第一楽章 「天上のひと」
カイン=ロウェルは十八歳、ダルムシュタット音楽学院のマイスター・シュトゥディウム課程に在籍している英国人ヴァイオリニストである。学生とは思えない大人顔負けの貫録と気品があり、何よりもその端麗な容姿が印象的だ。美しい深緑の双眸を持っていて、西洋人らしい彫りの深い顔だちは貴族的、事実、英国の伯爵家の生まれなのだという。端麗な容姿は、諸刃の剣だ。実力がともなわなければ、批評家も聴衆も容赦なく「顔だけが取り柄の偽音楽家」と言いたてるから。審査員や批評家は、演奏家の容姿が目立つものであればあるほど酷な評価をしようとするものだし(同性の演奏家ならなおさらだ)、そういうときは、容姿が端麗なひとほど手痛い酷評を受けることになる。
だがカイン=ロウェルは、チャイコフスキー国際コンクールでも、エリザベート王妃国際音楽コンクールでも、優勝した。ダルムシュタットのプリカレッジに在籍していたころから、すでにいくつもの世界的音楽コンクール優勝を手にしているのだ。誰も彼のことを、「顔だけが取り柄の偽音楽家」などとは言わない。
天は二物も三物も与えるものなのだなあと、カイン=ロウェルを見ると流麗はいつも感心する。いちばん最初に彼のヴァイオリンを聴いたのは、ちょうど三年まえ、彼がプリカレッジに在籍していたころのことだ。流通量もさほど多くない、コアな音楽雑誌の付録でついていたCDのなかに、彼の『チャルダッシュ』がたまたま収録されていた。このころ、流麗が音楽雑誌を集めて眺めるのはほとんど、夾のことを知りたいという恋心ゆえだった。カイン=ロウェルの名前も顔もろくに知らなかった流麗は、この『チャルダッシュ』ではじめてカイン=ロウェルを知った。
落ちるように、流麗はカイン=ロウェルのヴァイオリンに夢中になった。夾にたいする恋心よりも、それはずっと熱く、激しい気持ちだった。カイン=ロウェル、このひとは世界でたったひとりのヴァイオリニストだ――彼に並ぶヴァイオリニストは、この世界にきっとひとりもいない。彼は世界じゅうの誰よりもヴァイオリンを愛していて、世界じゅうの誰よりもヴァイオリンに愛されている!
カイン=ロウェルは、魔法の手を持っている。彼が悲しい旋律を奏でれば、聴くひとはみな悲しくなる。楽しげな旋律を奏でれば、聴くひとはみな楽しくなる。『チャルダッシュ』を聴いたあの日から、流麗はずっと、カイン=ロウェルのヴァイオリンに夢中だ。CDの音色でさえこうなのだから、もしも彼の音色を生で聴いてしまったりなんかしたら、自分はいったいどうなってしまうだろう?
(聴きに行きたいな)
と、いま流麗は音楽雑誌『クラシックス』を広げたまま、考えこんでいる。
「ダルムシュタット音楽学院コンサート」
そう題したクラシックコンサートが、来月、日本の五大都市で催されるのだという。一昨年のチャイコフスキー国際コンクールでカイン=ロウェルが、そして昨年のショパン国際ピアノコンクールでは朝倉夾が優勝を勝ちとったということで、ダルムシュタット音楽学院の知名度も、そして若いふたりの音楽家の知名度も、飛躍的にあがった。学院側の粋なはからいというべきなのかどうなのか、いわば凱旋公演というかたちで、日本・イギリスでのコンサートが企画されたらしい。
ほんのわずかな躊躇が、流麗にはあった。朝倉夾の姿を心穏やかに眺めることができるだろうか? それだけではない。カイン=ロウェルの伴奏をつとめるのは、マリア=フォン=ルッツだという。きっと胸が痛むだろうと、流麗は思った。
(でも、カイン=ロウェルのヴァイオリンが聴けるんだよ)
彼にとっては、はじめての来日コンサートになる。次といったらいつ来日するか分かったものではないし、もし学院を卒業して本格的に活躍しはじめたなら、いよいよコンサートのチケットなどは取れなくなるだろう。
(カイン=ロウェルのヴァイオリンと天秤にかけてみたら、簡単じゃん。夾だって、もうほとんど芸能人みたいなものなんだから、気にすることじゃない。気にしちゃいけないんだから)
