第一話:クロエ、婿入りする(1)
青年は危機に陥っていた。
生まれ落ちて20余年。傍系とはいえ王族の端くれとして、それなりに暗殺者や毒殺の危機を切り抜けた経験はある。
だが、それでもこれほどの恐怖と絶望を覚えたことはなかった。
「ま、待て……落ち着け」
口内に貼り付いたように動かない舌を動かし、ようやくの思いで言葉を絞り出す。
必死で後ずさろうとするも、全身が萎えて力を出せない。薬を盛られたか、術をかけられたか。どちらにしても状況は最悪だった。
それでも、と赤子のようにずりずりとシーツに皺を残しながら身体を運んだ。
「大丈夫です。危害を加えるような代物ではありません」
誰がどう聞いたって不安と恐怖しか感じられないような言葉を口にしながら、青年を押さえつけるべく体重をかけて伸し掛かっているのは、一人の娘。夜月の光に照らされた銀色の髪も幻想的な、妖精の如き美貌の女だった。
花の様に淡く甘い香りと温かく柔らかな肢体の重みは、青年が必至にかき集めた理性を容易く洗い流そうとする。
もともと、理性を保つような場所ではなかった。
ここは寝所で、胸の上に凭れかかる女は本日婚姻を済ませたばかりの青年の妻で、今宵は記念すべき初夜である。
それなのに、青年は全身から脂汗を滲ませながら崩壊しそうな理性を必死でかき集め、押しとどめ、力の入らない身体に鞭打って逃げ出そうとしていた。
もっとも、同じ状況に置かれたとすれば青年でなくとも誰だって同じようにしただろう。
「もう、あまり激しく動かれると変な場所に刺さっちゃいますよ?」
不満気に頬を膨らませる女が手にしたヘッドバンドのような代物――先ほどからしきりに青年の頭に着用させようとしているソレの内側に、カチャカチャと不吉極まりない音を立てて伸び縮みする、無数の鋭く長い針が生えているのを目にしてしまったのならば。
「わ、わ、私を殺すつもりか――」
魔女。
そんな単語が思い浮かび、青年は目の前が真っ暗になるような絶望に襲われた。
そうだ、この女は魔女に違いない。魔女なのだ。
聞いたことがある。永遠の寿命と美貌を手に入れる代わり、人の生き血を啜らねば生きていけなくなる女がいると。そのために女は男を騙し、嬲り、カラカラになるまで啜り尽すのだと。
「心配しなくても、死んだりしません。どんなに悪くても、精々二度と目が覚めなくなるだけです」
「それは死というのではないか!?」
「馬鹿なこと言わないでください。『昏睡』と『脳死』は同じようでも全然違います」
青年の必死の抗議にも、女はむっとしたように訳のわからない言葉を呟くだけだった。手を止める気は一欠片も無いらしい。
もはや絶望しかなかった。『コンスイ』『ノーシ』とやらが何なのか判らないが、いずれにしろ死よりも恐ろしい状態になると言っているのは間違いないと思える。今にも消え去りそうな意識を必死で繋ぎ止め、青年は心の底から悔いた。
早まった。明らかに早まった。
いくら政争に負けたからといって、辺境伯領に婿入りする話なんか呑むのではなかった。
牢に押し込められて甚振られたあげく断頭台の露になるよりはマシだ等と能天気に笑っていた数か月前の自分を縊り殺してやりたい。
いやだ、こんな目に遭わされるなんて聞いていない。人里離れた辺境の地で、得体のしれない狂人の慰み者にされるなんて、王都の腐りきった貴族共が許しても神が絶対に許しはしない……!
「はい、装着ー」
女の手がついに青年の頭部を捉える。
こめかみから額、後頭部にかけてを軽く締め付ける絶望的な感触。
そして、
「オレハニンゲンヲヤメルゾ、○ョジョー」
魔女が何やら訳の分からない呪文を唱えた直後。
カチャッ、と身の毛もよだつ様な音が頭蓋骨の内側に谺して。
「馬鹿者ッ、や、止め……アッ―――――――!!!!!!」
月夜の古城に、悲痛な絶叫が響き渡った。




