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第六話 ②


「以前に、私は魔法薬が苦手だとお伝えしたのですが、覚えてらっしゃいますか?」

「…………ええ」


 とてもそうは思えなかった。

 放課後を使った復習と称した魔法薬の実験では、彼女はとても『苦手』としている者の手つきではなかったからだ。謙遜も過ぎればただの嫌味だ。

 毎回、私は何処かうんざりした思いで、それでも決して手は抜きたくなかったから、真剣に取り組んでいた。


「私は作業手順の早い魔法薬を作ると、大体六割失敗します」

「え?」

「学校では二人一組でペアを作るので時間に間に合いますから、指摘されたことはありません。そもそも魔法薬師を志望する方でもない限り最終学年で上級魔法薬の授業は選択しないので、きっと卒業まで私の不出来が露呈することはないでしょうね」


 確かに、そうだろう。

 けれども、進路や向き不向きによって教科を選択することは誰だってやっていることだ。


「応用魔法記述式については、私は寝る間も惜しんで詰め込んでようやく、アマリリス様の半分ほどの評価しか頂けません」


 魔法理論の鬼才と呼ばれるアマリリス・クロスタレーの半分も取れるなら、きっと誰も不十分だとは言わない。


「社交界では家柄によって立場が守られていますが、真に聡明な方は、私が語る言葉が誰かの借り物であることにすぐにお気づきになられることでしょう」


 そんなもの、大抵の有象無象は気づきもしないだろうに。


「私は、防御魔法しかまともに使えません。授業では特例でお目溢しを頂いています」


 彼女の防御魔法は、アルメール公爵が国璧の防御に取り入れたいと思うほどに優秀だと聞く。一つでも取り柄があるのならばそれで十分ではないか。


「父からは役立たずの不出来な娘だと言われておりました。何故こんな簡単なことも出来ないのかと、本当に、心底理解の出来ない顔で尋ねられたことがあります」


 遠い思い出を語るマリーディア様の横顔は、思わず息が詰まる程に冷えたものだった。

 常は期待と希望に満ちて美しく煌めく瞳が、全てを飲み込む虚な穴のように光を失う。

 思わず握り締めた両手に力を込めていた私の隣で、マリーディア様は感情を削ぎ落とした声で続けた。


「十三の時に、家庭教師を万年筆で刺しました」

「……は、い?」

「本当は目を狙ったのです。でも、子供だから届かないかもしれないと思って。避けられてしまうかもしれない、と思って。手のひらにしました」

「それは……」


 私に話しても、いいことだろうか。分からない。動悸ばかりが激しくて、碌に言葉が出てこなかった。

 代わりに出てきたのは、なんの薬にもならないような、当たり障りのない慰めだ。


「……何もかもを完璧に出来る方など、この世におりません。足りないところは得意な方にお任せすれば良いのですから、何も問題ないのでは」

「ええ、そうですね。でも、リエナ様には非の打ちどころのない令嬢に見えているようですから」


 訂正してしまいたくなってしまいましたの、と笑うマリーディア様の顔には、堪え切れない怯えが滲んでいるように見えた。


 最高級の人形のように美しく見えていた彼女の笑みが、どういう訳か、途端に人間のものに思える。

 否。彼女は最初から人間だった。同い年の、周囲の期待に応える為にもがいているのだろう、一人の女性だったのだ。


 私はきっと、父と同じことをしていたのだろう。『理想』を追いかけて、相手をそれに当て嵌めて見ている。本当はどうか、なんて思いもしないで。

 何処か居た堪れない思いで俯いた私に、マリーディア様は柔らかい声音で続けた。


「けれど、私もリエナ様は類まれな才能に優れた素晴らしい令嬢なのだから、何も憂いなどないのだと、勘違いしておりましたわ」

「……まさか」

「悩みのない人なんて、この世にいる筈がないのに、ね。酷い勘違いだったわ、許してくださる?」


 眉を下げて私の顔を覗き込むマリーディア様は、心から謝罪を口にしているつもりのようだった。彼女が謝ることなど、ただのひとつもないのに。


「……私も、貴方のように素晴らしい令嬢は、何も悩みなどないのだと、思い込んでいました」


 もし。もしも、此処で父の所業について洗いざらい話せてしまったのなら、どんなに良かっただろう。

