婚約者の尻拭いをしてきた伯爵令嬢ですが、そろそろ限界です
「君がいれば、何も心配はいらない」
三年前、私はそれを信頼の言葉だと思った。今なら分かる。あれは仕事の引き継ぎだった。
◇
結婚を二か月後に控えたある朝、婚約者のアルベールから一通の手紙が届いた。
『明日の昼餐には、エレナも連れていく。彼女の今後について相談があるんだ。君ならうまくやってくれるだろう』
短い手紙だった。急な同伴への謝罪はない。そもそも、連れていってもよいかという確認もなかった。相談があると書いてあるのに、エレナを連れてくることだけは、私の返事を待たずに決まっているらしい。
私は手紙を机に置き、明日の献立を思い出した。肉料理は三人分でも問題ない。スープも増やせる。デザートだけは数を決めて作らせていたが、今から厨房へ伝えれば間に合うだろう。席を一つ増やし、給仕の順を変える。母にも若い未婚女性が同席することを知らせておいた方がいい。食事の最初だけでも母が顔を出せば、余計な憶測は生まれにくくなる。
調整そのものは難しくなかった。難しくないのなら、私が整えればよい。そう考えることに、当時の私は何の疑問も持っていなかった。
「明日の昼餐ですが、お客様が一人増えます」
侍女へ伝えると、彼女は机の上の手紙へちらりと目を落とした。
「アルベール様からでございますか?」
「ええ。エレナ様をお連れになるそうよ」
「承知いたしました。厨房へ申し伝えます」
「デザートの追加が難しければ、私の分を小さくして構いません。見た目で一人分だけ違うと分からないようにしてください」
侍女は一瞬だけ口を結んだが、何も言わずに頭を下げた。私も、それ以上は考えなかった。一人増えるのなら、一人分を増やせばいい。増やせないものがあるなら、足りるように分ければいい。
アルベールは昔から、予定を決めてから相談することが多かった。訪問先と日付を取り違えた時も、同じ時間に別々の相手へ同じ馬車を約束した時も、彼は困ったように笑って言った。
『でも、君なら何とかできるだろう?』
実際、私は何とかしてきた。相手方へ先に手紙を送り、時間をずらしてもらう。別の馬車を手配し、事情を知られないよう到着の順番を入れ替える。表に出る前に直せば、失敗は失敗にならない。彼が恥をかかずに済むなら、それでよかった。婚約者として頼られているのだと思えば、少しだけ嬉しくもあった。
侍女が部屋を出て間もなく、今度は小さな包みが届けられた。差出人はセドリックだった。
兄の友人である彼とは、幼い頃から何度も顔を合わせている。一週間前、慈善演奏会の帰りに混み合った廊下ですれ違った際、彼の上着の袖が私のショール留めへ引っかかった。留め金の細い部分が曲がり、銀細工の花が一つ取れてしまった。私は古い品だから仕方がないと伝えたのだが、彼はその場で首を横に振った。
『僕が壊した』
『人が多かったのですから、事故ですわ』
『事故でも、壊したのは僕だ。修理に出してもいいか』
私がうなずくまで、彼は品物を持ち帰ろうとしなかった。
包みを開くと、薄紙の中から修理されたショール留めが現れた。取れていた銀の花は元の位置へ戻り、曲がった留め具も直されている。新しくした部分だけが浮かないよう、細かな曇りまで元の細工へ合わせてあった。
短い添え書きも入っていた。
『明日は冷えるそうだ。忘れずに使え』
私は窓の外を見た。空は晴れているが、朝より風が強くなっている。明日には気温が下がるのかもしれない。
セドリックは自分が壊した品を自分で修理へ出し、使う日に間に合うよう返した。明日の天候まで覚えていたのも、責任感の強い人だからだろう。そう考えれば、すべて説明がつく。それ以上の意味を置く必要はなかった。好意というものは、都合よく見ようと思えば、どんな行為からでも作れてしまう。責任感で説明できるものを、わざわざ別の言葉へ置き換える理由はない。
私は留め金を小箱へ戻しかけ、少し考えてから、翌日着る予定のショールと一緒に置いた。せっかく直してもらったのだから、使わなければかえって失礼だ。
それだけのことだった。
◇
翌日の昼餐には、修理された留め金を使った。セドリックの予報どおり、朝から冷たい風が吹いていた。玄関広間の扉が開くたび、外気が床を這うように入り込んでくる。
アルベールは約束の時刻より少し遅れて現れた。その隣にいたエレナは、柔らかな栗色の髪を低い位置でまとめ、落ち着いた青色のドレスを着ていた。飾りは少ないが、手入れは行き届いている。
