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第二話:人々、居眠り姫を語る(4)

 再び訪れた工房は、視察の日と変わらず活気に溢れていた。

 あちこちに分散して建てられた複数のレンガ造りの建物から伸びた煙突からは黒煙がたなびき、金属を叩く甲高い音や男達の張り上げる怒鳴り声が響いている。得体の知れない巨大な代物を台車に載せて引きずる一団が目の前を横切ったと思えば、どこからともなくくぐもった爆発音が聞こえてくる。

「エリー様ですか。事務棟の方においでになっておられる筈ですぞ」

 本日は品質検査の日ですからな、とドワーフの工房長は付け加えた。

 工房には大学をはじめとする研究施設や、各種の専門工場などから色々な物の製作依頼が日々舞い込んでくる。

 その中にエリザ個人からの依頼が混ざっていることも多く、そうしたものについては月に一度くらいの頻度で訪れるエリザが試作品を弄っていくのだという。

「ちなみに、これまでにどのような物を?」

 事務棟に向かう途中でアベルが尋ると、工房長は「数え切れませんなぁ」と笑った。

「その場から動かずに遠くの物を掴むための伸び縮みする手、叩くと音が出る玩具の大槌、高所に生った果実を収穫する為の高枝バサミ、寝転がったまま本を読むための書見台……まだまだありますぞ」

 びっくりする程どうでもいい代物ばかりだった。

「なんというか、もっとまともな物はないのか?」

 たまらずクロエが口を挟むと、工房長は編み込まれた顎鬚を撫でて考え込んだ後に、言った。

「コタツは非常によく売れましたな。冬を怠けて過ごすための道具としては天下一品でして、領内でも『コタツから出られなくなった』『気付いたら蜜柑が無くなっていた』などの被害が続出したそうです」

 どうやら人を堕落させる檻か拘束具の類であるらしかった。

 それを領民に売りつけるとは。

 なんと恐ろしい。やはりあの娘、悪魔の化身か。

「まあ、冗談はさて置くとしましても」

 脱力の余り足を縺れさせたクロエをよそに、工房長は至極真面目な顔になった。

「エリー様が望まれる物は遥かな高みにありましてな。我等が総力を挙げてもいまだ試作品すら完成させられておりません」

「何を作らせようとしている……いや、訊かない方がいいような代物なのだな?」

 訊けばまた一つ余計な重荷を背負ってしまいそうな予感に、クロエは口にしかけた疑問を呑み込んだ。

「さあ、それは判りかねますが――研究を進める度に『生きる意味』とは何なのか考えさせられる物であることは間違いありませんな」

 ふ、と遠い目をした工房長は、さながら人知を超えた世界の神秘に触れた哲学者のようだった。

「この世界で生きるということは楽なものではありませんが……むしろそれ故にこそ我々は生きねばならないのかもしれませんな」

「何を作らされているのだ、お前達は……」

 聞いてしまえば後戻りはできない。

 そんな予感が激しく警鐘を鳴らしていたが、クロエはそれを振り切った。

 肉体同様に精神も頑健さを誇るはずのドワーフをしてこのような思索に埋没させる代物である。

 『それ』が何であれまともな物でないのは間違いないが、少なくともこの世を滅ぼすような代物であれば開発を止めさせなければならない。

 いまだこの身に何が出来るのかも判らないままだが、それでも――

「怠惰服、でございます」

 重々しい工房長の言葉に、クロエの思考は停止した。

 目の前のドワーフが何を言っているのかちょっと良く判らなかった。

「……済まないが工房長。今、何と?」

「怠惰服、でございます」

 重々しい声だった。

 神の託宣を伝える神官のようだった。

「着用者を外界から完全に遮断する服です……耐熱・耐衝撃、防刃防弾防音性能は勿論、空調装置によって常に快適な環境を保ち、人工呼吸器を初めとする各種管理装置による完璧な新陳代謝の維持を実現。最終的には栄養補給すらも完全自動化させることを視野に入れた、究極の安眠装置ですぞ」

