魔王もがんばっている その2
わかっている。
ゼル様のお側にいるためには、わたしの激しい萌えと乙女心をしっかりと抑制する必要があるのだと。
推しと同じ世界で生きるというのはそういう事なのだ。
わたしはもう、推しの素敵なワンシーンを目撃しても「うわああああ尊過ぎて目が潰れるかと思ったよおおおお激しい萌えが心臓を鷲掴みにしてぶしゅううううーっって死んでしまうがな!」などと、思いの丈をボケツッコミにして叫ぶ事は許されないのだ。
そんな事をしたら気が触れたと思われて即、隔離監禁の憂き目に会うに違いない。ゼル様の事を妄想するだけの日々を石造りの高い塔に閉じ込められて送り、それで一生が終わるなどという運命はごめんである。
今だって、ゼル様が焦げ茶と緑のファッションを世界一素敵に(きゃ♡)着こなしている姿を目にして、勝手にわたしへの愛を感じ(いや、思い込みだとわかっている。孤高の魔王であるゼル様がそんな事をなさるわけがないし、わたしなどその辺の椅子と同じくらいの存在にしか感じていないだろう。でも妄想せずにはいられないのだ)嬉しさと恥ずかしさと鼻血への警戒心で身悶えたいところだが、アネット・シュトーレイ伯爵令嬢は萌えを叫んではならない。
気持ちが昂っても表に出さず、お上品に口元を隠してほんのりと頬を染めるに留めるのがお嬢様のマナーなのだから。
そんなわたしは心の中の乙女たちの手綱を取り、粛々と目の前の婚約手続きに集中せねばならぬと自分に言い聞かせる。
というわけで、わたしはエルの言葉に含まれた意味など何も気づかないふりをして、ゼルラクシュ魔王陛下の前に進むと淑女の礼をし、頭を下げたまま陛下のお言葉を待った。
「ふむ。その色は似合っておるな」
無表情のままで、この世の宝玉を全て集めて形作られたような光り輝く尊い魔王陛下は、なんと、わたしにお優しい言葉をくださった!
この、わたしに!
衝撃のあまり、お高そうな絨毯が敷かれた床を穴が開くほど見つめる。
麗しの魔王様、餌を与えないでください、鼻血が出ちゃうから!
わたしの自制心を揺さぶらないで!
……だが、これはおかしい。
『魔王ゼルラクシュ』のキャラクターが違う。
「面を上げよ」
顔を上げたわたしが驚きに目を見開いて、何もかもを見通しているような透き通ったその瞳を見つめると、彼はドレスとわたしと髪の薔薇をちらりと見やり、頷いてからわたしから目を逸らした。
「魔王陛下の瞳のお色を表したドレスを作らせましたの」
エルがにこやかに言うと、ゼルラクシュ魔王陛下は「良い仕事である」とエルを誉めた。
……って、え?
いやこれ、絶対におかしいから!
お互いの色を身にまとい、まるで心が通じ合ったカップルの様に目配せなどされたら、推しに会えて頭がエル以上に華やかなお花畑になったわたしは勘違いをしてしまいますよ?
いいんですか?
いいんですかゼル様もう容赦しませんよ、この募る想いと果てない萌えをゼル様人形でなく生身のあなたに……。
と、わたしの妄想が暴走しかかった時、調印の間に、ひょおっ、と奇妙な声が響いた。
犯人はシャザック伯爵らしい。
「どどどどどうしちゃったんでしょうかこのお方はっ、魔王陛下が女性の外見を褒めるだなんて世も末ですしドレスの色がどうしたこうしたってなんですか世界の終わりがやって来るんですか、ああ終わったもう終わったアランダム万歳皆さんさようなら」
彼も『魔王陛下がおかしい』に一票を投じたようだ。
彼が派手に驚いてくれたおかげで、逆にわたしは冷静になった。
ありがとう、ちょっと陰険なところが魅力なシャザック伯爵。
そして、些細な仕草でわたしの心をこれ程までに乱してしまうゼル様は誠に罪なお方。改めて惚れ直してしまう。
そういえばこの影男、頭が下がっていくので段々と背が縮んでいるのかと思ったら、なんと床に潜っていくところであった。
自分の身の安全だけを確保しようとは、ブレない狡さである。
しかし立派な宰相として、魔王陛下が御乱心になっても逃げ出さないでもらいたい。
エルの髪から緑の蔓が伸び、シャザック伯爵の首に絡みついて容赦なく引き上げた。いわゆる首吊り状態なのだが大丈夫なのか。
「シャザック殿、影に沈む振る舞いは失礼ですわよ」
首を絞められた宰相は、ぐえ、と変な声を出したが、さすがは影男、たいしたダメージはなかったようで安心した。床の影の中から引っ張り出されたシャザック伯爵は、喉を摩ってから眼鏡を直した。
彼がいないと諸々の手続きが進まないので困ってしまう。
やるべき事が終わってから、好きなだけ影に潜ってもらいたいと思う。
