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第一話:クロエ、婿入りする(2)

 馬車の外に見える光景は穏やかな春の日差しに満たされていた。

 春の草花が静かな風に揺れ、透き通るような青空に刷毛で引いたような純白の雲がたなびいている。

 こんなに穏やかな気持ちで景色を眺めるのは何時以来だろう、とクロエ・ニフレクスは嘆息した。

 

 爵位、財産、地位、名誉……ありとあらゆるものを奪われ、王都から追放されるように送り出されて二週間。

 残っているものは身の回りを世話させる僅かな付き人と、次期辺境伯という頼りない肩書一つきり。道中を護衛する騎士達すら、いまや王家からの借り物に過ぎず、目的地に着けばさっさと引き返していく者達ばかりだ。


 王家の傍流だったニフレクス家の当主とその妻が不慮の事故で亡くなり、急遽担ぎ出された若輩者として、クロエはいいように踊らされた挙句に貧乏くじを押し付けられた。色々あってあっさりと政争に負け、流刑地代わりに婿入りを強要されたキルスティン辺境伯領までの間に広がる光景は、見渡す限りの広大な原野。

 不毛の大地ではないにせよ、呆れるばかりに何もなかった。

 

「もしかすると、死後の世界とはこのように穏やかな場所なのかもしれないな」

「不吉なことを申されますな、我が主」


 ほろりと零れた独り言だったが、猛烈に不機嫌な声で窘められた。しっかりと聞かれていたらしい。


「なに、どうせ死んだも同然の身じゃないか。今更験を担ぐようなこともあるまい」


 らしくもなく唇の端を曲げ、クロエは同乗者に視線を移した。


「左様なことはございません。御身は我が身に替えてもお守りいたします故」


 子供の頃から全く変わらない堅苦しさで眉を顰めるマティアス・オルトノヴァは、爵位と財産をなくしたクロエにただ一人付き従う物好きな騎士だ。所属していた近衛騎士団の地位も家督も放り出してお家騒動の敗者に仕えるなど、いくら相手が幼馴染だからとて正気の沙汰ではないと主人たるクロエですら思う。


 だが、それをするのがマティアスという男なのだ。王都の誰もが体面を飾るための装身具程度にしか考えていない騎士道というものを大真面目に信奉し、二君に仕えるを良しとせず、地位ではなく義に拠って立つことを誇りとする武人の鑑。一緒に育ったというのにどうしてこうも性格に違いが出るのか、人というものの不可思議さにクロエは首を傾げるばかりである。


「だがなあ、いくらお前が命懸けで守ってくれたとて、それで魔獣が根絶できるわけでもなし。じわじわと領地を削られて、最後は連中の爪にかかってお終いだ。辺境伯の誰もがそうだったように、な」


 頬杖を突いたクロエの言葉に、マティアスは沈痛な表情で俯いた。

 主の態度が後ろ向きだからではない。その言葉が事実だったからだ。

 ネウストリア王国は大陸で最大の領域を誇る大国である。その領土は海岸に接した東部と、険しい山脈と深い森に囲まれた西部に大別される。クロエ達が向かっているのは、山脈と森に覆われた西部、その最西端に位置する『辺境伯領』の一つ、キルスティン辺境伯領であった。


 一般的に、辺境は深い森と接しており、その奥地は星の数とも言われるほどの魔獣がひしめく人外魔境である。魔力を、あるいは瘴気を帯びた獣達にしてみれば脆弱な人類種など単なる餌である。辺境の土地ではしばしば魔獣が人里を襲い、集落を壊滅せしめることも珍しくはない。

 だからといって安全な土地に後退していけば、いずれ国土は魔獣の巣窟と化してしまう。辺境伯領とは、つまるところ国土を維持するための前線基地であり、その土地に封ぜられた者達は――民も領主も共に――国の防波堤であり、消耗品であった。


 年がら年中魔獣との争いを繰り広げているから兵の質は極めて高い。だが、それでも魔獣を駆逐するには至らず、毎年少なくない死者が出る。土地も開拓しては魔獣に潰され、を繰り返しているから生産力も伸びず、僅かな収益は大半を軍に回さねば立ち行かないために慢性的な困窮に喘いでいる。それが辺境伯領というものの実体である。


