死にたいけど死にたくないけどやっぱり死にたい
1
死にたいと思うようなことって普通に生きていたら人生でどれくらいあるんだろう? まーそういうネガティブな感情が突発的に浮かぶのって大抵は精神的に追い詰められたときなんだろうけど、私の例で言わせてもらえば断然、肉体的な痛みで死にたいと願うことが多いね。
死にたいっていうより、いっそ死なせてくれって感じ。しかも私の場合それは突発的ではなく恒常的なものだし……うん、常に死にたがっているのだと言ってもいいかな。
こういうネガティブワードをすっごく毛嫌いする人ってけっこういるイメージだけど、そういう人が身近にいたりしたら私のことを嫌うか怒るか見下すか……なんにせよきっと、どういう意味合いにおいてもいいようには見ないだろうね。
でもそういう人にもこれだけはわかってほしい、私の「死にたい」はそんじゃそこらの構ってちゃんが口にする「死にたい」とはぜんぜん違うんだってこと──だって私、死ねないからね。
死にたくても死ねないから。
比喩じゃなくて、本当に死ねないんだよ。何があっても。幸運だとか悪運が強いだとかそういう「不幸な目に遭ってもなんだかんだ助かる」とかでもなくて、笑っちゃうくらいあっさり致命傷を負うんだけど。
それなのに治ってしまうという、そういう意味での「死ねない」。
これだけ聞けば私を羨む人も多いだろう。それこそ不慮の事故が原因で亡くなった人からすれば「いらないなら寄越せ」とやっかみや文句のひとつくらい言いたくもなるだろう……私だってあげられるものならあげたいけどね。欲しがってる人のところにリボンを添えてプレゼントしてあげたいくらいだけどね。そうすればその人も、私の苦しみの理解者になってくれることだろうから。
ここで初めの疑問に戻るけど、死ぬような激痛って、普通なら人生に一度っきりしか味わうことはないよね? だってそんな痛みを感じているってことは=死ぬってことなんだから──でも私の場合は違うんだな。痛覚自体はしっかり機能している私は、これまで何度も何度も何度も何度も死にたくなるような、いっそ死なせてくれと心底から願うような激痛を味わって、それでもなお生きている。
さて、これは経験上、上から数えて何番目くらいの痛みだろうか?
私はお腹に手を当てて考えてみる──ん、そういうときは胸に手を当てるものだって? いや、私だって本当ならそうしたいとこだけど、あいにくその当てるための胸がないからさ。おっぱいの話じゃないよ、私はスレンダー()を自認しているけど膨らみだってちょっとはあるんだよ……って言いたいのはそういうことじゃなくてね。
あっちゃいけない大穴が、胸のど真ん中にぽっかりと開いてしまっているこの状態じゃ、慣用句よろしく胸に手を当てて物思いにふけることも物理的にできないという、そういう話であって──。
◇◇◇
仰向けで血だまりに倒れ伏す彼女のすぐ傍。ゆっくりと膝をついて、透き通るような青い色をした髪が特徴的なその少女は強く唇を噛みしめた。
こんなはずではなかった。
彼女を死なせるつもりなんて、なかったのに。
床が見えてしまうくらい大きな穴が開いた、その胸の傷。どう見ても致命傷だ。もう助かるはずもない。傷口を押さえようとしたのか震えながら持ち上がった腕もやがて力なく倒れ、腹部の辺りで動かなくなった。
──死んだ。
「はあい、ご臨終ぅ~♡」
「……ッ」
少女の神経を逆撫でするような声を発したのは、こんなことをしでかした張本人。黒髪をあちこち跳ねさせて無造作に伸ばしている人相の悪いその女こそが、彼女を殺した殺人者である。
女の笑みは深まる。
「可哀想よねえ。まだ若い身空で、こんな惨たらしく死んじゃうだなんて」
「お前がやったんでしょう……!」
怒りを向けて睨みつける少女に、女は嘲るように抗弁する。
「責任転嫁はよくないわ。ねえ999番──あなただって本当はわかっているんでしょう? 一般人なんかに助けを求めるだなんて、聡明なあなたらしくもない、とんでもない大失態だったわ。あなたが迂闊に頼ったせいで彼女は死んだ。実際に手を下したのは私だけれど、原因を作ったのは誰? ふふ……私から言わせれば、この子はあなたが殺したようなものよ」