芸能人に恋をして、ひとりで勝手に失恋したようなものだ。
「うん。申し込みしちゃおう」
と、あえて流麗は声に出してみた。
「カイン=ロウェルが聴けるなら、何てことない」
声に出してみると、あっさり覚悟が決まった。
*
今日、家に帰ったらチケットの予約をする。
松田楽器店で、流麗はそっとスタインウェイの鍵盤をなでていた。
(♪♫♪♬♩……)
『チャルダッシュ』のピアノ伴奏は、そらで弾ける。カイン=ロウェルの奏でる主旋律を思いだしながら、流麗は弾き、夢想する。
流麗の指は、鍵盤のうえで踊るように動く。細くしなやかな指は過たずに鍵盤をとらえ、もの悲しさをふくんだ酒場を再現する。流麗のこのピアノに関する才能は確かに、音楽家である両親が、あるいはまたその仲間たちが口を揃えて言うように、天賦のものであるらしかった。ピアノを弾くために、血のにじむような努力をしたことはない。腱鞘炎になるような練習をしたこともない。それでも流麗には、誰も追随することのできない才能がある。
自分はピアノに愛されている。そういう自信が、流麗にはある。ピアノを愛しているという自信も、もちろんある。だからコンクールで優勝することにもこだわらないし、高名な演奏家に師事することにもこだわらない。ただピアノを弾けさえすれば、それでいい。
音楽に愛されたひとの指が奏でるのは、神の音色である。言葉で言いあらわすことはできない、けれどたった一音、Cの音を弾くだけで違いがあきらかになるような、そういう音色である。それは無条件にひとの心を癒やし、揺るがし、あるいは救う。流麗がカイン=ロウェルの音色にどうしようもないほど惹かれたのは、つまり、おなじだったからだ。陳腐な言いかたをすれば、「魂が、もとめていた片羽根を見つけた」のだった。それは、幼馴染みにたいする淡くせつない恋心とは違っていた。カイン=ロウェルのヴァイオリンにたいするそれは、いつまで続くかも分からないような恋心ではなく、永遠にこの魂に根づく、もっと美しい何かだろうと流麗は思った。
……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪……
流麗は、ふいに指をとめた。自分のピアノに重なるように、ヴァイオリンの音色が聴こえてきたからだった。
(え?)
ヴァイオリンの音色が聴こえたから、というとやや語弊がある。そのヴァイオリンの音色をよく聴き知っていたから、といったほうが的確かもしれない。体が自然とリズムをとってしまうような、二短調のリストスピカート、流麗は口をぽかんと半分開けたまま顔をあげた。
視線をやったそのさきで、ひとりの客がヴァイオリンを手に立っていた。「ああ、夢だな」と、流麗はごく自然に思った。
すらりとした長身に、色素の薄い髪色の男である。彼はまだ、ヴァイオリンを弾きつづけていた。ラルゴ、ゆったりとした哀愁ただよう旋律。彼はサングラスをかけていて、流麗からはその双眸が見えない。ヴァイオリンを弾きながら、その男が流麗にむかって軽く首をかしげてみせた。弾きつづけろ、という合図なのだとなぜか分かった。すぐに、アレグロヴィヴァーチェに入る。流麗は混乱のあまりぼんやりとしたまま、ピアノに向きなおった。
どんなときでも、指だけは動く。流麗は、すぐに考えることを放棄した。
……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩……
(ゆ、夢だから)
夢だとしたら、なんと幸運な夢なのだろう!
この音色を、流麗は知っている。清らかな水のように心に沁みこんでくる音色だ。床を鳴らして軽やかに踊るようなリストスピカート、哀愁と明るさが混じりあって、旋律がハンガリーの酒場に流麗を連れていく。夢、夢だとしたら、醒めなければいい。こんな音色を奏でるひとを、流麗はひとりしか知らない。
音色がやんで、かすかな気配がした。男が弓を下ろしたのだ。
(現実? 嘘だ、そんなわけない!)
けれどこの音色を、私の耳が聴きちがえるはずがない!
