第七話
『ちょっと学園を空けるけど心配しないでね』
近頃、ロバートは更に忙しくなったようだった。
寂しくはあるけれど、こういう時にこそしっかり己を律して勉学に励み、彼の力となるべく努めるべきである。
気を引き締め直して取り組むことにしたものの、はっきり言えば学園生活は順調の一言だった。
学友にも恵まれているし、社交の場でも一定の評価は受けている。進級も危なげなく済みそうだ。
リエナ様と友人になってからというもの、彼女の優秀さには舌を巻く思いだった。分かってはいたのだけれど、やはり近くで感じると段違いだ。
アマリリス様が早々にリエナ様を見直したのも、無理もない話だった。彼女の聡明さは限りがなく、深く鋭い。
一度、私が調合を間違えかけた魔法薬を複数の材料を足すことで元通りに整えてしまった時など、アマリリス様の口からも驚嘆の声が上がったほどだ。
「魔法薬とは材料と効能によって価格が決まるものですから、学園では適正価格で良質な物を作れる調合表が正しいとされています。ですが、採算さえ度外視すれば本来はありとあらゆる変化を持たせることが出来るのです」
何も驚くことではないかのようにさらりと告げるリエナ様に、私たちは数秒、言葉を失ってしまった。
確かに、材料費を無視した上で同じ効能を持つ魔法薬を作ることは出来る。でも、それはやはり既に研究されたレシピがあっての話だ。
今し方リエナ様がやってみせたように、「黒蜥蜴の尾を間違えて入れてしまったのですね、では星桂樹の枝を削って入れて追加で五分三十秒火にかければ問題はありません」と言うような、その場のアドリブで元通りの効能に調整するようなものではないのだ。
リエナ様にはあまりにも当たり前に出来ることだからか、どれ程のことをしているのかあまり自覚がないようだった。
どちらかと言うと、正しく自覚はなさった上で、あまりその価値に重きは置いていないようだった。
アマリリス様は少し笑って、「まあ、分かるよ。私も実践形式で打ち合うとよく言われる」と言ってたから、優れた方達にとっては慣れた視線なのだろう。
例えば、エリーシャ様もたまになんてことはない様子で周辺諸国の重鎮の奥方様や気難しい辺境女伯と良好な関係を築いていることなどをこぼして私たちを唖然とさせている。
この中で明確に取り柄がないのは、私くらいのものだろう。
ただ、この頃はこんなにも素晴らしい方々と交流が持てること自体が私の才能、というものではないのかしら?なんて思えるくらいにはなってきた。
「マリー様は、素敵な方です。そうですね、私が嫉妬で狂ってしまいそうな程には」
だって、私がつい弱音を吐いてしまうと、リエナ様は冗談めかして笑って、私の努力を褒めてくださるのだ。
何故だろう。父に幾ら褒められても、もはや私の表面を上滑りするだけなのに、彼女の言葉は私が幾重にも重ねた卑屈で重たい殻を破るようにして優しく暗がりを照らしてくださる。
ロバートが彼女と友達になってみるといい、と言った意味が、よく分かる。同じ女性として尊敬の出来る方に認められることは、私にとって確かな自信に繋がった。
近頃の私は、何だかようやく自信がついてきたようだった。
ロバートが聞いたら笑うことだろう。「やっと気づいたの?」と、いつもののんびりとした顔で。
そんな、穏やかな日々が続いていたある日。
私はリエナ様から、ひとりエルフィン伯爵家の別邸へと呼び出されていた。
きっと、普段であれば家に断りを入れ、正しく連絡してから訪ねただろう。
けれどもその時は、リエナ様の深刻な表情があまりに気がかりで、『マリー様にしか相談できない事柄があるのです』と真っ青な顔で囁く彼女の力になりたくて、私は言われるままに約束した屋敷へと足を運んでしまった。
「リエナ様?」
ドアベルを鳴らしたところで返事はない。ただ、屋敷の奥から物音はするから、人がいることは確かだった。
それにしては、あまりにも明かりに乏しかったけれど。
夕暮れに差し掛かった空が、屋敷に徐々に影を落としていく。外灯は、しばらく手入れもされていないのか、薄暗く頼りない明かりを明滅させるばかりだった。
なんだか、嫌な予感がする。私はどうしてこの場に一人で来てしまったのだろう。まるで、何かに導かれるかのように。
此処から離れなければ、と思うのと同じくらい、私を呼び出したリエナ様の姿が見当たらないことが気になってしまう。
