混乱 その2
「アネット様、お身体は大丈夫でございますか?」
エルはわたしに手を貸して、立ち上がらせてくれた。ゼル様に付けていただいた首輪と鎖にはかなり重さがあり、じゃらりと鈍い音が鳴った。
これはふたりの愛の重さなのだ。
わたしは動揺している様子のエルに戸惑いながら尋ねた。
「ええ、身体はすこぶる好調よ。ところで、皆様どうなさったのかしら。このお部屋はわたしは勿論のこと、エルもシャザック伯爵も入室を禁じられていたのではなくて?」
わたしは、夫婦の秘め事をフライングで進めたくなってしまったゼル様に、情熱が導くまま連れ込まれてしまったのだけれど、あくまでも部屋の主の意向に沿っている。けれどエル達の場合は、遮る扉を全部破壊しながらの不穏な入室なのだ。お咎めがないといいのだけれど……。
もしや、何か緊急事態が起きたのだろうか?
ゼル様はと見ると、布で鼻の辺りを拭ってからさらりと髪をかき上げていて、元の無表情に戻っているがその麗しさは更に増しているように見える。そして、エル達の無礼に腹を立てている様子もない。
ああそれにしても、そのままラグジュアリーなシャンプーのコマーシャルに出られる程のキラキラサラサラヘアーでいらっしゃるわね!
さすがはわたしの一推しの魔王様だわ。
一推しもニ推しも三推しも、わたしの推しはぜーんぶゼル様だけど! 好き! もう、超好き!
魔力がたっぷりと含まれた銀の髪は妖しい虹色の光を反射していて、夢のような美しさで、思わず手を伸ばして触れたくなる。あの一部が今、わたしの首に絡みついていると思うと、ふたりの絆の表れのようで嬉しい。どんな宝石よりも尊くて喜ばしいプレゼントである。
わたしが嬉しい気持ちでその首輪をそっと押さえて「ふふっ」と笑うと、エルはとても不機嫌になった。
「お身体にお触りがなくてよろしゅうございました。それにしても、このようなふざけたものを、アネット様に付けるだなんて……」
「あっ」
エルが大切な首輪を両手で握って外そうとするが、びくともしない。
「何をするの、エル。これはゼル様が魔力を込めてお付けになったものだから……」
「それは我にしか外せないし、外すつもりもない」
素敵に色っぽい流し目(眼球を七ミリ動かしただけだけど、わたしにとっては意味ありげな流し目なのよ、ゼル様セクシー!)をこちらに向けて、ゼル様は低い声で言った。
「アネットは我のものだからな」
うわあああああん、カッコいい!
俺のもの宣言、頂きました!
ちょっと悪い感じに、冷たい笑いを漏らすゼル様が無限大にカッコよくて、わたしはこの場でキュン死しちゃいそうよ。わたしのツボを心得ていらっしゃるわ、さすがはわたしの唯一の推しね。
思わず見惚れていると、すぐにわたし達の間に割って入ろうとする、まるで小姑のようにうるさい影男のシャザックが喚いた。
「そうですよ、部屋に若い男を引き込むような不埒な婚約者など、首に鎖をつけて窓から吊るしてしまえばいいのです!」
「吊るされたら死んじゃうでしょう!」
なんて事を言うのかしら、この人は!
わたしは逆さ吊りのシャザックに思わず突っ込んだ。
死ぬ一歩手前のハードプレイなんてごめんだわ。シャザックったら、これ以上のハードさを求めているのね。影男は吊るされたくらいでは命に別状はなさそうだから、エルに言って窓から下げてあげようかしら?
そして、窓を閉めてしまうの。
わたしはか弱い人間の女性だし、これから夫婦で温かい家庭を作り上げなければならないから、貴方に付き合っていられないのよ。
「あと、若い男ってなんですの? 王宮に泥棒でも入りましたか? ゼル様とわたしの貴重な時間を邪魔する程の事件が起きたというなら、ご説明くださいませ」
わたしは毅然として言った。
もしかしたら宰相は、特殊プレイに混ぜてもらおうとしてやってきたの? そのような理由だったら許さなくてよ!
だが、シャザックは「はんっ、なんて白々しい事を! いいですか、わたしはこの目で見たんですよ、男子禁制の筈の貴女の部屋から若い騎士が出てくるところをね!」と喚いた。うるさい小姑……いや、もはや姑と言っても良いかもしれない。
そんなシャザックに、いつも笑みを浮かべて穏やかで、精神の安定力がピカイチのエルが、珍しくイライラしながら言った。
「だから何度も言っているでしょう、シャザック殿。それは誤解でございます」
「ふふん、誤魔化そうとしても無駄ですね、わたしも陛下も騙されませんよ!」
……どういう事?
わたしの部屋から若い騎士が出てきて、それが男性?
わたしはゼル様を見た。
すると、ずっと無表情だったゼル様の顔のパーツが数ミリ動き、哀しげな陰を浮かべた。
「ゼル様、もしや貴方は……」
わたしの背中を不安が走った。
待って。
つまり、それは、わたしが浮気をしたと……そういう話なの?
