第一話:クロエ、婿入りする(3)
門番にローラント達を預け、道なりにやってきた。
「……ここか」
キルスティンの玄関口となる街、ヴイエ。その中心部に聳える砦を、クロエ達は見上げていた。
かつてこの土地が国境の最前線だった頃に建設され、今ではキルスティン領内の『国境側』を取り仕切る行政府となっている。妻との顔合わせはこの場所で執り行うと通達を受けていた。
増改築を繰り替えされ、巨大化したそれは、砦というよりはもはや古城の趣である。長年の戦乱を生き延びて役目を終えた建物だけが持つ、穏やかな迫力とでもいうべき気配が刻まれた砦であった。
剣によって土地を拓き、槍によってこれを守ってきた武人達の国。
どのような猛者が現れるかと思いきや、出迎えに現れたのは騎士服を纏う年若い少女であった。
「キルスティン騎士団第三士団長、エルザと申します」
聞けば、キルスティン辺境伯の次女だという。短く切り揃えられた黒髪に、黒曜石を思わせる鋭い眼差し。中背のクロエと比しても小柄な体格だったが、典範通りに騎士の礼服を纏った隙のない立ち姿は見事の一言に尽きた。ややもすれば美貌の少年とも見えかねない格好ではあったが、男ではありえない柔らかな輪郭が誤解の余地を消し去っている。
男装の麗人という言葉に形を与えればこうもなろうか、とクロエは内心で感嘆した。
キルスティンの軍は、三つに分けられる。これは単純に領地の三方を囲む山脈と森林に対応しているだけのことだが、そのために一つの領地でありながら三名もの騎士団長を擁している。軍というものは明確な指揮系統と、それを示すための代表者を必要とするものであり、例え実情を反映しないお飾りであっても誰かをその地位に据えなければならない。
砦内を案内する道すがら、エルザは落ち着いた調子でそのように語った。
仮にも、精強と名高い辺境の兵を率いる長である。女だてらに優れた武勇を誇るのであろう、とクロエが水を向けた結果だった。
国軍にも勇猛さで名を馳せる女性の戦術魔導士や竜騎士が居ないわけではない。辺境とて――否、人材に余裕の無い辺境であればこそ、女の武芸者は珍しくない。
「数合わせのために不相応な地位を名乗っているだけのこと。所詮は張り子の虎、王都の精鋭とは比べ物にもなりますまい」
そう言いながらも、少女の声には少しばかり誇らしげな色が混じっている。凛と背筋を伸ばした若者の言葉に、クロエとマティアスは微笑を浮かべた。
やがて、エルザは一つの部屋の前で足を止めた。クロエ到着の報を受けた辺境伯とその長女が謁見の準備を整えるまでの控え室である。
「こちらにて暫しお待ちください。傍付きを残します故、必要な物があればお申し付けください」
「相分かった」
クロエが頷くと、一行に付き従っていた侍女が扉を開けた。
しばらくの時間を潰すべく、クロエ達は部屋に踏み入ろうとして――凍りついた。
部屋の中央に、『それ』は鎮座していた。
より正確に言うならば、寝ていた。
誰が想像するだろう。
控え室として案内された部屋のど真ん中に、巨大なクッションの上で丸くなって眠りこける娘の姿があるなどと。
体を覆うように、月明かりを紡いだような銀色の髪が緩やかに広がっている。規則正しく上下する呼吸に合わせ、窓から差し込む陽光が銀髪の上で波打つように煌めいていた。
すぴー、すぴー、と愛らしい寝息が、静まり返った空気の中を漂った。
ずばん! と扉を閉めたのはエルザである。
「も、もももも申し訳ございません! 大変、お見苦しいところを!」
真っ赤な顔で呂律の回らない謝罪をしたかと思うと、少女は物凄い勢いで室内へと姿を消した。
それから、工事でもしているのかと思う程けたたましい物音が扉の外にまで漏れ出してきた。
『な、何でお姉ちゃんがこの部屋に居るのよ!』
扉越しに、今にも泣き出しそうな怒鳴り声が響く。
『砦内最高の昼寝場所? 知るわけ無いでしょそんなもの! 信じらんない!』
『いいから出てって、出てけったら! 出てけ馬鹿ァ!』
どたばたと暴れまわる物音が続いたが、やがて騒ぎはぴたりと収まった。
再び静まり返った空気に耐えかねたクロエは扉の傍に控える侍女に説明を求めて視線を向け――そっと目を逸らされた。
「申し訳ございません。野良猫が入り込んでいたようでして」
程なく部屋から出てきたエルザは、そう言った。
寄らば斬ると言わんばかりの気迫に満ちた眼差しだった。
「の、野良猫か」
「はい」
エルザの目つきが今にも折れそうなほどに鋭さを増した。
「いや、しかしだな――」
「野良猫です」
黒い瞳がじわりと潤み始めた。
そこが境界線だった。
恐れることなく踏み込めば、クロエは後一歩で勝利を得られただろう。
だが勝利を掴んだその手は透明な雫に濡れている。
それはちっぽけな勝利と引き換えに手折られた花の雫なのだ。
いや、何を訳の判らないことを言っているのだ。
「な、ならば良いのだ」
結局、クロエにできたのはぎこちなく頷くことだけだった。
■■■
程なくして使いの者が訪れ、準備が整ったことを伝えに来た。