「急だったのに、受け入れてくれて助かったよ」
アルベールは悪びれずに笑った。
「エレナとは幼い頃から家族同然なんだ。君ともきっと気が合うと思う」
私が気が合うかどうかは、まだ誰にも分からない。けれど、玄関で訂正する必要もなかった。
「ようこそお越しくださいました、エレナ様」
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
エレナは緊張した様子で礼をした。声は小さかったが、こちらの顔を見ようとしている。アルベールの後ろへ隠れるつもりはないらしい。少なくとも、最初から話のできない方ではなさそうだった。
私はエレナを自分の客として扱い、先に客間へ案内した。食堂では、彼女の席を私の斜め向かいにしてある。アルベールの隣へ置かなかったのは、私の感情のためではない。
未婚の幼馴染を伴って婚約者の家へ来た男と、そのすぐ隣へ座る女性。給仕する使用人が見た事実は、そのまま屋敷の外まで運ばれることがある。本人たちにその意図がなくても、見た人間は都合のよい筋書きを作る。ならば最初から、エレナはアルベールが連れてきた女性ではなく、私が迎えた客として見えるようにしておけばいい。それで避けられる問題なら、避けておくに越したことはなかった。
母が挨拶だけして退室し、昼餐が始まった。最初のうち、アルベールは最近の舞踏会や共通の知人について話していた。エレナは問われれば答えたが、自分から話題を増やすことはなかった。
緊張しているのだろう。それとも、今日ここで何を相談されるのか、彼女も詳しくは聞かされていないのか。
スープが下げられ、肉料理が運ばれてきたところで、アルベールはようやく本題を口にした。
「実は、エレナの保護者だった叔父上が亡くなってね。今住んでいる屋敷も、遠縁の親族へ渡ることになったんだ」
エレナの指先が、膝の上のナプキンをわずかにつまんだ。
「それは……大変でしたね」
「そうなんだ。今すぐ困るわけではないが、このまま放っておくわけにもいかないだろう?」
放っておけない。それ自体は理解できる。住居を失い、頼れる親族も少ない未婚女性を心配することは、責められるようなことではない。ただし、心配することと、本人の人生を決めることは別だった。
アルベールは私の返事を待たず、明るい調子で続けた。
「それで考えたんだ。結婚したら、しばらくエレナを僕たちの屋敷へ住まわせよう」
手にしていたナイフが止まり、刃先が皿へ触れて小さな音を立てた。婚約者が、新婚の屋敷へ、同い年ほどの未婚の幼馴染を住まわせたいと言っている。
胸の奥に落ちたものを、私はすぐに名前で呼ばなかった。嫉妬と呼べば、問題は私の感情だけになる。けれど今ここにあるのは、それだけではない。エレナの評判。私たちの婚姻生活。屋敷で彼女がどの立場に置かれるのか。客なのか、使用人なのか、保護を受ける親族なのか。ただ、そのすべてを一度に尋ねる必要はなかった。最初の答え次第で、次に確認すべきことは変わる。
「オディールなら、エレナも安心だろう?」
アルベールは私へ微笑んだ。
「君ならうまくやれる」
いつもと同じ言葉だった。私はナイフを置いた。
「いつまででしょう?」
「え?」
「エレナ様にお住まいいただく期間です。いつまでをお考えですか?」
アルベールは、なぜそんなことを尋ねるのか分からないという顔をした。
「そんなもの、今から決められないだろう。エレナが落ち着くまでだよ」
落ち着くまで。
その言葉には終わりがなく、今のところ、その終わりを決める人さえいなかった。期限のない客は、やがて客ではなくなる。けれど、家族にも使用人にもならない。立場が曖昧なまま何か起きれば、都合に応じて扱いだけが変わる。食事や衣服の費用を問われれば客で、屋敷の評判に関われば身内になる。本人が出ていきたいと思っても、まだ落ち着いていないと誰かに判断されれば、引き止められるかもしれない。
そこまで考えてから、私はエレナを見た。アルベールが助けると言った時も、屋敷へ住まわせると言った時も、彼女は一度も安心した顔をしていなかった。
「エレナ様ご自身は、どのようにお考えなのですか?」
エレナが目を上げた。
「わたくし、ですか?」
「ええ。結婚後、私どもの屋敷へ移ることについてです」