扉に手をかけると、重厚な作りのそれは音を立てて開き────そして、中からはひょっこりと見慣れた顔が出てきた。
「ごめん、マリー。今ちょっと取り込み中」
「ろ、ロバート?」
「本当ごめん、とりあえず彼女のことよろしく」
「えっ、え?」
訳も分からず素っ頓狂な声を上げる私に、ロバートはいつもの調子で呟いて、小脇に抱えていた何か──リエナ様を、私の腕へと押しやった。
真っ暗な屋敷の奥から、獣のような唸り声が聞こえてくる。何か、恐ろしい、得体の知れない化け物の声だ。
青ざめた私が、それでも確かにリエナ様を支えたことを確かめると、ロバートは扉の隙間を窄めるようにして取っ手を引き、端的に言い残した。
「防御魔法張れる? 二人で庭に居て。しばらくしたらうちの隊のが来るから」
「わ、わ、分かったわ」
「ごめんね」
それは一体、何への謝罪なのだろう。訳も分からないまま、それでも彼の邪魔にだけはなりたくなかったから、私は素直にリエナ様を抱き抱えながら屋敷を離れ、門扉へと近づいた。
腕の中のリエナ様には、意識がない。身体はびっくりするほど冷たくて、私は一瞬、心の臓が止まっているのではないかと、恐ろしい予感に思わず彼女の脈と呼吸を確かめていた。
「リエナ様」
ロバートは庭にいて、と言った。ならば私が勝手に彼女を連れて此処を去る訳にはいかない。
私の防御魔法は、基本的には固定した状況でしか最適な効果を発揮しない。無理に移動するより、此処で騎士団の方を待った方がいい、ということだ。
何度か呼びかけながら、せめて私の体温が彼女を暖められはしないだろうかと、包み込むように抱きしめる。微かに呻いた彼女の唇がなんと呟いたのか、私には上手く聞き取れなかった。
△ ▼ △
「もう少し早かったらなあ、なんで僕っていつもこうなんだか……」
視覚情報を奪うために薄暗く灯りを落とした室内で、心の底からの自嘲を込めて呟く。
開かれた扉からマリーが覗いて来た時、本当に肝が冷える思いだった。
あと少し遅かったら、きっと彼女はリエナ嬢に誘われるままに屋敷に入り込み、帰らぬ人となっていただろう。
考えただけでぞっとするし、胃の腑が焼ける思いすらする。
が、激情に身を任せたところで、マリーの為にはなりはしない訳で。
この世の全てが剣で解決出来たら容易いのに、と思うことはよくあるが、父曰く、そう簡単には行かないのが世界というものだ、そうだ。
仰る通りだな、とは思う。この世界はあまりに不完全で、不条理で窮屈だ。そういうところが愛しいと思っているのだが、今回はちょっと、勘弁願いたかった。
明かりを落とした屋敷の中では、すっかり身の丈すら変わってしまった伯爵が、元気に暴れていらっしゃる。
上級精霊をやっとこさ説得し終えて取引を交わし、ああこれはやばいやばい、と屋敷に駆けて来たのが今から一時間ほど前の話だ。
そこには魔法薬で意思の奪われたリエナ嬢と、とっくのとうに正気を失った伯爵と、今日も元気に導きを与えている精霊がいた。
伯爵の方は、初めは割と理性的に話が出来ていた……ような気がしなくもなくも、なくもなかったが、僕が『ロバート・アルメール』だと名乗った途端、すっかり様子がおかしくなってしまった。
狂気の扉が開かれたかのように、止めどない妄言が溢れ出す。
「ああもう全く、どうしてこうなったんだ? 僕が何をしたというんだ! ただ君を愛しているだけなのに、全てが奪い取られていく! 僕は幸せになりたいだけなのに!」
「あの男のせいだ! 全て、全て、彼奴のせいで僕はずっと苦しめられていた!」
「大丈夫だよシャルロッテ、これでようやく君が僕のものになるんだ。取り戻せるんだよ、やり直すんだ、僕らの幸せな生活を」
獣のような唸り声に混じるのは、ローヴァデイン公爵閣下への憎悪と、シャルロッテ夫人への執着、そして紛れもない自己愛だ。
伯爵が見えているのは、もはや今ではない。今の栄光も、功績も、彼にとっては意味がないのだ。
ガーシアル・エルフィン伯爵は、シャルロッテ・ローヴァデイン────否、シャルロッテ・リラフラー公爵令嬢だけを求めている。
彼にとっては初恋の愛しの人を手に入れることだけが目的であって、それ以外はてんでどうでもよろしいのだ。
