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婚約破棄は承知しました。では侯爵家に貸した金貨二千枚、お返しくださいませ!あ、浮気の慰謝料も。

掲載日:2026/10/28


「僕はノリス商会会長のご令嬢、ユーリアさんと結婚する。君との婚約は破棄させてもらうぞ、ハリエット!」


 アホなのか。それが私の感想だった。とはいえ、わざわざ我がグレイ伯爵家のタウンハウスまでお越しいただいたのだ。アホ――いえ、能天気なエゴン様にも一応言い分を聞いてみましょう。あー紅茶がおいしいですわ。


「エゴン様。私との婚姻を条件に、私はマーサー侯爵家に資金援助してまいりましたよね?」

「ああ。七年間、ご苦労だった。これで没落は免れたよ! あっはっは!」


 あっはっはっは!

 紅茶ぶちまけたろか。


「ノリス商会は今、景気がいいとお聞きしましたわ」

「ああそうだ。ユーリアは商会のご令嬢といえど平民だが……次期当主の僕は身分差なんて気にしない。僕たちは愛のある結婚なんだよ」


 そこに金はあるのかしら。まあ商会にはあるんでしょうけれど。


「マーサー侯爵もご承諾なさったということですね?」

「ああ。これが僕とユーリアの結婚を認める、父からの文書だ。君にあげるよ」


 どれどれ。面倒だけれど、エゴン様が誇らしげに見せつけてきた文書にも目を通しておきましょう。

 えーと、なになに。


『ノリス商会がマーサー侯爵領内で得た利益の四割を、マーサー侯爵家が手数料として受け取ることを条件に、エゴン・マーサーとユーリア・ノリスの結婚を認める。同時に、ハリエット・グレイ伯爵令嬢との婚約破棄も認めるものとする』


 ご立派に印章なんかつけちゃって。この羊皮紙一枚でいったい何冊の帳簿が買えるのかしら。まあ、サインも印章も本物だわ。日付もしっかり書いてあるわね。これは大事に保管いたしましょう。それはそれはそれはもう大事にね。


「侯爵様にお返事しますわ。……紙とペンと、印判を持ってきてちょうだい」


 我が家の執事は仕事ができるわ。だって爺や、アンポンタン――エゴン様がのんきに茶を啜っている三分のうちに、すぐに一式そろえてくれたもの。

 エゴン様ったら、私がお父様から婚約にまつわる一切の権限を委任されていること、お忘れなのかしら。「ユーリア……会いたい……」じゃねぇですわ。

 聞いていられない戯言は聞かないことにして、婚約破棄の承諾書と返済請求書をさらさらとしたため、最後に印章をしっっっかりと押す。

 よし、これで必要な書類は整いましたわ。


「エゴン様。婚約破棄は承知いたしましたわ」

「おお、ハリエット。頭の固い君でも、今回ばかりはわかってくれたか!」

「はい」


 お前の楽天家っぷりをね。

 願わくば七年前の私に知らしめてやりたいですわ。「ただ顔面がいいだけの男じゃメシは食えない」って。

 こんな顔がいいだけの男にうっかり恋をしてしまった七年前の私、なんて純情だったのかしら。「いつか変わる」「変わってくれるはず」「さすがに変わりますわよね」「そろそろ変わってくれるでしょう……」「変わ……る……?」と数年間信じてきた私、ああ、愚かでしたわ。


「では、婚姻を前提とした返済猶予は終了いたしますわね!」


 うふふ。

 ちなみに七年間の貸付金は、元金だけで金貨二千枚。

 私たちの婚約が続くことを条件に返済期限を延ばしてさしあげていたのだけれど、その条件を自ら放棄なさるだなんて。エゴン様はきっと知らないのでしょうね。なんせ名義はマーサー侯爵様でしたから。

 本来なら今後も受け取れるはずだった利息は減るけれど、まあ、そこは慰謝料でとことん搾り取ればトントンといったところね。


「エゴン様、こちらをマーサー侯爵様にお渡しくださいませね」

「ああ! 必ず渡すよ!」


 まあ、渡せなくてもあとから写しを送りますけれど。私が見送るまでもなく、エゴン様はすたこらとタウンハウスを飛び出していった。


「あーーーーースッキリした!」


 これで舞踏会で「没落寸前のパートナーなんて」やら「貢いでるらしいわよ」やら「いいカモね」やら「ヒモを飼うなんて」やら言われずに済むのね!

 社交界で「面食いの哀れなご令嬢」だなんて言われずに済むのね!

 晴れの日にわざわざエゴン様のお衣装までこちらで買い与えてさしあげる必要もなくなるのね!

 侯爵家の外面を繕うために高級馬車を御者と馬ごと貸してさしあげる必要もなくなるのね!

 侯爵家の庭園を整えるために腕利きの庭師を我が家から出張させる必要もなくなるのね!

 侯爵夫妻がお召しになるお衣装まで貸してさしあげる必要もなくなるのね!

 侯爵夫人にやたら高価なジュエリーばっかり借りられることもなくなるのね!

 侯爵家の避暑地として別荘を貸してさしあげる必要もなくなるのね!

 気がかりなのは領民の暮らしですけれど!

 そこはノリス商会がなんとかなさるんでしょう!

 四割も手数料をとられる侯爵領での商売、どう切り盛りするのかお手並み拝見といきましょう!

 ノリス商会ならなんとかなさるんでしょうから!

 あーーーーーーーーーーー、スッキリしましたわ!