 特に、クロエが封ぜられたキルスティン辺境伯領は三方を険しい山脈と深い森に囲まれ、半ば孤絶した土地である。

 そんな土地に婿入りさせられるのだから、これはどう控えめに見ても『いつの間にかひっそりと死ね』と言われているに等しい。


「だがまあ、今更そのことを気に病んでも仕方あるまい。それにな、」


 黙り込んでしまったマティアスに笑いかけ、クロエは脇に放り出した羊皮紙をひらひらと振って見せた。


「報告書によれば、キルスティンは『大海嘯』を境にしたここ二十年ほどは土地を失うこともなく、それなりに立ち回っているようだ。精兵が揃っているに違いない。うまく使えば、十年くらいは俺のような負け犬でも生き延びられよう」

「正確には十九年……でしたか」

「何か気になるのか?」


 いえ、とマティアスは首を振った。


「キルスティン辺境伯の御息女……エリザ様も御年十九歳であらせられたことを思い出しただけです」


 エリザ・キルスティン。

 マティアスが口にしたのは、クロエの妻となる娘の名であった。


「辺境にありながら平和だけを享受してきたというわけか。さぞかし運の強い娘なのだろう。あやかりたいものだな」

「まことに」


 苦笑混じりにマティアスが頷くのと同時に馬車が揺れ、乱暴に止まった。

 馬の嘶きと御者の慌てたような大声が重なる。


「何事だ!」

「ま、魔獣です!」


 傍らの剣を引っ掴んだマティアスが怒鳴ると、護衛の騎士達が悲鳴のような報告を返してきた。


「馬鹿な、街道付近の安全は確保されたはずではなかったのか!?」


 舌打ちと共にマティアスが馬車を飛び出す。

 開け放たれた扉の向こうに、クロエは『それ』を見た。


 馬鹿馬鹿しい程に巨大な狼。

 爛々と輝く赤い瞳に、大人の腕程もあろうかという牙を剥き出している。炎の様に逆立った灰色の毛皮に覆われた体は、冗談抜きで攻城櫓並みの高さに達しているものと見えた。身体の厚みや全‭長を加えるなら攻城櫓どころではなく、小山が動いているようにさえ思える。


 だが、クロエの目を奪ったのは狼そのものではなく、その前方に投げ出された馬車と――幼い子供を抱えて震える男女の姿だった。横転した馬車から投げ出された積み荷が散乱し、敗れた包みから布や穀物が零れだしている。恐らくは流しの行商人なのだろう。


 横転した車体に引きずられ、馬も倒れ伏したまま起き上がれないようだった。人の足では、まして子供を抱えながらでは、とうていあの巨狼から逃げ延びることなどできまい。


 見捨てる、という選択肢はあり得なかった。


「マティアス!」

「承知!」


 声を掛けるまでもなく、頼れる幼馴染は既に馬を駆り、巨狼の注意を惹きつけるべく走り出している。

 馬車を飛び降りたクロエは、周囲で騎馬ごと竦み上がっている護衛の騎士達をどやしつけた。


「何を呆けている! 自慢の聖霊術はどうした! 方陣を組め! マティアスが商人共から『犬っころ』を引き離したらぶちかます! 詠唱にかかれ、臆病者共!」


 例え放逐されようと、貴族たるクロエの声には有無を言わせずに人を従える力がある。騎士達は慌てたように馬首を巡らせ、教練で叩き込まれた方陣を組み上げた。


「聖なるかな、我らが神よ-ー」


 騎士達が聖句の合唱を始めたことを見届け、クロエは馬車から外した馬に飛び乗り、商人達の元に駆け出した。

 視界の端から、巨狼に向けて巨大な火球が叩きつけられる。マティアスの魔術だ。横合いから殴りつけるように直撃した火球だったが、巨狼はよろめくことさえなかった。分厚い毛皮に加え、魔術的な防護が全身に巡らされているのだ。


