「好き」「嫌い」への懐疑。
人は生きていくうちに自然と好き嫌いが出来るものだと思う。
これは仕方ないことだ。
必然であり、不可抗力、生きる為の生存本能とまで言えるだろう。
一言に「好き」「嫌い」と言ってもあまりに幅が広過ぎるので、ここでは人間関係においての話をしたい。
圧倒的に個人的で主観的な意見なので、何卒悪しからず。
私はある時から人を好きと嫌いに分けるのをやめた。
幼馴染の女の子と縁を切ったあの時。
詳しく話すと長くなるのでそれは別の機会に。
簡潔に言うと、都合良く扱われ捨てられた、それだけ。
この話から好き嫌いにどう繋がるのか。
「好き」だと思っていたから無意識のうちに期待を抱き、裏切られたと感じてしまう。
そんな自分勝手なエゴで自身を傷つけたくない、相手を貶めたくない。
私はそれに耐えられなかった。
だから人を好きになるのをやめた。
恋愛感情だけでなく人そのものとして。
そういう点では「信用」にも似ている。
人と深く関わることをやめた。
人を知ろうとする行為をやめた。
面白いことに「好き」が無くなると、「嫌い」も自然に無くなった。
なぜなら、その人を嫌いになる程知らないから、嫌いになるための要素がないからだ。
ここで私は気づいた。
「嫌い」とは「好き」に依存する感情であると。
「好き」を前提にしなければ存在し得ない感情であると。
この言い方は少し極端かもしれないが、少なくともその人に関心を抱いたことがなければ嫌いになることはない。
それと同時に、「好きの反対は嫌いではなく無関心」という言葉を思い出した。
まさにその通りだと思った。
しかし、私はそんなに器用な人間ではなかった。
仲の良い友達は依然好きなままだったし、あまり関わらないようにしても嫌いだと感じる人はいた。
そんな自分が嫌だった。
また辛く悲しい思いをするのがどうしても嫌だった。
だから私はひたすらに強がってみることにした。
「女性は苦手だから」
「嫌いになることはない、苦手かそうじゃないかだけ」
そう度々口にするようになった。
気がつくと幸か不幸か、心の底からそう思うようになっていた。
固定値の「好き」と次第に増えていく「苦手」だけが僕に残った。
それ以外は全て無関心になっていった。
それが私の精神を守る為、生きていく為にとった生存戦略だった。
一方で、人と付き合っていく上で避けては通れない障害として喧嘩がある。
誰しも一度は経験があるはず。
よく「喧嘩する程仲が良い」という言葉を耳にする。
昔は、そんな訳あるか、仲が悪いから喧嘩するんだ、と思っていた。
しかし、多くの人と関わり人についての理解が深まった今はこの言葉が案外正しいとわかった。
先に述べたように嫌いの行き着く所は無関心なのだ。
関心を抱いていない人とわざわざ揉めたりぶつかったりはしない。
仲の良さを前提としているからこそ喧嘩は起こり得る事象なのだ。
だから喧嘩したのなら同時にその人の良さも知っていることを思い出してほしい。
そうすれば少しだけ優しくなれる気がしないだろうか。
まあここだけの話「嫌い」まで振り切るのも1つの手段だと思う。
それは賢くはあれど、楽ではない。
あまりに悲しい結末だ。
だらだらと自分の経験を話してしまったが、結論としては
好きの対義語は無関心であり、嫌いは好きの延長線上にある。
ということだろう。
苦手という判断基準は私の主観なのでここでは明言しない。
最後になるが、実は1番言いたかったことでもある。
今の私は「好き」がわからなくなってしまった。
恋愛感情としての「好き」の話である。
根本的に人を好きになることをやめ、女性を苦手だと思い続けた結果、「恋」や「愛」に付随する「好き」が理解できなくなった。
だから誰か教えてくれないだろうか。
とても寂しいのです。つまらないのです。
こんな生き方は。
ただ考えたことを書き連ねただけなので拙い文章になってしまいました。
申し訳ありません。
もし読んでいただけたのなら、あなたの考えをお聞かせください。