閑話 アランダム国サイド 2
アネットがベッドに入ったのと同じ頃、奇しくも魔王ゼルラクシュも豪奢な自室のソファで花嫁候補の事を考えていた。
魔王本人はインテリアや身につける服にはあまり興味がないのだが、彼を敬愛する周りの者達の心遣いで、一流の品々に囲まれて生活している。しかし、どのような芸術品も彼の美しさに敵わなかった。
本日も忙しく働いていたゼルラクシュは、全ての執務を終えて、ようやく花嫁候補の事を考える余裕が出てきた。
「あの姫は、我に触れても出血しなかったし、我が近寄っても恐れる様子がなかった……」
アランダム国王としてはセルニアータ国との友好のために、是非とも人間の姫を王妃として娶りたい。しかし、先にやってきたふたりの姫達は諸事情により目的を果たす事ができなかった。
「アネットという姫はかなり肝の据わった人物に見受けられる。あの娘ならば、我が妃になる事が可能であろう」
初の顔合わせの場では、多くの人間と同じようにやはり出血してしまったのだが、今朝出会った時には近距離になっても体調不良を起こさなかった。
森の精霊エルの話によると、彼女も初めて見る珍しい魔導具を作り上げて、魔力に慣れる為の特訓をしていたらしいが、早速その効果が現れたのかと彼は感心した。
「まだ16歳という若さであるが、なかなか熱心であるし責任感も強い。いや、若さ故の柔軟性なのであろう。様々な魔人達にも動じぬその性格も我が国の王妃としてふさわしいように思える。アネットが我が妃になったなら双方の国にとって大変喜ばしいのだが……ん?」
彼のセンサーに何かが引っかかったようだ。
ゼルラクシュは立ち上がると「我を呼ぶのは何奴だ?」と目を細めた。彼は体内の魔力を練り上げると、大胆にも自分に向けて放たれたと見られる信号を辿った。
「我との間にうっすらと魔力の紐が繋がっているな。なかなかの命知らずであるな」
細められた彼の瞳が剣呑に光り、恐ろしい覇気を放った。
このような表情をすると、元々が美貌なだけに凄みのある『魔王』になる。アネットが見たら「精悍なゼル様が美し過ぎて辛い、ハアハア」と萌えのあまりにまた鼻血を噴いてしまいそうだ。
「この王宮に曲者が現れるとは珍しい。さて、此奴は我にどのような企みを抱いておるのだ……」
彼は繋がった魔力を手繰り寄せるとそのまま一気に相手のもとに自分の気を送り、魂を分割して乗り込んだ。
乗り込んだのだが。
『✳︎✳︎✳︎✳︎!』
乗り込んだ先のとても近いところに、アネットの顔があった。
そして、彼女はゼルラクシュには聞き取れない言葉を話していた。
『ふぉっ、これはっ!』
予想外の出来事で、自室にある彼の身体が驚きのあまり硬直した。
なんと、魔力の線を辿った先はアネットのベッドの中だった。ゼルラクシュの魂の一部がゼル様ぬいぬいの中に入っていたのだ。
そして、ぬいぬいは今、薄らと肌が透けるネグリジェを纏ったアネットと、仲良くおでここっつんをしていた!
『そうか、我の髪の毛を仕込んだ魔導人形と我が結びついてしまっていたのか。むうっ、それにしても近い、顔が近いぞ』
若さ溢れる少女とおでこを合わせている状況に、魔王ゼルラクシュは狼狽えた。しかも、彼女のネグリジェは高級なレースで飾られた上品なものではあるが、控えめに言って透け透けなのだ。
おでここっつんしたゼルラクシュが視線を下げると、そこにはまだ16のアネットの瑞々しく柔らかな素肌と、慎ましい乙女の膨らみが存在している。
彼は慌てて視線を戻したが、そうなると至近距離にアネットの顔があるのだ。
『この姫はなぜこのような事を、ち、近いというにっ』
本体は彼の自室でわたわたと慌てているのだが、人形に入った意識はゼル様ぬいぬいを動かす力はない為、アネットのなすがままである。
その時、にっこり笑ってアネットが呟いた。
『✳︎✳︎』
『ふぁあっ』
アネットの唇が、ゼルラクシュ(の人形)の鼻先にキスをした。
その途端、脳内で奇声を発したゼルラクシュの本体は自室のソファに倒れ込んだ。
『これはいったい、姫は何をどうしておるのだ?』
ゼル様ぬいぬいを愛でているのだ。
『✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎』
ご機嫌なアネットが笑顔で何やら話しているが、その意味はわからない。
今やぬいぬいの中の人となってしまったゼルラクシュは、抵抗もできずに笑顔のアネットに愛でられている。
彼はなんだかとても良い気分になる反面、酷い背徳感をも感じて、落ち着かない気持ちになっていた。
『これはいかん、早くここから出ねばなら……ぐぬぬふうっ!!!』
若い娘の薔薇色で柔らかな頬が、彼の頬にすりすりすりすりっと頬擦りをした。
『や、さすがにこれは、まずいのではないかと』
魂の一部がゼル様ぬいぬいに入ってしまった魔王ゼルラクシュは、今までの人生で五本の指に入るくらいの激しい衝撃を受けていた。
そう、恐ろしき魔王に生まれついてしまった彼は、可愛らしい少女の柔らかなほっぺたすりすりなどという蜜のように甘い体験をしたことなどないのだ。
