第六話 ①
近頃、マリーディア・ローヴァデインの態度があからさまだ。
「リエナ様! よければ私と昼食を共にしてくださいませんか?」
学年が違うにも関わらず顔を合わせる機会を増やすかのように廊下ですれ違う頻度が上がり、食事時には必ずと言っていいほど誘いがかかる。
何か目的があって近づいているのは確かだった。まさか、本当に『お友達』になりたい訳でもないだろう。
分かっていても誘われるままに相席してしまうのは何故だろう。
令息と関わる時にはどんな醜聞も気にならなかったのに、自分より身分の高い女性の誘いを断る無礼は出来ないだなんて。馬鹿らしい話だ。
いや。本当は、理由なんて分かりきっている。
「実習でリエナ様が作成された魔法薬を拝見しましたの。とても繊細で、美しい調合でした。魔石の削り方に工夫があると推察したのですが、如何でしょう? もしよければご教示頂きたいわ。私、魔法薬はあまり得意とは言えなくて……」
心にもないことを。そう思うのに、彼女の口から紡がれる賞賛を受け止めるたびに、私の心は勝手に喜んでしまう。
そして、自身の浅ましさに吐き気を催す。食欲すら湧かないのに、テラスで対面に腰掛ける彼女の美しい所作を見るたびに、無様な失態は見せられない、と勝手に手は動く。
「リエナ様のような素晴らしい魔法薬師がいて下さるのですもの、エルフィン家は安泰ですわね」
ああ。その言葉をくれたのが我が父であれば、どれほどの喜びだろう。
彼女を前にすると、自分がなんて浅ましく嫌な女であるかを思い知らされる。
お父様が言った言葉こそが真実なのだと、我が身を切り裂かれる思いで叫び出したくなる。
マリーディア・ローヴァデインは、父にとっての理想だった。
正確に言うのならば、父にとっては彼女の母親こそが理想の淑女であった。シャルロッテ・ローヴァデイン様。歴史ある侯爵家の娘である彼女は、社交界では憧れの的だった。
父はシャルロッテ様との婚約を望んだ数多の男の一人だった。そして、後ろ盾の足りない父はローヴァデイン公爵家に敗北を喫した。
生まれた時から、父は私に『マリーディア・ローヴァデイン』のようになれ、と繰り返し説いた。
対象がローヴァデイン公爵夫人ではないのは、彼女は父の中であまりにも神格化されていて、模倣させることすら烏滸がましい、と思ったからだろう。
『ローヴァデイン家の娘を見習え』
『お前は美貌も才能もあの娘に少しも届かない』
『お前をアルメール家の令息の婚約者にするつもりだったのに』
『とんだ期待外れめ』
私は、父の許しがなければ眠ることすら許されなかった。
与えられたものは容赦なく振るわれる鞭と、美貌を磨き、淑女に相応しい所作を身につける為だけの食事。
そして、叡智の結晶とも呼べるエルフィン家秘伝の魔法薬の知識だ。
マリーディア・ローヴァデインには、私の苦しみは分からないだろう。
お父様の求める基準に満たないからと、私は一年も遅れて入学した。入学試験で満点が取れなかった、主席になれないのなら入ることは許さないと父は言った。
編入試験でさえ満点を取れなかった私は、食事を抜かれて本物の地下牢に入れられた。恥晒しの、期待外れの娘だと。
私の全ては、父の憎悪と劣等感で作り上げられている。
「ローヴァデイン様こそ。公爵家に貴方のように優れた魔導師がいらっしゃるなんて、さぞや誇らしいことでしょう」
「そんな。父にはいつも不出来な娘だと言われていましたわ」
儚げに微笑む彼女は、憂いを帯びた表情すらも美しかった。
絹糸のような金糸の髪に、深く煌めく緋色の瞳。まさに磨き上げられた一級品の宝石のような人だった。
これ程までに優れた淑女が『不出来』と言われるのなら、それにも劣る私は何なのだろう。
最後の一口まで飲み込めたのは、染みついた躾の賜物だった。後の会話は、一欠片も頭には残っていない。
その日は、どうやって家に帰ったかすら覚えていなかった。
屋敷に戻り、何かに追い立てられるように廊下を駆ける。
普段ならば物音の一つでも立てれば怒鳴られるが、父は近頃別邸の調合所に篭り切りだ。
「何がお友達よ、ふざけないでよ! 私にないものを全て持っているくせに!」
衝動のままに叫ぶ。地下牢に似た部屋は、外にはほとんど音が響かない。泣き喚こうと、怒鳴り散らそうと、誰にも聞こえはしないだろう。
この部屋の作りを有難いと思う日が来るとは思わなかった。
ずるいわ。どうしてあんなにも、何もかも持っているような人が存在するの?