彼女はアルベールを見た。答えを求めたというより、自分が聞いていた話と今の話が同じなのか、確かめるような視線だった。
「私は……オディール様がお招きくださったと伺いました」
食堂の空気が、わずかに止まった。給仕が皿を置く音だけが、妙に大きく聞こえる。
「私が、ですか?」
「はい。ご結婚後のお話し相手として、住み込みで働く者をお探しだと。身寄りをなくした私を心配して、オディール様が候補に挙げてくださったと伺っております」
話すうちに、エレナの声が小さくなった。私の顔を見て、すでに答えへ気づいている。私は今日まで、彼女が住まいを失いかけていることさえ知らなかった。
「申し訳ありません、エレナ様」
謝罪すると、アルベールがすぐに口を挟んだ。
「君が謝ることじゃないよ。細かな話は今日決めればいいと思ったんだ」
「私は、エレナ様をお招きしたことになっているのですか?」
「そう言った方が安心するだろう?」
アルベールは、何を問題にされているのか分かっていないようだった。
「ただ保護されるより、役目があった方がエレナも気兼ねしない。君だって、結婚して新しい屋敷へ入れば、親しい話し相手がいた方が助かるはずだ。二人にとって悪い話ではないと思ったんだよ」
彼の中では、きれいにつながっているのだろう。エレナには、私が望んでいると伝える。私には、エレナが助けを求めているように見せる。そうすれば、どちらも断りにくくなる。誰かを騙して利益を得ようとしたわけではない。自分の考えた親切を成立させるため、了承を取る順番を少し変えただけだ。本人たちが選ぶより先に、選んだ後の形を作ってしまった。
善意ならば、それが許されるとでもいうように。
「オディール様、私は……」
エレナの頬から血の気が引いていた。
「本当に、何もご存じなかったのですか?」
「はい。昨日、アルベールから、あなたを昼餐へお連れすると聞いただけです。今後について相談があるとは書かれていましたが、内容は知らされておりませんでした」
「そう、でしたのね」
彼女の視線が膝へ落ちた。恥じる必要などないのに、指先がナプキンを強くつかんでいる。知らない相手から慈善を受けに来たと思われたうえ、その相手は何も知らなかった。
この場で最も恥をかかされたのは、私ではない。
「エレナ様」
彼女が顔を上げるまで待った。
「今のお話が、私からのお招きではなかったと分かった上で、お尋ねします。あなたは、どうなさりたいのですか?」
アルベールが口を開きかけた。私は彼を見なかった。今度こそ、答えるべき人を間違えてはいけない。
エレナはしばらく黙っていたが、やがて膝の上で手を組み直した。
「私は、働ける場所を探しています」
先ほどまでより、はっきりした声だった。
「できれば、貴族のご婦人のお話し相手か、侍女に近い仕事を。これまで叔母の身の回りを手伝っておりましたので、経験がまったくないわけではありません。住み込みでも構いませんが、正式に役目をいただき、お給金を受け取れるところを望んでおります」
「新婚の屋敷で、客として保護されることを望んでいるわけではないのですね」
「はい」
エレナは迷わなかった。
「アルベール様がご心配くださったことには感謝しております。ですが、いつまでとも決まらないまま、ご夫妻のお世話になるつもりはございません。オディール様から正式なお仕事としてお声がけいただいたのだと思ったから、今日参りました」
私は、自分が最初に置いた前提を捨てた。エレナは、住む場所を与えてもらいたがっている。そう考えていたから、彼女の滞在がどんな問題を生むかを先に読んだ。
違った。
彼女が欲しいのは、期限のない庇護ではない。自分で働き、その対価を受け取り、次の生活を作るための足場だ。本人に確認する前なら、私の見立てもアルベールの決めつけと大して変わらない。
「お答えくださって、ありがとうございます」
そう告げてから、私はアルベールへ顔を向けた。彼は困惑していた。
「でも、住む場所と仕事が必要なら、僕たちの屋敷で働けばいいだろう? 結果は同じじゃないか」
「同じではありません」
「なぜだい?」
「客として住むのか、雇用されるのかで、エレナ様の立場は異なります」
私は卓上に置かれた彼女の皿を見た。急に一人増えた昼餐なら、昨日のうちに整えられた。けれど、人一人の生活は、料理を一皿増やすようにはいかない。
