アルサイール・ジェトヴ
「お前、名前をなんという?」
「……っう……く」
何とか口を閉ざそうとしても、唇が戦慄いて開いてしまう。
「エス、ティン」
「エスティン、か。良き名だ」
身体の震えはまだ止まらない。
だが、自由を奪われているわけではない。
僕は、その男の指先から逃れようと後退る。
膝が萎えたように力が入らなかったが、それでも歩くことは可能だ。
何とかレイの元まで行かなくては。
緑の瞳を睨みつけ、歯を食い縛って距離を取る。
「我の傍にあっても尚、動けるとはな」
くつくつと喉の奥で低く笑うが、邪魔立てはしてこない。
僕は、レイの元まで歩いていくと、剣の柄を掴む手に手を重ねた。
僕一人では太刀打ちできないが、レイとなら活路を見出させるかもしれない。
そのためにもまず、レイを回復させなくてはならない。
僕がレイの治癒をし始めると、男は興味深そうに眺め、両腕を組み合わせる。
「魔力は、ミーアに並ぶか。やはり繋がりがありそうだ」
ミーアというのは、女神のことだろうか。
だが、今はそれを聞く余裕がない。
男は、こちらに向き直ると、顎先を上げて告げる。
「我が名は、アルサイール・ジェトヴ。聞き覚えくらいあるだろう?」
アルサイール・ジェトヴ。
それは、かつてミーアがこの地上にあった時に、その命を奪ったとされる魔王の名前だ。
まさか、この男がそのアルサイールだというのか?
「……私の知るアルサイールは、黒髪に赤い瞳をしている」
「ほう? よく知っているな。今のこの姿は、我を打ち破った勇者の姿だ。──その後、リデアスの王と名乗ったようだが」
では、やはり僕の祖先が封印したというアルサイールなのか。
話している間に、レイの気脈が整った。
魔王は、ミーアの剣でなくては打ち破れない。
今こそ、二人で力を合わせて闇を払わなくては
「やめておけ。その程度の力では、我を倒すことはできん。それより、ここは一つ提案をしてやろう」
「提案?」
「……聞くな、エスティン」
レイは、掠れた声で僕を止める。
ふらりと前に進みかけたが、その声で我に返った。
「まったく、いつの世も勇者は邪魔だ」
「う……あ……っ」
レイが低く呻き、荒い呼吸を繰り返す。
先程繋げた気脈が弱まり、今にも切れそうなほどに細くなる。
「提案とは、何だ」
とにかく今は時機を見なくては。
僕は会話を続けながら、時を作ろうとした。
僕の問いに、アルサイールは答える。
「簡単なことだ。エスティン、お前が我のものになるというのなら、この国から手を引こう」
その言葉に、僕は拍子抜けした。
そんなことでいいのか。
僕の命1つが、この国より重いわけがない。
たったそれだけで済むのなら、これほど良い条件はない。
「ひつ、ようない……。こいつは、俺が……たお、し……」
「レイ……っ」
レイはアルサイールに対峙し、ミーアの剣を向ける。
柄に嵌まった霊珠が、紫色に輝き出した。
魔法使いの杖の明かりの比ではない、眩いほどの光。
アルサイールは目元に手をやり、瞳を眇めている。
「聖剣、か。面白い」
赤い唇が弧を描き、宙に腕を上げた途端に地響きが鳴った。
まるでその場の重力が変わったかのように、身体が重くなる。
レイは、今度こそ地面に倒れ、聖剣を手から離した。
僕は傍に跪き、レイの頬に触れる。
蒼褪めていく顔は、血の気が引いたように冷たい。
何とかして、命だけは取りとめようと魔力を注ぐと、背後から溜息が聞こえた。
「お前を傷付けても、絆が深まるだけだな。つまらん」
いっそ投げやりな言葉は、魔王という割に人間臭く聞こえた。
すると、レイの身体が揺れて、笑い声を立てたのがわかった。
「羨ましいか。魔王」
途端に空気に摩擦が起きたかのように稲妻が走り、レイが呻き声を上げた。
「貴様、レイに何を……っ!」
「この状況でも心が折れないとは。余程の馬鹿か、それとも──」
アルサイールはこちらに歩み寄り、地面に座る僕の傍で身を屈めた。