その後は、すべて順調に終わった。魔王ゼルラクシュ陛下が先に書類にお名前を書き、その下にわたしが震える手で『アネット・シュトーレイ』とサインをすると、婚姻予約の書類はくるっと丸まり光のリボンで結ばれた。
どうやらこの誓約書も魔導具であるらしい。
「以上を持ちまして、おふたりは正式な婚約者同士となりました。結婚式に向けて共にお歩みいただき、良きご夫婦となられます事をお祈り申し上げます」
冷静さを取り戻したシャザック伯爵が綺麗にまとめ、わたし達はつつがなく婚約を結んだ。
「アネットよ」
「はい」
わたしは背の高い魔王陛下を見上げた。
この方が、この素晴らしく凛々しい男性が、わたしの婚約者だなんて。胸の中の乙女達が花のワルツを踊り出す。
ほとんど表情のない、精巧な美術品の様なゼルラクシュ魔王陛下は、尊大にわたしを見下ろして言った。
「無事婚約が整った」
「はい」
「我の私室には、婚姻を結んだ我が妃のみが女性として入る事が許される」
「そうなのですね」
「我が私室の隣には、王妃となる者の部屋が用意される事になる」
「はい」
それはあらかじめ聞かされている。
でも、なぜ今、陛下直々にその話をなさるのだろうか。
「ふたつの私室の間には、共用の居間がある」
「居間、でございますか」
「うむ。そこには、婚約者が立ち入る事が許される。つまり、アネット、そなたは今からその部屋に入れるという事である」
「左様でございますか」
うん、ちょっと何が言いたいのかわからない。
でもわけがわからないゼル様も素敵。
「そういうわけだ。我に着いてくるが良い」
え、どういうわけですか? と思いながら、わたしは歩き始めたゼル様の後を追った。婚約の署名が終わったら部屋に戻るのだと聞いていたのだけれど、まだ何か儀式があるのだろうか。アランダム国の決まりはよく知らないので、ここは陛下の指示に従うのが賢明だろう。
王宮内の、今まで足を踏み入れた事の無い奥深くまで進むと、内装が一際豪華な一角に到着した。
「ここがその居間である」
近衛兵と侍従らしい者が扉の脇にいて、魔王陛下に礼をした。
「畏れながら、ご婚約おめでとうございます」
ゼルラクシュ魔王陛下が「うむ」と頷き、重厚な木の扉が開かれた。
「入るが良い」
「はい」
居間と言っても三部屋が続いた広い部屋で、間を隔てるふたつのドアは開け放されていた。
奥へ進んだゼルラクシュ魔王陛下は振り返った。
「ここから先は、アネットのみ入室を許す。他の者はここで待機するが良い」
そう言うと、ゼルラクシュ魔王陛下はさっさと奥の部屋に入ってしまう。わたしがエルとミーニャを振り返ると、ふたりは「ここでお待ち申し上げます」と頷いた。
シャザック伯爵が「いやいや陛下、少々お待ちを」と魔王陛下に続いて部屋に入ろうとしたが「お前は呼んでおらぬ。自分の仕事をしていろ」と言われ、そのまま何か鞭の様なもの……銀色に輝くものに弾き飛ばされて床に尻餅をついた。
イケメンなのに、いろいろと残念である。
「せめて、わたしめにお茶の仕度を……」
「もう手配してある。下がれ」
「魔王陛下……」
悔しさと哀しさが混ざる瞳が、なぜかわたしを見た。
どうしよう、雰囲気が微妙だ。
ええと、ええと。
「シャザック様は……」
「なんでしょうか、婚約者殿!」
立ち上がってお尻の埃を払う影男はとてもきつい口調だったが、わたしは同情を込めて言った。
「シャザック様は、とてもとても魔王陛下の事がお好きなのですね!」
そのお気持ちはとてもわかりますわ、ゼル様は男性の目から見てもすごーくカッコよくて魅力的な方ですものね!
今までは『わたしだけの魔王陛下♡』とゼル様を独り占めしていたのに、突然横から婚約者が入り込んだのですもの。自分だけの推しを取りあげられたようで、それは辛い気持ちにもなりますわ。
そんな想いで見つめたのに。
『これからは協力してゼル様を盛り立てて世界一のアイドル魔王に……じゃなく、お支えしていきましょうね』という気持ちで微笑みかけたのに。
彼は口をぽかんと開けてわたしを見て、それからなぜか真っ青になり「ち、違う……」と呟き、せっかく立ったのにまたその場にしゃがみ込んでしまった。
「まあ、そのようなデリケートな問題でしたの。気づかなくてごめんなさいね、シャザック殿。わたしは精霊である故、恋愛感情には疎いのでございます」
え、恋愛感情?
「うにゃあああああん、ミーニャは、驚きましたが、性別を超えたそういう気持ちには理解がありますにゃ! お気をしっかりなのにゃ! 失恋の辛さは時が癒してくれるにゃ!」
え、失恋?
「う……違うううううううーっ!」
シャザック伯爵が、半泣きになりながら影の中に沈み込んで行った。