「さ、貸付金の全額回収と慰謝料について作戦を練らなければね」

「切り替えの早さ、さすがでございます。ハリエットお嬢様」

「おほほ。だってコレが絡んでるんですもの」


 爺やに〝カネ〟のジェスチャーを見せたら、「さすがでございます」と褒められた。

 幸い、その分野の人脈はありますわ。官僚のお父様と、商家出身のお母様のおかげね。ええと、王宮財務官、あと法務官もかしら。あ、そうそう、以前から浮気調査を頼んでいた探偵もお呼びしなければ。




「――たしかに王宮財務官様にご依頼はしましたけれど」


 翌週、王宮から我が家を訪ねてきたのは、将来有望ともっぱら評判の財務官――ディック・オーウェン公爵閣下だった。

 財務大臣だった先代公爵は昨年、四十代半ばで早逝した。その跡を継いだのが、目の前で優雅に紅茶を口にしているディック様。現在二十七歳という若さで、すでにオーウェン公爵家の当主を務めている。

 たしかに、お父様と先代公爵は王立学園時代からの盟友だわ。たしかに、私自身も三歳年上のディック様とは幼い頃から親しくしているし、両家は家族ぐるみの付き合いですけれど。

 ですけれども!


「もっと、こう……他に適任者はいなかったのかしら?」

「俺は伯爵家の懐事情にも詳しいが?」

「詳しくなくて結構よ」

「各家の財務状況を確認するのが俺の仕事だ」

「国家権力……!」


 ダンッ、と私はソファの座面を叩いた。私も王宮財務官になりたかった。なりたかった! お父様に領地経営の半分を任されていなければ!


「言っておくが職権濫用はしてないぞ。たまに伯爵がうちに飲みにきてべらべら喋ってる」

「酔いどれめ……!」

「俺とうちの使用人の口の堅さに感謝しろよ」

「引き続き今後とも口を堅くしていただきたく存じますわ。お菓子、お召し上がりくださいませ」


 私が用意した高級パティスリーの焼き菓子を、ディックは少しの遠慮もなくパクパクパクと平らげていく。


「やっと夢から醒めたか?」

「婚約破棄のことかしら?」

「ああ、お前が顔がいいだけの男を見苦しくも信じまくって、頭の中をお花畑にしていた夢だ」

「おほほほほほほほ。二年ほど前から醒めてたわよ!」


 じゃあなんで二年も続けたんだ、とディックがティーカップ片手に尋ねてきた。ムカつくわあ、顔と頭がいいのに口が悪い男って。


「でも貸付金の利息収入もあったし……」

「本音は?」

「……私から破棄するのは負けた気がしてぇ!」

「アホか」

「でもそのおかげで浮気の証拠は揃ったわよ。ほら、こんなにドッサリ」


 目撃証言や関係者の証言記録、証人の身元証明書。腕利きの探偵を雇った甲斐があったわ。ついでにローテーブルに婚約関係の書類もまとめて用意した。


「負けず嫌いが祟って貢ぎまくったうえに浮気までされるとはな」

「うるせぇですわ。ここから挽回するのよ」

「避暑のために貸した別荘が浮気現場になるとはな」

「査定した結果、想像以上に高く売れるみたいなの」

「お前の収益物件の一つだったんじゃないのか?」

「きったねぇ別荘を他人様にお貸しするたびに良心を痛めるくらいなら新しい物件を買うわ。候補はリストアップしてるもの」

「貸すたびにトラウマを起こす、の間違いじゃないか?」

「お菓子のおかわり、どうぞ」


 この男の口を塞ぐには焼き菓子よ。私は追加の焼き菓子を無理やりディックの口に押し込んだ。


「私があなたを呼んだ目的は、貸付金の回収と慰謝料請求のためよ!」

「依頼なので協力してやる。で、マーサー侯爵家からの返事は?」

「それが……」


 はあ。一応、返信は届いたけれど。


「『今すぐ返済することには同意しない』って」

「いかにもマーサー侯爵らしい」

「返済が滞ったら、侯爵家の土地や屋敷を処分して弁済する契約になっているのだけれど……」

「ノリス商会は侯爵家の返済を援助してやらないのか。ひどいな」

「そうそう、ノリス商会についても調査しておいたの」


 爺や、と呼ぶと、どこからともなく調査報告書を手にした本人がやってきた。


「多すぎだろ、書類。どんだけ徹底的に調べたんだ」

「私を誰だと思って?」

「顔面のよさに目がくらんだ、意地っ張りの哀れな守銭奴」


 あ〜私が剣士じゃなくてよかった。じゃなかったら今すぐ私怨でディックを刺してたわ。


「会長も娘の結婚には乗り気なんだな」

「そうみたいね」

「ふーん……」


 ディックはお菓子を食べながら報告書をパラパラめくっている。

 黙ってたら顔だけはいいのよね。黙ってたら。

 私の初恋相手は三歳の頃、初めて会ったディックだった。六歳の彼に簡単な計算を教わって「かっこよくてすごいひと!」なんてときめいてたっけ。まあ、その一ヶ月後に「アホか」と言われて初恋は終わったけれど。