「永眠装置と聞こえたが、気のせいではないな!?」

 とても実現できるとは思われなかったが、そもそも発想自体が余りに冒涜的な代物だった。

 ひたすら安眠するためだけに人を生かし続ける装置など、棺と何が違うというのか。

「人間として生まれたからには死ぬまで寝て暮らしたい、というのがエリー様の夢であるらしく。流石、我等ドワーフ族には計り知れぬ考えであると感服する次第」

「それが人間の総意みたいな理解の仕方はよせ!」

 思わず叫んだクロエに、工房長は訝し気な目を向けた。

「しかし、人間の吟遊詩人は良く歌っておりますぞ。見果てぬ夢を見るのが人間の持つ最大の美質だと」

「文字通りに解釈し過ぎだ!」

「そうですか。てっきり、人間は快適な昼寝のために生きているものだとばかり」

「種族を代表して言うが、見たことも聞いたこともないわそんな生き物!」

 この土地に来るまではな!

 ぜいぜいと息を荒げ、クロエは首を振った。

「いや……もうこの際なんでも構わん。とにかくエリザを捕まえられればそれで良い」

「さようで」

 あくまで真面目な調子で工房長は頷いた。

 どこまで本気なのか全く判らない表情だった。


 それから程なく、クロエ達は事務棟の一角にある部屋の前に到着した。

 工房長は扉をノックすると、特に遠慮する様子も見せずにずかずかと部屋に踏み込んだ。

「む。入れ違いでお帰りになってしまったようですな」

 誰もいない部屋を見渡してから、工房長は申し訳なさそうにクロエに謝罪した。

 家具らしい家具がほとんどない殺風景な部屋は、工房長の言うとおりに無人だった。

 部屋の中央にぽつんと大机が置かれ、その上に様々なガラクタめいた代物が散らばっている。

 小瓶に入った液体あり、何らかの装置らしき部品の塊あり、機関車を象ったらしい小さな模型あり、如何にも雑然とした様相を呈している。その机の隅に、紙の束が置いてあった。

 工房長がテーブルに近づき、紙の束を取り上げた。ぱらぱらと内容をめくり、「手厳しいですなぁ」と苦笑を洩らした。

「どうかしたのか?」

 尋ねてみれば、工房長は紙束を片手に大机の上に散らばる物品を子細に眺め始めた。

「こちらに置いてあるのは、いずれもエリー様の依頼に基づいて作った品なのです。エリー様がおいでになると評価記録を残して下さるのですが、合格点は中々いただけません」

 ありゃこれもダメか、と工房長は頭を掻いた。

 試作品の改善策で頭が一杯になりつつあるらしく、工房長はぶつぶつと独り言を漏らしながら大机の周りを歩き出した。

 その場にクロエ達という客人が存在することすら意識の外に追い出されつつある様子だった。

 尤も、クロエ達としても、探し人が居ない以上は長居する理由は無い。

「工房長。エリザの居場所に心当たりはないか?」

「申し訳ございませんが、判りかねます」

 工房長は首を振った。

「何しろ気まぐれな方ですから、距離にも時間にも無頓着でいらっしゃいますし」

 距離や時間は頓着するしないの問題にできる対象ではない気がしてならなかったが、クロエは最早突っ込む言葉を持たなかった。


■■■


 辿るべき足跡を見失ったクロエ達は、工房からエブロまで戻ってきていた。

「手詰まりか」

 探すべき心当たりなどある筈もなく、城内が主な仕事場であるアベルとてそれは同様だった。

 他にできることもなく、クロエ達はそのまま城に向かった。

 何らかの祭日だったらしく、エブロとギステの境にある広場では大道芸人の一座らしき者達が押し掛けた見物人達を前に芸を披露していた。

 掲げられた横断幕の隅にさも当然のごとく『銀の妖精』が書き込まれていたが、今のクロエにしてみれば最早驚くにも値しなかった。これだけ色々とやらかしているのだ。意外性など欠片も無い。