 けれども、私にとって父は恐怖と憎悪の象徴であると同時に、どうしようもなく認められたい対象でもあった。

 父こそが、精霊に愛された稀有な才能を持つ特別な方なのだ。間違っているのは私の方なのだ。


 冷え切った手のひらに、温かな手が重なる。


「ね、もし良かったら、マリーと呼んでくださらない? 私、本当に、御友達になりたいの」


 本当に、とマリーディア様は念を押した。本当に友達になりたい、らしい。彼女は私を、本当に『素晴らしい令嬢』だと思っていたらしい。本当に。心の底から。


「……マリー様さえ、よければ」


 涙を堪える為に、私は三分も時間を要してしまった。潤んだ視界で微かに歪んで映っていたマリー様が、瞬きの後にははっきりと見える。

 ぱっと華やぐように明るくなった笑顔に、どうしてか胸が締め付けられる思いだった。






 その後、私はマリー様の取りなしでアマリリス様やエリーシャ様とも交流を持つこととなった。

 貴族令嬢にあるまじき無礼を働いた私だったが、学園内ではまだ許容範囲であった為か、はたまたあの『マリーディア・ローヴァデイン』が気にかけ解決に働いたからか、さほど大きな問題にはならなかった。

 そもそもが、貴族令息と関わることでしかお父様も名誉を傷つける方法が見つからなかった辺り、私は世間知らずの箱入り娘でしかなかったのだろう。


 彼女たちと過ごしていると、入学当初の絶望的な思いが、見る見る溶けていく。

 アマリリス様もマリー様も、とても良くしてくださる。けれども、距離が縮み、親しみを持ったとしても、私は父に受けた仕打ちだけは打ち明けることが出来なかった。

 そもそも、誰かに話す必要など無いのだけれど、語るまい、とさえ決めているのは、全てをなかったことにしてしまいたかったからだった。


 リエナ・エルフィンという人間が、父に虐げられた哀れな女であると認めたくなかった。

 たまたま病弱で遅れて入学して、周りとの年齢差で荒んでいてあんなことをしでかしただけで、優秀で満ち足りた令嬢だというフリがしたかった。

 だって。尊敬する人達に憐れまれることほど辛いことはない。


 こういうところが、きっと何処までもマリー様とは違うのだろう。私は。

 けれども、そんな自分が、近頃はあまり憎くはなくなっていた。


 幾度目かのお茶会で、マリー様はそっと秘密を打ち明けるように呟いた。


「そ、それと……私は、その、もうひとつ、理由があってリエナ様に近づいておりましたの……」

「まあ。もし、よければお聞きしたいわ」

「その……リエナ様はロバートをどう、思っているのかしら?」

「特に、なんとも」


 ロバート・アルメールの名は、度々父から聞いていた。ローヴァデイン家と並ぶ名家であるアルメールに嫁がせられれば、まだ私にも利用価値がある、と思っていたのだろう。

 あるいは、マリー様が婚約した相手だからこそ、執着していたのかもしれない。


 ロバート・アルメールははっきり言えば、妙な男だった。いつも何処にいるのか微妙に分かりにくいくらいには影が薄いのに、それでいて油断のならない気配を纏っている。

 サボり魔で、遊び回っている放蕩息子としてだけやたら有名だ。


 あれは恐らく、マリー様に求婚したい男たちや、婚約者を貶めることでしかマリー様を嘲笑うことが出来ない女がわざわざ流しているのだろう。

 人のことを言えた義理ではないが、仮にも公爵家を相手に随分と豪胆なことである。もしもロバート・アルメールがあのように呑気な男でなかったなら、きっとそれなりの対処を受ける羽目になっていただろう。


 顔立ちの話をするならば、醜男では無いが、端正かと言われると首を傾げるような容姿をしている。そう、おそらくは素朴と言うのが正しい。

 マリー様が華やぐような美しさを誇るものだから、隣に並ぶと花束の主役を飾るフィラーフラワーのような印象を受ける方だ。

 まあ、失礼すぎて流石に口には出せないが。


 結果として無難かつ端的に告げた私に、マリー様は「本当に?」と恐る恐る確かめてから、安心したように力の抜けた笑みを浮かべた。


 どうやらマリー様にとっては、ロバート・アルメールは余程素晴らしい男性に見えているらしい。人の好みをとやかく言うつもりはないし、心の底から愛している婚約者と共に過ごせているマリー様のことは、素直に可愛らしい、と思った。

