第二楽章 「五月十七日」
あの日、カイン=ロウェルが手に押しこんでいったコンサートのチケットは、数日経っても、一週間経っても、消えたりはしなかった。
*
「るー、明日何してる?」
どきりとして、流麗はフォークを取りおとしそうになった。目のまえのティラミスは、親友である戸田恭子のおごり。ケーキをおごるから自分の恋の話を聞け、というわけだ。
「あ……明日? どうして?」
「ヒロ先輩がね」
ヒロ先輩というのは、テニス部のキャプテンである。恭子がガッツで落とした爽やかな三年生で、人柄もいい。
「おたがいに友だち誘って、映画でも行かないかって」
「ああ……いやあの」
「どう?」
「ちょっと、家のね、用事が」
つかのま奇妙な間があったような気もするが、かまっていられない。明日こそが、ダルムシュタット音楽学院のコンサートなのだ。流麗は緊張していた。ピアノのコンクールに出場するときだって、こんなに緊張したことはない。
(ほんとに、本物かな)
カイン=ロウェルと出会ったあの日から、流麗はほとんど夢心地である。あれからずっと、流麗の足は地についていない。あれがカイン=ロウェルだったなんて。カイン=ロウェルと言葉を交わしただなんて。彼がコンサートチケットを私の手に握らせてくれただなんて――そんなに都合のいいことがあるわけない、きっと夢だ、夢に違いない。そう思っているくせに、流麗はもう、すっかりコンサートに行くつもりになっている。
制服の胸ポケットには、あの日もらったチケットがある。流麗は、このチケットを片時も手放さなかった。食事のときも、風呂のときも持ち歩いた。学校に行くときはもちろん、寝るときだって枕もとに置いた。ひとときでも目を離してしまえば、チケットがなくなってしまうような気がしたのだ。
(本物じゃなくたって……本物じゃなくたって)
夢のつづきとでも思って、行ってみるだけなら損はない。流麗はまだ、夢のなかにいるような気持ちでいる。
「じゃあ、しょうがないよねえ」
と、恭子は唇を尖らせながら言った。
「ごめんね」
「……まさかと思うけど」
「ン」
「男が出来たとかじゃないよね?」
「ンッ!?」
声がうわずる。違う違う、とあわてて否定しながら、流麗は思った。信頼できる恭子が相手なのだから、ほんとうのところを言ったってかまわないのだ。流麗が、カイン=ロウェルというヴァイオリニストに熱をあげていることを、彼女はとうに知っている。
(でも、恥ずかしいし。もしチケットが本物じゃなかったら、恥ずかしいし……)
何より声に出して打ち明けてしまえば、胸のなかでそっと大事にしてきた夢のような現実が――なんだかんだと疑いながら、現実だと信じたい気持ちでいっぱいなのだ――泡と消えてしまいそうで、少し怖い。
「怪しいなあ。ほんとに?」
こくこくこく、と流麗はうなずいた。
「彼氏ができたら、ちゃんと報告してよね。分かってる? ていうか、そろそろ彼氏をつくってさ、四人で遊んだりしたいんだけど。私は」
うんうんとうなずきながら、流麗はふたたび明日のことを考えていた。恭子には悪いと思うけれど、彼氏どころではないのだ。二十四時間後には、もう自分はホールにいる――そしてカイン=ロウェルのヴァイオリンを、生まれてはじめて、生で聴く。聴いてしまったらきっと、いままでの自分ではいられなくなるだろう。
(聴きたい)
なかなか流麗の口に入らなかった、ティラミスの最後のひとくちが、
「食べないの? もーらい」
恭子の口に消えていった。
*
五月十七日、流麗は学校を休んだ。朝の五時には目が覚めたが、そわそわして何も手につかなかった。もとから流麗に休み癖がないせいで、両親は流麗の学校欠席にはうるさくないが、いま母親はモスクワに出張中だし、父親は七時には出勤していく。父親を送りだすまえに一度制服に着替え、それからまた、脱いだ。
