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第二話:人々、居眠り姫を語る(1)

 一般に辺境伯というものは外出していることが多く、居城にいることは少ない。

 それは領内の防衛体制を点検して回るためであり、時には主君であるネウストリア王の呼び出しに応じるためであり、そして今回のように群れを率いて放浪する魔獣の強大化個体を発見したとの報を受けて討伐に向かうためもである。

 現キルスティン辺境伯、オーギュストとてそれは変わらない。

「急な話だが、後を頼む」

 軍装を纏うオーギュストの姿は、長年の風雪に耐えた峻厳な大樹を思わせた。

「微力を尽くします」

 自然と伸びた背筋のままに、クロエは答えた。

 留守居役は、言ってしまえばただ椅子に座って書類を捌くだけの仕事ではある。

 配下の役人に任せきり、自分は何もしないという所領持ちの貴族も少なくはないが、キルスティンは違う。現領主のオーギュストがそのような怠惰を好まないということもあるが、この土地には異常発達した技術の産物が溢れかえっていることも理由の一つである。

 どちらかと言えば、そちらの方が余程重大であった。

 書類となって城内の執務室に積み上がる領内の出来事は、放置しておけば簡単に暴走して『外』の世界に流れ出しかねない。

 複数の案件が齎す結果と影響を考慮し、最大限穏便な形に着地させるのは、領内の全てを知ることが許された者――領主とその後継者だけなのである。

 そう自覚してみれば、書類一つとて疎かにはできない。クロエの姿勢を正させたのは、オーギュストが纏う武人の覇気に当てられたからというだけでなかった。

 

「ああ、言い忘れたが」

 扉に手をかけたまま、オーギュストが言った。

「エリーから『指輪』を受け取っておけ。書類の決裁に必要だ」

 クロエは頷いた。

 貴族の指輪は装飾品であると共に実用品だ。

 表面に刻まれた文様を封蝋や紙片に移すことで、本人の署名と合わせて公的な証明となる。

 それを預かるということは、一時的とはいえ領主の権限を任されたことを示していた。


 ――クロエは思う。

 人は自分が使い慣れた言葉を容易には棄てられない。

 だが、本来それではいけないのだ。

 言葉は他者に意味を伝えるためのもの。

 正確に伝わらない言葉は、不幸なすれ違いしか生まないのだ。


■■■


 クロエ・ニフレクス改めクロエ・キルスティンの朝は早い。

 寝台で身を起こすと、傍らに誰もいないことを確認して嘆息する。

 本来そこには妻――エリザの姿があるべきであった。

 だが、クロエは昨夜からエリザの姿を見ていない。

 使用人によればよくあることらしい。

 単純に、城内のどこかで昼寝したまま夜になり、朝を迎え、それでも起きてこないのだという。

 何の冗談かと無理やり笑い飛ばしたが、使用人は真顔だった。

 そして事実、エリザは寝室に戻ってきていない。

 正直に言えばどこに居ようと気にはならないので、探す気にもならなかった。

 

 有体に言って、クロエはいまだにエリザ・キルスティンという娘のことが良く判らない。

 初対面は予想外の形で果たされたし、初夜の出来事は未だに夢に出てきて魘される程度には最悪だった。

 領内の視察を経てやはり悪魔の化身だと確信するに至ったが……それなりの時間が経過した今、振り返ってみれば普段のエリザは大したことをしていない。

 

 傍から見ている分には、エリザの一日は単調だ。

 クロエが起床する時刻に起きていることはまずない。

 領内の資料を読み込んでから休憩のために部屋に戻ると、まだ寝ている。

 昼食の時間帯になると食堂に現れ、もそもそと軽食を摂る。それからどこへともなく姿を消す。

 使用人によれば城内のどこかにクッションを敷き、昼寝をしているらしい。

 居場所はその時々によって違う。

 一説には、陽の当たる場所を求め、時間に応じて移動を繰り返しているのだという。

 陽が落ち、夕食の時刻になると食堂に現れ、黙々と夕食を片付ける。それからどこへともなく姿を消す。

 クロエが寝室に戻るときには既に寝台へ潜り込んで熟睡している。

 会話は少ない。

 それ以前に、目を覚ましているエリザを見かけること自体が少ない。

 

