第八話
上級精霊は、基本的には『存在すること』そのものを疎んでいる。
人間と関わることを楽しむ現世の精霊とは違い、彼らにとってはこの世に生まれ落ちたことこそが苦痛なのだ。
彼らは皆、己という存在を限りなく希釈し、世界と溶け合うことを目的にしている。
そんな彼らに、現世の事象に関わる願いを持ち掛ければどうなるか。
持ちかけた人間の脳を間借りして、『世界』の解釈を深めようと思考回路をぶん回すのである。
精霊の身では成し得ない世界という概念への理解。真理への到達によって自身を望んだ形へと希釈しようという試み。
大抵の上級精霊はこれをやる。本当に誰にでもやる。仮に〈落とし子〉が相手でなくても同じような仕打ちを受けたことだろう。まあ、そもそも会話を持ちかけられないのだから、無駄な想定ではあるのだが。
宇宙ってやつがある。この世には。
この世界の外側には、人間には永遠に到達できない未知が拡がっている。
世界を咀嚼し解釈しようというのは、その未知を、丸ごと脳に放り込まれるようなものだ。
発狂して死んでいないだけで奇跡のようなものだった。
まあ、簡単に言うなら、常に視界が回りながら上下に揺さぶられて明滅し、脳内でありとあらゆる存在が意味も通らない雑談を繰り返し、その上頭痛と酷い悪寒と耐え難い吐き気と絶え間ない関節痛が襲ってくると思ってくれればいい。
世界の真実ってやつは本当に、最悪の形をしている。『物語』とやらだった方が百倍マシだった。
もしも世界がこんなにも素晴らしい、冒険に満ちた表層に包まれていなかったとしたら、絶対に生まれてきたくなんてなかった。
「ロバート、大丈夫? お水はいる?」
「いらない……手を握ってて……とにかく……お願い……」
「ええ、わかったわ」
「ありがとう、マリー…………」
あと、マリーがいなかったら絶対に生きていたくなんてなかった。
事態が解決したあと、下手に話せない代償のせいで『正体不明の病』に呻き続ける僕を心配して、マリーはすぐさま駆けつけてくれた。
命に別状はなく、移る心配もない、と診断された(金を握らせて診察してもらった)ので今では普通に面会はできるし、マリーにだけは本当のことを話したので、彼女は幾分か安心した様子で僕のお見舞いに来ている。
世間一般では仲睦まじい婚約者同士なので、連日見舞いに来ていてもなんらおかしいことはなかった。
騎士団内では僕はエルフィン家に家宅捜索に入り込んだ際、違法薬物が宙に舞って、それを吸い込んだことになっている。上級精霊云々を伝えたところで、我が部隊の人員は信じてくれるだろうが、他所では本当に錯乱したと思われるのが落ちだからだ。
一応、このまま騎士団長が既定路線のため、『先陣を切った結果の負傷』とした方がマシなのである。
学園内ではエルフィン伯爵家の罪状については伏せられているため、僕は単なる体調不良で休んでいることになっている。
学園内の心無い人間なんかは、僕がサボって魔物討伐にばかり行った挙句、下手を打って負傷したのを誤魔化すための欠席だとでも思っているだろう。
善良な学生は多分、僕が父に叱られて謹慎を言い渡されたのだと思っている。実際、過去に似たようなこともあったし、何よりエルフィン家の事情が落ち着くまではそう思われていた方が都合がいいので、特に訂正する気もない。
ただあんまりにも評判が落ちすぎると、今度は騎士団長に任命する際に不都合が出る恐れがある。
父からも、在学中にそれらしい功績を上げろ、と言われてしまった。もちろん、表に出せるタイプの実績である。うーん。
まあ確かに、このままだとマリーの価値に気づいた公爵が、僕では見劣りする、と勝手に婚約者を変えかねない。
現にお見舞いに来るマリーも、とある日に『お父様は何も分かっていないわ』と憤慨しながら、有力な婚約者の提案を始めた公爵閣下の愚痴をこぼしていったことがある。
後ほど、事後処理の報告ついでにアルフレッド殿下から教えてもらったのだが、公爵がたじろぐほどの剣幕で、『私の婚約者はロバート以外にはいません』と宣言したそうだ。
マリーにとって、公爵閣下は永遠に越えられない壁であり、尊敬する父である。それはどんなに虐げられようと変わらない。