一連の出来事をあれほど疑っておきながら、学校を休んでしまおうと決めた流麗は、制服を脱いだあと服選びに夢中になった。おなかはすいていなかったけれど、コンサートの途中でおなかが鳴ると恥ずかしいので、昼過ぎになってようやくトーストとハムエッグを食べた。
何度も封筒のなかのチケットを確認した。確認するごとに、息をするのが苦しいほど緊張感が高まっていく。家を出ると決めた午後三時までに二度シャワーを浴びて、三度、服を着替えた。結局、襟のついたツイード切り替えのワンピースに決めた。せめて少しだけでも大人っぽくしたいと思った、流麗の精いっぱいだった。
そうして午後の三時より少しまえ、流麗は家を出た。恭子といっしょにショッピングに行って、買ったまま放りっぱなしにしていたベビーピンクのミュールを履き、いよいよ高鳴っていくばかりの胸を抱えて、バス停に向かう。何度も深呼吸をした。
心のどこかでは、これが現実だと分かっている。けれどやはり夢心地のまま、流麗はバスに乗りこみ、そしてまたチケットを確認した。
(ちょっと、私って馬鹿みたい)
と、流麗は思った。バスのなかの客がみんな、おなじ行き先を目指しているようにさえ思えた。落ち着かない気分で、すでに運賃ぶんの小銭を握りしめているくせに、それをふたたび数える。駅までバスで十分、そこから国際ホールの最寄り駅まで、快速急行で十五分。休日ともなれば、友だちや母親とよく出かけていくところなのに、今日はなぜかまったく知らない場所へ行くような気分だった。
電車を降りると、いよいよ胸の高鳴りが激しくなった。よく知っている国際ホールまでの地図を、もういちど広げながら歩く。国際ホールといえば、ピアノをやめる十歳までは毎年のように、ピアノ発表会のために訪れていた場所だ。あのときよりもずっと、ずっと、緊張する。
(もういっぱいいる……)
まだ十六時にもなっていない――開場の一時間半もまえだというのに、すでにそれらしい女性客たちが数グループ、エントランス付近で明るい笑い声をあげている。ホールのなかにある小さな喫茶店は、満席だった。深呼吸をしながら、流麗はふたたびホールを出て、ホールまえの広場に設置されたベンチの端っこに腰をおろした。あとは開場を待つだけだった。
ハンドバッグを抱えこむようにして、流麗はじっと自分の靴先を見つめた。「きみと僕とは、おなじ魂を持っている」、というカイン=ロウェルのあの言葉を、思いだしていた。
(これは現実なんだから)
雑踏のなかで、祈るように自分に言い聞かせる。「きみと僕とは、おなじ魂を持っている」、あれほどもらって嬉しい言葉が、果たしてあるだろうか?
十七時半になったとたん、客がなだれこむようにエントランスに入っていく。流麗はつかのま、放心したようにその光景を見つめていた。
(……行こう)
今日は遊んで帰るから、ちょっと遅くなるね。父親にメールを送って、流麗はついに立ちあがった。
ご来場ありがとうございます、と受付のきれいなお姉さんが笑いかけてきた。いつもの流麗なら、明るい笑顔をかえせるのに、いまは笑顔も言葉も出てこない。破裂しそうな心臓を抱えてチケットを渡すと、それは無事に半券を切られ、プログラムといっしょに返ってきた。「お客様、このチケットは偽物です」とは誰も言わなかったし、もちろん受付で止められることもなかった。チケットは本物だった。
(本物だった……!)
叫びだしたくなる気持ちをぐっとこらえて、流麗はうつむいた。顔がにやけていくのを止められずに、唇を噛む。本物だった、これはまぎれもない、現実だったのだ!
(本物だった!)