 城に戻る頃には夕食時だろうと考え、クロエは考え込んだ。

「どうかなさいましたか」

 ハンドルを握るアベルが、穏やかな声で問いかけてきた。

「いや、己の無力を噛み締めていただけだ」

 シートの背もたれに身を沈め、クロエは深く息を吐いた。

「エリーお嬢様の行動を予測するのは城内の者でも難しいことです。クロエ様がお気になさるようなことでは――」

「いや、まあ、それもあるが」

 苦笑交じりにアベルの言葉を遮り、クロエは窓の外に目を向けた。

「良い土地だな、ここは。豊かで、民に活気がある」

 エブロからギステへと移り、猥雑な活気に満ちた下町から物静かで整然とした建物が並ぶ都市へと街並みが変化している。

 それでも無数の自動車が行き交い、歩道が雑踏に満ちていることは変わらない。

 誰もが満ち足りた穏やかな表情を浮かべているように、クロエには見えた。

 それこそ、誰の手も――為政者の存在すら必要としないかのように。

「ここ二十年の間に、人口が急激に増えたのです。『外』から流れてくる者達もそれなりに多いのですが、何より死人が減ったことが大きい」

 アベルの言葉は、古い絵画を語る学者のように静かだった。

「飢えて死ぬ者など『外』でも珍しくはないでしょうが、ここではそれに加えて魔獣という『災害』が存在しておりました。貧しさから逃れようと森を拓き、土を耕してみても、その翌日には土地も人も食い荒らされているのが当たり前。運が良く、また武に長けた者達だけが辛うじて僅かな作物を得られる。私のような古い人間が知るキルスティンとは、辺境伯領とは、そういう土地でした」

 今ではまるで違う、とアベルは言った。

 四等級程度の魔獣であれば一般の村民でも少々厄介な害獣としか見做しておらず、騎士団を投入すれば二等級の魔獣ですら多少の損害と引き換えに討伐できる。

 ここ十数年の間に生まれた子供達は命を落とす程の飢えを覚えたこともなく、家族や仲間達が目の前で生きたまま貪り食われる絶望も知らない。

「だが、他の辺境伯領は、今でもそのような土地なのだろう?」

「十年以上前から公開指定の技術を優先的に流し続けておりますし、その成果も徐々に根付きつつあります。当地と比べてしまえば雲泥の差ではありますが、それでも何もかもが昔のままというわけでもございません。正直に申せば、私のような年寄りには目の回るような歳月でした」

「大したものだ」

 心底からの感嘆を込めて、クロエは呟いた。

「その全てを作り出したのが、あの娘というわけか」

 左様でございます、とアベルが同意した。

「ただ、本当にそうなのかどうかは、未だに判らないままなのですが」

「何故だ?」

「制度の改革、施設の建設……それら全ては、今も昔も御館様の御指示にて行われております故。そしてそれらは、十数年前から領内で同時多発的に発生するようになった技術革新を制御するための方策として敷かれたものなのです」

 そこにエリザの名前は存在しないと、アベルは断じた。

「そんな筈は……」

 否定の言葉を口にしかけ、クロエは思い直した。

 思えば、婦女が政務に携わると考える方が不自然である。

 大貴族の妻が夫の影となって権力を握る事例も無いではないが、それとて貴族間か後宮での権力闘争を主戦場とするものだ。

 領地経営どころか、技術開発の主導など女の身に出来ると考える方がどうかしている。

 あくまで普通に考えるなら、だが。

「その当時は、誰一人として何が起きているのか判ってはおりませんでした。何しろ、領内の至る所から見たこともないような品や知恵が次々と湧き出してくるのです。痩せ衰えた農民が全く新しい農法を見出し、学の無い貧民が誰にも考え付かないような思想を説き始め、店も持てぬような行商人が聞いたこともないような商売を立ち上げ、折れた剣を鍛え直すのが精一杯だった鍛冶師が竜すら殺せるのではと思われるような新しい武器を作り上げました」