大変心地良い。
素晴らしく心地良い。
できることなら、ずっとこうしていたい。
しかしここから離れなければならない。
これは、紳士が決してやってはならないと言われている悍ましき『覗き行為』なのだ。
他国からやってきた令嬢の私室を覗いたなどという事が明るみに出たら、国際問題になりかねないし、彼は『その特殊な能力を使って覗きをした変態魔王』という汚名を着てしまう。
ところが、アネットが彼を求める想いがあまりにも強すぎるせいか、さすがの彼もなかなか魂を本体に引き戻す事ができない。
彼はぬいぐるみ越しにアネットの体温の温かさや胸の柔らかさを感じ取った事で、心の中に上手く言い表せぬ温かなものが生まれてしまい、その事で余計に焦りを感じ、混乱した。
『わっ、我は魔王ゼルラクシュ! 幾多の試練と戦慄の戦場を超えて来た大魔王だ! このくらいの精神拘束など……いかん、それはいかん、ああああああーッ!!!!!』
気持ちを整えて一気に離脱しようとした彼を襲ったのは、薔薇の花びらよりも甘く柔らかな、乙女の……。
魔王ゼルラクシュは今、絨毯の上に仰向けに横たわっていた。先程、衝撃のあまりソファからずり落ちてしまったのだ。
その姿は、魂を抜かれた屍のようだ。神官ゾンビよりもゾンビらしい。
「…………」
彼の心は千々に乱れ、身体は完全に脱力している。そして、顔も耳も真っ赤である。
右手で虚な目を覆い、ふわふわした気持ちの彼は不思議な眩暈を感じていた。
「……今のは、いったい……」
彼は目から右手を持ち上げると、その指先でそっと自分の唇に触れて目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、キラキラと光る若葉の瞳と、愛情のこもったとびきりの笑顔。愛らしい唇が紡ぐ言葉の意味はわからなかったけれど、彼女の気持ちはぬいぐるみを通して彼に伝わって来た。
だが、それはあくまでぬいぐるみに向けた気持ちであるので、勘違いをしてはならない、と彼は思っていた。
「これは参ったな……我はあの魔導人形に嫉妬しているのか」
人生で初めて感じた感情に彼は顔を顰める。
彼の魔力がたっぷりと込められた人形をあんなに抱きしめて、魔力を吸い込んでいたのだから……アネットにあっという間に耐性ができたわけが、彼にわかった。
それは、彼の妃になろうという気持ちから行なっている行動なので、彼にとっては喜ばしい話である。
だが、抱きしめられているのが彼ではないという事がこの上なく厭わしいのだ。
彼は珍しく昂った感情を抑え込もうと努力する。
「……まあつまり、我の事を嫌ってはいない、という事なのだろう。義務を果たそうと熱心な姫なのだな。そう、あれはきっと、貴族の令嬢としての努力の現れなのだ。ははは、天晴れな姫ではないか」
落ち着きを取り戻そうとそう呟き、乾いた笑いを漏らしたが、少女のふんわりと柔らかな唇を思い出すと彼の耳はしっかりと赤く熱くなっていた。
アネットとは会ったばかりだし、ふたりの政略結婚が決まったのもほんの一週間前の事である。それ故に、ゼルラクシュはアネットが彼に好意を抱いているわけがない、と勘違いをしていた。
まさか彼自身が、アネットが前世今世を通して熱烈に愛する推しであるなどという事を、ゼルラクシュが知っている筈がない。
おまけに、アネットが沼よりも深い恋の深みにどっぷりと落ちたばかりで、頭の中は彼の事ばかり、などという状況であるなどとはまったく思いもよらないのだ。
そのため、アネットがゼル様ぬいぬいに行った行為の意味を『魔力への耐性をつける為の訓練』であるとしか理解できなかったのだ。
「エルエリアウラが言っていたような気がする……あの姫は、魔導人形を使って、我との結婚生活に備える為の訓練をしていると」
いや、それは違う。
萌えをぶつけているだけである。
「という事は、あの行動はあくまでも訓練であり、最終的には夫としての我に求めている行為……という事になるのか?」
ならなくもない。
ならなくもないのだが、かなり勘違いしていると言えよう。
「なるほど、理解した。我には大胆な行為と思えたのだが、あれがセルニアータ流の夫婦間の交流方法であるのだな。ふむ、これは良い情報が手に入った」
ふたりの花嫁候補との縁が上手く結べなかった彼は、今度こそ人間の姫とのコミュニケーションを深めようと考え、頷いた。
「よし。幸運にも手に入れた情報だ。早速明日より実行するよう心がけるぞ。アネット姫に正式な婚約者になってもらうべく、書類の作成も進めよう。……思えば、我は姫にばかり努力を強いていたな。ふむ、その点は反省せねば。アランダム国の為に、我ももっと婚姻に向けて協力をし、姫と交流を深めなければならぬな」
真面目な顔で、しかし耳を真っ赤にしながら、明後日の方向への努力を決意する魔王ゼルラクシュであった。
そして、この夜に起きた事は、
生涯に渡ってゼルラクシュは決して口外しなかった(●´ω`●)
めでたし、めでたし。