「な、なんでこんなところに」
と、現実だか夢だか分からないまま、かすれた声がつんのめるように唇からこぼれでた。ヴァイオリンを下ろした男は、どうやら愉快そうな顔つきでこちらを見つめているようだった。サングラスをかけているから、正確な表情は分からない。
「なぜこんなところに、というのは?」
低く柔らかく、優しげな声だった。
「こんな、こん、な小さ……ッな楽器店にいるとか、そんな」
流麗は、舌を噛みながら言った。
(ゆ、夢なんだからもっとスマートに……)
だが、夢のわりにはリアルだ。
「僕が誰だか、知っているの?」
「知っ、知ってる」
さらに噛んだ。
「なぜ?」
「なぜって言われても……なぜって言われても、だって、すぐに分かる」
青年の唇が、かすかにほころんだように見えた。彼は一度あたりを見まわして、誰もいないことを確認してから、サングラスをそっとはずした。澄んだペリドットの双眸が、あらわになった。昨夜見つめていた雑誌の写真とおなじ顔が、そこにある。「あなたが誰だかすぐに分かる」と断言したくせに、流麗はぽかんと間の抜けた顔で彼を凝視するしかできなかった。
「きみの名前は?」
「えっ」
「きみの名前は、何ていうの」
「……る、流麗……北条流麗です」
「ああ……」
と、彼は納得がいったような小さな笑みを唇に浮かべた。
「きみがルリ。よく聞いていたよ、きみの名前。人違いではなかったようで、安心した」
「はっ……?」
よく聞いていたよ、きみの名前? いよいよ流麗の顔は、間の抜けたものになる。
「きみが僕のことを知っていてくれて、嬉しいよ。カイン=ロウェルだ、よろしく」
青年が、手を差しだしてきた。美術館の展示品でも眺めるような目でそれを凝視してから、流麗は、おそるおそる彼を見あげた。茶目っ気たっぷりに柳眉をあげて、彼は握手をうながしてくる。
「…………」
流麗は、ぼんやりとしたまま手を差しだした。あたたかく大きな、そして美しく骨ばった手が、流麗の手を優しく握りかえした。
「カ、カイン=ロウェルって」
「ぼくは、きみの名前を知っていたよ」
「な、なん、なんで」
「きみ、キョウを知っているだろ?」
一瞬、キョウって誰だろう、と思った流麗である。
「キョウ=アサクラ」
キョウ――夾のことを言っているのだ!
「幼馴染みなんだって? ピアノを弾くたびに思いだす幼馴染みの子がいるんだって、彼はしょっちゅうきみのことを話していてね」
考えてみれば確かに、カイン=ロウェルも朝倉夾も、おなじダルムシュタット音楽学院でともに学ぶ仲間なのだ。それだけではない。いっしょに来日公演に訪れる間柄でもあるわけで――でも、夾が私のことを? これが現実なら、じゃあ、夾は私のことを忘れたわけではなかったということ? でもそれだったらなぜ連絡のひとつも寄こしてくれないんだろう……、流麗はすとんと落ちるように現実を見た。
(夢じゃない……)
「きみは楽神に愛されているね」
歩み寄ってきたカイン=ロウェルが、ひとつふたつ、鍵盤をたたいた。優しい音だ。流麗は泣きたくなった。
「コンクールの動画」
「え……?」
「きみが優勝したときのものを、聴いたことがある。キョウがインターネットで探して、僕に聴かせてくれた。そのときからずっと、きみに会いたいと思っていたんだ」
(……やっぱり夢かな……?)
「正直なところ、年月が経って、ピアノの音色も変わってしまっているんじゃないかと思った。ピアノをやめたらしいと夾にも聞かされていたし。とにかく一度きみに会って、きみの音色を聴いてみたかったんだ。それで、無理やりこの楽器店の名前を夾から聞きだした――ここ三日ほど毎日足を運んではいたんだけれど、どうもタイミングが悪かったみたいだね」
「…………」
「ごめんね、驚かせた。店長にお願いでもしておけばよかったのかもしれないけど、どうしても、素のままのきみを見てみたくて」
青年は微笑んで、すらりとしたオフホワイトのズボンの後ポケットから一枚の紙切れを取りだした。品のいい黒のポロシャツが、彼のすっきりとした美貌をいっそう引きたてているようだった。
「ねえルリ。きみ、ぼくと仲良くなってみる気はないかい?」
「……は……」
流麗の唇からは、もう声も出ない。
「きみの音色を聴いて、僕の魂は震えたよ」
と、こっちが震えあがりそうな台詞を、彼はさらりと言ってのけた。
(でも、私の魂も、震えた)
カイン=ロウェルの音色をはじめて聴いた、あのとき。
「きみと僕は、きっとおなじだ。おなじ魂を持っている」
おなじように愛されている。流麗はピアノに、青年はヴァイオリンに。
「そんなひとは、世界にそういない。ゼロかもしれないとさえ、思っていた。だから僕は、きみと親しくなりたい」
差しだされた紙切れは、よく見るとコンサートのチケットだった。来月に日本で開かれる、ダルムシュタット音楽学院のコンサートチケットだ。流麗の頭のなかは、それを見たことでまた真っ白になった。
「どうか、聴きに来てくれないか。僕はきみを虜にする自信がある――きっときみも、僕と親しくなりたいと思ってくれる。だから、おいで」
カイン=ロウェルは、流麗の手をそっととってチケットを握らせた。自分の指先が小刻みに震えているのを、流麗は茫然として見つめていた。
「きみに会えて良かった。今夜遅くに、帰国する予定なんだ」
時間がないからもう行くよ、とカイン=ロウェルは名残惜しそうに時計を見て、流麗の背を優しくたたいた。そして、無人のレジ横を抜け、あの重たい扉を押しあけて店を出て行った。
流麗は相変わらずぽかんと口を開けたまま、茫然とそこに立ち尽くしていた。