あなたが変な気を起こさなければ、私だって彼女を殺すことはなかったんだから。
そう言われて、少女は何も言い返すことができなかった。まさしくその通りだからだ。女の言っていることは正しい。自分が彼女を頼ったりしなければ、こんなことにはならなかった。それは間違いのない事実。
「ごめんなさい……っ」
亡骸へ謝罪が届くことはない。もうそこに命は宿っていないのだから、こんなのはただの自己満足でしかない──そうとわかっていても少女は謝らずにいられなかった。
無意味に、あるいは無責任に。
「さあ、もういいでしょう? 余計なことをすればするほど、無用の死が増えるだけよ。その子みたいな哀れな被害者をこれ以上出さないためには……どうすればいいか、聡明なあなたならわかるわよね?」
私とともに来なさい、と。
女は言外にそう告げている。
「…………」
のそり、と少女は立ち上がろうとする。女の言う通り、自分のわがままなんかで死ぬ犠牲者をこれ以上出さないためにも、そうするしかなかった。唯々諾々と従うしかなかった。反抗しようという気すら起こらない──倒れている彼女と同じく自分の胸にもぽっかりと穴が開いたようだと、少女は思った。
何もかもが、ひどくどうでもいい。
いっそのことこんな自分なんて、本当に死んでしまったほうがいいのではないか──。
「──え?」
投げやりな気分で女の下へ行こう、としかけた少女の肩を掴んで止める手があった。
それはぬらりと血に濡れた、けれど不思議と嫌悪を感じさせない、ぬくもりのある手だった。
「いや、いやいや。いやいやいやいや。そんな簡単にほいほい従っちゃうんじゃ、それこそ私が死に損だからさぁ……そこはほら、きっぱりとあいつにこう言ってやらないと」
死んだはずの彼女が身を起こし、今し方自分を殺した相手を見据えて──ほんの少しの怯えもなく。
「誰がお前なんかの言うこときくか、バーカ。髪切れ、ボサボサおばさん」
そう言った。
2
親元を離れて二年以上。私は現在通っている高校の学生寮で生活している。手切れ金のように渡されたけっこうな額のお金を自由に使えるのはありがたかったけどさすがに二浪もしているうちに貯金はずいぶんと減って、去年はそれこそ死にものぐるいで猛勉強をし、憧れの女子高に受かることができた。
その時点で燃え尽きたことと、やっぱり偏差値的に相当な無理をしたことが祟って今の私の成績は焼け野原のように酷いことになっている。けど、学校生活は楽しいです。うん。ホントダヨ? でもそろそろお金がヤバいからそこどうにかしないとね。成績よりもまずは毎日のご飯でしょ。
そういうわけで学生街の外れにあるボロアパートから立派な学生寮へ移り住み、そのぶんかさむ学費に喘ぐ私は浪人生から名門校の女生徒という華麗なる立場の転身に見合わぬ貧窮具合に陥り、その結果学校帰りに情報誌を立ち読みすることが日課となっているのである。
「はーあ、よさげなのはなしかあ」
一月の間に四回もバイトをクビにされている私は若干やさぐれた気持ちで帰路につき、その途中でふらりと裏通りへ入りこんだ。どうしてそんなことをしたかと言えば、血の匂いに引かれたからである。いや、この言い方だと私がものっそいやべー奴みたいに聞こえるかもしれないけど、そういうことではなく。
とりあえず進んでみると、やっぱりいた。女性だ。街中、それも薄汚れた路地裏には似つかわしくない白衣着の彼女は、銀色の長髪が目を引く美人さんだった。顔色が悪いことや濃いクマがあるせいでなんとなく陰のある感じだが、それもまたいいと思います。
「キャンユースピークイングリッシュ?」
「……日本語でいいよ」
明らかに和の島国以外の血筋を感じさせる見た目からして言葉が通じない可能性を考慮した私だが、相手はバリバリに私の母国語で返してきた。ちょっと恥ずかしい。
雰囲気に違わず声まで気だるげな彼女は、けれどはっきりとこちらを警戒しているようにも感じた。
背中に背負った小さな女の子を、守ろうとしているように見える。
「君は、誰だ?」
「砂川芽っていいます。ところでお姉さん、重そうにしてますね。よければお手伝いとかしますけど」
「……『敵』ではない、か。安心したよ。私はもう行く。君もこんなところにいないでどこかへ行ってしまうといい」
