生きる理由
唇に押し当てられる熱を、何度か感じた。
口の中に入り込む舌が、僕の舌に押し当てられることもあった。
「……エスティン」
遠くで僕の名前を呼ぶ柔らかな声。
でも僕は、応じる気がなくなっていた。
もういい、構わないでほしい。
僕はこのまま、沈んでいたい。
ここは真っ暗で寂しいけれど、あんなに苦しい思いはしなくていい。
あんなに?
僕はそこで、黒い双眸を思い出した。
なぜレイは、僕以上に苦しそうにしていたんだろう。
僕はそこまで酷いことをレイに言ったのか。
思い返そうにも、頭が上手く働かない。
それに、一度向けた言葉は、もう取り返しがつかない。
それでも、僕は罪悪感を抱いた。
レイはいつだって、僕を大切に思ってくれていた。
あの笑顔を曇らせたのが僕だとしたら、本当に申し訳ない。
リデアス国のために尽くしてくれていたのに。
僕のことを、好きだと言ってくれたのに──。
「エスティン」
また僕の名前を呼ぶ声がした。
今度ははっきりと、僕の頭の中に響く。
これは、レイの声だ。
レイの声は僕にとっては特別で、だからこそすぐにわかる。
でもどうして、こんなに哀しげなんだろう。
僕は、それが気になって、薄っすらと目を開けた。
最初に映ったのは、僕を見下ろす黒い瞳。
そして、濡れた長い睫毛だ。
瞬きすると、ぽたりと僕の顔に滴った。
「……れ、い?」
あのレイが、泣いている?
僕は驚いて、レイの頬に触れようとした。
でも、腕が重くて持ち上がらない。
腕だけじゃない。指先さえも動かせない。
「俺が、わかるか?」
問われて、僕は返事をしようとしたけれど、思ったように声が出てこない。
仕方なく、首を動かして何とか小さく頷いた。
ほんの少しの動きだったけれど、レイには伝わったようだ。
レイは頷き返すと、僕の前に紫色の粒を翳して見せた。
それは、僕が作った丸薬だ。
自力で治癒のできない僕用に作っておいた。
いつも小瓶に入れて持ち歩いているそれを、レイは指先で抓んでいる。
「これを飲んでくれ」
丸薬を飲めと言われて、僕はようやく状況を思い出した。
そうだ、僕はレイに触られた後、熱が上がって、気を失ったんだ。
一体、あれからどれほどの時間が経っているのだろう。
目の前のレイの疲れ切った様子から、もしかしたら1日以上経ったのかとも思った。
そうなったら、きっとサイデンも心配している。
ギルドにも来ているのかもしれない。
いろんな思考が襲ってきたが、それを遮るように情景がまざまざと蘇る。
羞恥に身を震わせ、僕は再びぎゅっと目を閉じた。
酷いことをされたと思った。望んでいない行為を無理に強いられたのだと。
でも、きっと男とまぐわうというのは、あれ以上に大変なことなんだ。
それを望み、レイに頼んだのは、誰でもない僕だ。
消えてしまいたい。
レイにあれ以上、させたくない。
勇者だから魔王の手に渡せないと言うのなら、僕の取る道は一つしかない。
「いら、ない」
「エスティン」
このまま自然と命を失えるのなら、それが一番いい。
僕のためでもあり、レイのためでもある。
それに、僕が命を落とせば、リデアス国がアルサイールの脅威に晒されることもない。
何にも勝る解決策だ。
「のみ、たくな……」
僕がそう言うと、レイは僕の額に額を押し当てた。
「頼む。飲んでくれ。俺ではお前が治せないんだ」
レイの声が震え、吐息が頬を撫でた。
「もし、許せないと言うのなら、俺はどんな処分も受ける。だが、今だけは頼みを聞いてほしい」
レイが処分を受ける?
どうしてそうなるんだ。
すべては僕の我儘で、レイは巻き込まれただけなのに。
もしかしたら、僕が大嫌いと言ったせいだろうか。
あまりにも子供じみた言葉だ。
そんなことはない。
悪いのは僕の方なんだ。
アルサイールに下りたくないからと、僕の方こそレイに無理を強いた。
だから、レイが処分を受けることなんてない。
でも、どうやってそれを伝えたらいいだろう。
僕は、まだそんなに長く話せない。
そうしていると、レイは僕の頭を撫で、コクリと喉を鳴らしてから言った。
「愛しているんだ。エスティン。俺の命をやるから、生きてくれ」
愛している?