案内の者に従い、クロエ達は辺境伯の待つ部屋へと向かった。
控室の窓の外、落ちたらまず助からぬであろうと思われる石畳の上に転がっていた巨大なクッションのことについては、何も考えないことにした。
「斯様な田舎までよく参られた、ニフレクス卿」
長年の風雪にも動じない巨木の如き風情を漂わせた壮年の男は、胸の内を伺わせない深く低い声で、クロエ達にそう告げた。
キルスティン辺境伯、オーギュスト・キルスティン。
父親-ー前キルスティン伯が魔獣との戦いで命を落としたことにより、僅か十二歳にして叙爵。騎士団を率い、魔獣との戦いに明け暮れた男。
当時を知る者達が語る彼の戦いは、『凄まじい』の一言に尽きたという。昼もなお薄暗い森から染み出すように、際限なく現れる魔獣の群れ。村を遅い、人間を食い散らかしては農地を踏み荒らす化物共に、若き領主は些かの躊躇もなく斬りかかった。自身が率いる騎士団の先陣を切って、である。彼の剣が銀弧を描く度に魔獣の首が宙を舞い、白銀の鎧は瞬く間に返り血で染め上げられたと、当時を知る老兵は語る。
無論、褒められた真似ではない。蛮勇の果てに落命すれば、キルスティン領は立て続けに領主を失うことになる。疲弊した辺境領が指導者を失えば、後に待つのは速やかな崩壊だけである。
だが、それは事実であっても、文官の理屈であり、オーギュストに率いられた兵士、騎士達の評価はまた別であった。自分達と同じ糧食を口にし、同じ天幕で休み、誰よりも前に出て剣を振るう少年の鮮烈な輝きは、熟達の古参兵にとってさえ瞠目に値した。
当然、騎士達は奮い立った。このような少年が民を守るため剣を取り、誰よりも勇敢に戦っている。であれば、その旗印に参じた自分達が情けない敗残者に成り果てるなど、許されないことだ。
結果として、キルスティン領は持ち直した。魔獣を森の奥へと追い返し、荒らされた農地は取り返した。損害は決して小さくは無かったが、それでも人々の意気は充実し、オーギュストが成人する頃には元の姿を取り戻すまでに復興した。
地位でも言葉でもなく、その背中で領を率いてきた生粋の武人。
その男がクロエを見つめ、続けた。
「ここは、王都ではない」
魔獣の跋扈する異郷、辺境伯領の一つ。
最も熾烈な生存競争が繰り広げられ、それに勝利した者達が暮らす土地。
「我が娘を娶る男には、多くのものを捨ててもらわねばならぬ」
最悪の場合は、命も含めて――
クロエは言外に含まれた問いを引き受け、覚悟を決めた。
領の外で出会った者の姿を思い出した。
貧しさゆえ、家族を養うために家族を危機にさらさねばならなかった商人。
あれが辺境の民の姿であるというならば、誰かがそれを守らねばならない。
そう思った。
「王都から踏み出した時点で、全てを捨てておりますれば」
強い決意を眼差しに込め、クロエは真っ向からオーギュストを見据えた。
「このクロエ・ニフレクス、土地と民を守るため、全身全霊を賭ける所存にございます」
「しかと聞いた。二言は無いな?」
無言のまま決意を表したクロエに、オーギュストは小さく頷いた。
「では、娘を紹介する。――入れ」
オーギュストが声をかけると、クロエの背後で扉の開く音が響いた。
クロエは振り返り、束の間、呼吸を忘れた。
身に纏う服は些か以上に簡素な代物であったが、それはこの土地の貧しさを示すのではなく、余計な装飾を排した結果に過ぎないのだろうと思えた。
月の光を紡いだような銀色の髪。静かな湖を思わせる深い藍色の瞳。
天上の名工が作り上げたような透き通った美貌の娘がそこにいた。
「エリザ・キルスティンと申します」
銀鈴を転がすように涼やかな声で名乗り、娘は深々と頭を下げた。
礼儀作法の見本の如く、完璧な仕草だった。
「あ、ああ……よろしく頼む」
気圧されながら、クロエは辛うじて頷き返す。
それを待っていたように、オーギュストが「婚礼は明日だ」と告げた。
「旅の疲れもあろう。湯浴みの準備もさせてある故、今日のところは休まれるがよい」
その言葉を機に、クロエ達は部屋を辞した。
侍女に案内されながら歩いていると、マティアスがぽつりと言った。
「我が主」
「何だ?」
暫く黙り込んでから、マティアスは「何でもありません」と首を振って、
「多分、見間違いでしょう」
と呟いた。
「……そうだな。きっとそうだ」
そう、見間違いなのだ。あるいは何かの間違いなのだ。
何しろ領主の長女である。
曲がりなりにも、どころか紛うかたなき貴族である。深窓の令嬢――とは行かないかもしれないが、それでも令嬢であることに変わりはない。
銀色という珍しい色の髪をしていようが、他ならぬ領主の次女が『お姉ちゃん』と呼びかけていようが、あの娘と『野良猫』は無関係だ。
そうに決まっている。
必死で現実から目を逸らしながら、クロエ達は黙然と廊下を歩いた。
その翌日、婚礼は恙なく執り行われた。
後に参列者が語ったところによれば、花嫁衣裳を纏った娘の美しさたるや、女神すら霞むと思えるほどであったという。