世界じゅうのひとたちに、自分はいまこんなに幸せなのだと伝えてまわりたいほどの気持ちだった。
ホールのなかには焦げ茶の上品な絨毯が敷きつめられてあって、壁は黒々と光っている。ひとの波にまぎれてホールのなかに入り、流麗は椅子の背表示を見ながら階段を下りた。
(G、F……、E……)
Xcの19、ステージが近づいてくるほど、緊張していく。前から三列目、ピアニストの指さばきがはっきりと見えるその場所は、おそらく関係者席だ。
「こ、こんないい席」
どうしよう。
(どうしよう)
落ち着かず、わけもなくホール380度を見まわして、ひとつふたつ深呼吸をした。逸る心をおさえて席に腰をおろし、まだ薄暗いステージをぼんやりと眺めた。客が次々と席を埋めていく、そのおかげで少しずつ実感が湧いてくる。ステージのうえには、大きなフルコンサートピアノ。反響板。客席が埋まっていくときの穏やかなざわめき。ピアノをやめて六年――六年だ。流麗の年齢にしてみれば、それはけっして短い年月ではない。ずいぶん長いあいだ、「この場所」から遠ざかっていたのだなあと、流麗はぼんやりと思った。
この場所を、知っている。ひとつめのブザーが鳴る、影アナの声がロビーにいる客を招きいれる、そしてふたつめのブザーが鳴り、拍手がわきおこり、そして演奏者が颯爽と下手から出てくる――いつのまにか視線を逸らすことも忘れて、流麗はステージを見つめていた。
そう、演奏者が颯爽と下手から出てくる。
(……夾)
拍手のなか舞台袖から姿を現した朝倉夾を、流麗はほとんど茫然としたまま見つめた。燕尾服の彼は、雑誌やテレビでこそ見てはいたものの、やはり遠い、知らないひとだった。自信に満ちあふれた、わずかに悪童めいたハンサムな顔。画面を通さずに見る朝倉夾は、記憶のなかにあるよりもずっと輝いている。こんなに近い。だが彼は、流麗にはけっして気づかない。六年というのは、つまりそういう時間の長さだ。
一礼をして、彼はピアノ椅子に腰をおろした。
♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫……
ショパンのソナタだ。なめらかに鍵盤のうえをすべっていく指を、流麗は眺めていた。
(ちゃんと、手は治ったんだ)
あれからずっと心のなかに抱えてきた罪悪感がある。もしかしたら、そろそろ忘れてもいいのかもしれない。ピアノの音色よりも、つい成長した夾の顔や指先に視線を奪われた。
ショパンのソナタ三番。それからエオリアンハープ。バラードの四番。彼がショパン国際ピアノコンクールで優勝したときの曲だ。罪悪感を忘れてもいいのかもしれない、そう思ったのと同時に、流麗は羨ましいと思った。いままでにない激しさで、夾を羨ましいと思ったのだった。
(……弾きたい)
その気持ちは、カイン=ロウェルの演奏がはじまっていっそう激しく強くなった。カイン=ロウェルのヴァイオリンを聴いたその瞬間に、流麗は自分のなかにわだかまっていたいろいろなものが飛んでいくのを感じた。朝倉夾を見たときに感じたちょっとしたせつなさとか、忘れられずにいた恋心とか、そういうものをすべて彼のヴァイオリンが消してくれたような気がしたのだった。
燕尾服を着たカイン=ロウェルは、十八にはとうてい見えなかった。夾のような少年めいた明るさはなく、そのかわりに凛とした品高さがあるようだった。
……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫……
モンティの『チャルダッシュ』だ、瞬間、流麗はつい瞑目した。難易度の高い曲ではない、コンクールの課題曲にさえならないような曲なのに!
こんな音色は、世界にふたつとない。その素晴らしさを、いったいどういう言葉で言い表せばいいのだろう。「心に響く」、「魂を揺さぶる」、どれもふさわしくない。声をころして泣きたくなる、と流麗は思った。なぜ? 分からない。カイン=ロウェルのヴァイオリンを聴いていると、苦しい。天にも昇るような心地になりながら、もの悲しくもなり、せつなくもなる。パガニーニの無伴奏カプリス、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。流麗はふと、自分の指に視線を落とした。細くしろく、長い指。そしてみじかく切り揃えた爪。これは、ピアノを弾くための手だ。レッスンをやめてから六年間、それでも流麗は、ピアノとともに暮らしてきた。ピアノが何より好きだった。
聴衆を右に、ピアノを奏でるあの気持ちよさ。音色が、虹いろに輝くしゃぼん玉になってオーロラのように舞いのぼっていくのがみえる、あの感覚!