 儚ぇもんですわ、初恋って。


「ユーリア・ノリスには慰謝料について伝えたのか?」


 エゴン・マーサーに婚約者がいると知りながら関係を持ったそうじゃないか、とディックの指がとんとんと浮気調査報告書を叩いた。


「まだよ。父親の会長が手強そうだから、どう攻めたものかしらと悩んでるの」

「お前でも悩むことあるんだな」

「もういらない? お菓子」

「そりゃ悩むよな、お前も」


 まあとりあえず、と言ってディックはティーカップを手にする。


「ハリエット、七年前の婚約について確認させてくれ」

「はいこれ。契約書」

「……『婚約が解消された場合、三十日以内に貸付金を一括返済する。返済できなければ、担保に入れた財産を法的な手続きによって売却し、回収金に充てること』」

「こっちは侯爵からの最新の返信。正式な婚約解消通知よ」

「『本日をもってエゴン・マーサーとハリエット・グレイの婚約を破棄したものとする』。五日前の日付だな」

「あと二十五日ね!」

「楽しそうだな」

「とりあえず侯爵家に貸しっぱなしのものを回収しようと思うの」


 マーサー侯爵家に貸与した財産と、派遣していた使用人のリストをぴらりと見せた。


「衣装、ジュエリー、馬車、馬、御者、庭師、別荘か。ずいぶん貢いだな」

「貸・し・た・の」

「エゴン・マーサーに衣装は買ってあげたんだろう?」

「……なんで知ってるの」

「舞踏会で見てたから。マーサー家にしては豪華な衣装だったから、お前が貢いだんだろうなと思って」


 けっ。


「……領収書と贈与契約書は保管してるわよ」

「贈与か……」

「ほら、ディックも見ればいいわ」

「八十四着……お前な……」

「あなたにはわからないでしょうねっ! 顔がいい男に自分好みの衣装を着せる喜びはっ!」

「……ああいうのがお前の好みなのか」

「何よそのジトッとした目は!」

「タイとブローチと靴も同じ数あるんだが」

「そうよ一式よ!」


 さすがに泣きたくなったのでソファのクッションを抱きしめた。七年間、月に一回。ううっ。


「大丈夫だ」


 隣でトスンと音がした。ディックが座ったらしい。頭に、ぽんぽん、とディックの手が乗る感触があった。


「まずは貸与分を回収しよう。ほら、七年前の契約書に『婚約が解消された場合、ハリエット・グレイからマーサー侯爵家に貸与したものは七日以内に返却する』と書いてある」

「うん……」

「贈与した分は、まあ……その……なんだ」

「勉強代……」

「そういうことだ。収益物件探しは俺も手伝ってやるから、あんまり落ち込むな」

「本当に?」


 言質。


「タダで手伝ってやる。手数料も何も請求しない。ほら、即席で悪いが、合意書だ」


 ディックは手帳にさらさらと言葉通りの条件を書き、日付とサインも記して紙を渡してきた。


「……ディック。指紋でいいから」

「お前、サインだけじゃ満足しないのか……」


 爺やはインクパッドを携帯してるのよ。

 ディックが冷ややかな目で私たちを見ようとも関係ないわ。「わかったわかった」と言って彼は指紋も押してくれた。私は見事、サインと念押しの指紋つきの収益物件探し無償支援の合意書をゲットした。



 ◇ ◇ ◇



「――奥様!」


 ハリエットとエゴンの婚約が解消されて八日後。

 マーサー侯爵家のタウンハウスでは、執事がバタバタと足音を鳴らして侯爵夫人の元へ駆け寄っていた。


「なあに? これからお友達とお茶会なのよ。馬車の準備をしてちょうだい」

「そ、それが……馬車、用意できません!」

「はあ!?」

「馬と御者も、あと庭師もいなくて……」

「どういうこと!?」


 高価なジュエリーとドレス、靴で着飾った侯爵夫人は、高価なハンドバッグを手に、グローブをはめたまま唖然とする。


「お、奥様、それと、王宮から……その……法務官がお見えに……」

「法務官……!?」


 執事を押しのけるように、王宮から派遣された法務官と財産管理人、それから荷物係がぞろぞろと顔を出す。


「……ど、どういうこと? 本日はなぜこちらに……?」


 侯爵夫人の顔は真っ青だ。最後に、ディックが入室する。


「ディック・オーウェンと申します。ハリエット・グレイの代理人として参りました」

「こっ、こ、ここ公爵閣下……!」

「ああ、堅苦しい挨拶は不要です。まずは本日のお茶会、不参加の文をしたためたほうがよろしいかと」


 あわあわと唇を震わせる侯爵夫人の目の前で、法務官が命令書を広げる。


「王宮法務局の者です。本日をもちまして、ハリエット・グレイからマーサー侯爵家への貸与品を回収いたします」


 その傍らでは、ハリエットから代理権を委任されたディックが貸与品の台帳を確認している。

 こうしてハリエットからの貸与品回収が始まった。


「ジュエリーも」

「これも!?」

「靴も」

「裸足で歩けですって!?」

「侯爵家所有のスリッパがあるでしょう。バッグも全部ですね。ドレスも」

「ちょっと……」


 ディックが台帳と照らし合わせ、法務官が指示を出し、財産管理人や荷物係が貸与品をまとめていく。


「そっ、それは息子がハリエットからもらった衣装よ!」

「ええ、なので見ているだけです」


 あいつ、こんなに貢いだのか。ディックはこれまで目にしてきた舞踏会でのハリエットとエゴンの様子を思い出す。


(面食いにも程があるだろ……)


 ハリエットが十七歳で婚約するまでの十四年間、ディックは彼女の数々の恋を見てきた。三歳の頃から、彼女が恋の相手として重視するのは一にも二にも顔だった。性格や金銭事情は四の次、五の次である。

 誰がどう見ても悪い条件の男に靡いた時はディックがなんとか阻止していたが、結局は貧乏で浮気性なエゴンと婚約。


(あれだけ釘は刺したのに)


 マーサー侯爵家の経済事情を知っていたディックは、ハリエットの婚約が決まる直前まで「あいつだけはやめとけ」と何度も言っていた。だがハリエットは「顔がよければすべてよし」と頑として聞き入れなかった。その結果がこれである。


「ご子息の衣装は押収できませんので、当面の資金繰りに活用なさればよろしいかと」


 ディックはぶっきらぼうに侯爵夫人へ告げた。


「売り飛ばせと? エゴンはノリス商会と縁談が……!」

「こちらの知ったことではありません」


 侯爵夫人はメイドに寝室へと連れられていった。


(俺には似合いそうにない服だな)


