第三話
八歳の夏。ロバートの遊び相手になってからしばらく経つ頃、私はうっすらとアルメール公爵の意図を察した。
これはきっと、ロバートに『貴族らしさ』を教えてやってくれということなのだわ、と。
婚約者候補だとは微塵も思わなかったのは、彼のような人が私の手に負えるとは少しも思えなかったからだ。
ロバートは既に日頃から『自分は大きくなったら家を出る』と繰り返していたし、彼はそれが許されるだけの実力と、許さなければ何を仕出かすか分からない厄介さを兼ね備えていた。
アルメール家には令息が三人いて、ロバートはその三人目だけれど、彼だけが家の中でどうしようもなく浮いていたのは私から見ても明らかだった。
何せ、初対面の茶会から木の上に登っているような七歳児だったから。聞けば、何度言っても屋敷を抜け出し、好き勝手に魔物を討伐してきては父親に換金をねだるような子供だったのだという。
アルメール公爵がロバートを持て余していることは、私の目から見ても明らかだった。
更に言えば、持て余していても尚、手放し難いと思っているほどに期待しているのも確かだった。
ロバートはいつも飄々としていて、極めて気の抜けた人間に見える。彼の持つ雰囲気がそうさせるのだろう、周囲の人は仮にロバートの実力を目のあたりにしても、それを彼の本当の実力だとは思えないでいるようだった。
運が良かっただとか、共にいた人材が優秀だったのだとか、本当はさほど脅威のある魔物ではなかったのだろうとか。そういう風に捉えてしまうらしい。
そんな中で、彼の父であるアルメール公爵はロバートに正当な評価を下していた。
家族として近い距離にいるのだから当然のことかもしれないが、私は素直に尊敬の念を抱いた。
婚約者となってからは特に実感を伴って得た感動に私が賞賛を口にすると、ロバートは笑いながら言った。
『そりゃあ、父上は基本的に他者の能力値を客観的に見る力に長けてるからね。ほら、マリーの防御魔法だってすごく褒めてたでしょ? 防衛拠点の構築式に組み込みたいから是非秘訣を聞いてきてくれって言われてるんだ。今度教えてね』
『そんな、私の魔法なんて使ったらいざという時に大変なことになってしまいかねないわ。でも、そうね……公爵様は私があなたの婚約者として相応しい評価を得られるように、お力を貸してくださるつもりなのね。有難いお心遣いだわ』
『ええ? いや、どう考えても実務面で欲しいだけだと思うけど……マリーはなんだってこう……全く、ローヴァデイン公爵も、ちゃんと見ればマリーがどれだけすごいのか分かるはずなのにね』
何処か呆れたような口調で言われた時、私はなんと返したのだったか。
よく覚えてはいないから、きっと曖昧に微笑んで誤魔化したのだろう。
お母様は、私が十歳になった年に亡くなった。本来跡取りとなるはずだった弟を身籠ったまま、弟のことも連れて行ってしまった。
二人目が中々出来ずに長い間悩み、治療に励んだ末のことだった。
お父様がおかしくなってしまったのはその時からだ。
元より才能を受け継がなかった私にはあまり興味を持たなかったお父様だけれど、それでも、お母様への愛だけは本物だった。
世界で最も愛した女性を失ったお父様は、遺された私への評価でお母様の素晴らしさを証明できると信じ、躾をこれまでより一層厳しいものへと変えた。
それについていけなかったのは、偏に私の実力が足りなかったからだ。
優れた魔導師であるお父様なら、私が魔法の才に恵まれていないことなどひと目見て分かっただろうし、教育を施しても無駄なことくらい分かっていただろう。
それでも私を魔導師にする道を諦めきれず、王太子の婚約者にまでしようと厳しく躾けたのは、失われたものがあまりにも大きかったからだ。
残念ながら、聡明なお父様の目は、愛する妻と真に己の才能を引き継いでいたかもしれない息子を失ったことで曇ってしまったのだ。
お母様を亡くしてからのお父様の憔悴しきった様子を覚えているからか、辛く苦しい記憶を抱えても尚、私は何処かお父様を恨み切れないでいる。
ロバートからすれば、お父様の事情はお父様が乗り越えるべき問題で、私には全く関係がないのだから辛く当たられる理由にはならないのだそうだけれど。
多分、お父様は別に辛く当たったつもりなど微塵もないのだ。
ただただ、心の底から、『この子は自分の娘であるのに何故この程度のこともできないのだろう』と思っているに過ぎない。
教えられた分だけすんなりと吸収できるような人間から見れば、私の様は笑えるほど愚鈍に映ったことだろう。
だから、単純に私はお父様と相性が悪かった、というだけの話なのだ。私がもっと優秀で、才能に恵まれていたなら、こんなことにはならなかった。
私がお父様の娘として相応しい実力を兼ね備えていたなら、順当に優秀な魔導師として評価されて、お父様も大切な家族を失った傷を私の存在によって癒し、そして王太子の婚約者としてつつがなく過ごして王妃となり、お父様を安心させることが出来たはずだ。