私には足りないものを全て持っていて、それでいて愛する人にも恵まれて、幸せな道を歩むことが約束されている。
この先一生、あの人が幸せになる様を見て過ごさなければならないの? どうして?
いっそ殺してほしい。けれども、死の手前にある痛みと恐怖に、自分が耐えられるとは思えなかった。
一番悍ましいのは、そんな彼女に友として求められることを、何より嬉しいと思っている自分だった。
父が賞賛するあの素晴らしい令嬢が、私の作った魔法薬を褒めるたび、父にも褒められているような気にすらなった。
分かっている。彼女は私が高位の令息と関わっているのをやめさせたくて、仕方なく関わっているだけなのだ。
けれども、彼女は世辞の一つを言う時にも、私を見てくれる。作り上げた魔法薬から私が何処に気を配って作業しているか的確に読み取り、苦労した箇所に気付いては「こんな丁寧なことは私にはとても出来ないわ」と、まるで初めて魔法に触れた少女のように、本当に無垢な輝きで瞳を煌めかせて賞賛を口にする。
彼女が他者を躊躇いなく褒めることが出来るのは、積み上げた確かなものがあるからだ。彼女は劣等感なんてものとは無縁で、憧れを憧れとして、素直に口に出すことが出来る。
なんて美しい人だろう。ああ、こんな出会い方でなかったのなら。
私が父にも恥じるような娘ではなくて、貴方とも同級生で、共に同じクラスで学ぶことが出来たなら、私は胸を張って貴方の友人になれたと言うのに。
結局、先に根を上げたのは、私の方だった。
「マリーディア様、もう、構いません。令息の方々と関わるのは、辞めます。これまではしたない真似をして申し訳ありませんでした。ですから、マリーディア様がこれ以上無理に私と関わる必要はありません」
「え?」
放課後。二人切りの教室。
魔法薬の復習がしたい、と言うマリーディア様に付き合って中級魔法薬の調合に協力をしていた私は、薬品の完成と共に、何処か気の抜けた声で呟いていた。
本当に。もういい、と思えたのだ。
こんな真似を働いて家名に泥を塗ったところで、お父様は私のやることに興味など示さない。近頃は調合研究所に篭り切りで、もはや娘がいることさえ覚えているのか怪しい。
私など、父にとっては居ても居なくても同じことなのだ。
隣に立っていたマリーディア様は、瓶詰めにした魔法薬に栓をしてから、何故だか妙に狼狽えた様子で口元に手を当てていた。
まさか、思惑がバレていないとでも思っていたのだろうか? そんな訳がない。彼女はマリーディア・ローヴァデイン。魔法学園始まって以来の才女であり、完璧な淑女だ。
腑に落ちない顔で見つめていた私に、マリーディア様は動揺をそのまま表したかのように視線を彷徨わせながら、小さな声で呟いた。
「あの、私たち、ようやく友達になれたのだと思っていたのだけれど、私の勘違いだった、のかしら……?」
「え?」
「そ、そうよね! リエナ様ほど優秀な方に私のような者と友達になってもらおうだなんて、烏滸がましいわね……」
この方は何を言っているのだろう。
まさか、本当に私よりも自分の方が劣っているとでも思っているのだろうか?
もし本心からそう思っているのだとしたら、これほどに腹立たしいことはなかった。己の実力を正しく見れないあまりに他者を傷つける人間は、ただの愚か者だ。
蟻のように踏み躙っておきながら、息絶えた相手にすら気が付かないだなんて。馬鹿にしている。
「なんですか? それは嫌味ですか? 無礼を働いた私にも非がありますが、そうまでして私を貶めないと気が済みませんか?
ああ、いえ、分かっています。貴方が何も分かっていらっしゃならないことくらい。
ローヴァデイン様、これは忠告ですけれど、貴方様ほどの完璧な淑女に、『烏滸がましい』などと言わせる者が存在する筈がないのですよ」
思わず、怒りのあまり口を開いてしまった私に、マリーディア様はほんの少し息を呑んでから、何処か苦しそうに微笑んだ。
「リエナ様の頭の中の私は、その……随分と立派な方なのね」
掠れた呟きの意味を図るより先に、マリーディア様が教室の椅子の一つに腰を下ろす。
隣に座るように示されて、つい、断ることも出来ずに従ってしまった。