 このタキシードもブローチもタイも靴もコートも。ディックは一つ一つじっくり見ていく。


「――公爵閣下! これはどういうことですか!」


 使用人が外に知らせに行ったのか、マーサー侯爵が慌ただしく帰宅してきた。


「法務官に聞きませんでしたか?」


 ディックの視線はクローゼットから離れない。


「すぐに返済するのは同意できないと伝えたはず……!」

「それは貸付金の元金、金貨二千枚でしょう?」

「二千枚だと! まだそんなに残っているのですか!?」

「七年間、利息しか払ってこなかったのはあなたご自身でしょう。元金が減る理由がどこに?」


 マーサー侯爵が杜撰なのはディックも知っている。とはいえ、顔だけの男を甘やかして利息だけ受け取っていたハリエットもどうかしているが。


「それよりマーサー侯爵。あなたがお召しの衣装も返却対象です。ご夫人のようにお着替えください」

「肌着になれと!?」

「パジャマはリストにありませんでしたよ。それを着られては?」


 マーサー侯爵はまだ何やら吠えていたが、執事に引きずられるように寝室へと消えていった。


(グレイ卿がうちに来ては愚痴るわけだ)


 ハリエットの父グレイ伯爵は、ディックにとって第二の父のような存在だ。伯爵は、娘の婚約相手とその両親の浪費家ぶりを嘆いては「あの子の面食いは誰に似たんだ」と酔っ払って泣いていた。ここ数年は「なあディック、お前があの子を奪ってくれんか」「お前も顔はいいだろう」「あの子の面食いが開花したのはお前なんだよ」と深夜まで泣き言を垂れる始末だ。


(あいつ自身が望んだ婚約を壊せるもんか。それに、奪ったら慰謝料としてマーサー侯爵家に金を払わなければならない。それは癪だ)


 ディックはグレイ伯爵にもそう伝えてきた。


「やっとか……」


 ――タウンハウス内の返却対象品は、これですべて揃った。荷車にたんまりと積み上がった貸与品を見て、ハア、とディックはハリエットの貢ぎ癖を憂いた。


「金貨二千枚なんて払えるかーっ!」

「ノリス商会にどう説明すればいいのよーッ!」


 パジャマ姿の侯爵夫妻の悲鳴がタウンハウスに響いた。



 ◇ ◇ ◇



「これは売る。これも売る。侯爵のズボン? オークションに出してもせいぜい銅貨でしょう。質屋でいいわ」


 我ながら、よくもこれだけ貸したものだわ。うちのエントランスが埋め尽くされる勢いだわ。ディックに手伝ってもらえてよかった。顔は嫌そうだけれど。


「丸ごと質屋に引き取ってもらえよ」

「宝飾品はオークションに回すわ。……馬車はどこかに寄付しようかしら?」

「どこに」


 やっぱり馬車も質屋でいいか。考える時間が惜しいわ。


「宝飾品以外の査定、お願いできますかしら?」


 招いておいた鑑定人は「お時間、ください……」と魂が抜けかけた様子で頷いた。査定料は多少弾んであげようかしら。


「ディック、リビングで作戦練りましょ」

「例の別荘か……」

「私、ケーキ焼いておいたの」

「三分の二」

「四分の三食べていいわよ」


 リビングに向かうと、爺やがテキパキとケーキや紅茶を用意してくれた。


「『爺やが数十歳若かったらなあ』って顔に書いてあるぞ」

「だって仕事ができるもの……若い頃はハンサムだっただろうし……」

「不倫の慰謝料は高くつくぞ」

「婆やを敵に回すつもりはないわ。理想像の話よ」


 爺やと私の乳母は仲のいい熟年夫婦。美男美女で羨ましい。「ほっほっほ」と爺やは笑いながらエントランスに行った。査定の立ち会いは爺やに任せておけば安心ね。


「それで、恋人たちは別荘で逢瀬の最中だったか?」

「ええ。返却期限はとっくに過ぎているのに、昨日から一週間も滞在するつもりですって。探偵に張ってもらってるわ」

「乗り込むのか」

「最後にガツンと言っておきたくて」

「一人で?」


 この男、もうほとんど食べてる。


「お父様を連れていこうかしら」


 もしもエゴン様――いや、エゴンに殴りかかられたら怖いし。


「三日後なら空いてる」

「ディックが?」

「グレイ卿も歳だぞ」


 ディックなりにお父様のことを心配してくれてるのね。


「殴られそうになったら守ってくれる?」

「上目遣いやめろ、守ってやるから」


 戦力ゲットだぜですわ。


「ケーキもう一ホールあるの。ちょっと焦げたやつ」

「丸ごと食べていいか?」

「胃袋どうなってるの?」

「カネと糖分はあればあるほどいい」


 ちょいちょい、と「よこせ」というジェスチャーをされたので、私は大人しくディックにケーキを差し出すことにした。


「別荘に乗り込む日は、とびっきりめかしこんでおけよ」


 なぜ。


「お前は黙ってれば顔はいいんだ」

「その言葉、そっくりそのままディックに返すわ」

「後悔させたいだろ。見る目のない大馬鹿野郎に」


 たしかに。


「見返してやろうぜ。アホで能天気で楽天家なアンポンタンを」


 ディックのいたずらっぽい笑顔、見たのはいつぶりかしら。三歳の頃に見たまんまだわ。



 ◇ ◇ ◇



「しかし、いい物件だな」


 王都を一望できる、小高い山の上に建つ別荘。山道も整備されているし、馬車でも難なく来ることができる場所だ。ディックの言う通り、いい物件を見つけられたと思う。森林の空気が気持ちいいし、夏場の強い日差しを遮るように、建物の周囲には木々が植えられているしね。


「ノリス商会の馬車で来てるらしいな」


 ほら、とディックが指さしたのは、別荘の横に停まっている馬車。私も見たことのあるノリス商会の紋章がある。


「お前の元婚約者、女に頼る癖があるんだな」

「あのねディック。まだ癒えてないの、私」

「ケタか?」

「ええ。馬鹿男に注ぎ込んだ金額のケタに傷ついてるの」


 ディックは「お前らしいな」と言うだけだった。慰める気はないらしい。


「というか、ディックまでめかしこむ必要があったかしら?」

「うん?」


 とびっきりめかしこんでこいよ、という三日前のディックに従い、私はメイドに手伝ってもらって身なりを整えてきた。

 この日のためにスキンケアもしてきた。少しでもむくみを取るために食事に気を使って運動もしてきた。評判の化粧品も惜しみなく買った。ドレスも靴もバッグもオーダーメイドする時間はなかったけれど、それなりに似合うものを選んだ。ジュエリーはその道に詳しいお母様に目利きをお願いして揃えてもらった。もちろん請求書の宛名は私。

