とふたりきりでいることに慣れているのか、それとも根っからの紳士なのか、何の緊張もない穏やかさだ。
「……キョウが好きなんだね」
素敵だなァ、と思った瞬間に直球が飛んできて、流麗は思わずカップを取り落としそうになった。紅茶を変に飲みくだしたようになって、喉がこくっと鳴った。
「…………」
否定することもできないまま、流麗はその眸をまるくして、はからずもカインと見つめあう羽目になった。
「なぜかな。きみといい、マリアといい、キョウのどこに惹かれたのかな? 溌剌とした少年らしさ? ピアノの音色に惹かれた、っていうわけではないんだろう?」
と、カインは言った。悪意のある言いかたではないが、鋭い。
「え、と……あの、なんで……」
「彼のピアノは素晴らしいけれど、きみが理想とする音色ではないと僕は思っているんだよね」
「…………」
図星ではある。夾のピアノに惹かれたのではない。ピアノも何も関係のないところで、流麗はただ単純に、夾に恋をしていただけだ。いつもいっしょにピアノを弾いていた幼馴染み――ピアノを弾くだけではなかった。ともに遊び、ともに学び、しばしば二家族で旅行もした。彼といっしょにいることは、おぼろげになりつつある記憶のなかでも、楽しかった。その彼が「待っていて」と言って、去ったのだ。待たなければ、と流麗は思ったし、また待っていたくもあった。ピアノの存在がなかったとしても、流麗はきっと夾に恋をしただろう。物理的な距離の近さは、恋心をはぐくむための大切な条件のひとつだ。
「……あの、気づいたから連れだしてくれたんですか……? さっき」
「きみの指が震えていた」
恥ずかしくて、ついうつむいた。全部ばれていたのだ、ほかでもない、このカイン=ロウェルに。
(恥ずかしい……)
「せつない顔をして、でもそれを必死で隠そうとしていた」
よほど身の置き場のなさそうな顔をしていたらしい。カイン=ロウェルは思わずといったふうに笑って、ヴァイオリンケースを手にとった。
♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪……
彼は何も言わずにヴァイオリンを弾きはじめた。クライスラーの『愛の喜び』だった。
「何も恥じることはないよ」
そう言っているのだ。彼は、『愛の悲しみ』を弾きはしなかった。あっ、と思うまもなく、涙がこぼれた。悲しみはなかったが、「失恋したんだな」、とあらためて思った。そしてそれを、カイン=ロウェルがヴァイオリンで癒やしてくれていることが、嬉しかった。
(嬉しい)
と一度思ってしまうと、あとはもう嬉しさゆえの涙なのか、せつなさゆえの涙なのか、分からなくなった。
「バラードを弾いてよ」、とカインは言った。あまりの恥ずかしさに頬を赤らめながら、流麗はすんと鼻を鳴らした。それがまた恥ずかしくて、つい笑ってしまった流麗である。
「はい」
ピアノ椅子に腰をおろす。心に澱んでいたものすべてが、きれいに溶けて消えていくような思いがするのだった。四番でいいかな、と思っていたところに、
「二番がいいな」
とカインが言うので、
「もちろんです」
うなずくと、彼は穏やかに微笑んだ――なんてきれいな笑いかたをするひとなのだろう!
バラードの二番は、穏やかな序奏から。シューマンはこれを四つのバラードのなかでもっとも低く評価したというけれど、流麗はこの曲もまた、好きだ。湖面の静けさから、イ短調の第二主題へ。アンダンティーノからプレストコンフォーコ、いちばん緊張する一瞬は、静から動へうつりかわる沈黙の一瞬だ。恋にも、似ているかもしれない。長く秘めていた想いがはげしくあふれだす瞬間に、似ているのかも。あるいは抑圧された怒り、そして愛が憎しみにかわる瞬間とか。
そしてイ短調のコーダ、終焉へ向かう。
……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪
ゆっくりと鍵盤から指を離した。
「ブラヴォ」
カイン=ロウェルが手を拍っている。気持ちよくなってしまって、流麗は笑った。
「いいね。そうだ、じゃあ……」
と、彼はおどけるようにウインクしてみせて、
「『愛の悲しみ』は弾ける?」
クライスラーだ。さっきカインが弾いてくれた『愛の喜び』としばしば対にして演奏される曲は、弾いたことはないが、よく知っている曲でもある。カインがボストンバッグのなかから引っ張り出してきた、薄いスコアにひととおり目を通して、流麗はうなずいた。簡単な伴奏だ。
「はい」
「僕がヴァイオリンを弾くから、きみ、伴奏してくれない?」
カイン=ロウェルがそんなことを言いだしたので、流麗は思わず瞠目してしまった――カイン=ロウェルの伴奏を、私が? 試されているのかもしれないとは、なぜか思わなかった。一も二もなく、流麗はうなずいた。
ふたたびカインが、ヴァイオリンを手にする。ヴァイオリンを手にする仕草が、とても優しい。心から愛おしむような触れかたをする。ヴァイオリンからはじまる一音めは、彼が視線を流すようにして合図を送ってきた。
♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪……
もの悲しく深くふくらむような、レントラーの三拍子。流麗は知っているし、カインも知っている。その音色がもっとも最上の状態であるために、自分たちがどういう演奏をすべきかということを、だ。いまはヴァイオリンが主役だから、まろみを帯びたカイン=ロウェルのヴァイオリンが、愛の悲しみを情感ゆたかにたっぷりと歌いあげる。流麗は、薄くやわらかなヴェールでそのヴァイオリンが奏でる音色をくるんでやらなければならない。そうすることでヴァイオリンの音色は、さらに深みを増していく。
どうしてだろう。息がぴたりとあう。ふたりがいま、ひとつになっている。
(こんなの、はじめて)
唇から笑みがこぼれた。カインもまた、満足げに唇に笑みを浮かべている。自分がいま、朝倉夾の存在をすっかり忘れてしまっていることに、まだ流麗は気づいていない。
ただ幸せだけを感じている。