(……ピアノを弾きたい)
――私、ピアノを弾きたい。
*
アンコールが終わって緞帳が下りてもなお、流麗はそこから動けずにいた。あたりのざわめきから自分のいる空間だけが切り離されたような、孤独ともいえない奇妙な感覚を味わっていたところに声がかけられた。
「北条様でいらっしゃいますか」
視線をあげると、スーツ姿の男性である。流麗はうろたえた。何か粗相でもしたかと思ったのだ。こんなところで名指しで呼びかけられることを、流麗は予想もしていない。
「え。え、あの、はい」
「ぜひ楽屋のほうに来ていただきたいとのことで……お時間がよろしければ、わたくしが楽屋のほうへご案内いたしますが」
「ハイッ!?」
と、流麗の声は裏返った。
「カイン=ロウェルから、そのように言いつかっておるのですが……」
四十は過ぎているだろうとみえる優しげなその男性は、形のよい眉をわずかに下げるようにして、ひとの好い笑みを見せた。
「カ、……カ」
立ちあがった流麗の足がもつれた。
(……そうだった)
この席のチケットをくれたのは、いまとなっては夢と疑うのもおかしな話ではあるけれど、確かに楽器店で出会ったあのカイン=ロウェルなのだ。
「よろしいでしょうか?」
と、なおも男性が微笑みかけてくるので、
「ハイ、……ハイ」
うわずった声で案内の申し出を受ける。いくつかの興味深げな視線を浴びながら、流麗は彼にしたがって客席を出た。ホワイエではまだ、パンフレットやCD購入のための列ができている。着飾った若い女性から白髪の老人まで、年齢層の幅は広い。ひとの魂というものは、じつは以外と単純に出来ているもので、ほんとうに質のよいものを見たり聴いたりしたとき、魂はまったく素直に震えてしまうのだ。浮わつく足どりでホワイエを抜けながら、思わず自分のことのように得意な気持ちになった流麗である。
「リハーサル室にご案内を、ということでしたので」
と、男性は言った。ホワイエを抜け、絨毯の廊下を抜けて、舞台裏へまわる。そこにはいくつもの楽屋とリハーサル室がある。右手に進めば楽屋へ、左手に進めばリハーサル室と多目的室。男性は、流麗をしたがえて迷わず左手へと歩を進めた。
流麗は、名前の貼り紙がないリハーサル室へと案内された。廊下のいちばん奥、突き当たりを数歩曲がったところに、ひとつだけ仲間はずれのようなリハーサル室があった。
「こちらでしばらくお待ちいただけますでしょうか」
重たげなドアを開けて、なかに通される。男性が室内の灯かりをつけ、流麗は思わず感嘆の声をあげた。
「わあ!」
ピアノだ。男性は驚くこともなく、ただ感じよく微笑んでから手洗いの場所を流麗に教え、深々と一礼をして部屋を出て行った。
「うわあ!」
べーゼンドルファーの銘が入っている。流麗は部屋の隅にあったひとりがけのソファに、ハンドバッグを放りなげた。
「これ……」
そっと鍵盤蓋を開け、臙脂いろの布を取り去ると、流麗の目のまえに美しい鍵盤があらわれた。
「これ九十七鍵のやつだ!」
最低音を九鍵拡張した、モデル290のインペリアルだ。とたんにカイン=ロウェルのことも朝倉夾のことも忘れ、ピアノのことしか考えられなくなって、流麗は椅子に腰をおろした。
「べーゼンドルファーといったら、リストだよ」
と、流麗のひとりごとはとどまるところを知らない。すっかり楽しくなってしまったのだ。
「何がいいかな。弾いていいんだよね? カンパネラかな。森のささやきとか」
C、D、E、F、G、A、H。順に音階を追いかけて、それからカデンツァ、アルペジオ。気品に満ちあふれた、優しげな音色だ。
(……『ため息』だ)
そう、それがぴったり。流麗はそっと鍵盤に指を乗せた。右手と左手が複雑に交錯するこの曲をはじめて弾いたのは、小学生最後の年だ。アシュケナージの『ため息』を何度も聴いて、こっそり松田楽器店で練習した。
♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬……