 当時の城内は大混乱に陥っていたという。

 無理もない。

 枯れ果て罅割れた土地からいきなり青々とした作物が芽吹き始めたようなものだ。

 誰が種を撒いたのかも、誰が水をやったのかも、当時のアベル達には皆目見当がつかなかった。

「いっそ、危機感すら感じさせられました。事態を野放しにしておけば、何がどのように暴走してしまうのか、誰にも想像できなかったのです」

 領主オーギュストは、簡潔な指示をもってこれを収拾した。

 全ての発明品を、発明者ごと城に召し上げたのである。

 その上で、発明品が生み出す利益の大半は発明者の取り分とする。代わりに、それらをどれだけ作り、どのように使わせるかは専門の役人達に決めさせることにしたのだ。

 相当に強引な策ではあったが、ひとまず混乱は収まったらしい。

 だが、そこからが本番だった。

 領内で次々と芽吹く新たな技術が野火となって人々を焼く前に、それを捕え、安全な形になるまで磨き上げなければならなかったのである。

 向い火を放つように、オーギュストは技術を集めるための組織を立ち上げ、制度を定め、次々と対策を打ち出した。

「その時の組織が、大学の前身となりました。大学は若者に教育を施す傍らで、今も技術の集積と研鑽を続けております」

 クロエは嘆息した。

 その当時は、領内の誰もがキルスティンを訪れたばかりのクロエのような思いで居たに違いない。

 当時の混乱ぶりが目に浮かぶようだった。

「しばらく経って、大学――当時は『協会』と呼ばれておりましたが――の活動も軌道に乗り始めたころ、おかしな風説が流れ始めました。研究者達は大きな成果を挙げる直前に、必ずと言っていいほど『幼い少女』と出会っている、というのです」

 大学に集められた研究者の大半は、領内の各地から集められた発明者だった。当然、生まれた場所も暮らした村もまるで縁のない他人同士である。

 そんな者達が、『銀色の髪をした少女』に出会ったと大真面目に話すのである。

 あまつさえ、自分達の技術はその少女から授かった啓示を元にしているのだと言う。

「そうして、誰ともなしに『銀の妖精』という言葉が使われるようになりました」

 妖精。

 技術と知恵を象徴する偶像とするにしては、随分と微笑ましい題材である。

 普通ならそれで終わるのだろうが、生憎とキルスティン領には『それ』そのものの風貌を持つ少女が居た。

 当然、誰もが『彼女』が『銀の妖精』だと考えた。

 だが――

「証拠が、ございませんでして」

 苦笑交じりに、アベルはそう言ったのだった。

「研究者達をエリーお嬢様に引き合わせても、誰一人として断言できなかったのです」

 見たことはあるような気がする。だが、あの『妖精』かと言うと、どことなく違うような気がする。

 誰もが困惑に眉を顰めながら、そう言って首を傾げたのだと言う。

 限りなく黒に近いものの沁み一つない純白である、といったところだろうか。

 誰もがそうだと確信しながら、確証が無い。

 それに、常識的にも、農業から鉱業、商業に至るまでの新技術のほとんどが一人の知恵から出てきたものだと考える方がどうかしている。

 が、そうでないとすれば今度は異常な技術革新の原因が説明できない。

 そのジレンマは、今に至っても解決していないという。

「アレは何のつもりで、そんな真似を?」

 さあ、とアベルは肩を竦めた。

「エリーお嬢様のなさることですから」


■■■


 城に到着したのは、夕食時を少し過ぎたころだった。

 陽は沈みかけ、薄闇が夜の濃さを深めつつあった。

 城の窓からは柔らかくも煌々とした明かりが漏れている。ランプや松明では決してあり得ない≪電灯≫の光だ。

 食堂に向かう前に、クロエはヨアキムの執務室を覗いた。

 恐るべきことに、朝の時点で子供の背丈ほどもあろうかと思われた書類の山は、いまや小型犬の背丈ほどにまで縮んでいた。

 書類の山に囲まれた青年は、机に広げた無数の書類を前にぶつぶつと独り言を零しては頭を掻きむしり、物凄い勢いで≪ハンコ≫なる代物を書類に叩き付けまくっていた。落ち窪んだ眼窩の奥では三白眼気味の目が爛々と輝いている。