ゼル様とシャザックは、わたしが不貞を働いたと疑いを持っていて、この首輪と鎖はゼル様の特殊な性癖でお楽しみの為に付けたものではなくて……。
「エルエリアウラ様ーっ、ミーニャが戻りましたにゃ! ちゃんと黒薔薇の騎士様をお連れしましたにゃ!」
ここまで扉を破壊されているからなのか、ミーニャがまったく遠慮なくゼル様の私室へと入ってきた。そして「わあ、乱闘でもあったのですかにゃん」と、荒れた部屋を見て驚いた。その後ろには、お帰りになった筈のラミア姫が続いている。
「ミーニャ、よく戻りましたね」
いつもの穏やかさを取り戻したエルが「黒薔薇の騎士ラミア殿、こちらへ」と、眉を顰めて状況を把握しようとしているラミア姫に言った。
「ゼルラクシュ魔王陛下、宰相シャザック伯爵、改めてご紹介申し上げますわ。こちらはアネット様付きの女性騎士に任命致しました、黒薔薇の騎士こと蛇一族の姫でいらっしゃる、ラミア殿でございます」
ラミア姫……いや、騎士ラミアは、背筋をピンと伸ばしてから跪き、右手のひらを左胸に当てる騎士の礼をしてよく通る声で言った。
「畏れながら、偉大なる魔王陛下のご婚約者殿をお守りする栄誉を賜りました、蛇一族のラミアにございます。誠心誠意、アネット様をお守り申し上げることをお誓い致します故、何卒よろしく申し上げます」
「んな……馬鹿な……では、わたしが目撃したのは……」
逆さ吊りのシャザックは、ぽかんと口を開けて間抜けな顔になる。
「そなたは……ラミア……姫……では、ないか」
元々白い顔がすべての血の気を引いたように真っ白にしたゼル様は、言葉を絞り出した。
「なぜ騎士の姿などしておるのだ。蛇一族は、確かに腕が立つが、人間の妃を娶る事をよく思っていなかったのではなかったか?」
「はい、ですがそれは、我々の不徳の致すところでありました。アネット様のお人柄に触れて、わたしは心を入れ替えましたし、この事は蛇一族にも伝えて今後は不敬な態度や発言をする事のないように徹底致しますので、どうかご容赦賜りますよう」
騎士ラミアは謝罪の意を込めて、更に深く頭を下げた。
そして、頭を上げると、切れ長の瞳でキッとゼル様を睨みつけた。
「それで、我が主のこのお姿には、いったいどのような訳がございますのでしょうか?」
「くっ、そ、それは……」
口籠るゼル様の言葉に被せて、エルが静かに言った。
「これはですね、騎士ラミア殿。どこかのお馬鹿さんが、凛々しい貴女の姿を目にして若い男性だと思い込み、アネット様についての不名誉な憶測を、これまたどこかのお馬鹿さんに吹き込み、そのお馬鹿さんが暴走して我々の大切な姫に口にするのも憚られるような振る舞いをしたのですわ」
シャザックもゼル様も、紙の様な真っ白になった顔でわたしを見ている。
「ほほう。妾が主と認めた純真無垢な姫に、そのようなふざけた振る舞いをした愚か者がおるというのじゃな。エルエリアウラ殿、この場合は、アネット姫の騎士たる妾が……その名誉を守る為に……不届き者達を断罪する資格があると……」
すっかり騎士になりきったラミア姫のわたしに対する評価が爆上がりしていて驚く。
全然純真無垢などではなくてごめんなさい。
騎士ラミアの右手に魔素が凝集して、ぎらりと光る細身の片刃刀が具現化した。この円月刀がラミア姫……じやなくって、騎士ラミアの魔法の能力なのだろう。
「ひいっ、お、王宮で剣を抜くのはっ、犯罪ですよ、不敬罪ですよっ」
ミノムシのようになったシャザックが、ばたばた暴れながら震える声で言った。しかし、エルは上品に笑った。
「ゼルラクシュ魔王陛下の正式な婚約者であり、セルニアータ国の伯爵令嬢であるアネット様は、現在の王宮において魔王陛下の次に高い身分をお持ちですわ。そのアネット様に不名誉な疑いを持ち、屈辱と苦痛を与えた罪は万死に値します。よって、アネット様の筆頭騎士たるラミア殿には主の名誉の為に剣を抜き、事の元凶を断罪する事が許されますわ」
「そうじゃな、合法じゃ。というわけで……アネット姫、どうされたのじゃ?」
わたしが首輪を両手で掴みながら静かに涙を流しているのに気づいた騎士ラミアは、素早く円月刀を消すとわたしに駆け寄り、肩を抱いた。
「ラミア様、わたし……わたしは……悔しくてたまりませんの」
「よし斬ろう」
「それはお待ちくださいませ!」