私にはそれが出来るだけの力がなかった。だから、ある日天啓のように降りてきた『物語』の存在によって、自分がいかに無力で無価値で、どうしようもないくだらない存在であるかを知ってしまった時、己の衝動に抗うことすらできなかったのだ。
この世が作り物の嘘っぱちなのだとしたら、どれだけ頑張ろうともこの先の未来が決まってしまっているのだとしたら、私の生きてきた意味などなくなってしまう。
否。そもそも意味などなかったのだ。
全てが無意味で、無駄で、無価値な塵に見えた。このまま気に食わないものは全て壊して、そして自分も死んでしまおうと、愚かなことを本気で考えた。
きっとあの時ロバートが来てくれなかったなら、私は衝動のままに実行していたことだろう。
ロバートがいてくれて本当によかった。まさか、あの状況からロバートと婚約を結ぶことになるだなんて思ってはいなかったけれど、今となってはこの道が最良だったと確信している。
今や学園でも『完璧な淑女』などと呼ばれているけれど、私は王妃になるにはあまりに実力不足だ。
寝食を削って勉強に励んで成績を保ち、家名と立場だけで交友関係を結び、幾人もの侍女に手をかけてもらってようやくそれらしい美貌を保っているような、そんな期待外れの女だ。
クロスタレー公爵家のアマリリス様のように一度見聞きすれば全てを覚えてしまうような並外れた才や、ミガマイン伯爵家のエリーシャ様のように男女問わず周囲を虜にする魅力的で輝かしい美貌と愛嬌を備えているわけでもない。
本当の私を知れば、きっと誰もががっかりするだろう。
何せ、私は百年に一人の天才と持て囃された稀代の魔導師である父を持ちながら、防御魔法しか使うことができないような出来損ないだ。
誰も彼もが、私がローヴァデイン公爵家の令嬢で、学園では一見優秀な成績を収めているから評価してくれているに過ぎない。
無力な私が積み上げたものはあまりにも脆く、容易く崩れてしまうものだ。
それを思うたび、私は薄氷の上を歩いているような気分になる。
足元から凍りつくような不安を和らげることができるのは、ロバートの隣にいる時だけだ。
彼の前では、私は公爵家の令嬢でも宮廷魔道師団長の娘でもなく、『幼馴染のマリー』でいられる。そう居ても許される。
それがどれほど嬉しく、愛おしいことか、ロバートはきっと理解していないだろう。そして、私がどれほど彼のことを好きなのかも。
ロバートは私のことを『好き』だと言ってくれるけれど、彼の『好き』には情念がない、と思う。
当然だろう。彼はあくまでも仲の良い幼馴染を哀れに思って、助けるために婚約を結んでくれただけなのだから。
そんな望みを抱くこと自体、ロバートの親切に対して失礼な話だった。
劇的な愛情など有り得ないし、それでも別に構わなかった。例え恋人のような情熱は向けられなくとも、家族として共にあれるのなら、こんなに嬉しいことはない。
そう思っているのに度々確認してしまうのは、私が弱くて狡いからだ。ロバートの声音に恋情を感じ取れたら、と期待する度にこの口は勝手な問いを言葉にしてしまう。
「ねえ、ロバート。私のこと、好き?」
「もちろん、好きだよ」
ロバートは何度聞いても、必ず笑顔と共に答えてくれる。それが間違いなく本心だということは、婚約者としての付き合いが長くなる内に自然と理解した。彼は一つも嘘を付いてはいないし、本当に私のことが『好き』なのだ。
その『好き』が、犬や猫に向ける親しみと同じであることに気づいていないだけで。
ロバートは、私が彼を好きかどうか、一度として聞いてきたことはない。多分、興味がないのだと思う。
私がロバートを好きかどうかなんてどうでもよくて、確かめる必要すらなくて、私はただ仲の良い幼馴染だから彼の隣にいることを許されているのだ。
ロバートがいつか、本物の恋に落ちる相手が出てきてしまったらどうしよう。
ロバートが愛するような女性だ、きっと私よりも何倍も素晴らしい人に違いない。そんな素敵で魅力的な女性が現れたら、きっと私なんかでは敵うわけがない。
────ごめんね、マリー。僕が本当に愛してるのは彼女なんだ。でも、君が大切なのも本当だよ。幽閉されて餓死だなんて辛いもの、これからも僕の妻として安全に暮らしてね。
美しく聡明な女性と寄り添い合うロバートにそんなことを言われる光景を夢に見ては、夜中に飛び起きてしまう。薄暗い部屋で一人汗を拭って、喧しく騒ぎ立てる心臓を押さえつける時、私はいつだって自己嫌悪に苛まれる。
ロバートのそばにいられるだけでいい。私の理性はそう言っている。でも、私の本能は、本当の心は、ずっと叫んでいるのだ。
私だけを見て、私だけを愛して、他の誰にも心を奪われないで欲しい。
そう出来るだけの魅力も持ち合わせていないくせに、なんて馬鹿なことを。愚かな自分にほとほと呆れ果ててしまう。
せめてこんな馬鹿げた本音を悟られないよう、私は今日もマリーディア・ローヴァデインとして精一杯の完璧な仮面を被って日々をやり過ごしている。それだけが、私に残された唯一の矜持だ。