花嫁になる為に その1
「ふああ……よく寝たわ。おはよう、ゼル様」
淑女らしからぬ欠伸と伸びをしたわたしは、一緒の枕で仲良く並んで寝ていたゼル様ぬいぬいを抱きしめて、頬擦りをした。
「ぐっすりと眠れたのは、きっとゼル様が添い寝をしてくれたおかげね。……あら」
ぬいぬいに顔を埋めて尊き香りを嗅いだのだが、由々しき事に昨日よりも弱くなっていたのだ。
「ああ、ゼル様の残り香が……わたしったら匂いをクンクンし過ぎたのかしら。でもね、ゼルたんがいい匂いすぎるのが悪いのよ。うふふふー、ゼルたん、好きー、好き好き大好きー!」
ぬいぬいに頬をつけながら、わたしはベッドの上でゼル様への想いを叫んだ。
ああもう、好き。
魔王ゼルラクシュ様のすべてが好き。
好き過ぎて食べてしまいたいくらいに好き。
人生のすべてを捧げていた、二次元世界の美しき魔王様。そんなゼル様が、今や一緒の世界に立体になって存在して、生きて、空気を吸って吐いて吸って吐いて、『生きて』いらっしゃるのだ!
そしてなんと、匂いもついている!
神様ありがとうございます!
ゼル様ありがとうございます!
存在してくださってありがとうございます!
この世界の全てのものに感謝の気持ちを伝えたい!
そしてゼル様、好き好き好き好きーっ!
わたしはゼル様ぬいぬいのほっぺたを唇ではむはむと甘噛みしてから、大胆にも唇にむちゅうううううーっと吸いついて、ゼル様成分を身体中に取り入れた。
「はあ、もう、朝から好きが止まらないわ……これはみんなゼル様が素敵過ぎるからいけないのよ。ううんもうっ、罪なお方」
わたしはもう一度ぎゅっとぬいぬいを抱きしめてちゅっとしてから、呼吸を整えて、ベッドサイドにあるベルを手に取って優雅に振った。
さあ、花嫁候補の伯爵令嬢としての一日の始まりだ。
アランダム国の貴族の女性は、顔を洗ってから自室にある小さなダイニングで朝食を取り、それからきちんとしたドレスに着替えるらしい。もちろん、侍女とメイドがすべてをやってくれる。
わたしもお湯で顔を洗い化粧水をつけると、シルクのネグリジェの上からきらびやかなガウンを羽織って、美味しい朝食を頂いた。
隣に持ってきた椅子の上には、ゼル様ぬいぬいが座っている。万一『思い出し萌え』をしてしまったら、わたしの想いを受け止めてもらうのがこの子のお仕事だ。
「旅のお疲れは取れましたか?」
エルがハーブティーを飲みながら、朝食をとっているわたしに尋ねた。
「ええ、ありがとう。でも、快適な馬車の旅だったし、半日で着いてしまったからあまり疲れなかったわ。お部屋も居心地良く整えてくれたから、存分に休むことができたの。皆さん、ありがとう」
お礼を言うと、ミーニャとメイド達が笑顔になった。
「そうだわ。一晩経ったらこのぬい……人形からする良い香りが薄くなってしまったみたいなの。どうしたのかしら?」
冷静に考えると、いくらわたしがスンスンしたからといって、たったの一晩で魔王陛下の強い魔力がなくなるはずがないのだ。
わたしがエルに尋ねると、彼女は「失礼いたします」とぬいぬいを手に取った。
「……放たれる魔力の量は昨日と変わっていないようですわ。それなのに、感じられる力が弱くなったという事は、アネット様のお身体がゼルラクシュ様の魔力に慣れたからだと思われますね。これは大変喜ばしい事でございます」
「魔力に慣れた……そうだったのね」
なるほど、わたしの鼻血の原因のひとつは、ゼル様への萌えのせいだけではなく、やはり魔王陛下の強い魔力に耐性がなかったというのも大きかったらしい。
わたしは真の変態ではなかった。
良かった。
萌えて興奮して鼻血を出すなんて、いくらなんでも変態すぎると自分が怖くなっていたけれど、他にも要因があるなら仕方がない。こうなったら魔力に慣れるまでは観念して鼻血を出しまくろうと……いや、淑女が鼻血を噴くのはあまりよろしくないので、できるだけ気をつけていきたい。
それに、ゼル様のお力に慣れるのは良い事だけど、いい匂いを感じられなくなってしまうのは悲しい。
部屋を出て行ったエルは、しばらくするとさらに、一房の美しい髪を持って戻ってきた。
「アネット様、これをお使いくださいませ。魔力に耐性がついてこられた事を陛下にご報告いたしましたところ、大変にご満足のご様子でした。そして、昨日よりも多くの魔力を込められた髪の毛を賜って参りましたわ」
ゼル様がご満足ですって?
きゃあ、朝から推しがわたしの事を考えてくれたなんて!