「え、私の心優しい提案をガン無視ですか? めげずにもう一回言いますけど、よければその子を運ぶの手伝いますよ」
「君にそんなことをしてもらう必然性はどこにもないな」
「お姉さん、その白衣の下、怪我してますよね。それも割と深めの。私、嗅ぎ慣れているんで血の匂いには鼻が利くんです」
「…………」
そこで初めて、お姉さんは私のことをちゃんと見てくれたようだった。まじまじと私の顔と、頭のてっぺんからつま先までを眺めて、恐る恐るといった様子で訊ねてきた。
「君は、何者だ?」
「観点女学院の一年、砂川芽です。私、痛いのってすごく苦手で、嫌いなんです。だから人が痛がってるのもすごく嫌っていうか。ほら、他人が酸っぱそうにしてると自分まで酸っぱく感じるでしょう? あれと同じで他人でも痛そうにされるとこっちまで痛い気になってきちゃうんですよね。お姉さん、涼しい顔してるけど、でもやっぱり痛そうだ。だから手伝いましょうかと申し出ているんです」
「そうか。善意はありがたいが、やはり無理だ。この子を背負うというのはそう簡単なことではないんだよ」
「私がおんぶするのってそんなにマズいですか? だったらその子をおんぶしてるお姉さんを私がおんぶするってのでもいいですけど」
まあね、これでもパワーはあるんでね。普段の私は腕立て伏せもろくにできないようなクソ雑魚ナメクジだけれど、七つある奥義のうちのひとつを使えば裏技的にパワーを引き出せるのだ。少女と女性を一人ずつくらい軽い軽い。
という訳で私は大まじめに言っているのだが、お姉さんはなんだか呆れているようだった。
「君は普通ではないな」
「? まあ、一般的な年若い女子像の中に私みたいなモデルケースがいないであろうことは自分でもわかってますけど。でもこの街に住んでる子たちは多かれ少なかれ普通とは違っていると思いますよ。だってここは『異能保持者』ばかりの街ですから」
「……能力云々の話ではなく。君の行動が、変なのだ」
会ったばかりで私の何がわかるというのか。状況的に今の私は『困っている人のために手を差し伸べる女神がごとき女子高生』である。女子高生というだけで値千金の価値があるというのにこれで心の美しさまで加わってしまえばもう値段もつけられないレベルと言って差し支えはないだろう。なのに普通ではない、変である──要するに「おかしい」などという評価を受けてしまうことになろうとは。びっくりだね。
「いや、正直言ってありがたい。とてもまともとは思えない君だからこそ逆に信頼できる。君の言う通り、涼しいのは顔だけで内心は非常に焦っていたところだ。そろそろ体力的にも限界なものでね。この際、『敵』でないのならそれで十分だ。怪しい女子高生だろうと致し方ない。倒れる前に君に会えたことを幸運だと思おう」
「なんかけっこうボロクソに言ってくれてますけど……結局どうするんですか」
「忍びないが、頼まれてくれるかな。この子のことを」
いいですよ、と私がお姉さんの代わりに少女を背負う。青い髪色のこれまた目を引く美少女である。ひょっとして二人は親子? いや、顔立ちはまったく似ていないな。
「その子を匿ってやってくれ」
「え、うちで預かれってことですか? まあそれはいいですけど……」
うちの寮、他の子たちはほとんどが二人部屋なのに対し私は同じ広さを一人だけで使っているので、若干寂しく思っていたところだ。同居人が増えるのはだから別にぜんぜん構わないんだけど……。
「いつまで預かればいいんですかね」
「すまんが、確かなことは言えない。引き取りに行く気ではあるが、それがいつ頃になるという確約はできない──あるいは」
そのいつかは来ないかもしれないな、と。
気だるげな口調のままで、しかし深刻な声音で彼女は言った。
「……安心してくれ。奴らは私を追いかけてくる。今しばらくはその子に手が伸びることはないだろう」
「何を仰っているのやらさっぱりですけど、わかりました。お姉さんが引き取りに来るまでこの子の世話をしていればいいんですね」
「ああ、頼む。……ごめんな」
私に言っているのかと思えば、お姉さんは少女の頭をさらりと一撫でした。どうやらこの子への台詞らしかった。なんの謝罪なのか気になるところだが、訊ねる間もなくお姉さんは踵を返して路地裏へと消えていってしまう。こちらへ振り向くこともしない、迷いのない足取りだった。
