マグナス・ロノ・イクヌーア
「失礼いたします。マグナス・ロノ・イクヌーア王子の御到着です」
侍従がドアを開き、一人の男が中へ入ってきた。
黒い髪に赤い瞳。背はレイと同じくらいだろうか。
変わった民族衣装を身に着け、肌も浅黒く、剥き出しの腕に幾重にも金色の鎖を巻いていた。
こちらに歩いてくると、その鎖がさらさらと音を立てる。
その音だけが部屋に響くほどに、応接間は静まり返っていた。
僕は、マグナスの姿を一目見て、すぐにわかった。
見た目は違う。でも間違いない。
これは、アルサイールだ。
侍従がドアを閉め、部屋の中にはアルサイールとそのお付きの者と僕たちだけになった。
他に同席者がいないことが幸いと言える。
アルサイールは、長椅子に優雅に腰掛け、背凭れに身を預ける。
「アルサイール。なぜ、こんな回りくどい真似を?」
僕が真っ先に問いかけると、アルサイールは赤い瞳を細めた。
「よくわかったな。さすがミーアの血が流れているだけはある」
アルサイールがそう言った途端に、じりっと胸の印が疼く。
僕は胸元に手をやって服の上から押さえ、痛みに顔を顰めた。
やはりこの印は、アルサイールの感情に呼応している。
僕のことを想う度に、じわじわと広がっていくのだろう。
今は、その赤い瞳を眇め、僕の身体の上を視線で辿っている。
まるで服の中を見通して探られているように感じられて、僕は身を縮めた。
アルサイールは、形のいい唇をわずかに歪め、フンと鼻で嗤う。
「そいつに触らせたか。だが、まだ抱かれてはいないようだ。──不甲斐ない勇者様だな」
その言葉に、僕は内心驚いていた。
僕にレイが触れたこと。そして、未だにまぐわっていないことまでわかるのか。
それにしたって、不甲斐ないなんて言い方はない。
「レイ様は、貴様とは違うということだ」
僕が睨み付けると、アルサイールは眉を跳ね上げる。
「ほう? 無理矢理に口で奉仕されて尚、勇者を庇うか」
その言葉を聞いて、頬が熱くなる。
まさか、そんなことまで見通されてしまうとは。
あたかも僕たちの行為を目の前で見ていたような口振りに、僕は呑まれかけた。
それでも、僕は言わなければならない。
「私のために、してくれたことです」
僕は、アルサイールの真紅の瞳を見つめ、きっぱりと告げた。
レイが望んでしたわけじゃない。僕の無茶な願いを聞いてくれただけだ。
けれども、アルサイールはまた笑った。
何がそんなにおかしいのか。だんだんと苛立ってきた。
アルサイールは長い脚を組み、頬杖を突いた。
その所作の一つ一つに、僕は目を奪われる。
何かの魔法が働いているのかと思うくらいに、アルサイールに目が釘付けになってしまう。
もしかしたらこれが、所有の印の効果なんだろうか。
僕は、膝に置いた手を握り込み、何とか持ちこたえようとした
そんな僕の様子をアルサイールは興味深げに眺め、口端を上げた。
「意に沿わぬ交わりをする必要はない。たとえ、お前が誰かと交わろうとも、我のものであることに変わりはないのだからな」
ノクサムンは、魔王は純潔を好むと言っていた。
僕がお手付きになれば、もう用済みになるのだと。
だからこそ、僕はレイにまぐわってくれるよう頼んだのだ。
それなのに、アルサイール自身は気にしないという。
もしそれが真実なら、もう逃げ場はない。
愕然としていると、不意にソファに座っていたアルサイールの姿が消えた。
そして、次の瞬間、僕の真ん前に姿を現した。
驚いて逃げを打ったが、その前にトンと胸の辺りを突かれる。
また目で追えないほどの速さで、僕は抗うことさえできなかった。
僕の胸元を突いたアルサイールに、鋭い視線を向ける人物がいた。
それだけじゃない。腰に佩いた剣の柄に手を遣るのが、僕の目の端に映る。
すると、アルサイールは僕の胸元から手を引き、代わりに肩に手を置いてレイに向き直る。
「我に剣を向けるか、勇者よ。これでも王子であるぞ?」
「架空の国の、だろ」
やはりレイも気付いていたらしい。
どんなに調べても、イクヌーアなんて国は存在しなかった。
アルサイールがでっち上げたのだろうが、なぜリデアスの宰相を騙せたのだろうか。