ありがたくて涙が出てきそう。
あああああ! 好き!
「魔王陛下が、貴重な髪をまたわたしに下さるなんて……」
彼女の持つキラキラと光を放つ髪の毛からは、芳しい香りが漂ってくる。わたしは両手で髪を受け取ると、なるべく上品に息を吸い込んだ。
新鮮なゼル様の匂い……ハアハア、ハアハア。
ハアハアハアハア。
わたしは髪をエルに預けると、残りの朝食を急いで平らげた。そして、興奮を隠しながら……いや、荒い呼吸で隠しきれなかったかもしれないが、ゼル様ぬいぬいを少し解き、お腹に髪を入れ込んだ。
ゼル様、増毛。
クンクンして確認すると、また匂いが強くなっていた。
「ありがとう、エル。匂いが戻ったわ」
いい匂いが復活したゼル様ぬいぬいを抱きしめて満足の笑みを漏らすと、エルが「なんと微笑ましい……アネット様が可愛すぎる……」と髪の毛の先に小花を咲かせた。
「人形の魔力がかなり強くなっておりますが、これで大丈夫ということは、お身体が魔力に随分と慣れてきたという事です。アネット様の献身的な努力を耳にして、陛下も大変お喜びでございますのよ」
「ゼルラクシュ様が、お喜びになっているですって?」
あああああん、嬉しすぎる!
尊きゼル様が、この虫けらのように地味なわたしの事を、畏れ多くも気にかけてくださっているなんて。
これはもしかして、ゼル様がわたしとの婚約に前向きになってくださっているという事……なのかしら。
ありがとうございます、ゼル様!
ゼル様の為ならこのアネット・シュトーレイ、なんでも致しますわ!
わたしはぬいぬいを抱きしめて、心の中でゼル様にお礼を申し上げた。
わたしを贔屓してくれるお助けお姉さんのエルは、満足そうな様子だ。
「アネット様はとても立派でいらっしゃいますわ。このような早いペースで魔王陛下の魔力に慣れていけば、今日にはきっと、もっと近くにお寄りする事も可能ですし」
「ち、近くに、わたしが、ゼルラクシュ様のお近くに? 昨日よりも、お近くに?」
「はい」
わたしの様な者が尊き推し様のお近くにお寄りしても良いのでしょうか?
柱の陰からそっと見守るのがわたしの身の程ではありませんか?
「昨日の謁見ではかなり離れてのご対面でしたものね。アネット様は王妃となられるお方でございます。一日も早く陛下の魔力に慣れて、お近づきになり、さらには陛下にお触りできるようになられますよう」
「おおおおお触りって、お触りって」
ゼル様に触るの?
わたしが、ゼル様に、タッチOK?
わたしが挙動不審に両手をにぎにぎすると、森の精霊は無邪気な表情で首を傾げた。
「そうですわ。できましたら最初は手を握ったり……ゆくゆくはまあ、お子をなされたりとかでしょうか」
お子を!
『なす』って!
わたしがゼル様の赤ちゃんを産むって事?
うえええええええええーっ⁉︎
「おおおおおおこおこおこって、それはいささか過程を飛ばし過ぎではないかしらって思うの!」
待って、エル、待って頂戴!
そんな、いろいろ考えて、鼻血が出ちゃうから待って!
「ほほほ、お可愛らしい姫様ですわ」
我々精霊は大地から生まれ出るので、人の繁殖には疎いのでございますが……と、永遠の処女であるエルエリアウラは目をパチパチさせた。
「でも、それも王妃のお務めでございますからね。次の世に血を繋いでいく事、陛下のお世継ぎをお産みになられる事は、とても大切な事ですもの」
「ふぉっ!」
エルの言葉でわたしの脳内と鼻の血管が焼き切れかけたので、急いで鼻を押さえた。
ゼル様との子ども!
お世継ぎ大事!
麗しき推しである魔王ゼルラクシュ様の花嫁候補となり、昨日前世の記憶がはっきりと蘇ったわたしは、『生ゼル様に会えた』という事で頭がいっぱいになっていたが、そこで満足して終わるわけにはいかないのだった。
王妃として、国王の子どもを産む事がわたしの大切な務め……。
でも、産む為には、産む為には……うわああああああっ!
手を繋いだだけではお子様はできない事は知ってますから!
「魔王陛下に密着できる程まで、魔力に耐性をつけて頂ければと」
「ゼル様にみみみみみみ密着とか! エルったら、そ、そんな、なななななまなまなまなまなましいことをーっ!」
鼻を押さえた。
やっぱり駄目。
出ちゃった。
「大変ですにゃっ、アネット様、これを!」
ミーニャがわたしの顔に素早くハンカチを押し当てた。
エルは部屋から飛び出すと「救護班ーっ! 救護班を早くーっ! 花嫁候補様、ご流血ーっ!」と叫んで、神官とスケルトンズを呼び出したのであった。
この鼻血は魔力のせいではありません(*≧∀≦*)




