花嫁になる為に その3
「なるほど、これがそなたの作成したという人形か」
ゼルラクシュ魔王陛下は、わたしの作ったゼル様ぬいぬいを片手に持ち、表へ裏へとひっくり返してじっくりと無言で観察した。
「このような物をよくぞ考えついたものだ」
「陛下のお姿を、随分と愛らしく変形させたものですね」
「シャザックよ、何か文句があるのか?」
「とんでもございません! 愛らしくなっても陛下の偉大さ崇高さはこれっぽっちも損なわれておりません故、感心申し上げたのでございます」
「ふむ。なら良い」
シャザック伯爵が眼鏡を外して、汗を拭った。
ゼル様には及ばないけれど、彼もかなりのイケメンである。世の中には性格に難ありな彼を愛でる女性もかなりいて、シャザック伯爵も人気のキャラなのだ。
ああ、それにしても恥ずかしいわ!
手作りの推しグッズを、推し本人に見られてしまうなんて……羞恥の極みです!
そして、お着替えができるように作らなくて、本当に良かった。
ゼル様ぬいぬいにパンツを履かせても、ノーパンでも、どちらを選んでもわたしの品格が疑われてしまうところであった……。
尊い魔王陛下に「それを返してください」などと言えるわけがないため、わたしは震える両手でドレスを掴み、ぬいぬいが詳しく観察されている間、顔を熱くして視線を泳がせる事しかできない。
ゼルラクシュ魔王陛下は「この人形にはかなり強い魔力が込められているな」と頷いた。その拍子に髪がサラリと揺れ、光を反射した。今日もまぶしいばかりの美しさだ。
彷徨っていたわたしの視線はたちまち尊いお姿に吸い寄せられて、結局ゼル様の顔をガン見してしまう。
しばらく人形を観察してから、ゼル様の透き通った淡いブルーの輝きがわたしを捉えた。
「なかなか良くできた魔導具ではないか。このような物を作ってまで我の魔力への耐性をつけようというその気概、なかなか良きものと思うぞ。そなた、名前は……アネット、であったな。アネットよ、誉めてつかわす」
うわああああああああ、推しが、わたしの、名前を口にした!
覚えていてくれたんだ!
そして、誉めてくれた!
嬉しい、超嬉しい!
「も、もももも、もったいなきお言葉を、ありがとうございます! ありがとうございます!」
あまりの嬉しさに、興奮して二度も叫んでしまった。
ゼルラクシュ魔王陛下はすっと目を細めてから、ゆっくりと足を踏み出した。
推しが、わたしに、寄ってくる!
彼はそのまま数歩進むとわたしの前に立ち、ゼル様ぬいぬいを差し出した。
「これからも励むが良い」
うわあああああ、顔がいい!
すっごい、いい!
顔面からきらめきときめきオーラ発射ーっ!
「はっ、はい!」
近い。
尊い。
お空の果てに光っていた星が、今わたしの目の前に立って輝いている。何という奇跡であろう。
お言葉通り、全力で励みます!
さらなる推し活動に励んで、ゼル様の尊さを全世界に普及して……じゃなかったわ、わたしはゼル様の花嫁候補だった。
予想外の大接近をしてくださった素晴らしき存在を前にして、わたしの膝はガクガクしていて立っているのがやっとだ。全身の血液が顔に昇ったのを感じる。このまま頭頂から噴き出すのではないだろうか。
真っ赤な水芸だ。
そして、尊死。
わたしは震える手でぬいぬいを受け取ろうとしたが、うまく掴めなくて手を滑らせてしまった。
「あっ」
いやあああああーっ、ゼルたんが!
落下ーっ!
推しの前で推しのぬいぬいを落とすなんて、その場で断首!
いや、推しでなくても断首!
だって、偉大なるアランダム国の魔王陛下を模した人形を地に落とすだなんて、絶対にしてはならないとんでもない事なのだから、ダブル断首!
すぱすぱっと往復で断首の刑ーっ!
アネット・シュトーレイ、ここに眠る!
そんな不幸な未来が脳裏に浮かび、背筋がぞくりとしたのだが。
「そなたはまだ体調が優れぬのか?」
ウルトラスーパースペシャルな反射神経をお持ちのゼルラクシュ魔王陛下は右手で素早くぬいぬいを掴んだ。
目の前の美しい顔が、僅かに傾げられた。
「そら、落ち着いてしっかり持つが良い」
偉大なる魔王陛下は左手でわたしの手を握って、押しつけるようにぬいぬいを手渡して……くれ……た……。
「……陛下……ありがとう、ございます……」
「良い」
今、触った……。
触った!
触ったっ、推しに触った!
今わたしは、推しに触りましたああああーっ!!!
っていうか、推しと握手?
推しと握手うううううーっ!
大きくて、ちょっとごつっとした、わたしの手を包み込んだ男らしい手。
あったかい、手。
生きた男の人の手だった。
体温があった。
推しが生きてる。
わたしと同じ世界で生きてる。
イラストじゃなくて、ちゃんと生きている男の人の推しがここにいる。
そして、優しい。
ゼル様が優しい。
孤高の大魔王であり誰にも心を許さない、氷のように冷たい精神世界に住んでいる筈のゼル様が、わたしを気遣ってくれた……ですって?