 その凶相は薬物中毒者を通り過ぎ、もはや悪鬼か幽鬼の類とさえ形容できそうな領域に達していた。

 片時も休むことなく仕事を続けていたのだろう。

 それに引き換え、クロエがやっていたことといえば、人探しと称して領内をうろついただけである。

 しかも見つけ出せなかったのだから、結果としては遊び歩いていたも同然だ。

 ちくちくと痛む良心から目を逸らしつつ、クロエはそっと執務室の扉を閉じた。


 その日、夕食の席に、エリザは姿を見せなかった。

 使用人達はそういう日もある、と特に疑問を感じていないようだった。

 せっかく作った料理が無駄になる、という心配が無いということもあるようだ。

 氷結の魔術を利用した≪冷蔵庫≫を持つこの土地では、料理の保存可能期間が極めて長い。

 主人達が手を付けなかった食事は使用人達の腹に収まるか、或は≪冷蔵庫≫にしまい込まれて翌日の朝食に仕立て直されるのだ。


 オーギュストの遠征に同行しているため、マティアスもエルザも不在にしている。

 エリザが姿を見せない以上、クロエと食事を共にする身分の人間は城内に居ない。

 クロエは久しぶりに独りでの食事を終え、浴室に向かった。

 この浴室という設備も、キルスティンならではの代物だった。

 滑らかに磨き上げた石室の中に、浴槽と呼ばれる、湯を湛えた巨大な甕が埋め込んである。

 この大陸が多数の国家に分裂するよりも前――はるか古代に栄えた統一国家で用いられていた設備を再現したらしい。

 石室の中には、頭上から湯を注ぐ≪シャワー≫なる装置も設えてある。

 手前に置いてある石鹸で身を清めた後は、≪シャワー≫で泡を流し、浴槽に身を沈める。

 深く息を吐き出せば、凝り固まっていた体が隅々まで解れていくかのようだった。

 茫洋と天井を眺め、クロエは改めて己の無力を噛み締めた。

 この土地はまるで楽園だ。

 愚かな役人が私腹を肥やすこともなく、飢えと病で動けなくなった貧民が道端に転がっていることもない。

 街は活気に溢れ、今もなお発展を続けている。

 民は誰に導かれるでもなく、自分達を豊かにし続けている。

 この土地のためにクロエが出来ることはほとんどない。

 それどころか、余計な面倒事――貴族達の視線という、この上なく厄介な代物を持ち込んでしまっただけなのかもしれない。

 考えたところで詮無き事ではあったが。

「明日こそは、エリザを見つけねばな」

 呟いて、クロエは浴槽から立ち上がった。

 兎にも角にも、まずは仕事に手を付けられるようにならなければ。

 その為にも指輪の確保は最優先事項である。


 ――結論から言えば、その僅か数刻後に『指輪』は見つかった。


 どこを探しても見当たらなかったエリザが当たり前の様に寝室で熟睡していたのである。

 当然クロエはこれを叩き起こし、指輪の行方を問い質した。

「あれ、よっちゃんから受け取ってないんですか?」

 寝台に腰掛けてゆらゆらと頭を揺らす寝ぼけ眼の妻の前に立って腕を組み、夫は厳しく追及した。

「ヨアキムは指輪など受け取っていないと言っていたぞ。そのせいでお前を探し回ってどれだけ引きずり回されたか……いや、そもそも領主の証たる指輪を家臣に預けるとは何事だ。義父上が許したとしても、俺は認め――おふっ!?」

 眠気がぶり返したのか、エリザは前のめりに倒れこんだ。

 エリザが顔を埋めるようにしな垂れかかったのはクロエの身体であり、言ってしまえば下腹部のあたりであった。

 間違っても年頃の娘が取ってよい姿勢ではなかった。

 ――いや、夫婦だからいいのか? 待て待て、そんなわけあるか。いや、どうなんだ実際。やっぱりあるのか?