優美な旋律は、貴婦人のため息だ。物憂げな美貌の貴婦人がいて、庭先には優しい木洩れ日が零れおちている。白い邸宅のなかに、夫の姿はない。ヨーロッパで頻々と起こる革命、その不安定な世情に彼女は漠然とした不安を抱いているだろう。
時刻は朝食が終わってすぐ。テラスで彼女は、薄青い空を見あげている。愛する夫の身に、何も起こらなければいいのだがと思いながら。
……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩……
家のヤマハとも違う、もちろん松田楽器店のスタインウェイとも違う、それはこのピアノだけが持つ音色だ。鍵盤はほんのわずかだけ黄ばんでいて、黒々と輝く外貌とは裏腹に、意外と使いこまれている。
……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪
なんという気持ちのよさだろう! ゆっくりと鍵盤から指を離して、流麗は深い満足の息をついた。
楽器にも個性がある、とはよく言われることではある。このべーゼンドルファーは、と流麗は思った。清楚で優しくて、繊細なぶんだけ、少し人見知り。
「きれいな音」
うっとりしながら顔をあげて、
「……!」
思わず悲鳴をあげそうになった流麗である。そこに、カイン=ロウェルが立っていたから。飛びあがるように立ちあがった流麗を見て、おかしそうに笑みながら、
「聴きに来てくれて、ありがとう」
と、彼は言った。
「……あっ、あの……」
自分の声がうわずるのを恥ずかしく思いながら、
「あの、あの、チケット、ありがとうございました!」
なかば叫ぶように、流麗は言った。本物だとは思いませんでした、とは言えなかった。
「きみのピアノは、ほんとうに素敵だね。ピアノに愛されている」
英国生まれの美しい貴公子は、声まで美しい。あのカイン=ロウェルからそういう賛辞をうけて、流麗はなんて幸せなんだろうとは思ったが、それをけっして意外なことだとは思わなかった。わりとお人好しで優しく、どちらかといえばひとを疑うことを知らない流麗の、数少ない欠点といえば欠点かもしれない。ピアノに関してのみ言えば、流麗はいっそ傲慢なほどの自信を持っている。自分がピアノを愛しているのとおなじくらい、ピアノも自分を愛している、それは流麗にとってたったひとつの揺るぎのない自信なのだ。
「う、嬉しいです」
流麗は、素直にその賛辞を受けとった。嬉しくて、恥ずかしくて、いまきっと自分の頬は真っ赤になっているだろうと流麗は思った。
「ルリ、もうちょっと聴きたいな、きみのピアノ。ほかに何か、いまここで弾けるものはある?」
飛びあがりたくなるほど、嬉しい言葉だった。ほかの誰でもないカイン=ロウェルが、あのカイン=ロウェルが、自分のピアノを「もっと聴きたい」と言ってくれる――やっぱり夢だ、夢に違いない、だってこんな幸せなことがあるはずないもの!
歓喜する自分に言い聞かせながら、それでも流麗は、弾む声を隠すことができなかった。
「ええと……あの、カイン。さん」
流麗の妙な呼びかけに、
「ぜひカインと呼んでくれ。僕もきみをルリと呼ぶから」
彼は優しく微笑んで言った。
(夢ならずっと、醒めなければいい)
「あの、じゃあその、カインの好きな曲は」
「僕の? そうだな……ショパン。バラードはどうかな?」
「好きです、弾きます!」
じゃあ、いちばん好きなバラードの四番を弾こう。ちらりと視線をあげると、そこには確かにカイン=ロウェルが立っていて、流麗をうながすように微笑んでいた。
そうして流麗が、指を鍵盤に乗せようとしたときだった。
『おい、カイン、何をして……』
ドアが内側に押しあけられて、同時に、声が聞こえた。カインが顔をめぐらせるのにあわせて、流麗も自然とその視線をあげる。その声が誰のものか見当もつかなくて視線をあげた流麗だったが、すぐに彼女は後悔した。後悔といっしょに、せつなさとも苦さとも、驚きともつかない複雑な気持ちが、どっと胸に押し寄せてきた。
そこに立っていたのが、朝倉夾だったから。