 この日のためにいくらはたいたか考えたくもなかったので、とりあえず今日帰ってから整理することにした。

 そして、そんな金を惜しまずめかしこんだ私の隣に立つディックも、いつにも増して顔のよさを際立たせている。書類鞄だって私も初めて見る、高そうな、質のいい革製品だ。鞄すら顔のよさを引き立てる小物にするとは……恐ろしい男……!


「お前の横にいる男が貧相なナリだったら悪目立ちするだろ」


 男の人っていいわよね、アイシャドウもチークも口紅も買わずに済むんだから。


「ハリエット。男を羨んでないで、行くぞ」

「チッ」

「書類は? 持ってきただろうな」

「必要なものはすべてね」


 私は茶封筒を見せた。「じゃあ行くぞ」となぜかディックが先頭を切るのだった。




「聞くに堪えんな」


 別荘管理人の許可は事前に得ている。

 そっと玄関から中に入ると、リビングのほうからイチャコラ中の声と物音が聞こえてきた。


「愛してるよ、ユーリア」


 おえ。


「わたしもよ、エゴン」

「やっぱり僕には君しかいないよ! 抱きしめてみてわかる。この柔らかな肌触り、ハリエットとは大違いだ」

「やだ、エゴンったら。ハリエット様に悪いわ。ウフフ」


 ク――おっと。伯爵令嬢にあるまじき暴言を吐き出すところだったわ。


「なに?」

「いや? 別に」


 前にいたディックがこちらをチラッと見てきた。バレたか? バレたのか? 私が〝クソが〟なんて暴言を吐き出そうとしていたことが。


「ねえエゴン、本当にいいの? この別荘。ハリエット様のものなんでしょう?」

「ハリエットが僕に『どうぞいつでもお使いください』とプレゼントしてくれたものだよ。いくらでも使おうよ、僕らの愛の巣だろう?」

「こんなに素敵なおうちをくださるなんて……ハリエット様ったら、優しいお方! アハハ!」


 貸したやつ、な。


「もういいよな?」


 ディックが小声でそう言った。コクリと頷いた私の背中にディックが手を添える。え、何。目で訴えると「いいから」と耳元で囁いてきた。この男、自分の顔面の破壊力、わかってるのかしら。

 ディックがリビングのドアを開けた。


「お取り込み中、失礼」

「えっ……公爵……え、ハリエット!?」

「ごきげんよう、エゴン様、ユーリア・ノリスさん」


 きゃああっ、と悲鳴を上げたのは薄着がはだけたユーリアだ。取り乱しながらも、ディックを見た途端、「あら……」なんて腑抜けたことを言いやがりましたわ。お前もこっち側の人間か。

 私はユーリアとディックのあいだに立ち塞がった。


「なんでッ……君がここに……しかもオーウェン公爵と!」

「オーウェン公爵閣下、ですわ。エゴン様」

「……ハリエット、今日、綺麗だね……?」


 よく見ればエゴンの服も乱れている。

 ――ん? 今『綺麗だね』って言った?

 ッしゃァッ!


「なんでも何も、ここは私の別荘です。プレゼントだなんて頓珍漢もいいところですね」

「ハリエット! 君が『いつでもお使いください』って……」

「ええ、婚約中は、ね」


 ユーリアが「どういうこと?」とエゴンを見た。


「まずこちら。『婚約が解消された場合、ハリエット・グレイからマーサー侯爵家に貸与したものは七日以内に返却する』。七年前に交わした契約書よ」


 茶封筒の中の書類から一枚取り出す。


「そしてこちらはマーサー侯爵からの、正式な婚約解消通知」


 二枚目。


「とーーーーーっくに七日超過しています」

「そ、それは……パパが勝手に契約したものだ!」

「よくご覧になって。七年前の契約書。契約内容を確認した証として、エゴン様の署名もございましてよ」

「記憶にない!」

「筆跡鑑定の結果、エゴン様ご本人の署名と認められていますのよ」


 三枚目、筆跡鑑定の結果通知書。


「なんでしたっけ? 『僕らの愛の巣』でしたっけ?」


 ぴらぴらと三枚の書類で扇ぐ。あーそよ風が気持ちいい。


「外にあるノリス商会の馬車にお引っ越しなさったら?」

「ハリエット……君がそんな薄情だったなんて知らなかったよ!」

「はぁ〜〜〜くぅ〜〜〜じょぉ〜〜〜うぅ〜〜〜?」


 自覚はありますけれど!

 四枚目の出番ね。


「帳簿の写しでごめんなさいね。私がエゴン様に買ってさしあげていた衣装一式代、ひと月の平均は金貨十枚よ」


 ああ私の愛しの金貨、もう二度と帰ってこないのね。


「もちろん私が買って、エゴン様に贈ったものですもの。返せだなんて言いませんわ」

「買って……贈った……」


 ユーリアが何か言っているけれど、そんなことはどうでもいいですわ。


「七年間毎月。合計八十四回。八百四十枚の金貨を注ぎ込んだ女によくもまあ〝薄情〟だなんて言えたものですわね〜〜〜?」


 泣きてぇですわ。金貨の枚数に。

 帳簿の写しはひらりとエゴンとユーリアの足元へ舞っていった。


「……エゴン様? 今までわたしとのデートに着ていた服は……」

「ユーリア、そ、そ、そ、それは」

「エゴン様の元婚約者が買ってさしあげた服よ、ユーリアさん! 楽しかったかしら、元婚約者と一緒に選んで買った服を堂々と着た男とのデートは?」


 さぞ楽しかったでしょうね。さあ五枚目。


「王都で人気の喫茶店に合計二十回。歌劇場に合計十回。バーに合計三十回。ホテル……合計五十回」


 きめぇですわ。


「あなた方の浮気現場ですわ」


 続く数枚は浮気の証拠に関するものばかりだ。


「エゴン様、ユーリアさん。浮気の慰謝料、きっちり請求させていただきますわね!」

「なっ……」

「わ、わわわたしは関係ないでしょう!?」


 ありまくりだよですわ。


「おかしいですわね。ユーリアさんの関係者から『ユーリア・ノリスは婚約者がいると知っていながらエゴン・マーサーを誘惑した』との証言をいただいているのですけれど……」