僕の力でも調べ上げることができたのだから、少し疑えばわかったはずだ。
下手をすれば、僕との婚姻が成立し、姻戚関係になるところだったというのに。
第一、アルサイールは男だ。その時点で断ることだってできたはずだった。
もしかしたら、これもアルサイールの魔法によるのかもしれない。
この男なら、そのくらいのことはしそうだ。
僕は、肩に置かれたアルサイールの手を払い、赤い瞳を捉えた。
「マグナス・ロノ・イクヌーア王子、今回のお話はお断りいたします」
「それはそれは。他の2候補から娶るということか?」
僕の言葉に、アルサイールは喉の奥でくくっと笑って、問いかけて来た。
僕は、アルサイールの問いに応える義務はない。
どう判断しようと、この男の勝手だ。
視線を交え、互いに様子を窺うこと数秒。
アルサイールは、聞こえよがしに溜息を吐いた。
「まあ、いい。目的は果たした。我はこれで帰るとしよう」
「賢明なご判断です」
僕が慇懃無礼に言うと、アルサイールは片手を上げた。
途端に、魔法陣が天井近くで光り出し、ゆっくりと下がってきた。
そして、アルサイールを飲み込むと、音もなく従者とともに姿が消えた。
いきなり目の前で消えてしまい、僕もレイも消えた空間をしばらく無言で眺めた。
だが、もうアルサイールが戻ることはなかった。
まるで、悪い夢でも見ていたようだ。
僕は身体の力を抜き、まだ顔を強張らせているレイに近付いた。
レイは、アルサイールのいた場所から僕へと目を転じた。
僕は今が言うべき時だと判断し、胸元に手をやった。
「レイ様。先日の件について、謝罪いたします」
レイは、何のことかと言いたげな顔つきになった。
たしかに、説明不足な感は否めないと、僕は補足した。
「まぐわってほしいと頼んだのは、私であったのに。意に沿わぬことを強要して、しかも不名誉な扱いを受けるなど、私が至らぬばかりに申し訳ありません」
アルサイールにレイがあんな言われ方をしたのは、すべて僕のせいだ。
心から謝罪すると、レイは「何のことかと思えば」と呆れたように言う。
「俺は、したくてやったんだ。お前が泣かなければ、きっと最後までしてしまっていた。拒んでくれて良かったんだ。暴走した俺のほうこそ、すまなかった」
僕の望みを聞いて、最後までしてくれようとしたのか。
どこまで優しい人なのだろう。
謝罪だけでは気が済まないけれど、他に僕にできることはない。
「俺は、これで帰る。今後もあいつが現れるかもしれない。気を付けてくれ」
「レイ様」
僕は、立ち去ろうとするレイの手を取って握った。
視線が交わり、その揺れる瞳からレイの戸惑いを感じた。
言おうか言うまいか、僕が悩んだのはほんの数瞬だ。
「口付けをしても、よろしいでしょうか」
今のこの想いを、伝えきれないほどの感謝を、どうやったら伝えられるのか。
僕にはもう、これしか手立てがない。
レイにとっては嬉しくもないことかもしれないが、気持ちを受け取ってほしかった。
僕はレイの頬を手で挟み、少し伸び上がって唇を押し当てた。
治療ではない。これは、僕からした初めての口付けだった。
レイがしてくれたように、舌を入れるべきなのだろう。
そう思って、唇の狭間からそっと挿し入れた。
レイの身体がピクリと反応し、僕の腰に腕を回す。
力強く抱き寄せられて、キスが深くなった。
顔の角度を変えて、今度はレイの方から舌を絡ませてくる。
「……っん……ふ」
吐息が鼻から抜けて、甘い声が上がる。
気恥ずかしかったけれど、僕はレイに主導権を明け渡して、口付けを続けた。
息が乱れ、身体の熱が上がり、支えられないと立っていられないほどにキスに溺れた。
あと少しで頽れると感じたところで、レイはゆっくりとキスを解いた。
間近から僕の目を覗き込み、唾液に濡れた唇を親指の腹で拭く。
その間も、僕はレイから目を逸らせずにいた。
「明日も、講義の後に食事をしませんか?」
「お前が、誘ってくれるのなら」
僕が微笑んで頷くと、レイはトントンと自分の唇を指で叩いた。
もう一度、僕の方からキスをしろということなのだろう。
僕は微笑んで頷き、レイの首筋に手を置いて抱き寄せ、先程よりも深く口付けた。