マリーにとって、自分が父より劣っている、というのは主観的に見ても客観的に見ても変えようのない事実だからだ。まあ、僕は後者は断じて否定させてもらうけど。
それでも、敬愛と恐怖を抱いた相手にも己の意見をはっきり口に出来るようになったのは、彼女がこれまでの生活で積み上げてきた努力と、その結果と、それによって築いた友人関係によって自信を得たからだろう。
もしもそのきっかけを与えられたのが僕だと言うのなら、それは大分、誇らしいことだと思う。
まあ、毎度のことながら大分ギリギリで、微妙に間に合っているか怪しい助け方しか出来ないのが僕なのだけれども。
「ゔゔ……おお……おわ……」
枕を抱き込んでまで呻き始めた僕の横に付き添うマリーが、心配そうに握った手に力を込める。
「……精霊様の落とし子というのは大変なのね。精霊様のお声が聞こえるだけではなくその身に宿せるだなんて凄いことだとは思うけれど……」
「全然すごくない……今すぐ帰ってほしい……無数の目玉がついている六本足のウサギがそこにいますか? いま 尊き紫炎にて幸せとは円環の果て、ミリナスの声 ミリナスの声ゔぇぇ……僕は、ああもう本当に、うわあ……最悪……」
「ロバート、大丈夫……?」
「全然大丈夫じゃない。頭とか撫でてほしい」
身体が弱っているとき、人はとても素直になるものだ。
もう十六歳にもなるというのに半分泣きながら呟いた僕に、マリーは少し戸惑いながらも、そっとその白く美しい手で僕の頭を撫で始めた。
「うれしいよ……ありがとう……」
「そう。良かったわ」
「ウサギいる?」
「いない、と思うわ」
「良かった」
何が良かったのかはさっぱり分からなかったが、とにかく良かった、と思った。
「ああああ……辛い……やっぱり生まれてくるんじゃなかった……こんな酷いことに……」
「ロバート、そんなこと言わないで、お願いよ。貴方がいなかったら、私とても悲しいわ」
「わかってるよマリー、生まれてきてよかった、ほんとだよ。良かった」
うわ言のように繰り返し始めた僕を見て、マリーは少し困ったように口元に笑みを浮かべた。あんまり信じてはいない様子だった。
本当に、心の底からの本心なんだけども。僕は毎度、何をしてもあんまり本気だと信じてもらえない。何が悪いんだろうね。顔かな?
『精霊の落とし子』は、基本的に一千年に一度、一人生まれるか否かという頻度で現れる。
名を馳せているものがそう呼ばれていただけなので、実際にはもう少し数はいたのだろうけれど、それでもこの世界に落とし子が現れることは少ない。
別に、特別な方法で産まれるわけでも、生誕を妨げる何かがある訳でもないのに。
ごく簡単に、普通の人間と同じく生まれてくる彼らがこの世にあまり現れない理由は至極単純。『生まれる前の世界』の方がよほど楽しいのだ。
天界と呼ばれるそこは、全てが満たされている。
美味しい食べ物も、温かい寝床も、なんなら遊び相手さえいる。
面白半分に地上を眺めていたっていいし、知りたいことがあったら地上で遊んでいる精霊に聞けばいい。
わざわざ生身の肉体を持って、地上に降りるような理由なんて一つもないのだ。
それこそ、自分の体で冒険するのが楽しそう、だとか、『人間』と恋をしてみたい、だとか、そういう思惑でもない限り。
僕の場合は、後者の動機は最初はなかった。
そもそもそんな感情を抱くほど情緒が育っていなかったし、僕が眺めている時の地上には、まだマリーは生まれてなかった。
そもそも僕がマリーを好きになったのは、八歳の時だったし。
八歳の夏。僕は高位貴族が集められた茶会でマリーと顔を合わせた。その頃のマリーはまだ淑女教育も始まっていなくて、快活で可愛らしい、普通の女の子だった。
有り体に言えば一目惚れだ。単純で、最も端的な恋だった。
この可愛らしい子と仲良くなりたい。
そう思ったので僕はマリーと交流が持てるように彼女の遊び相手に立候補した。
これがたとえば見目麗しい令息だったら警戒されていたかもしれないが、いかんせん僕の顔は素敵に素朴だったし、何より騎士団と魔道師団の交流についての思惑が多少働いていたので、僕は素直にマリーの友達になることができた。