彼がマリーディアを求めたのは、『シャルロッテの身体』とする為だった。死者の霊魂を呼び戻し、新たな肉体を与える禁忌の魔法。
精霊の囁きは、彼に知恵と肉体の限界を超越する魔法薬と、その結果得られる際限の無い探究を与えたらしい。
エルフィン伯爵は最初、シャルロッテ夫人の遺体を墓から掘り起こそうとした──というのが僕が関わった調査では明らかになった事実だ。
けれども、暴いた墓には夫人の遺体は無かった。暴かれた墓にではなく、暴く前の墓に遺体が無かったのだから、まあ、要するに、初めから『入っていなかった』のだろう。
誰がそれをしたのかなんて考えるまでもない。埋葬を偽装出来る人間なんて葬儀を取り仕切る当主くらいのものだ。
全く、執着とはかくも悍ましきものか。彼女の遺体はおそらく、今はローヴァデイン公爵家の有する屋敷の何処かにあることだろう。きっと、亡くなった嫡男の遺体と共に。
公爵夫人はどうにも、ある一定の層には抜群に刺さる、気を狂わせる程に魅力的な御婦人だったようだ。エルフィン伯爵も、ローヴァデイン公爵も、彼女の為だけに生きているかに等しい情を抱いている。
親世代の情念が拗れに拗れている、というのは、僕らにとってはかなり厄介だ。子供というのは、親の影響を最も近くで受ける羽目になるし、なんなら被害だって一番酷くなってしまう。
我が父が今も昔も母君一筋であることは、アルメール家にとっては確かな幸運だったと言えよう。僕が父を尊敬しているのは、剣の腕以外にもそういう面で極めて誠実だからである。
「君だって本当は僕を愛していたんだろう? そうだ、僕らは惹かれあっていた! それをあの男が、権力を使って君を無理矢理手にしたんだ!」
哀れなのはエルフィン伯爵夫人だ。ガーシアル・エルフィンは、真に公爵夫人を愛していたのなら、それこそ研究を理由に婚姻など遠ざけて独身を貫き、養子でも取って家の役目を繋げばよかったのだ。
まあ、ローヴァデイン公爵は恋敵がいつまでも独り身でいるのを許すような男ではない訳だが、そこで押し負けた時点で夫人のことは諦めるべきだった。
政略と、あとは乙女の望みを唆したことによって上手いことエルフィン伯爵家に当てがわれた侯爵家の令嬢は、確かにガーシアル・エルフィンを愛していた。
愛されないとは知りながらも、己の献身によって心変わりしてくれると。恋ではなくとも、愛を育むのとは出来たはずだと。
それは儚く尊く、そして愚かな夢だった。結局は伯爵夫人も、最後には気がおかしくなってしまったのだろう。
あるいは、エルフィン伯爵の元にやってきた精霊が、もう少し色恋沙汰に興味や関心があれば良かったかもしれない。そしたら、ある程度のことは『都合よく』済んだだろうに。
まあ、魔法薬の才に惹かれてやってきただろう精霊に、人間の心の機微を理解しろという方が難しいか。
「シャルロッテ、君は僕と結ばれる運命だったんだ、僕こそが君に相応しい、知っているはずだよシャルロッテ、君はいつだって、いつだって本当は僕を、僕こそを愛していた!」
なりふり構わずに襲ってくる相手を殺さずに拘束するのは、だいぶ骨の折れる作業である。
しかも婚約者の友人の父親ともなれば尚更だ。
振るう剣は、鞘がついたままのものだ。間違って脳天をかち割ったりでもしなければ、余程のことでは死にはしない。骨は折れるかもしれないが、娘に薬まで盛り、未遂とはいえ公爵令嬢に危害を加えようとしたのだから、そのくらいの負傷は覚悟していて当然だろう。
彼にはまだ、生き残ったまま当主として退き、リエナ嬢に家督を譲ったあとに『持病の悪化』で『領地に療養』に向かう仕事が残っている。
にしても。すごいな。ちょっとした上級の魔獣くらいの強さはある。
精霊の囁きを得たこと自体は、彼にとっては最大の幸福だったことだろう。向かう先があまりにも酷かった、というだけで。
両足の脛を打ち、襲ってくる形を失った腕を仕留めて、転がった身体を見下ろして語りかける。
「ガーシアル・エルフィン。精霊はもはや貴方には力を貸すことはないでしょう。少しでも娘への情があるのなら、諦めて全てを受け入れてください」
最後に対話だけでも試みてみようかと思ったが、伯爵はやはり、呻くような声で公爵夫人の名を繰り返すばかりだった。
思わず、溜息混じりの吐息が溢れてしまう。これは彼に向けてというより、僕自身に向けてのものだ。