「具体的な役目、お給金、滞在する期間、その後のことは、どなたがお決めになるのですか?」
アルベールは黙った。視線が一度エレナへ向き、すぐに私へ戻る。
「そこまで今決めなくてもいいだろう。まず住んでもらって、それから必要なことを考えれば」
「誰が考えるのでしょう?」
「それは……」
彼の顔に、ようやく迷いが浮かんだ。ただし、自分の計画に足りないものを見つけた人の迷いではなかった。足りない部分を、私がまだ埋めていないことへの戸惑いだった。
「君に任せればいいと思っていたんだ」
アルベールは、私を安心させるつもりなのか、いつものように微笑んだ。
「こういうことは君の方が得意だろう? エレナの立場も悪くならないようにしてくれるし、屋敷のことだって問題なく整えられる。君ならうまくやれる」
また、その言葉だった。今度は、意味がはっきり分かった。
三年前、初めてその言葉を聞いた時、胸が温かくなった。私が隣にいれば安心できる。私の判断を信じ、これから先を共に歩こうとしてくれている。そう受け取ったから、私は彼が間違えた招待状の日付を人知れず直した。別々の相手へ同じ馬車を約束した時には、御者へ頭を下げてもう一台を手配した。訪問先の都合も聞かずに引き受けた依頼も、相手を怒らせない形へ整え直した。
そのたび、アルベールは笑った。
『やっぱり君に相談してよかった』
『君がいれば安心だ』
『君ならうまくやれる』
私は、それを必要とされている証拠だと思っていた。けれど、彼が私へ持ち込んだ時には、もう何かが決まった後だった。私の意見を聞きたいのではない。決めてしまったことを、問題のない形へ直してほしかったのだ。
私が彼の失敗を防ぐたび、彼は自分が失敗しなかったと思っていた。そして私は、彼の失敗を防ぐことを、愛されている証拠だと思っていた。
胸の奥で、三年間大切にしてきたものが、静かに形を失った。
「オディール?」
アルベールに呼ばれ、私は息を一つ整えた。腹が立っていたし、傷ついてもいた。同時に、自分が恥ずかしかった。頼られるたびに役目を引き受け、そこへ自分で愛情という名前を付けていたことが。けれど、その誤りまで彼一人の責任にはできない。私が選んだ意味なら、間違いに気づいた後の選択も、自分でしなければならない。
「アルベール。先ほど、エレナ様の立場やお給金、今後について、私に任せるとおっしゃいましたね」
「ああ。君なら一番いい形にできるだろう?」
「できます」
彼の表情が明るくなった。
「ほら、やっぱり――」
「ですが、できることと、引き受けることは別です」
アルベールの笑みが止まった。
「どういう意味だ?」
「私はエレナ様のご希望を伺い、条件を整理し、働き口を探すお手伝いができます。けれど、あなたがご本人の了承を取らずに進めた約束を、私の役目として完成させるつもりはありません」
「なぜだい? 困っている人を助けることだろう?」
「エレナ様を助けることと、あなたの後始末をすることは同じではありません」
「もう事情は分かったんだから、ここから考えればいいじゃないか」
「誰がですか?」
「だから、それは君が――」
そこまで言って、アルベールは口を閉じた。ようやく、自分が何を言おうとしたのかに気づいたらしい。
私はエレナへ向き直った。
「エレナ様。今すぐ今後を決める必要はありません。本日のお話は、あなたが了承した正式な雇用の相談ではなかったのですから、一度お持ち帰りになって構いません」
「ですが、住まいが……」
「いつまでにお決めになる必要がありますか?」
「屋敷を明け渡すのは、来月の末です」
「それなら、まだ時間はあります。母は、話し相手を探しているご婦人を何人か存じています。ただし、私が勝手に決めてご紹介することはいたしません。ご希望の条件をまとめた後、必要でしたら候補をご覧になりますか?」
エレナは目を見開いた。それから、少し迷ってうなずいた。
「はい。ぜひ、お願いいたします」
「承知しました」
ここまでは、私が自分の意思で引き受けられる。選択肢を示し、本人が選べる状態へ戻すところまで。その先の人生まで、代わりに決めるつもりはない。
「待ってくれ」
アルベールが声を上げた。
「結局、君が助けるんじゃないか。それなら、僕が考えたことと何が違うんだ?」
「エレナ様が、ご自分で選べることです」
「僕だって、エレナのためを思って――」
「そのお気持ちは疑っておりません」