「誰よ、そんなこと言ったの!」

「言えるわけがないでしょう。それに、何人も同じ証言をしてますわ」


 証言記録をトントンと叩く。あーいい音。


「わ、わたしはエゴンに騙されたのよ!」


 と言われましても。


「誰がそれを証言するんだ?」


 ディックがようやく口を開いた。ぱあっとユーリアの表情が華やぐ。やっぱりてめえもこっち側の人間ですわね。


「聞いてください、オーウェン公爵閣下。わたしは無理やりエゴンに迫られたんです!」

「ちょっ……ユーリア!」


 エゴンの呼び声にも聞く耳を持たず、ユーリアは薄着をはだけさせたままディックに……近づくな!


「俺に近づかないでくれ。不快だ」


 ディック、私を盾として使いやがりましたわ。いや、構わないんですけれど、私の肩をがっしり掴み続ける必要があるのかしら。


「慰謝料については裁判で決めましょう、ユーリアさん」


 私はにっこり微笑んだ。


「あ、もちろんエゴン様にも慰謝料を請求いたしますわよ。どうせ、払いたくない、とか仰るんでしょう?」

「ああ払いたくないね!」

「では裁判ですわね!」


 楽しみですわ! 金銭的余裕のないマーサー侯爵家がどんな弁護士を雇うのか!


「それと、エゴン様。王都でホテルを探したほうがよろしいと思いますわよ」

「は? ホテル?」

「……まあ、ここ最近ユーリアさんのご自宅やこの別荘に滞在していたエゴン様ですし、ご存じないのも仕方ありませんわね」


 はい、次の紙。


「マーサー侯爵は私への貸付金返済として、王都のタウンハウスを売却なさいましたもの!」

「……はああああああッ!?」


 昨日届いた書類ですけれど。


「まあ、そこまで価値の高い物件ではありませんでしたから……売却額は金貨五百枚。その全額を返済に充てていただきましたわ」


 まさか私が注ぎ込んだエゴンの衣装代より安いとは思いませんでしたわ。泣きてぇですわ。


「貸付金の元金は、残り金貨千五百枚ですわね」


 うふふ。


「侯爵は今頃、資金調達のために各地を駆けずり回っているそうですわ。エゴン様ったら、こんなところでのうのうとユーリアさんと楽しんでいる場合でして?」

「金貨千五百枚って……」


 さすがにユーリアもドン引きするのね。


「エゴン、侯爵家はハリエット様から金貨二千枚も借りてたの!?」

「いや、それは……それだってパパが……!」

「契約書にはあなたのサインもあるじゃない! 信じられない!」


 私からすれば二人とも信じられねぇですわ。


「わたしに近づいたのもお金のためなの!?」

「そうじゃないよ! ユーリアを愛してるのは本当だ! それに、近づいてきたのは君じゃないか!」

「こんな顔だけの男だと知ってたら近づかなかったわよ!」


 ああもう、頭痛がしてきたわ。


「エゴン・マーサーさん」


 あら?


「な、なんですか、オーウェン公爵閣下」


 ディックは持参した革製の書類鞄を開いた。中から取り出したのは、分厚い書類の束。


「ソル男爵家次女。キース伯爵家長女。ボナ子爵の妹御。ノックス侯爵家三女」

「そっ……それは……!」

「マローン公爵家四女。ワーナー男爵家長女。カミン伯爵未亡人」


 未亡人て。しかもかなり歳上よ、その人。


「ケード子爵長女。アスキス侯爵家次女。……以上がハリエット・グレイとの婚約期間中、あなたが関係を持った女性です」

「ちょ、ちょ、ちょっと待ってディック。なあにそのリスト。私、知らないわよ」

「数ヶ月前、グレイ卿から調査を頼まれてたんだよ」


 お父様が。


「証拠もきっちり揃ってる」


 だから書類鞄を持ってきてたのね……!


「ふふ……」

「……ハ、ハリエット。これは誤解なんだ。ちょっと魔が差したっていうか……」


 魔が差しとるやんけ。


「おーほほほほほほほほほ!」


 やった! やった! さすがお父様! さすがディック!


「エゴン様! 慰謝料、たーーーーーーっぷり請求させていただきますわね!」


 調査費用を負担したのがお父様だろうが関係ないわ! 婚約者として裏切られたのは私ですもの!

 大金が! 舞うのが! 気持ちいいのよ!


「おほほほほほほほ! さあとっとと私の別荘から出ていきやがれですわ〜〜〜!」

「待っ、待ってくれハリエット! 僕は真実の愛に気づいた! 僕のために、こんなに着飾ってくれるなんて……これほど美しい女性が身近にいたのに、僕はどうかしていたんだ……!」


 縋ってきたエゴンを、手袋をはめたディックの手が阻んだ。


「今頃ハリエットの美しさに気づいたのか?」


 え?


