第一話:クロエ、婿入りする(4)
その翌日。
クロエが目を覚ました時には、既に陽も登りきっていた。普段は日の出と共に起床しているのだから、相当に遅い時間だ。
「くそ……寝過ごしたか」
微かに痛む頭を振って額に手を当てたところで、昨晩の悪夢が蘇った。
動かない身体。
迫りくる女。
無数の針を内側に生やしたヘッドバンド。
「あ、あわわわ」
なかば恐慌に陥りつつ額、こめかみ、後頭部をまさぐったが――何もなかった。妙な器具が嵌められているわけでもなければ、針に刺された穴が開いているわけでもない。
ぜいぜいと息を荒げながら部屋中を見渡したが、悪夢を齎した張本人の姿もなかった。
まるで夢でも見ていたようだと思いながら、クロエは何とか着替えを済ませ、部屋を出た。
食堂に向かうと、食事を共にするマティアスとエルザの姿があった。
「おはようございます、我が主」
「済まんな、寝過ごした」
立ち上がろうとするマティアスを制して空いている席に腰を下ろし、使用人に軽く摘まむ物を求めた。
そのままテーブルに肘を突き、組んだ両手に額をもたせ掛けた。
深く息を吐くと、エルザの気づかわしげな声がした。
「あの、クロエ様。どうかされたのですか?」
気分を落ち着ける深呼吸のつもりだったが、盛大な嘆息のようになってしまったらしい。
「ご気分が優れないのでしたら、まだお休みいただいた方がよろしいかと。施術後に少し体調を崩す方も多いですから」
「何でもない……いや、大丈夫だ」
エルザが何やら耳慣れない言葉を使ったようだったが、疲労からか、クロエの意識は散漫になっていた。
顔を起こしたクロエの前に、タイミングよく軽食が運ばれてくる。薄く切った燻製肉と刻んだ野菜を挟んだパンと、グラスに注がれた果汁水。王都では見たこともない代物だったが、食べてみれば肉の塩味と野菜の甘みが程よく混じり合っていた。果汁水は冷たく、柑橘類の酸味と香りが食事の後味をさっぱりと洗い流してくれた。
「美味いな、これは」
思わず呟くと、エルザは誇らしげに微笑した。
「どちらも姉が考案したものです。今では領内の一般的な軽食として普及しております」
「平民が、常日頃からこれ程の物を口にしているのか?」
その言葉に、クロエは瞠目した。前半で聞き捨てならない名前が出てきたが、そこは無視することにした。
「外から来られた方は皆そのように疑われますね」
エリザは苦笑した。
前日とは打って変わった柔らかな態度だった。
昨日の『アレ』を経て、何かが吹っ切れたのかもしれなかった。
「我が主、こちらをご覧下さい」
マティアスが差し出す資料の束を受け取ったクロエはパラパラと資料をめくり、次第に目つきを険しくしていった。
「何だこれは」
「ご覧のとおりです。当地におけるここ二十年程の経済指標の推移を纏めたもの、だそうで」
そういったマティアス自身、半信半疑であることを隠そうともしていない。
「あり得んだろう。税収が王家の予算に匹敵しているぞ」
答えを求めて視線を転じると、エルザは苦笑交じりに肩を竦めた。
「詳しい理由を申し上げるのは後日になりますが、嘘偽りのないことは我等の剣に懸けて保証いたします」
「いや、しかしだなエルザ殿。いくらなんでもこれを信じろと言われても無理があろう」
クロエは資料をめくり、一点を指して見せた。
「小麦……いや、他の作物を含めて生産量が多すぎる。これだけの収穫を得るには、耕地面積も農民の数も明らかに足りん。せめてこの十倍はなければ」
クロエの示した個所を覗き込み、エルザは首を横に振った。
「それらの数字も事実です、クロエ様。農法の改革で生産効率が上昇しましたので」
私自身は余り詳しくありませんが、とエルザは指を折るようにして数え始めた。