 大したことはしていないどころではなかった。何もしていなかった。

 寝る。食べる。偶に喋る。また寝る。

 完膚なきまでの穀潰しだった。

 

 寝台から抜け出したクロエは≪洗面所≫に向かう。

 そこは寝室に隣接した小部屋で、巨大な鏡と陶器の器を組み合わせた化粧台のような代物が置いてある。

 台から突き出た取っ手を捻ると、金属の管から水が流れ出した。

 湧水を救うように両手で受け、顔を洗った。

「……慣れとは、恐ろしいものだな」

 前髪から水を滴らせたまま、クロエは鏡の中の自分に向かって呟いた。

 本来ならば、この≪洗面所≫だけでどれ程の突っ込みどころがあることか。

 

 一抱えもあるよう巨大な鏡は、歪みひとつない一枚板の硝子で出来ている。

 裏側に銀を蒸着させたという鏡に映る像は鮮明そのもの。

 取っ手を捻るだけで清水が流れ出す≪蛇口≫は、取っ手を反対側に捻ると湯がでる。

 初めは何かの言葉遊びかと思ったが、事実だった。

 流れた水を受ける≪洗面台≫。

 これほど大きく滑らかな形状をした陶器だというのに、安物の量産品なのだという。

 値段を聞いてみたら、少し裕福な町人であれば簡単に買える金額だった。

 そして≪タオル≫。

 本来なら絹をふんだんに使い、王都一の職人が率いる工房で丁寧に織り上げられるべき高級な織物を、この土地ではたかが顔を拭くために使っている。流石に絹ではなく綿で出来ているものの、≪自動織機≫とかいう機械を使っていくらでも生産できるのだという。水に浸した≪タオル≫を使って窓を拭く使用人を見た時には開いた口が塞がらなかった。

 

 だが、今のクロエはそれらの設備を日常のものとして受け入れている。

 わざわざ使用人を呼ぶまでもなく、自分が思いついたときに顔を洗うことができるのは、想像以上に便利だった。

 ここであと数年暮らしたら、もう『外』の設備では生活できなくなるかもしれない。

 キルスティンの外に内情が漏れないのも当然のことだとクロエは思った。

 こんなものを当たり前に使って暮らしていたら、不便な領外にわざわざ出ていく必要性は全く無い。

 着替えを済ませたクロエは執務室に向かおうとし、はたと足を止めた。

 

 そういえば、指輪を受け取っていなかった。


 昨日、唐突にオーギュストが外出した。

 大森林の内部で放浪する魔獣の群に関する目撃情報が入ったからだ。

 領の三方を守る騎士団は、土地を守ることが主任務である故に一定の範囲から先に踏み出すことはできない。

 三方に跨って活動するような魔獣については、通例として領主率いる騎士団がこれを追うのだ。

 この討伐にはマティアスも参加している。キルスティン流の戦い方を学ぶためだ。

 無論、エルザも騎士団の長として同行している。

 次期領主として留守居役を任されたクロエは、エリザから指輪を受け取っておくよう申し付けられていた。

 だが、昨晩からエリザの姿が見当たらない。


 とは言えエリザもオーギュスト出立の場には居合わせていた。

 指輪の話も一緒に聞いていたし、『それならよっちゃんに渡してあります』とも言っていた。

 意味は良く判らないが、とにかく誰かに引き継いであるらしい。

 『ヨッチャン』なる人物は普段から執務室に引き籠っているという。

 とにかく執務室に行けば判るのだなと念を押してみれば、エリザは眠そうな顔で頷いた。

『最近は食事も部屋の中に運ばせているらしくって。石造りのお城で床ドンやっても音響く訳ないし、足が痛いだけだと思うんですけど』

 不安は残るが、これ以上要領を得ない会話を続けて埒があくとも思えなかった。


 大丈夫だろう、多分。


 その期待は、至極あっさりと打ち砕かれることになる。

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