 だが、それでも注意を引くことには成功した。巨狼はジロリとマティアスを睨みつけ、素の方角へ向き直ると、発条を弾いたような早さで飛び出していった。

 その隙に、クロエは商人達の下に辿り着いている。


「怪我人はいるか!」


 馬を止め、声を掛ける。


「妻を、息子をお願いいたします!」


 縋るような男の声に頷き、馬上から手を伸ばす。よろめきながら立ち上がった女の手を引き上げて馬上に載せ、男から幼児を受け取って女に抱かせた。


「向こうの馬車に匿う。他の迎えを出す余力は無い故、貴様は走れ!」


 言い残し、クロエは馬を駆り立てた。

 視界の隅で、火球と雷撃の魔術を以って巨狼の攻撃をいなすマティアスを確認し、護衛達が合唱する聖霊術の撃ち所を見計らう。

 撃て撃て、と喚きだしそうになる衝動を必死に堪えーーマティアスが巨狼の正面から火球を叩きつけたところで、騎士達に向けて掲げた剣を振り下ろして見せた。


「撃て!」


 そう叫んだ声が聞こえたかどうか、騎士達の足元から白い光が溢れだし、天に昇る柱と化した。同時に巨狼の足元にも同じ大きさの光が花開き、その巨体を飲み込んだ。

 巨狼が苦しげに身を捩り、天地を揺るがすような咆哮をあげる。

 馬車に辿り着き、母子を放り込んだクロエは若干の安堵と共にその光景を眺めた。

 やがて聖霊術の効果が尽き、白光の柱が薄れるのと同時に。


 巨狼が駆け出した。


 灰色の毛皮は業火に炙られたように黒ずみ、所々で剥げ落ちている。足取りも先刻までの飛び跳ねるような速度から見れば牛のように遅い。放っておけば、ほどなく息絶えるだろうことは間違いなかったた。

 だが、それでも駆ける速さは人の比ではなく、そして進路の先には必死の形相で走る商人の姿があった。


「くそっ! マティアス、仕留めろ!」


 喚きながらも、無理難題であることは分かっていた。何しろ距離が開きすぎている。それでも、無理だと分かっていても、クロエは馬を駆り立てた。

 クロエは非才の身だ。魔術も聖霊術も使えない。取り立てて武に優れているわけでもない。あれほどの巨獣、眼前に躍り出たところで藁束のように吹き飛ばされるのがオチだろう。

 だが、それにしたところで、間に合いはしない。


 あの商人は助からない。

 無残に踏み拉かれて、お終いだ。


 そう確信し、目を瞑りかけた瞬間だった。


 突如、巨狼の足取りが歪んだ。

 壁に激突したかの如く、巨躯が震え、頽れる。

 一拍遅れて、どうん、と遠雷のような音がクロエの耳朶を叩いた。

 滑るように地面を転げた巨狼の身体は、やがて腰を抜かしてへたりこむ商人の眼前に至り、止まった。

 何が起きたのか分からない。

 だが、狼の巨体は動きを止め、骸となっていた。


「助かった……のか」


 呆然と、クロエは呟いた。


■■■


 商人はローラントと名乗った。

 諸国を巡る行商人だったが、旅の途中で出会った妻との間に子が生まれ、しばらくの間、身を落ちつけられる場所を求めてキルスティンを訪れたのだという。


 頻繁に魔獣の襲撃がある土地では落ち着くものも落ち着かないのではないか、とクロエは思ったが、そこはローラントも承知していた。ただ、妻子を養いながら数年間を過ごせるだけの資金を貯めるには、辺境を渡り歩く運び屋となることが最も手っ取り早いらしかった。


 辺境伯領の維持は国土の保全に直結しているため、中央は辺境に対して手厚い支援を施す。豊かになれるほどの物資は与えられないが、道中の危険をおしても商人達を向かわせられる程度の補助金は出しているのだ。一旗揚げたい若者か、ローラントのように急遽まとまった金が必要になった人間は、その補助金を狙ってしばしば辺境を旅するのだそうだ。


 それに、とローラントは続けた。街の中心部であればそれなりに安全であることを商人仲間から聞いていた。貧しい土地柄故に物価も安く、そのくせ中央からは定期的に支援物資として必要最低限の食料が供給される。子供が旅に耐えられるようになるまでの仮住まいとしては、それなり以上の魅力があるのだと。


「まあ、街道側の土地でさえ魔獣が出てくるような場所とは思ってもみませんでしたが」


「考え直した方がよいのではないか?」


 問いかけたクロエに、ローラントは諦めたように首肯した。


「仰るとおりです。キルスティンの商業組合で補償を受けたら、直ぐにでも出発しようと思います。やはり、家族の命には替えられない」


 肩を落とすローラントの姿を見て、クロエは決心した。

 例え辺境であっても、誰もが安心して暮らせるようにならねばならない。

 流刑同然の叙任であったとしても構うものか。

 貴族に生まれた以上、民を守るのは当然の義務である。

 例え道半ばで命を落とすとも、次期辺境伯領として、自分は少しでもその礎にならなければ。

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