もっと早く上級精霊を納得させる取引が用意出来たなら、リエナ嬢が薬を盛られるようなことにはならずに済んでいただろう。
命に別状はないだろうが、実の父に精神汚染の魔法薬を盛られる経験なんて、しないで済むならそれに越したことはない。
このところ、マリーから送られてくる手紙には確かな自信が培われているように思えた。
その要因にリエナ嬢と育んだ友情があることくらい、綴られる文面を読めばすぐに分かる。
マリーの大事な友人を無傷で救えなかったのは、どう考えたって僕の落ち度だ。
「…………はあ」
転がった身体の四肢を専用の拘束具で縛り上げてから、ようやく屋敷の明かりを点ける。
照明の下で見る伯爵はもはや人間と言うよりオークか何かのように見えるほどに変貌していたが、魔力性質による本人確認は可能なので問題はない。
ごちゃついた室内を見回し、明滅する右半分の視界を押さえるように手を添えてみる。が、この場合の視界不良は視力によるものではないので、あんまり意味はなかった。元気に明滅している。
庭に出ると、既にマリーとリエナ嬢の姿はなかった。代わりに、派遣された第一部隊が屋敷の封鎖をしている。僕より余程仕事の出来るグスティンが指揮を取っているのだから、二人は無事に療養院に届けられたことだろう。
「隊長。何処か負傷を?」
「あー、これは副作用みたいなものだから……いや、前症状って言った方がいいかな」
各隊員に指示を飛ばしていたグスティンに、捕縛した伯爵の連行を頼む。押さえた片目から零れ落ちる血液に気づいたグスティンは、気の抜けた笑みでよく分からない説明を口にする僕に、魔法薬による錯乱を疑ったらしい。騎士団所属の治癒術師を呼ばれてしまった。
もう少し上手く取り繕えればよかったのだが、残念ながら今の僕は前払いとして脳味噌を半分貸している状態である。言い訳に回す分の脳のリソースがなかった。
仕事はした、と主張するように、上級精霊が周囲で明滅している。その通り。仕事は的確かつ迅速だった。
伯爵がいる現在地を教えてくれた上に、どういった状況であるかも僕の脳を通して観せてくれた。伯爵に協力する精霊の力を蹴散らして、スムーズに屋敷に突入できるようにしてくれたのも有り難い。彼(あるいは彼女)の協力がなければ、きっと解決することはなかっただろう。
けれども。そうか。前払いでこれかあ、というのが、僕の本心ではあった。
ちょっとした取り立て屋みたいだな、と思いつつ、僕は一応は『精神異常はない』と診断された上で、マリーたちと同じく療養院へと送られることになった。
さて。
その後はどうなったのかと言えば。
リエナ嬢は魔法薬によってもたらされた毒性を身体から抜き、意識を取り戻した後に事態の全貌を知ることとなった。
当然、彼女は愛憎の入り混じった敬愛を向けていた父の仕打ちとその末路に、酷いショックを受けたそうだ。
どれだけ虐げられたとしても、リエナ嬢は実父への愛を捨て切れなかった。それはきっと、エルフィン家を継がなければならないことも関係していたのだろう。
絶対に逃れられない責任を背負うのであれば、少しでも嫌悪感を少なくしたいと望むのは人間の本能だ。
これは自分が望んで受け入れたことだ、と思い込みたい。家名というのはこの先一生背負わなければならないのだから。
けれども、今回ばかりは流石に許容量を超えていた。寛解し意識を取り戻した彼女はこの一連の話を聞いたあと、酷い錯乱状態に陥った。
限界に近いリエナ嬢の精神状態を支えたのは、マリーだったそうだ。
マリーとリエナ嬢は、確かに境遇だけ見ればよく似た人生を歩んできた。そして互いに、その重圧に押し潰されそうになりながらも、血反吐を吐くような思いで耐えてきたのだ。
壊れてもおかしくなかった人生を決死の思いで歩んできた二人なら、盟友とも呼べる親友になれる筈だとは思っていた。
リエナ嬢は、マリーの存在によってなんとか平静を取り戻したそうだ。よかったなあ、と思ったし、やっぱりマリーはすごいな、とも思った。
マリーに言わせると『あの日ロバートが私を助けてくれたからこそ、私も誰かを助けられた』のだそうだけれど。それはちょっと、僕を買い被りすぎではないだろうか。
まあ、役に立てたのなら何よりだった。
ところで、なんで伝聞なのかと言えば、あの後の僕は無事にぶっ倒れたからである。




