二十年前の真実に乾杯をする
「いらっしゃいませー!」
居酒屋の扉を開けると、威勢のいい声と同時に、店内の活気を肌で感じた。
今日は、久々に家族と外食することになった。娘の卒業式だったため、お祝いも兼ねて、娘と妻の三人で駅から程近い居酒屋で食べることになったのだ。
家族と居酒屋に来るなんて、初めてのことだった。
ただ、この居酒屋はよく知っていた。職場の飲み会でしょっちゅう使われているからだ。
妻とは職場結婚をした。妻と付き合うようになったのは、ちょうど二十年前、この居酒屋の帰り道がきっかけだった。
その日、居酒屋を出て二次会を誘う声に、私と妻だけは参加しなかった。
「一緒に帰りましょうか」と言う妻に、二人で駅まで歩き、その時、私から「よかったら付き合ってください」と申し出たのだ。
今でも昨日のことのように思い出される。妻と歩く駅までの帰り道、ずっと考えていた。二人きりになれるのは今しかない。言えるチャンスは今だろう。
そう思いながらもなかなか言葉が出ない私に、「なにか伝えたいことがあるんですか?」と妻が促してくれた。
あの言葉がなかったら、私はずっと告白できずにいただろう。もしかしたら、私たちは結婚できなかったかもしれない。あの時、促してくれた妻には心から深く感謝している。
「ねえねえ、お父さんとお母さんって職場結婚なんでしょ?」
大きな窓際の席に通され、注文したメニューを待つ間、娘が意気揚々と聞いてきた。妻が「そうよ」と答える。
「この居酒屋で会社の飲み会があったのよ。その日の帰り道にお父さんが告白してくれたの」
「そうだったのっ?」
「そういえば、その時の飲み会も、ちょうどこの席だったのよ。二十年前と変わってないわね~。懐かしいわ~」
辺りをキョロキョロする隣の席の妻は、あの頃と少しも変わっていなかった。仕草も表情も愛しさも、私の中ではまったく変わらない。
「お父さんもね、あの時と同じここの席だったんだけど、全然、お母さんの方を見てくれなかったのよ」
「見なさそう~、喋りかけたりもしなさそう~」
娘の言葉に、私は何も言えずに黙り込む。確かに恥ずかしくて、見ることもできず、ろくに話すこともできなかった。
「よくお付き合いが始まったね」
「最初は嫌われてるのかと思ったわよ」
「そんなんで、どういう流れで付き合うことになったの? どう考えても無理じゃない?」
「仕方ないからお母さんから言ったのよ、『駅まで一緒に帰りましょうか?』って」
「そうなんだ」
「それでも何も言わずにいるもんだから、『何か私に伝えたいことがあるんですか?』って聞いてあげたの」
「なにそれ?」
私の方を見る娘に、「うるさい」と私は返すことしかできなかった。
「お父さんの好意によく気付けたね。いつ気付いたの?」
「ここよ」
妻は、自分の座っている席を指差す。
娘も私も「えっ?」と驚いた。
「どうやって気付いたの? 全然、喋ってこなかったんでしょう?」
不思議そうに尋ねる娘に、私も知らず知らず耳が大きくなった。
初めて聞いた。結婚して二十年になるが、そんな話は知らない。
気付かれていたなんて知らなかった。一体どういうことなんだ。
不思議そうにしている私に、妻は柔らかく笑いかけた。
「お父さんね、こうやってたの」
私の右手を優しくとると、妻は自分の右肩の上に浮かせて見せた。
「見て」
促されて窓ガラスを見やる。
向かいに座っている娘も、少し体をずらして背にしていた窓ガラスを振り向く。
外はすっかり暗くなっていた。そのため、窓ガラスに明るい店内がくっきりと映っていた。まるで、鏡のように。
私たち、家族三人が映っている。
妻の肩の上に、浮かせた私の右手がはっきりと映り込んでいた。
「私が嫌がらないように、こうして触れずに肩を抱くふりをしてたの。だから、口下手で照れ屋な優しい人なんだなぁ~って思ったのよ」
そうだったのか――
思い出した。突如として記憶が甦ってきた。
あの時、酒で気が大きくなっていて、普段では絶対にできない肩を抱くふりをしてみた。好意に気付かれないように。触れて嫌われないように。彼女の嫌がることをしないように。
だが、あれはほんの数秒のことだった。こちらを向いた彼女に、反射的に腕を下ろした。まさか、窓ガラスに映って気付かれていたなんて――
途端に……居心地が悪くなってきた。今までの人生で間違いなく一番恥ずかしい。もう、今すぐこの場から逃げ出してしまいたいくらいだ。
「逃げてはいけませんよ、乾杯しますからね」
言われて観念し、微かに頷く。
「お母さんには、いつも勝てないね~」
娘に言われて、「うるさい」とまた返す。
妻にはいつまでも敵わない。
でも、もうそれは出逢ったときから分かっていたことだった。一目惚れしたときから。もう、私にはこの人しかいないと思ったときから。
いつまでも私のそばにいてくれるなら、もうそれでかまわないと思う。
運ばれたグラスを手に、妻と同時にお祝いの言葉を重ねる。
『真奈美、卒業、おめでとう』
「お父さん、お母さん、ありがとう! 大学も頑張りますので、学費、よろしく!」
思わず呆れた顔になったが、もちろん本気で呆れているわけではない。
「遊んでもいいが、勉強もするんだぞ」
「はいはい、ちゃんと分かってますって」
会話をしながら、三人でグラスを心地よく鳴らす。
「それにしても、本当にお父さんは口下手だよね~」
と、二人は笑い合っている。
笑われているが、不思議と怒りは沸いてこなかった。どちらかと言えば、感謝の気持ちが沸いてきた。
自分のことを理解してくれている。しかも、こんな自分を好きでいてくれる。
こんな奇跡があるのだろうか。
グラスを傾け、ビールをぐいっと喉に流し込む。
今日のお酒はどういうわけか、これまでの人生で一番旨く感じた。
読んでくださって、ありがとうございました。
コロン様の企画の「酒祭り」の参加作品です。
久々に短編を書きました。こういう機会がなければ書かなかったと思うので、参加できて良かったです。