おかしくなり始めたのはまさに、シャルロッテ公爵夫人が亡くなってからだろう。
ローヴァデイン公爵はもとより子供に興味があるようには見えなかったが、彼女の母親が身籠った息子と共に命を落としてからというもの、マリーには随分と辛く当たるようになった。
愛しい妻と跡取りを失ったのが余程ショックだったらしいけど、そんなのマリーの幸せのためには知ったこっちゃない話だ。捌け口を求めるにしても、もっとやりようがあっただろうに。
他家の問題に首を突っ込むことは、それこそ正当な逮捕状でもない限り難しい話である。
僕が勝手に会いに行ったことで、家庭内でのマリーの扱いが更に悪くなる場合だってあった。けれども、結果としては会いに行って正解だった訳だ。
放蕩息子っぷりを遺憾なく発揮して窓から入ってよかったよ、本当にね。
マリーに変なことを囁いたらしい精霊はまた気まぐれに何処か別の場所へ遊びに行ってしまったようで、ここ数年姿を見せていないようだ。
最初から変なことしないでくれれば良かったのに、と恨み言の一つでも言ってやりたい気分だったけれど、多分あの囁きがなかったらマリーは完全に心を押し殺してしまって、僕が自力で助けられるようになる頃には完全に手遅れになってしまったことだろう。
いくら落とし子だと言っても、肉体を持った存在になった時点で、別に何だって出来る訳ではないからね。
とにかく、これで憂いは一つ去った訳だ。
心底ほっとした気持ちで、尚も続く最悪の体調不良と真理の波に呻く僕を、マリーは慈愛に満ちた顔で見下ろし、そっと頭を撫で続けた。
暖かい手のひらの感触だけが、僅かに苦痛を和らげてくれる。
「……ごめんね、マリー……こんなことに付き合わせて……」
「いいのよ、ロバート。少しでも貴方の役に立てるなら、私はこんなに嬉しいことはないの。むしろ、何か他にして欲しいことはない?」
「じゃあ添い寝してほしい……あ」
言ってから、これは流石に不味ったな、と我に返った。脳のリソースが足りていないので、下手なことを口走ってしまう。
ごめんね、冗談だよ、と言おうと思ってなんとか傍に座るマリーを見上げた僕は、そこで真っ赤な顔で固まる彼女に気づいて、一瞬、ほんの一瞬、全身の不調が何処かに吹っ飛んだ気がした。
まあ、気のせいだったけども。愛は全てに打ち勝つ訳ではない。悲しい話だ。
悲しかったので、僕は無言でそっと、ベッドの中で横たわる位置を奥の方へとずらした。
療養用のベッドなもので狭く、結局0.7人分くらいのスペースしか空けられない。が、マリーは細いので、十分収まることだろう。
「え、……え、っと」
「あ。別に、嫌だったらいいよ」
実際、今の時点でも充分、満たされてはいる。ただ、追加で癒しがもらえるのなら貰っておくに越したことはないよね、という話だ。
幾分落ち着いた顔色で、それでもいつもよりはやや血色の良い顔で僕を見下ろしていたマリーは、やがて意を決した様子で寝具の合間へと潜り込んできた。
あ。いいんだ。
いや。僕としては嬉しいけども。大層。
そういえば昔、アルメール家の中庭で二人して寝転んで、怒られたことがあったな。
僕がマリーを連れ回していた頃だから、本当にずっとずっと前のことだ。
ぼんやりした思考と視界の中でそんなことを思い出していると、隣に寝転んだマリーも同じことを思い浮かべていたらしい。小さな笑い声が対面から聞こえた。
一応、若干の言い訳として、マリーの体に腕を回すようなことはしなかった。共寝をしておいてその程度の言い訳で許されるなと思うなよ、というのが僕の理性の主張だったが、残念ながら現状の僕の脳みそは半分以上お留守である。
「あのね、ロバート」
「うん?」
「ずっと……聞きたかったことがあるの」
「なあに、なんでも聞いてよ」
機密事項じゃなかったら何でも答えるよ、と付け足すつもりの文言は、途中でちょっとした呻き声に変わってしまった。
目を閉じたまま縋るようにマリーの手を握った僕に、彼女の手のひらからも柔らかく握り返される。
「ロバートは、私のこと好き?」
「好きだよ」
「……それは、その……い、……いやらしいこと、をしてもいい、って気持ちで?」
え、それこの状況で聞くの? 危なくない?