「……じゃ、帰ろっかな」
私も私でこの場を後にする。何故ならそろそろ門限が近づいているからだ。基本、七時半までには寮内にいなきゃいけない。名門として厳しいのか緩いのか、他を知らないので比べようがないが、花の女子高生たる私としてはせめて八時までは許してくれてもいいのではないかと思う。半だと中途半端だしね。かといって七時ちょうどに変更されてしまっては自分の首を絞めることになるから、学校相手に訴えを起こしたりはしないけどさ。面倒だし。
学生カバンよりも軽く感じるくらいにちょー華奢な青髪の美少女を背負って、私は自分の部屋を目指した。
3
観点女学院の学生寮は学校から徒歩十分のところにある。どうせなら学校の敷地内に建ててもらいたかったものだがまあ贅沢は言うまいよ。寮住みなのに毎日登下校に十分ずつ費やすことへ疑問を感じないと言えば嘘になるけど、寮に住めるだけでもありがたいことなのだ。学費を払いさえすれば風呂トイレ完備の1DKにタダで住まわせてもらえるのだから。電気代やガス代といった生活費も学費に含まれている。ただし食堂を利用する際の食費だけは自分で出す必要がある──これくらいはしょうがないね、女子高生って女子高生以外の全生物が思う以上にたくさん食べる生き物だから、そんな飢えた狼のような連中の食費まで賄おうとすればいかに名門観点女学院といえど半年ともたずに瓦解するだろう……なんてこれは流石に冗談だけど。
まー他にもテレビだとかパソコンだとか、生活必需品ではないアイテムを揃えるのにも細かな規定があったりするのだが、どうせ私には関係ない。どっちにしろ万年金欠の私にはテレビやパソコンを買うお金がまずないので規定に頭を悩まされる心配もないというわけだ。持たざる者の強みと言えよう。
「やっぱりあなた、普通じゃない」
そんな感じで殺風景な私の寮部屋に、数ヵ月ぶりに新たなアイテム……もとい同居人が増えた。目を覚ました青髪の少女に食事がてらお姉さんとのやり取りを説明し、私が世話をすることになったと伝えた。すると返事が「普通じゃない」だったわけよ。これには心の広い私も憤懣やるかたなし。
「なんだかな。褒められたかったわけでも感謝されたかったわけでもないけど、やっぱり善意には善意を返してほしくなるのが人情ってわけでして」
事情は知らないが体力の限界が近いようだったお姉さんから少女を預かった私は、果たしてその預けられた少女本人から変人扱いを受けて然るべきかどうか。幼いころから変だなんだと言われ続けて慣れているといえば慣れているけれど、まさかこの子からもそんな風に言われるとは思っていなかったので予想外の分だけ多少はショックだった。別に傷付いちゃいないけどね。
私の言葉に少女は言葉を詰まらせた──自分が知り合ったばかりの人間にひどいことを言ったのだと自覚してくれたらしい。でも、彼女は意見を翻すようなことはしなかった。
「だって、変だもの。どこの誰とも知らない人が背負っている子供を引き取るなんて、普通はそんなことしない。あなた、本当に何も知らないの?」
うーん、見た目七、八歳くらに見えるこの子はその外見に見合わず、やたらに口調がしっかりしている。同級生と喋っているような感じ。なんならうちの一年生たちよりも精神年齢が上なくらいにまで感じる。
とまあそんなことよりだ。
「え、なにさ。私を疑ってるの? この通り花の女子高生なんだけど、それでも?」
本当にそっちの事情は何も知らないんだけどなぁ。と困りながらそう訊ねてみると、少女ははっきりと頷いた。彼女は彼女で本当に疑っているらしい。いったい何を? 私からすればまずどんな嫌疑をかけられているのかすらもわからない──まさか少女趣味の変態のように思われているのだろうか? 同性の年下相手にしか興奮できないとか別にそんな倒錯的嗜好は持っていないつもりだけど、まあ少女からすれば怖いものは怖いだろうな。
目が覚めたら他人の家にいた、なんて子供じゃなくてもそりゃ不安になるだろうさ。でもその割には──。
「私の用意した食事はぱくぱく食べてくれたね。おかげでうちの冷蔵庫、空っぽになっちゃったよ」
「う……」