善意だったのだろう。だからこそ、自分が間違えたという感覚がない。
「ですが、善意があれば、本人の代わりに決めてよいわけではありません。私の名前を使ってエレナ様を安心させ、エレナ様の事情を使って私に断りにくくさせることも同じです」
「そんなつもりはなかった」
「ええ。なかったのでしょう」
悪意がないことは、責任がないことを意味しない。
「では、僕はどうすればよかったんだ?」
その言葉を聞いた瞬間、胸の痛みが少しだけ遠のいた。いつもと同じだった。問題が起きる。彼は私を見る。そして、正しい答えを待つ。
「最初に、エレナ様へご希望をお尋ねください」
私は答えた。
「次に、私へ相談してください。私の了承を得る前に、私が望んでいることにしないでください」
「分かった。では、今からそうすれば――」
「今回だけの話ではありません」
彼の言葉を遮ったのは、婚約してから初めてだったかもしれない。
「招待状の日付を間違えた時も、馬車の約束を重ねた時も、相手の都合を確認せず依頼を受けた時も、あなたは最後に私へ持ってきました」
「でも、君が直してくれただろう?」
「はい。直しました」
だから、この三年間のどこにも、彼が自分で引き受けた失敗は残っていない。
「私は今回も何とかできます」
「だったら――」
「ですが、あなたが持ち込む失敗を、一生直し続ける婚約者にはなれません」
口にした途端、指先が冷たくなった。結婚まで、あと二か月だった。衣装も、屋敷も、招待客も決まっている。両家への説明が必要になる。私自身も、これまで信じてきた未来を失う。
それでも、ここでまた整えてしまえば、この先も同じだ。彼が決め、私が直す。彼が人を助け、私が費用と評判と責任を引き受ける。そして私は、それを必要とされているのだと思い続ける。
もう、その役割へ戻ることはできなかった。
「アルベール」
私は彼の目を見た。
「私たちの婚約を、解消したいと存じます」
アルベールは、しばらく瞬きもしなかった。
「婚約を、解消?」
「はい」
「待ってくれ。エレナを屋敷へ住まわせる話なら取り下げる。それでいいだろう?」
彼はすぐに、目の前の一件を消そうとした。それさえなくなれば、すべて元へ戻ると思っている。
「エレナ様がお住まいになるかどうかだけが問題なのではありません。私の意思を確認せず、私が了承していると伝えたこと。あなたが決めたことの実務と責任を、私が引き受ける前提だったこと。そして、それが今日だけではなかったことです」
「僕は君を信頼していたんだ」
その言葉に、嘘はなかった。アルベールは本当に、私を信頼していたのだろう。何があっても私なら直せる。何を頼んでも、最後には引き受けると。
「あなたが信じていたのは、私の判断ではありません」
声が震えないよう、ゆっくり息を吐いた。
「私が断らないことです」
「そんな言い方はないだろう。僕は君を必要としている」
胸が痛んだ。三年間、最も聞きたかった言葉だったからだ。けれど今は、その言葉が何を求めているのか分かる。彼が必要としているのは、予定を整え、失敗を消し、善意の後始末まで引き受ける私だった。
「私ではなく、私が果たしてきた役割を必要としているのだと思います」
「同じことじゃないか」
「私にとっては違います」
アルベールは何かを言おうとして、言葉を失った。代わりに、エレナが静かに席を立った。
「オディール様。私は、ここで失礼いたします」
「馬車をご用意します。少しお待ちいただけますか?」
「ありがとうございます」
「僕が送るよ」
アルベールも立ち上がりかけたが、エレナは首を横に振った。
「いいえ。今日は一人で帰ります」
「だが、君の今後のことが――」
「それも、私が考えます」
エレナの声は穏やかだったが、昼餐の始まりに見せていた遠慮はもうなかった。
「必要でしたら、改めてオディール様へご相談いたします。アルベール様には、これ以上お決めいただかなくて結構です」
アルベールは傷ついた顔をした。きっと彼は、本気でエレナを助けようとしていた。それなのに拒まれた理由が、まだ理解できていない。
私は侍女へ馬車の用意を頼み、支度が整うまで、エレナが別室で休めるようにした。食堂を出る前に、彼女は私へ深く頭を下げた。
「今日、伺えてよかったです」
「私もです」
