異変 その2
エルに躾けられ……ではなく、諭されて冷静さを取り戻したゼル様は、何事もなかったかのようにわたしをエスコートして玉座に連れて行き、そのままわたしを膝に乗せて座ろうとした……待って、ゼル様の冷静さ、どこ行った?
孤高のクールキャラである筈のゼルラクシュ魔王陛下の新たな一面を見て、広間にはざわめきが起こる。
その時、怪しい視線を感じたゼル様が動きを止めた。
「陛下あああぁぁぁ、段取りををを」
「ひっ」
わたしは思わずゼル様の腕に縋り付いてしまう。
すごい形相の影男が、玉座の座面から顔を出していた。眼鏡イケメンの顔面クッションである。
「どうか段取りを、お守りくださいませぇぇぇぇ……」
顔はそう言いながら座面に沈んでいき、玉座は普通の椅子に戻った。
「……ふむ」
これにはさすがのゼル様もちょっと驚いたようだ。
こうして、宰相の身体を張った努力によりゼル様の暴走は阻止されたのだが。
もしかすると、まさかの話だけど、シャザックは本当は顔面でゼル様のお尻を受け止めたかったのかしら?
正直言って、わたしはゼル様の人間椅子や足置き台になっても構わないと思っている。至高の存在である推しにご満足頂けるのなら、それがわたしの喜びなのだから。
全人生と全財産を投げ打っても、推しのためならそれは決して犠牲ではなく幸福だ。生涯を終える時に浮かぶのが推しの晴れ姿ならば、わたしは笑顔で目を閉じて逝こう。
しかし、そんなわたしでも、顔面クッションになる事は思いつかなかった!
推しのお尻を、段々顔に近づいてくる、お尻を顔で……そんな、背徳感が大き過ぎて無理だ、わたしには難易度が高い。
けれども、シャザックには違うようだ。
推しと同性だから、わたしとはお尻の捉え方が違うのかもしれないかもしれない。
ずいぶんとマニアックな推し愛の手段だと思うけれど……性癖は人それぞれで、愛情表現もいろいろだから、わたしは否定しない。他人に迷惑をかけなければ良いと思う。
座るのをやめたゼル様は不満そうだが、アランダム国の作法には人前で婚約者をお膝に抱っこ、などというものはない。
「どうぞ、ご紹介をお願い致します」
わたしが小声でお願いすると、彼は雛壇の上から冷たい視線で会場を見下ろした。
下々の者を見下すような傲慢な仕草も、ゼル様の魅力をアップするスパイス!
カッコいい!
ハアハア、ハアハア!
しんと静まり返った中に、ゼル様の超絶悶絶セクシーダイナマイトイケメンボイスが響いた。
「よって、セルニアータ国アネット・シュトーレイ伯爵令嬢は、我の婚約者とあいなった」
そして、頷く。
なんてシンプルな宣言でしょう。
省略が酷過ぎて何がどうなって婚約したのかがまったく伝わらないけれど、偉大なるゼルラクシュ魔王陛下の言葉だからアリ!
アリなのですよ!
何をやってもカッコいいゼル様だから、決して手抜きには見えない……はず。
わたしは無言になってこちらに注目するお客様方に「どうぞよしなに」と淑女の礼をする。
わたしは陛下の正式な婚約者であり、婚姻後は王妃となるのだから、魔王陛下以外の者に頭を下げるのはこれが最初で最後となるのだ。
そう、婚約者!
最愛の推しの婚約者!
そして、ゼル様のお嫁さんになるの!
嬉し過ぎるうっ、嬉し過ぎて鼻血が出そうだけどもう出しちゃ駄目ーっ!
そんな喜びの気持ちが溢れて顔面の筋肉が蕩けてしまい、顔が微笑みではなく思いきり笑顔になってしまった。
そんなわたしの頬を、隣に立ってずっと見つめていたゼル様の手のひらが包み込んだ。
「……可愛過ぎる」
「ゼル様」
「今宵のアニーは特に美しく愛らしいというのに、そのような顔をしたらいかん」
「あ、ゼル様、お待ちになって」
「待てぬな」
片手が両手になり、そっとゼル様の方に引き寄せられて、そのまま口づけを……。
「それではーっ、我らが偉大なる大魔王であらせられるゼルラクシュ国王陛下と、その御婚約者となられた美しく気高き姫君、アネット・シュトーレイ伯爵令嬢に、今宵のファーストダンスをご披露いただきたく存じまーすっ!」
いつの間にか楽団の前に移動していた宰相が高らかに叫び、演奏の合図を出した。舞踏曲が流れて、動きを止めたゼル様が「ふむ」と宰相を睨む。
影男は影と影との間を転移して、素早く移動することができるのだ。睨まれた宰相は魔王陛下を畏れ、また転移を繰り返してどこかに隠れてしまった。
「陛下、アネット様、どうぞこちらへ」
エルが手を伸ばすと玉座付近に飾られていた花々が花瓶から溢れ出して咲き誇り、わたし達の為の花のアーチが出来上がった。
「まあ、とても素敵だわ」
わたしが笑顔でゼル様を見上げると、仕方なさそうに「ふむ」と言ったゼル様がわたしの手を取り、会場への中央へと進んで行った。
わたしはゼル様とファーストダンスを踊り、夢のような一夜を過ごした。
タイトルを付けるならば『このパンダには触らないでください』である。
アランダム国には婚約しているカップルは二曲連続でダンスを踊る慣習があるというのだが、ゼル様は二曲終わるとわたしを連れてさっさと玉座の雛壇に戻ってしまった。そして舞踏会が始まったのだが、わたしは玉座の横にあつらえた王妃の椅子に腰かけて、雛壇の下に押し寄せる人達を見ながら首を傾げて過ごした。
時々小さく手を振ると「うわあ」とか「きゃあ」とかの喜びの声が上がる。どうやら魔人の住むアランダム国では人間が珍しいらしくて、パンダを見学に来たような状態になっているのだ。
お父様の言っていた通りに、アランダム国民は人間と仲良くしたくて仕方がないらしい。
そういえば、ミーニャもメイド女子達も、わたしの側仕えになった事を知り合いにものすごく羨ましがられていて、なんでもいいからエピソードを教えて欲しい、持ち物とか食べ物の好みとか好きな花とか小さな事でもいいから知りたいと、お茶会の誘いやら友人の訪問やらで大変な事になり、家に帰るのを諦めて王宮で暮らしていると言っていた。
休みを一日も取っていないので、心配してミーニャ達に尋ねてみたら「アネット様の個人情報を、みだりに漏らすわけにはいかないにゃん。うちに帰らないのが一番にゃん」「そうですわ! アネット様のお側でこんなに楽しく過ごしていたら、家に帰りたくなくなるというのもありますしね」「なんでしょうか、吸引力のようなものがあると申し上げるとよろしいのかしら?」「あと、魔王陛下との恋物語を間近で見られるのですもの、一瞬でも目を離したくございませんわ!」「きゃあっ、確かに!」「にゃんにゃん!」ときゃっきゃうふふ状態になってしまった。
もしやわたしは、『アランダム国民全員から推されている』という事?
……荷が重い気もするけれど、それが王妃の役目であるならば、ゼル様の為にもがんばりますわ。
いや、違う。
今や雛壇の前にはエルが蔓を伸ばして作った見学用通路ができていて、シャザックが「押さないでください、順番に、立ち止まらないで前の人に続いて進んでください」と誘導しているけれど。
その列に入らずに、遠くの方からじっとこちらを眺めている人物に、わたしは気づいた。