雷に撃たれたような衝撃で呆然とするわたしの前で、優雅な仕草で踵を返し、ゼルラクシュ魔王陛下は歩き去っていった。
「え……何が……陛下に何が起きたのだ?」
その後を、わたしと陛下を何度も見比べて、驚いた顔をしていたシャザック伯爵が追いかけて行った。
わたしは瞬きもできずに推しを見送った。
ゼル様のお姿が段々とぼやけていく。
涙が滝のように流れているから。
尊い魔王陛下の背中が見えなくなると、わたしはその場にへなへなと座り込んでしまった。
「アネット様?」
心配顔で駆け寄ってきたエルが「出血、なし!」と呟いた。
鼻血を確認された……うん、仕方ないけどね、ちょっと恥ずかしいかな。
「ご気分は大丈夫でございますか?」
「……ええ、大丈夫、大丈夫よ」
「やはり、陛下に近づきすぎたから、お身体に障りが……」
「いいえ、そうではないの、身体はまったく辛くありません」
わたしはぬいぬいをぎゅっと抱きしめて言った。
「違うのよ、エル。あのね、ゼルラクシュ魔王陛下とお言葉を交わすことができて、とても嬉しいの。それで、嬉しさのあまり、力が抜けてしまったのよ」
「ああっアネット様、なんと初々しい!」
エルの髪から若芽が伸び、頭の周りでピンクの小花がぽぽぽぽぽぽぽと咲いた。
「エル、わたし、がんばるわ。うんとがんばって、あのお方の隣に立てるような者になりたいと思うの」
わたしの手には、まだゼル様の感触が残っている。
美しいゼル様、最推しのゼル様、憧れのゼル様。
そう思って、今までのわたしは、ゼル様とは現実に関係を築くのではなく、遠くから見守るだけで充分な存在だと思っていたのだ。
平面にいたゼル様が立体になった、それだけ。
しかし、この世界の彼はキャラクターではなく生きた男の人であったという事に、わたしは改めて気づいたのだ。
イラストやポスターや、何度も繰り返して見たアニメのゼル様への想いが今、崩壊していく。
そしてわたしは今、ゼル様に恋をしている。
推しへの愛ではなくて……恋を。
この世界に生きているゼル様に、恋を。
心臓が射抜かれたように痛いのは、これはきっと、わたしの人生において初めての気持ちだから。
視線が合って、手が触れて、わたしはすとんと恋に落ちてしまった……。
前世では、動かないイラストゼル様や画面の向こうでストーリーをなぞるアニメのゼル様に、独り言を口にするだけだった。返事が来ない告白を、推しに対する愛の言葉を、誰もいない部屋でひとり呟いて、それで幸せだったのだ。
だけど、今は違う。
独り言ではない。
わたしの言葉はゼル様に届くのだ。
ゼル様が会話をしてくださって、わたしの事を考えて、気遣い、わたしの作った謎人形を誉めて手渡してくれたのだ。
……好き。
好きです、ゼル様。
高ぶる感情と溢れる涙を止めることができず、座り込んだままのわたしの目元に、エルがハンカチを当ててくれた。
「エル……、わたし、わたしは……」
「なれますわ。アネット様なら立派なアランダム国王妃になれると、このエルが保証いたします」
「……だといいのだけれど」
わたしの恋は叶うのだろうか。
この想いがゼル様に……魔王陛下に伝わるのだろうか。
心の中で、不安と喜びとときめきと期待と畏れと、いろんな感情が渦巻いて、胸が痛くなる。
そんなわたしに、エルは力強く宣言する。
「むしろ、この世のどこに魔王陛下の隣に立てる女性が、立とうという気概を持つ女性がいるでしょうか! アネット様以外にはいません!」
「そうなの? でも、もしかすると、わたしったら烏滸がましいことを言っているのかしらって思うのよ」
どこを取っても平凡な貴族の令嬢、それがアネット・シュトーレイなのだ。政略結婚でもなければ、とてもじゃないけれどゼルラクシュ魔王陛下の花嫁候補などというだいそれた位置につけることはできない筈だと、少し弱気になってしまう。
わたしは生まれて初めて、ブリジッタお姉様のような美貌の持ち主だったら良かったのにと思った。金髪で華やかな美女であるお姉様ならば、ゼルラクシュ魔王陛下の隣に立っても釣り合いが取れるだろう。
「やっぱりわたしは、足置き台か、足拭きマットくらいの場所にいた方が……」
ゼル様の足洗い係でもいいわ。
「ほほほ、面白い冗談をおっしゃってらっしゃいますわね」
わたしは本気でそう思っているのに、大笑いするエルは「アネット様なら陛下を椅子にしてふんぞりかえっても許されますわよ」などと畏れ多い事を言いながらわたしを立たせた。
ゼル様をお尻の下に敷くなんて、エルったら!
「さあ、あちらにミーニャがお茶とお菓子を用意しておりますわ。本日は旅の疲れを癒す休養日になっておりますので、花と緑の中のお茶会を楽しみましょうね」
「それは素敵ね」
ゼル様に出逢って世界は輝き、ゼル様に恋をした今は眩いばかりの光を放っている。
わたしは美しく咲き誇る花々の中をゆっくりと歩いて、ゼル様ぬいぬいを抱きしめた。