それは本心だった。彼女が来なければ、私はまたアルベールの手紙を読み、席と料理と評判だけを整えていただろう。問題を一つ消し、関係そのものを見ないまま。
扉が閉じると、食堂には私とアルベールだけが残った。
「本当に、これで終わりにするつもりなのか?」
「両家には、私からも説明いたします」
「説明ではなく、君の気持ちを聞いているんだ」
答えるまでに、少し時間がかかった。気持ちを問われたのは、いつ以来だろう。
「悲しいです」
アルベールが息を止めた。
「腹も立っています。結婚を楽しみにしていましたから、怖くもあります」
「それなら、なぜ――」
「悲しいことと、続けたいことは同じではありません」
私は彼を嫌いになったわけではなかった。だからこそ、もう直せなかった。一度だけの失敗なら、話し合えたかもしれない。けれど、これは彼一人の習慣ではない。彼が持ち込み、私が処理する関係を、私も一緒に作ってきた。
「僕は変わる」
アルベールは言った。
「これからは、君に相談してから決める。失敗したら自分で責任を取る。だから、何をすればいいか教えてくれ」
最後の一言で、答えは決まった。
「それを私に決めさせないでください」
「オディール……」
「あなたがどう変わるかは、あなたがお考えになることです。私が手順を作り、守れているか確認するなら、形が変わるだけで、私の役割は同じままです」
「では、僕には何もさせないのか?」
「婚約解消は、あなたへの罰ではありません」
私は膝の上で握っていた手をほどいた。
「私が、この関係を続けないと決めたのです」
アルベールは長い間、何も言わなかった。私も答えを急がせなかった。
これまでなら、彼が黙れば、困らないよう次の言葉を差し出していた。両家への説明も、結婚準備を止める順番も、エレナへの連絡も、私が整えただろう。けれど、そのどれも口にしなかった。
彼の失敗は、初めて彼の前に残った。
◇
婚約解消が正式に成立するまで、一か月ほどかかった。大きな争いにはならなかった。アルベールの家からは何度か理由を尋ねられ、父も一度だけ、考え直す余地はないのかと確かめた。
私は同じ答えを返した。アルベールが悪人だからではない。私が彼を憎んだからでもない。ただ、結婚後も続くはずだった役割を、もう引き受けないと決めたのだと。
両家へ渡す説明文は、アルベール自身が書いた。最初の文面には、エレナをめぐる行き違いによって婚約が破談になった、とあったらしい。彼の父が書き直させたと、後から兄に聞いた。
私は一文字も直さなかった。
エレナは、母が挙げた三つの家から、自分で面会先を選んだ。最終的には、足を悪くした年配の伯爵夫人の話し相手として雇われることになった。住み込みで、給金と休日が決められ、半年後に双方の希望を確認して契約を更新するという。
『自分で決めた仕事ですので、まずは半年、務めてみます』
届いた手紙には、そう書かれていた。その一文を読んだ時、ようやく昼餐の日を、終わった出来事として思い出せた。
私の生活も変わった。結婚準備に使っていた時間が、突然すべて空いた。最初のうちは、その空白を見るたびに落ち着かなかった。何かを忘れているのではないか。誰かの予定が重なっているのではないか。今のうちに直しておくべき問題が、どこかに残っているのではないか。
けれど、何も起きていない日は、本当に何も直さなくてよかった。そのことに慣れるまで、思ったより時間がかかった。
あの昼餐から三か月が過ぎるまで、セドリックは何度か我が家を訪れた。最初は、兄から借りた本を返すためだった。次は、兄に頼まれた書類を届けるため。その次は、以前の演奏会で話題にした旅行記を見つけたからと、私へ貸すためだった。
どれにも理由があった。兄の友人としての付き合い。借りた物を返す責任。以前の会話を覚えていただけ。彼が兄の留守を知った後も茶を一杯飲んで帰ったことさえ、婚約を解消した私への気遣いだと考えれば、説明はついた。
そうして三か月が過ぎたある日、セドリックは何も持たずに我が家へ来た。兄は朝から外出している。返す本も、届ける書類もない。壊れた物もなかった。
客間へ通された彼は、いつものように椅子へ座り、出された茶へ口をつけた。私は向かいに座って、しばらく待った。それでも彼が用件を切り出さないので、先に尋ねることにした。
「今日は、何のご用でしょう?」
セドリックは茶器を置いた。
「君に会いに来た」
それは用件であって、理由ではない。