少女はそっと目を逸らした。明後日の方向を見ながら、若干バツが悪そうに言い訳じみた言葉を口にする。
「だ、だってお腹空いてたんだもん……。一週間ぐらい、ちゃんとしたご飯食べてなくて……」
はー、一週間。育ち盛りの子供がそれだけまともに食べていなかったらさぞかしつらかったことだろう。ならば冷蔵庫の中身がそっくりそのまま少女の腹の中に納まったこともまったく構わない。なんだったら追加でコンビニ弁当くらい買ってきてあげてもいい──そうなると少女を預かっている間、私のほうがまともに食事をできなくなるかもしれないが、それくらいで死にはしないだろうし全然いい。というか死んだっていい。
「私はまーそこそこの貧乏だけど、うちにいる期間くらいはお腹いっぱい食べさせてあげるから。安心してね」
「……ありがとう」
あ、ちょっとだけ信用されたっぽい。やっぱりまず掴むなら胃袋からって本当なんだな。これは男を落とすためのテクだったはずだけど、お腹が膨れて嫌な気分になる人なんてそうそういないだろうから、これは老若男女のべつ幕なしに人たらしの基礎テクニックにして超必技だと言えるだろう。
本格的にいい条件のバイトを探さないとなー、なんて思いつつ私は少女へ質問する。
「ねえ、名前はなんていうの?」
私は既に名乗っているが、少女からはまだだった。なんと呼べばいいのかわからないのは不便なので、ここらで聞いておく。あなたのお名前なんですか? コミュニケーションの第一歩、基本にして根幹とも言えるその質問はするにもされるにもそう身構えるものではないはずだが、何故か少女はすぐに答えようとしてくれず、変な間を設ける。
「どうしたの?」
「わたしに、名前はないの」
「…………」
おっとぉ。さすがにどうすればいいかわからんねこれは。名前なんて現代に生きていれば誰だって普通に持っているものだ。それがないとなると、いよいよもってこの子は、正確にはこの子を取り巻く環境というものは、それこそ『普通』ではない──尋常ではない。
またしても厄介事に首を突っ込んでしまったらしい。
それを後悔なんてしないけど。
「じゃあさ──」
ピンポーン。
切り口を変えて話を続けようとしたところで、そんな間の抜けた音が部屋に鳴り響いた。なんの音だ? ……あ、チャイムか。ここ数ヵ月耳にしていなかったせいで脳がその音に関する記憶をいらないものだと判断し勝手にゴミ箱へ捨ててしまっていたらしい。でもバックアップは残っていたようで、かろうじて玄関のチャイムを誰かが押したのだということがわかった。
いや馬鹿な、私の部屋のチャイムなんていったいどこの誰が押すというんだ……あ、お姉さんがもう迎えに来たのかな? あんな別れ方しといて早すぎる気もするけどそれなら納得できる。
「誰だろう。ちょっと出てくるね」
「待って、開けちゃダメ!」
「んー……? そうだね、寮とはいえ不審者が出たことは最近もあったし。まずどんな人が来たのか確認してみるよ」
少女を安心させるようにそう言って、私は玄関に向かった。履き古して随分と安っぽくなったローファーを踏み潰しながら扉へ身を寄せ、ドアスコープへ目をやる。
「あ……」
覗いて見えたのは、コートを着た女だった。ぼさぼさの長い髪を垂らした、どことなく根暗そうな、しかし口元には大きな笑みを浮かべた女。『伸ばすならちゃんと髪の手入れしろよ』とか『なんで人ん家の前に立って笑ってんだテメー』とか思うことは多々あれど、何より印象的なのは垂らされた前髪の間から見えるその目だった。
私はこの目を知っている。
それは人を人とも思わない目。
他人の生き死になどどうでもいいという目。
簡単に、単純に、他人を──幾人を殺してきた目だ。
「やっば……!」
その女が動きを見せたのと私がしゃがんだのはまったくの同時だったと思う。咄嗟の行動だったがこの判断は正解だった──今し方まで私の頭があった場所を勢いよく何かが通り抜けていったことで、それを確信した。
「! ……っ」
ドアスコープをくり貫くように扉を貫通したのは巨大な針とも杭とも取れる、とにかく鋭く尖った何かだった。このままじゃまずいと頭を下げたままリビングへ急ぎ戻る私は、それでもどうしても気になって背後へ振り返って──ああもう、やっぱりやめときゃよかった! 目が合った!