「暦の精緻化よる播種時期の改善、トラクター・噴霧器・収穫機などによる作業工程の機械化、ゴーレムによる労働力の代替……あとは、」
「待て、待て待て。何だそれは」
堪え切れずに口を差し挟み、クロエは混乱する頭を抑えるように額に手を当てた。
「暦? 機械? 何だ、何のことを言っている?」
「ですから、農法の改革です。……あの、姉は何も話していないのですか?」
途中から訝しげな表情になって、エルザが首を傾げた。
「話? 何のことだ」
「恐れながら、我が主」
互いに困惑顔で睨み合うクロエ達に、マティアスが遠慮がちに割って入る。
「昨晩は、そのお話をされていたのではないのですか?」
「は?」
「え?」
何か、話の前提がずれている。
クロエはそう思った。
そしてエルザとマティアスの二人も、そう思ったらしい。
「あ、昨夜は≪リング≫を着けたところまでなんですね?」
合点がいった、という風に手を打ち合わせるエルザだったが、クロエの混乱は深まるばかりだった。
「≪リング≫?」
鸚鵡返しの言葉に、マティアスが己の耳を指し示した。
見れば、耳朶を小さな金属の輪が貫いている。見たこともない代物だった。
「何だそれは。というか、大丈夫なのか? 皮膚を貫いているようだが」
クロエの言葉に、マティアスとエルザの表情が徐々に強張っていった。
「お、恐れながら我が主」
「何だ」
「御身の『これ』は、如何様にして装着されたのですか?」
マティアスが言っている意味が判らず、暫く考えてから、クロエは慌てて己の耳朶を探った。
右耳に、金属質の小さな固い感触があった。
「な、何だこれは……」
マティアスの、そしてよく見ればエルザの耳朶にも付いている小さな金属の輪。恐らくそれと同じものが自分の耳朶にも取り付けられていることを悟り、クロエは愕然とした。
こんなものを着けた覚えはない。
「あ、あの……」
強張りきった表情で、エルザが声を上げた。
「クロエ様……昨晩、姉とは何をされていらしたのですか?」
その言葉で、目を逸らしていた悪夢が再び蘇った。
一気に顔色を悪くして黙り込んだクロエを前に、マティアスとエルザは顔を見合わせた。
「我が主――」
意を決したようにマティアスが口を開きかけるのと同時に、がちゃりと扉の開く音が響いた。
「ふわ……おはようございます、皆様方」
欠伸混じりではあれど、銀鈴を転がすように涼やかな女の声。
錆びた鉄よりもぎこちない動きで、クロエは背後を振り返った。
月の光を紡いだような銀色の髪。
『心配しなくても、死んだりしません――』
静かな湖を思わせる深い藍色の瞳。
『――どんなに悪くても、精々二度と目が覚めなくなるだけです』
天上の名工が作り上げたような透き通った美貌。
エリザ・キルスティンがそこにいた。
「ギャアアアアアアアア!」
クロエは火に触れた獣の如く椅子から飛び上がり、自分でも驚くほどの速さでテーブルを乗り越え、椅子の影に身を隠した。
「我が主!?」
頭を抱えてしゃがみ込んだ主人を前に、マティアスが動揺する。
「い、如何なされたのです!」
肩を掴んで揺さぶるも、クロエはプルプルと震え続けたまま答えなかった。
「は、針が――」
「針? 針がどうしたのです、我が主」
「頭……締め付け……あわわわわ」
錯乱したクロエの言葉に、今度はエルザが蒼白になって立ち尽くした。
「お姉様……まさか、クロエ様の承諾も無しに……?」
どうか外れていてくれという祈りを隠しもしない問いかけに、
エリザはあっさりと頷いた。
「あ、うん。使ったよ、危機一髪くん一号」
「何やってんのよ馬鹿ァァァァッッッ!」
その絶叫は、砦中に響き渡ったという。




