黒い穢れ
翌日。朝早くに、僕は塔に向かった。
空は晴れ渡り、薄く筆で刷いたような雲が流れていた。
螺旋状の階段を上って学びの間に行くと、既にレイがいた。
昨夜のうちにダンジョンから戻ってきたのか。
それにしても、こんなに朝早く起きて講義に出なくても、身体を休めた方がいいはずだ。
誰もレイに進言する者はいなかったのか。
「おはよう、エスティン」
「おはようございます、レイ様」
僕が挨拶を返すと、目を細めて笑った。
これまでの皮肉気な口端を上げる笑みではなく、心の底からの微笑みに見える。
「ようやく呼んだな」
「あ……」
今、ダンジョンの剣に気を取られて、咄嗟に名前で呼んでいたらしい。
もしかしたら、敬称も付けていなかっただろうかとヒヤリとする。
けれども、たしかに僕は付けたはずだと記憶を確認してホッとした。
「どうぞお座りください」
僕は、今日も勧められるままにレイの隣に腰掛けようとした。
自分で椅子を引いたところで、椅子に座る例の姿が見えて硬直した。
レイの腕が黒ずんで見えたからだ。
靄とはまた違う、蒼白いオーラが黒く変色している状態だ。
まるで水の中に多量の黒いインクを投入したかのように揺らいでいる。
前に、ダンジョンに潜った冒険者が、同じような症状で謁見の間に現れたことがあった。
その時は、右の手のひらを変色させていて、神官たちが浄化に当たっていた。
右手だけでも、かなり騒ぎになったというのに。
レイはもっと広範囲の浄化が必要な状態だ。
このまま放置しておけば、闇に呑まれて取り返しのつかないことになる。
穢れを受けると、身体が溶解することもあると聞く。
それに、生きながら腐る者もいると、魔法学で教わったこともある。
なぜこんな状態で放置しているのか。
ダンジョンに癒し手は同行しなかったのだろうか。
僕は、背中に冷たい汗が伝うのを感じた。
とにかく今は、診てみるべきだ。その上で、対処を考えよう。
僕は、持っていた本やペンを机の上に置き、椅子をレイの方へ向ける。
「レイ様、両腕をこちらに」
レイは僕の目を見返した後、身体をこちらに向け、両腕を差し出した。
握っていた指先をレイは広げる。すると、手のひらがどす黒くなっている。まるでどこかにぶつけた痕のようだ。
服の上からでははっきりしないが、手首から肩のオーラも穢れている。その上、首筋も手のひら同様、肌が黒く変色していた。
「戦闘に、なったのですか」
「よくわかったな」
下見に行って、魔物に出くわしたのだろう。
それにしても、レイは初めて遭遇しただろうに、即戦力として剣を振るったことになる。
魔物を切らなければ、こんなに穢れることはない。
しかも、穢れから想像するに、敵は相当の魔力の持ち主だったはずだ。
今すぐ講義など止めて、神殿に行って清めてもらうべきだ。
けれども、ここから神殿に行ったとて、すぐに癒してもらえるわけじゃない。
神官長の許可を得て、場所を借りて、癒し手の神官を招集して──。
考えるだけで、どれほどの手間と時間がかかるのか。
せめて意識が混濁するほどになっていれば、手続きを踏む必要もないのだけれど。
まさか今、この状態でレイを昏倒させるわけにもいかない。
僕は舌打ちしたい気持ちになり、胸に手を当てて、意識的に深い呼吸をする。
落ち着かなくては。
「右手をお貸しください」
レイに断ってから、右手を掴む。
握手をしたことがあるからわかるが、前よりも体温が低くなっている。
指先が冷たくて、わずかに震えも感じる。
僕は、レイの指先を自分のそれと組み合わせて目を瞑った。
手のひらからゆっくりと自身の魔力を流し込む。
オーラを同調させて気脈を探り、途切れている箇所を繋いでいく。
黒く染まったところを浄化して、闇を払う。
少しずつ体温が戻り、震えが止まる。
そして、元の蒼白いオーラに戻ってから目を開けた。
「次は左手を」
右手を膝に置いてから、今度はレイの左手を取って意識を集中する。
同じ手順で浄化していき、両腕の穢れを払う。
あとは、全身の流れの確認だ。
両腕が治っても、身体の気脈に沿わなければオーラは安定しない。
僕は立ち上がり、レイの顎先を上向かせた。
そして、額に右手のひとさし指を置いて、全身の流れを診る。
隈なく確認してみても、取り切れていないところはない。
穢れは完全に消えたはずだ。
僕は目を開けて、レイを見た。
すると、レイもまた僕を見上げている。
視線を交えて、目も確認したが、ここもどうやら大丈夫そうだ。
手のひらや首筋の色も元の肌色に戻っている。
表面に傷もなく、これで治ったはずだが。
何かを見過ごしている可能性もある。
こういう時は、本人に自覚症状を聞くに限る。
「まだどこか、痛いところがありますか?」
問いかけてみたが、レイは答えずに僕と視線を絡めたまま微動だにしない。
「レイ、様?」
僕の瞳の奥に何を見ているのだろう。
まるで瞳の奥を探って、心の中を見透かそうとしているかのようだ。
居心地が悪く、落ち着かない気がした。
それでも、数秒そのまま待ったところで、レイはぽつりと言った。
「お前、綺麗なだけじゃなかったんだな」
突拍子もない言葉に、僕はつい眉根を寄せた。
まず、綺麗ではない。
その上、よしんば綺麗だったとしてもだ。
まるで顔しか取り柄がないような物言いじゃないか。
いずれにせよ、失礼に他ならない。
治療した上にそんなことを言われるなんて、あまりにも礼を失している。
何か言ってやろうかと思ったが、その前にレイは口を開いた。
「癒し手、ってこういう意味なのか。驚いた」
癒し手は、癒し手だろう。
他にどんな意味があるというのか。
見下ろす僕を、レイはまじまじと見つめてくる。
「俺の傷を治して、お前の生気が失われるとか、そういうことはないのか?」
生気が失われる?
魔力を消耗するという意味だろうか。
瀕死の重傷になろうとも、生気自体が失われることはない。
「ありません」
即座に否定すると、頷いた後にホッとしたように息を吐く。
「なら良かった。ありがとう」
素直に礼を言われて、何も言えなくなる。
目の前に治療の必要な者がいたから、能力を使っただけのことだ。
そんな風に笑って礼を言われると、調子が狂う。
初対面であれほど僕に対して挑戦的だった人間とは思えない。
僕は、無言のまま席に着き、先生が学びの間に来るのを待った。
今日に限って、なぜこうも遅いのか。
おかげで、レイと二人、しんと静まり返ることになってしまう。
横目で見れば、腕を組んで目を瞑っている。
やっぱり、癒しても疲労までは取れないのだろう。
いつもなら何かと話しかけてくるから、余計にそう思う。
「……部屋に帰って、休まれては?」
「ん? ああ、部屋は休めるような場所じゃないんだ」
どういう意味だろうか。
僕は、問いを重ねようとしたが、そこで先生が現れたために口を閉じた。
今日の講義は、今年の天候に関するものだった。
レイは目を開けて、ちゃんと先生の話に聞き入っている。
こういう真面目な点は、評価してやってもいい。
僕は先生の話を聞きながら、時折レイの様子を窺っていた。
癒したばかりだから、気になるだけだ。
それ以外の意味はない。
僕は、自分の心の動揺をそう把握して、その日の講義を終えた。