「もし俺がお前だったら、他の女にうつつを抜かしたりなんかしない。ハリエットに釣り合うために貧しい実家を再建して、領民も領地も豊かにして、一生ハリエットと義両親を養えるくらい金を稼ぐがな」


 そんな有能な働きができるのはディックぐらいだろですわ。


「……ノリス商会の会長はおかんむりらしいぞ。今のうちに額を床にこすりつければ、そこの恋人との結婚には漕ぎ着けるんじゃないか?」


 ハッ、とエゴンはユーリアを見る。


「誰がこんな男と……! 公爵閣下! わたし、傷心中ですの! このあとわたしと二人で……」

「断る。貢ぎ癖のある女は許容範囲内だが、他の女の男に手を出すような不埒な女は眼中にない」


 おい。ここぞとばかりに私を刺すんじゃねぇですわ。しかも許容範囲内なんかい。


「〜〜〜〜ッ」


 ユーリアは荷物をまとめて真っ先に別荘を飛び出していった。


「ハリエット……僕は……」


 取り残されたのはエゴンだ。


「……七年間、ありがとうございました、エゴン様」

「僕にはもう可能性はないのかい……!?」


 あるわけねぇだろ。ですわ。


「顔がいい男を着せ替え人形にするのは楽しかったですわ! さあ、とっとと下山なさって! 金貨千五百枚が残ってますのよ!」


 ディックがぐいぐいとエゴンを外に連れ出した。おまけにエゴンの少ない荷物もぽいぽいと外に放り出した。最後に、ガチャッと内側から玄関の鍵をかける。

 玄関の外でまだエゴンがわあわあ騒いでますわ。あー、いい遠吠え。


「ディック。浮気調査、ありがとう」

「いや、別にいい。せいせいした。それよりここ、ほかにリビングはないのか?」


 あいつらが座ったソファには座りたくない、とディックはきょろきょろ室内を見渡している。


「リビングじゃないけど、書斎ならソファがあるわ」

「案内してくれ。とりあえず外が落ち着くまでやり過ごしたい」


 二階の書斎――やっぱりあの二人が使った形跡はないわね。いい本も揃ってるのに、もったいない。「はあ」とディックが長いソファにふんぞり返った。手袋が窮屈だったのかしら。高そうな手袋、そんな雑に外さなくても。


「グレイ卿から頼まれてた浮気調査の件、証拠は全部お前の慰謝料請求に使っていいそうだ」

「じゃあいくらかディックに分けるわ」

「いや、俺は調査費用も負担してないし、浮気調査という珍しい体験ができたから何もいらない」


 けっこう楽しかった、と言ってディックは足を組んだ。


「あ、でも、お前が作ったケーキは食べたいな」

「何ケーキ?」

「チーズケーキ。あとシフォンケーキ。アップルパイもあったら嬉しい」

「一日で?」

「食べれるが?」


 胃袋どうなってんのよ。「わかったわ」と了承して私もソファに座ることにした。クッキーも焼いとくか。


「顔がいい男を着せ替え人形にするのはそんなに楽しいもんか?」

「うん」

「即答か」

「笑わないでくれる?」


 ユーリアも顔がいい男を着せ替え人形にしたりするのかしら……?

 ぼけっとしていると、ディックが私の目の前でぶんぶんと手を振った。


「何?」

「俺はまだお前の着せ替え人形にされたことはないが」

「……センスあるでしょ? ディックは」


 それに自分の衣装くらい買えるでしょ。


「そういうことじゃない」


 じゃあどういうことよ。


「顔がよくて、頭もよくて、甲斐性もある男が隣にいるんだぞ?」

「口は悪いけどね」

「それ以外で釣りがくるくらいだろう」

「あのね、私のあなたへの初恋は三歳の頃、一ヶ月で終わったの」

「短すぎだろ」

「ディックに『アホか』って言われたから」


 は〜〜〜、とディックが特大の溜め息をついた。


「あの時、俺がお前に『アホか』って言った理由、覚えてるのか?」


 何だっけ。『アホか』の衝撃が強くて思い出せないわ。


「俺とお前が初めて会ってから」

「ええ」

「俺たちが会うたびに」

「ええ」

「お前、俺に、おもちゃのコインやら花やらノートやらクレヨンやらぬいぐるみやら人形やらヘアゴムやら渡してきたんだぞ」


 一、二、三、四、五、六、七――


「一ヶ月で合計十個だ」

「まだあるのね」

「アホかよホントに」


 なんとなく思い出してきたような。『プレゼントするにも程があるだろ』って言われたような。


「そしたら急にピタリと貢ぎ物が止んだ」

「だって『アホか』って言われたんだもの。かっこよくてすごいひとって思ってた初恋の人に」

「……そのかっこよくてすごいひとの服、まだ選んだことねえだろ」

「今日のために注ぎ込んだ費用、まだ整理してないの。今はこれ以上お金を使うことを考えたくないわ……」


 たしかにディックの服を選ぶのは楽しそう。ものすごく楽しそう。めちゃくちゃ楽しそう。だけどまだ、心の金銭事情の整理がつかないのよ!


「ハリィ」


 えっ!?


「なっ、なっ、なにディック!」

「やっとこっち向いた」

「そりゃ向くでしょう。昔のあだ名……」

「お前も呼べば」

「……ディ……ディー」


 ハリィとディー。お互いが十代半ばまで呼び合っていた愛称だ。


「俺は自分の服くらい自分で買う」

「でしょうね」


 え、待って、どうして私の両手を握るの。あなた自分の顔面の破壊力、自覚してるでしょう。


「でも選んで」


 ディックはむすっとした顔で「服」とぼそっと言った。


「ハリィが選んだの、俺も着たいから」

「顔……ッ」


 もう無理。私の頭が、ぽす、とディックの胸に落ちた。そして頭の上にディックの顔が乗ってきた。


「ずっとディーって呼んで」

「なんで……ッ」

「……わかれば」


 俺の初恋まだ終わってないの、というディーの声が上から降ってきた。


「……初恋されてたの?」

「されてるよ。ずーっと」


 ディーの顔を頭突きしないように、そおっと顔を上げる。すると、まだむすっとした、でもちょっと赤らんだ顔があった。


「顔……」


 やっぱり無理。今日は特にかっこいいんだもの。このため? このためにディーまでめかしこんできたの?