というのが、僕の素直な気持ちだった。
いや。だってさ。ほら。危なくない?
聞くにしても、ほら、もっと安全な場所で聞くべきじゃない?
別に僕が危険だと言うつもりはないけども。多分。
何に言い訳をしているのかも分からない気持ちになりつつ、何やら縋るようにして此方を見つめるマリーをそっと見つめ返す。
公爵家の御令嬢であり、生粋の箱入り娘なものだから、てっきり意味も分からずに聞いているのかと思ったのだけれども、どうやらそうでもないらしい。
要するにマリーが聞きたいのは、『自分は女性として魅力があるのかどうか』という話だ。
無い訳ないだろうに、と言うのが僕の本音である。
世の中にはありとあらゆる趣味嗜好が溢れているので、当然相手にあれがいいだのこれがいいだの注文をつけるのは多々あることだが、僕にとっては、今も昔もマリーが一番魅力的な女の子だ。
「してもいいの?」
「え」
「してもいいなら僕は大歓迎だけども」
「ほ、本当に?」
「嘘ついてどうするのさ、こんなこと」
「だって……ロバートはそういう意味で私を好きな訳じゃない、って思っていたから……」
少し掠れた声で、不安と喜びをないまぜにしたような響きで落とされた呟きに、僕はようやく、ああ、と合点がいく。
アルメール家では、『無理に女性に迫るような男は騎士道精神に反する』というのが幼少の頃よりの教えである。故に僕は婚姻に至っていない女性に性的な接触を図るのは大変に失礼なことだと思っていたのだが、良好な婚約関係においては、ちょっとの素振りも見せないのは不安を煽る行為だったらしい。
まあ、多分父の場合は僕があまりに突拍子もないことをしでかすので、他の息子より強めの縛りをかけていたのだろうけども。
なるほど。言葉だけ重ねてもどうにも上手く届いてくれない訳だ。
やっぱり伝え方というのは重要なもののようである。今度、グスティンにでも聞いてみるのがいいかもしれない。
ともかく、腑に落ちた安堵と共に、握り締めた手にそっと唇を押し当てる。
途中、頭痛のせいで無様な呻き声がこぼれたのでどうにも格好がつかなかったが、僕のような男が格好つけたところで大した効果もないので、とりあえず安心させる意味合いの口付けだった。
「ちゃんと好きだよ、ずっと昔からね」
囁いたところで流石に限界が来たので、僕はマリーの顔も見ないまま、ぐるぐる回る視界を放棄するように無理やり眠気を手繰り寄せた。
起きた後、マリーディアは何故か真っ赤な顔で涙目になりながら、「わ、私、はしたない娘だわ。淑女失格よ……」と震えた声で呟いていた。
共寝程度なら多分そんなに怒られないよ、と言っておいたけれども、マリーは何やら誤魔化すように言い淀むだけだった。
はて。一体何をそこまで気にすることがあるだろうか。
謎はしばらくしてから割と簡単に解けた。キスしようとするとあからさまに挙動不審になるので、「寝てないと無理?」と尋ねたら「気づいてたの?」と悲鳴のような声が上がったのだ。
この先はもっとすごいことするのにね、と冗談混じりに告げると、マリーは首まで真っ赤になって、まだ早いわ!と慌てたように離れていってしまった。何だか、前より物理的な距離が空くようになってしまってちょっと悲しい。
まあ、伝わっているのならば何よりである。