 ロバートは私を助けてくれたの、と語る口ぶりからして、おそらくは彼がその得意な剣で持って、小さな魔物からでも庇ってくれたのかもしれない。幼少期の思い出は、得てして美化されるものだ。


 『ロバート』の話をする時のマリー様を見て、思わず口元に笑みを浮かべていたことに気づいた瞬間、私は何より私に驚いてしまった。

 まさか、私が他人の幸福を微笑ましく思う日が来るなんて思わなかった。以前の私が見たのなら、何を腑抜けたことを、と嘲笑ったことだろう。


 けれども、今の私は、そんな自分が案外、嫌いではなかった。






 ────幸運のように訪れた安寧が崩れるのは、呆気ないほどに簡単だった。


 ある日。屋敷に戻ると、此処しばらく姿を見せていなかった父が居た。私の身体は、いつも父を見ると無様に強張り、あっという間にまともな言葉の一つも言えなくなってしまう。

 父の顔には、場違いなほどに晴れやかな笑みが浮かんでいた。私には向けられたことのない笑みだ。


「お前がマリーディア様と歩いているのを見かけたよ」


 全身の血が一気に引いたのが、自分でも分かるほどだった。

 燭台の明かりだけでは、父の顔はよく見えない。暗がりに立つ人影は、何処か化け物じみた空気を漂わせていた。


 何も。何も言えなかった。

 呼吸すら忘れたまま、私は閉ざされた部屋で父を見上げていた。


「相も変わらずお優しい方だ。お前のような出来損ないとも交流を持ってくださるなんて!」


 恍惚とした声で紡がれる賞賛に、喉の奥から苦いものが込み上げる。


「良い子だね、リエナ。お前はようやく私の役に立ってくれるのだ! なんて素晴らしい!」


 私の頭はおかしいのかもしれない。腐敗臭のする甘い言葉に確かに吐き気を覚える自分がいるのに、此処に至ってもまだ、私は父に褒められることに希望を見出していた。

 馬鹿げた話だ。幼少期からあれほど蔑まれ、虐げられていても尚、私は父への憧れが捨てきれなかった。それはきっと、母の教えも影響しているのだろう。


 精霊に愛された、特別な人間。父は選ばれし存在で、そんな父に選ばれた自分もまた特別な存在で、当然、そんな二人の間に生まれたのだから私も特別であるのだと、生前の母は繰り返し呟いていた。

 要するに、そうだとでも信じ込まなければ、母には耐えきれなかったのだろう。


 私は母のように、選ばれた(・・・・)から父を愛している訳ではない。

 分かるのだ。お父様がどれ程までに優れた魔法薬師であるのか、私には痛い程に理解が出来る。人格も所業も、その全てを天秤にかけても尚、父の作る魔法薬は誰より洗練されていて、途方もなく、目眩がするほどに美しかった。


 私は、娘として愛されることを望むよりも強く、魔法薬師として、父に認められたかった。

 打ちのめされて傷だらけの、欠けてばかりの心を、父から認められることによって埋めたかったのだ。

 それはもはや渇望に近かった。けれども、今の私には、


 父が何か、私には考えもつかないような、悍ましいことを考えていることだけは分かった。


「お父様。私は、私には、お父様の望みは、」


 叶えられません、と口にしかけたその時、首筋に鋭い痛みが走った。


「え?」


 え? 何。かしら。


 反射的に叩き落とす。針が折れてしまうかもしれないのに。針? 器具。医療器具だ。どうしても経口摂取できない魔法薬を投与するための。


 おかしい。天井が見える。

 心臓が燃えるように痛む。

 床、の冷たさすら、上手く感じられない。


「リエナ、お前にもようやく使い道が出来たんだ! さあ、お父様の為に働いておくれ」


 私の身体は、私の意思に反して動き出した。

 どろどろと燃えるように溶けていく意識の中で、幼い私が泣いているような気がする。


 どうしてだろう。

 どうして父は、私を苦しめることばかりするのだろう。

 やっと掴んだ小さな幸福さえ奪っていくのだろう。


 暗がりから、答えは返っては来なかった。




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