 今度はディーの肩を借りることにした。「へへ」とディーが笑う声が聞こえたかと思えば、私の肩にもその顔が乗る。


「金貨……ッ! 千五百枚……ッ!」

「俺に注ぎ込もうとすんなよ。まだ回収してねえだろ」

「……五百枚……」

「貢ぎ癖やめろ」

「無理……」


 だって、私の貢ぎ癖が始まったのはディーだもの。



 ◇ ◇ ◇



 金貨二千枚が!!! 返ってきた!!!


 エゴンとの婚約解消から一ヶ月以上が過ぎた。

 風の噂によれば、エゴンが何度土下座してもノリス商会の会長は許さなかったらしい。

 ちなみに、マーサー侯爵家がノリス商会に要求していた利益の四割という条件。その件も縁談とともに白紙になったそうだ。

 私は二人に対して、それぞれ慰謝料請求の訴えを起こした。

 もっとも、ユーリアの件は早々に和解が成立したけれど。ノリス商会の会長――ユーリアの父親が、娘に代わって慰謝料を支払うと申し出てきたのだ。しかも提示された和解金は、こちらの請求額の二倍。娘の不始末によって商会の信用まで損なうことを避けたかったらしい。母の実家である商家との取引関係も考慮したとか。

 銀行から入金通知を受けた日には、もう高笑いが止まらなかった。

 ユーリア本人はというと、親しくしていた令嬢たちからも距離を置かれているみたい。


「こっちのベストも捨てがたいの。でも、ストライプも似合うと思うの」


 私は今、ブティックでディーとお買い物中だ。


「じゃあどっちも買う」

「……ダメ、どっちか買わせて……!」

「お前な。侯爵家から全額返済されたばっかりだろ」


 ディーの言う通り、侯爵家に貸していた元金はすべて返済してもらった。本邸の家財やら土地やら何やら、とにかく資産を売りさばいた、と爺やが言ってたっけ。私は高笑いしまくっていたからあんまり聞こえなかったわ。

 ふふ……あとは慰謝料だけね……!


「それにハリィが侯爵家に貸してたやつを売った金、侯爵領に全額寄付したんだろ?」

「寄付というより、物資支援ね。最後の情けよ。領民へのね」

「じゃあどっちも俺が買う」


 仕方ない、今日のところはディーに甘えよう。

 うふふふふふ。さすがのディーも見抜けまい、私がディーの衣装用にヘソクリを貯めていることは。


「ヘソクリなんかするだけ無駄だぞ、ハリィ」

「……顔に書いてた?」

「いや? お前ならやりかねないと思っただけ」


 さすが王宮財務官……鼻が利くのね……!


「何年も一緒にいればわかる」


 財務官、関係なかった。


「次。ジャケット。選んで」


 ディーの腕がするっと腰に回ってきた。


「ディー、かっこいい顔が近い」

「嫌なら十歩くらい離れようか?」

「……極端な二択はやめて?」

「じゃあ一択」


 どれがいいの、と尋ねてくるディーの腕は離れなかった。


「さっきのベストに合うのはこれ。ストライプにはこっち。あっ、このジャケット!」

「ハリィが好きなやつ?」

「そう、好み。ディーに似合う」

「じゃあ三着買う」

「私に買わせて……!」

「だからやめろって」


 エゴンからの慰謝料を受け取ったら、一着くらい買わせてくれるかしら。


「……どうしてもってんなら、ケーキの材料に使って」

「使う」

「高級なやつじゃなくていいからな」

「……オーブン……」

「やめろ」


 あっ。


「養鶏場を買い上げればいいんだわ」


 閃いた! これ! これよ!


「ねえディー、いいでしょう? それとも牛? 牧場?」

「待って……こないだ一緒に見た収益物件より規模がでかい……」


 先日、私はディーに同行してもらい、新たなる収益物件の下見をした。もちろん、彼に指紋まで押してもらった合意書を固く握りしめて。ディーが「いつか俺とハリィでも使いたいなあ」と、ぽつりと言った物件はひとまず押さえた。

 そんなことより今は養鶏場よ。


「従業員も養えるのよ? 卵の販売収益も発生するのよ? 経済回せるのよ? エサにもこだわれるのよ?」

「待てって、頭が追いつかない」

「おいしいケーキ、食べたくないの?」

「それは食べたい……」


 決まりだわ。帰ったら私が経営を任されている領地を徹底的に調べ直そう。すでに候補地は思い浮かんでいるけれど。


「服に注ぎ込まれるよりは……いいのか……?」


 ディーが何かぶつぶつ言ってるけれど、関係ねぇですわ。

 これは領地経営という体のディーへの貢ぎ物! 間違えた、ディーへの貢ぎ物という体の領地経営! いやどっちでもいいですわ!

 とにかく金貨二千枚の使い道は決まりね!


「お前、なんでそんなに嬉しそうなんだよ……」


 決まってるわ。

 顔と頭と金銭感覚のいい好きな男に貢げるからよ!!!


お読みいただきありがとうございます。

初ざまぁ、婚約破棄短編でした。

ご感想いただけましたら、今後の制作の参考にさせていただきます。

また、面白いと思ってくださいましたら、評価、リアクションやブックマークを押していただけますと嬉しいです。


詳しい外見描写は省きましたが、ご自由に想像してもらえればと思います。

個人的にはディックは黒髪なイメージです。

たぶんディックも面食いです。一途な。

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― 新着の感想 ―
ハリエットがかわいい。 侯爵家は借金を踏み倒す気満々、跡取りが危機感ない馬鹿。婚約破棄しなくてもやばかったのでは。
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