 クロエは滑稽なまでに動揺した。

「でも私……渡しましたし」

「そのまま喋るな馬鹿者!」

 もごもごと呟く声が服の上から伝わって、腰のあたりに非常にまずい感触が走る。

 クロエは慌ててエリザの両肩を掴み、身体から引きはがした。

 もしも一時の勢いに任せて無理を強いれば、どんな報復を受けるかわからない。

 何しろこの娘、王都でも見かけないような高位の魔術師である可能性が極めて高いのである。

 理性を無くした代償にナニを無くす羽目になるかなど、クロエは想像もしたくなかった。

「あー……そっか、判った……」

 クロエの葛藤を知ってか知らずか、ほとんど瞑目したまま、エリザは言葉を続けた。

「クロエ様……よっちゃん、『指輪』と『ハンコ』が同じって、判ってない……」

「は?」

「…………」

 応えは無かった。ぽすっ、と小さな音を立てて寝台に転がったエリザは、今度こそ完全に寝入っていた。


■■■


「はぁ。そういうことっすか」

 凶相の青年は忌々し気に後頭部を掻き毟った。

 深夜である。

 歩哨以外の人間が完全に寝静まっているような時間に、クロエは執務室を訪れていた。

 何も徹夜続きの人間に対する嫌がらせを意図しているのではない。

 単純にヨアキムの仕事が終わるまで待っていたらこの時間になってしまったというだけであった。

「それなら――領主決裁用のハンコなら、確かに預かってます。『指輪』がそれのことだって、全然気づかなかったす。申し訳ありませんでした」

 椅子に座ったままだが、机に額が触れる程には深々と、ヨアキムは頭を下げた。

 机の上は綺麗に片付いている。決死の勢いで切り崩していた書類の山は、どうやら目標通り本日中に撃滅できたらしい。

「気にするな。きちんと確認しなかった私にも非はある」

 経緯としては単純であった。

 クロエがそうであるように、オーギュストもまた一般的な意味での貴族として生きてきた男だ。

 貴族にとって手紙に封を施し、書類に捺すのはあくまで『指輪』である。より効率的に同じ役目を果たす道具が出てきたとしても、それを『指輪』と呼び続けるのは自然なことである。クロエがオーギュストの立場でも、恐らく同じようにしていたことだろう。

 だが、そうと知らなければ『指輪』と『ハンコ』を同じものとして認識できる道理はないのである。

「俺、ここで育ったからここの言葉しか知らなくて。そういう貴族の作法とか全然判んないんで、また同じようなことになるかもしれません。だから、その分も含めて予め謝っときます」

 そう言って、ヨアキムはもう一度頭を下げた。

「判った。今後は互いに確認の徹底を心掛けるとしよう。アレに振り回されて右往左往するのは、出来るだけ避けたいからな」

「了解っす」

 深い賛意の籠った眼差しで、ヨアキムは頷いた。

 なんとなくだが、気が合いそうな青年だとクロエは思った。

 

 それは同じ主人にこき使われる奴隷同士が相憐れむ気持ちとよく似ているのだが――残念ながら、そのことを指摘できる人間はこの場には居なかった。


 なお、その翌日。

 晴れて書類の決裁権限を得たクロエは自分の執務机に積み上がり折り重なって山脈と化した膨大な書類を前に茫然と立ち竦み、何度目になるかもわからないが、この土地に来たことを心の底から後悔したという。

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