レイが、僕を?
あんな酷いことを言ったのに?
僕は、わけがわからなくて、呆然としていた。
すると、レイは痛みを堪えるような眼差しで僕を見た。
その時初めて、僕は知った。
誰でもない、レイにだけは、こんな顔をさせたくない。
幸せでいてほしい。笑っていてほしい。
いつの間に、僕はこんなにレイを大切だと思うようになっていたんだろう。
レイを笑顔にするためなら、僕は生きる。
僕にとってレイは、僕の命よりも重い存在なんだ。
「……わか、た」
僕が返事をすると、レイは僕の口に丸薬を入れようとした。
でも、それでは飲み込めないとわかったのか、口移しで飲ませてこようとする。
僕は自ら唇を開き、レイの舌に応えて丸薬を呑み込んだ。
舌と舌が重なり、レイは絡めてきた。
僕がレイの舌に応えると、ぴくりと身体が揺れた。
それを機にレイは口付けを解き、顔を上げて間近から僕を見た。
「……婆さんを呼んでくる。サイデンも来ているから、一緒に連れてくるよ」
サイデンが来ていると聞いて、やっぱりだいぶ長い間、僕は意識を失っていたのだと思った。
やがて、レイと入れ違う形で、ノクサムンとサイデンが部屋に入ってきた。
「エスティン様……っ。なんと、おいたわしい」
僕を見るとサイデンはそう言って、肩を震わせて涙を流した。
これまで一度として、サイデンが泣いているところなんて見たことがない。
「今すぐ、城へ帰りましょう」
「何度も言っておろう。今は動かせば、命に関わる」
そんなに危険な状態なのかと視線で問うと、ノクサムンはやれやれと言った顔で首を振った。
「もう3日も命の際を彷徨っていたのじゃ。知らぬは本人ばかりだの」
3日?
そんなに僕は、目を覚まさなかったというのか。
二人はいつ城に帰るか揉めていた。
サイデンは一刻も早く連れ帰ろうとし、ノクサムンはそれに断固として反対している。
「こんな場所に、これ以上置いておけません」
「何を言うか。治療をするのに、ここ以上に良い場所はない」
そのうち、ハロルドが現れて、二人を止めた。
「重病人の前で揉めないでくださいよ」
結局、間を取って、もう一晩だけギルドに泊まるということで折り合いをつけた。
そうして、僕はその後もギルドの奥で養生し、外に出られるようになったのはそれから2日後のことだった。
「お世話になりました」
「まだ本調子ではない。ちゃんと身体を大事にするのじゃぞ」
ノクサムンに釘を刺され、僕は目立たぬようにギルドの裏手から馬車に乗った。
城までほんの十数分の距離だというのに、僕はまた気を失い、サイデンを慌てさせたという。
僕が意識を失っている間に、2つ大きな動きがあったと後で知ることになった。
一つは、街中で勇者不要論が囁かれているという事態だ。
魔物の脅威が去ったのであれば、いつまでも異世界人を国に置く必要はないと、商人を中心に話が広まった。
商いをする上で、リデアス国に災いがあるという噂は、外聞が悪いようだ。
そして、新たな災いをおびき寄せかねない存在を、王都から追放すべきだと主張していた。
なんという自分勝手な話だろうか。
僕はその話を聞いて憤慨すると共に、レイに申し訳なくて、やりきれない思いを抱いた。
もしいずれ、アルサイールの件も解決したら、レイは国を追いやられてしまうのだろうか。
そんなことを民が望むなんて、思いも寄らなかった。
もし、民が更に主張したら、父王はどうするつもりか。
答えは自明だ。──そうなったら、僕はどうしたらいいのか。
そして、もう一つは。
ついに僕の妃候補が決まり、顔合わせの日程が組まれているという話だった。
こちらは、僕が不在であったこともあり、今は保留されている。
いずれも頭が痛くなる事態だ。
それでなくても、大きな問題がまだ糸口さえ見つけられていないというのに。
熱が引いた後、僕は改めて刻印を確認した。
すると、所有の印は胸元に更に広がっていた。
浮き出た文字は、古代文字でノルウェラ・シッレとある。
──愛しい、我が伴侶。
なぜこんな文字を追加したのだろう。
アルサイールの声が聞こえた気がして、僕は胸元を押さえ、内側から発せられる熱に顔を顰めた。