そして、トンと僕の胸の辺りを指で突く。
ぐらりと視界が揺れ、バランスを失って、僕は地面に両手を突いた。
息が苦しく、嫌な汗をかく。
「お前にも、勇者の血が流れているのか。それにしても、麗しく気高い奴だ。潔癖な心がどこまで保つか、見物だな」
アルサイールは、僕に背を向けて長い髪を揺らめかせ、ダンジョンの奥へと歩みゆく。
闇に溶ける寸前でその姿が掻き消え、ふと身体が軽くなった。
いつまでも、見ている場合じゃない。
僕は、レイの身体に手を置き、魔力を注ぎ込む。
そして、動かしてもいいほどに回復したところで、何とか身体を表に返して唇に唇を重ねた。
口腔内で力を失くしている舌に舌を合わせ、少しずつ魔力を送り込む。バラバラになった気脈を繋げるのに、かなりの時間を要した。
ぴくりと指先が動き、僕の背に腕が回る。
ホッとして唇を離すと、黒い瞳に僕を映した。
「えす、てぃん」
「そのまま、動かないで。気脈が整っても、身体へのダメージでショック状態にあります」
「ま、おう……は?」
「既に去りました」
僕はそう告げて、周囲に倒れている冒険者の治療もしようとした。
だが、レイは僕の腕を掴んで離さない。
「提案、を……呑んだ……のか?」
何を危惧しているのか、僕はその一言で察した。
「吞んではいません」
ただ、アルサイールの最後の言葉が気になった。
でも、今はそれを話している場合じゃない。
僕は、ハロルドを始めとして、一人一人に治療に当たり、何とか意識を回復させた。
「すまない、エスティン殿」
「いいえ。それより、ここからの脱出方法を考えないと」
地図にもない場所となると、救援は望めない。
それに、一度ここから離れてしまえば、もう一度来られるとは限らない。
「全員で脱出する。荷は水以外すべて置いていけ」
レイは短く、僕たちに命じた。
身軽にして、最短で出口を目指す。たしかに、それしかないだろう。
僕は、魔法使いに肩を貸そうとしたのだが、畏れ多いと拒まれた。
「今更何を言うんですか」
「私ではなく、勇者様をお願いします」
レイは自力で立てている。
だからこそなんだけれど。
仕方なく僕は前衛に回って、レイの手を取った。
「私が触れていた方が、回復は早いと思います」
「……そうか」
疲れもあってか、レイはいつもより口数が少ない。
そうして、道を戻っていると、ようやく見慣れた場所に出た。
「ここまで来れば、救援が呼べる。待っていてくれ」
槍使いが先に立ち、駈けて行った。
あの重たい装備でよく走れる。
僕たちが一歩一歩慎重に歩いていると、やがて向かい側から新たな討伐隊が現れた。
「たすか……た」
「レイっ!」
途端にレイは、僕の腕の中で力を失った。
「危ないっ」
レイの重みで倒れ込みそうになったところをハロルドに支えられ、何とか転ばずに済んだ。
「レイを頼む。俺は、エスティン殿を運ぶ」
槍使いに指示を出した後、ハロルドは僕の身体を抱き寄せた。
「運ぶって……うわっ!」
「軽いな。もっと食べた方がいいですよ」
ハロルドはそう言いながら、僕を抱えて歩き出した。
僕は、ハロルドの肩にしがみつき、落ちないよう大人しくしていた。
「あとでレイが知ったら、何をされるか」
「その時は、私が証言しますよ」
フィランはクスクスと笑い、討伐隊の緊張感も解けつつあった。
やがてミーアの星が見えてきて、ダンジョンの外に出たのだとわかった。
身体から力が抜け、ハロルドの肩に掴んでいた手がずるりと落ちた。
「王子!」
「エスティン殿下っ!」
走り寄ってきた神官たちに、何か言葉を掛けようとしたのだが。
僕の意識が保てたのは、そこまでだった。
次に目が覚めた時には、城へ帰還する馬車の中にいて、僕はホッとして目を閉じた。
──「潔癖な心がどこまで保つか、見物だな」
アルサイールの言葉が、今も耳に残っている。
けれども今は、全員で帰還できることを喜びたい。
僕は、胸の痛みに顔を顰めながら、再び眠りに落ちた。