「兄は留守ですが」
「知っている」
「何か、私へお返しになる物が?」
「今日はない」
「では、婚約解消後の私を心配してくださっているのでしょうか」
「心配はしている。だが、それだけなら兄に様子を聞けば済む」
用意していた説明が、一つずつ使えなくなっていく。兄との友情でもない。借り物を返す責任でもない。婚約を解消した令嬢への礼儀だけでもない。
私が黙ると、セドリックは少し困ったように笑った。
「何も壊れていない日に、君に会いたかった」
あの日、直されたショール留めを受け取った時とは違う。彼が直すべき物は、今ここにはない。
「これまで用事のある時だけ来ていたのは、あなたの責任感が強いからだと思っていました」
「それも間違いではない。借りた本は返すし、頼まれた書類は届ける」
「旅行記は?」
「君が読みたいと言っていたから持ってきた」
「以前の会話を覚えていらしただけではありませんか?」
「覚えていたのは、君が言ったことだったからだ」
安全な説明を出すたび、その中に私だけが残った。胸の奥が落ち着かない。
アルベールの言葉の裏にある問題なら、いくらでも尋ねられた。けれど、自分が望んでいる答えほど、質問にするのが難しい。間違えていた時の損失が大きいからだ。期待しなければ、失望もしない。そう考えて、私は必要な事実まで判断から外してきた。
この三か月、彼が来る日は朝から少し落ち着かなかったこと。旅行記を予定より早く読み終え、返す時に何を話すかまで考えたこと。玄関で男性の声がするたび、セドリックかもしれないと思ったこと。
どれも、彼の責任感では説明できない。私自身の側にある事実だった。
「セドリック様」
「うん」
推測だけで答えを作ってはいけない。望まないふりをして、選択肢を先に消してもいけない。
「私だからですか?」
彼は目をそらさなかった。
「君だからだ」
短い答えだった。それでも、私が三か月かけて避けてきた可能性を、曖昧にする余地はなかった。
「君が物事を整えるところは好きだ。誰が困るのかを見つけて、本人に選ばせようとするところも尊敬している」
セドリックはそこで一度、言葉を切った。
「だが、何かを直してもらうために君と会いたいわけじゃない。何も起きていない時にも会いたい。君が何を読んだのか、何に腹を立てたのか、何を選びたいのかを聞きたい」
私が何を直せるかではなく、私が何を選びたいか。その順番で尋ねられたことに、すぐには返事ができなかった。
「僕も間違える。君だって失敗することはあるだろう」
セドリックは続けた。
「でも、自分の間違いを君へ渡して、直るまで待つようなことはしない。助けてほしい時には頼む。断られたら、自分で考える」
それは、何も壊れない未来の約束ではなかった。失敗が起きても、誰か一人へ修正を押しつけないという約束だった。
完全に安全ではない。けれど、安全ではないことを隠して、私に後始末だけを渡す話でもない。
「今すぐ求婚するつもりはない」
彼は言った。
「婚約を解消したばかりの君へ、次の結婚を決めろとは言いたくない。まずは、僕と二人で会うところから始めてほしい。嫌なら断ってくれて構わない。理由も要らない」
断れば、彼は傷つくだろう。それでも、断る道は私の側に残されている。黙れば了承したことにもならない。彼の望みを叶えるために、別の誰かの意思が使われてもいない。私はようやく、自分が何を望んでいるのかを、問題ではなく事実として見た。
「私も」
声にすると、思っていたより緊張した。
「あなたがいらっしゃる日を、楽しみにしていました」
セドリックの表情が、ゆっくりほどけた。
「それなら」
「はい」
今度は、彼に最後まで言わせる前に答えた。
「私も、あなたと会うところから始めたいです」
「ありがとう」
「ただし」
セドリックが少し身構えた。
「次にいらっしゃる時は、前もってお知らせください。客間とお茶の用意がございますから」
彼は一瞬黙り、それから声を立てて笑った。
「もちろん。君の了承を得てから来る」
次の訪問日は、彼が勝手に決めなかった。私も、断る理由を先に探さなかった。二人で日を選び、その場で約束した。
失敗する可能性はある。もちろんある。
それでも私は初めて、壊れるかもしれない未来を、直す前に選んだ。
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