針の引っ込んだ穴からこちらをじっと見つめる女の目。ホラーかよ。ホラーだわ。薄気味悪くて背筋が震える。でも怖がってちゃあいられない。今はとにかく逃げないととにかくヤバい。
「めい、何が──きゃっ」
名前を呼んでくれたことをちょっと嬉しく思ったけどそこにリアクションしてる暇もない。少女を担ぎ上げて、いわゆるお姫様抱っこの状態ですぐにベランダへと出る。
「えっ、何をするの!?」
「少し口閉じて。舌噛むと危ないから」
背後で扉が破壊される音を聞きながら──これ誰が修理代を持つんでしょうか──私は夜の街へと飛び出した。
あちゃ、ミスった。足めっちゃ痛いっすわこれ。
4
ベランダの欄干や貯水タンクを足場に跳ねる。基本は屋根を行くけど、気分的には某配管工リスペクトの移動経路である。
私は火事場の馬鹿力というやつを意図的に引き出せる。少女を抱えていてもパルクールくらいよゆーよゆー、と思ってたんだけど張り切りすぎて強化率を誤ったみたい。皮膚が、どころか筋肉がどんどん張り裂けていって血がだらだらですわ。痛いのなんのってもう泣きそうなくらいだ。っていうか実際ちょっと泣いてる。
「し、身体能力を強化する『異能』? 足から出血しているってことは強化部位が負傷するデメリットが……?」
こらこら、と腕の中の少女を諫める。分析している暇があったら私たちがいったい『何』から逃げているのかを教えてくれんかね。
そう求めると少女はぐっと唇を噛み締めた。私に掴まっている腕にもより力がこもる。なにやら説明が難しいことのようだね。
「じゃあ、一旦落ち着こうか……てゆーか休まないと私が死ぬ。ちょっとそろそろ足がマジで限界だから」
逃げた先に都合よく廃棄されたビルが見つかったので、私は老朽化した窓ガラスを蹴散らしながらダイナミックにお邪魔する。いや、下とか屋上に行こうと思うと余計に足を酷使することになるからさ。どうせ廃ビルなんだからいいでしょ、ちゃんと少女が怪我しないように気を付けたし──まあその分、私の顔面にはガラス片がいくつも突き刺さっているんだけどね。いたた。
「ひとまずはここで休憩ってことで……ふう」
ソックスの中が血だらけで気持ち悪い。太ももを中心に足は全体がズタボロだ──でもこれくらいなら何も問題ない。
私が腰を落ち着けられる場所を探していると(でもこれがなかなかないんだ、だってどこもかしこもボロボロだもん。私の足とおそろいだね)、少女がようやく口を開いてくれた。
「あいつは、組織からの追手だと思う」
「組織って?」
「指向進化研究所──R.O.D。通称『ロッド』。それが組織の名前。わたしはそこの実験体。そして最終到達体でもある」
「………………あー。はいはい、そういう系ね。なるほどねー。恐ろしいまでに理解しちゃったよ私」
ロッド。まったく聞いたことのない名称だけど、怪しい連中というのは意外とそこかしこに潜んでいるものだ。他ならぬ私の実家が似たようなものだしその点を疑いはしない。まあそういうこともあるよね、って感じだ。
「そこから逃げ出したってことでいいの?」
「……」
こくんと肯定。そうかそうか。お姉さんの怪我はじゃあつまり、そういうことなのか。
「あのお姉さんと一緒に? 二人はどういう関係?」
「……塩木博士はわたしの開発者の一人だったの」
おー、ただの逃亡者仲間というだけではない込み入ったバックストーリーを感じさせるね。でも別に知りたいのはそこじゃないかな。今気にすべき点は別にある。
「私が一番聞きたいのは──」
「追ってきているのがどんな奴なのか、でしょう?」
聞こえた声に私は反応する──が、遅かった。
どすっ、と。
冗談みたいに明瞭な音を立てて、女の手が。鋭い槍のように変化したその腕が、私の胸部から飛び出してきた。背中から、刺された。
痛──くないね。これ即死のやつだ。
でも死なないんだけどね。
◇◇◇
そして冒頭の場面。死んだ少女が起き上がったことに、女は戸惑った。これまで何人もその手にかけてきた彼女だ、よもや殺した手応えを思い違うことなど、勘違うことなどあろうはずもない。
確実に仕留めた。
それは間違いない、そのはずなのに。
なのに少女は生きている。
たった今自分を殺した相手を前に、にこやかに、それでいて瞳は温度を感じさせないような冷たさで──確かにそこに立っている。
被検体999番を庇うように、立ち塞がっている。
「あなた……なんなの?」
「砂川芽。おばさんに殺された、可哀想な被害者だよ」
微笑んだまま少女はそう答えた。乳房の端が覗く、大穴の開いた制服を気にする様子もなく一歩を踏み出してくる。
彼女のつるりとした肌はこの年代特有のみずみずしさを放っている──本来なら綺麗と称すべきそれを、女は非常に気持ち悪いと感じた。さっきまでそこに血肉が露出するグロテスクな大傷があったはずなのだ。
それが塞がって、あまつさえ少女は何事もなかったかのようにこちらへ近寄ろうとしてくる。
──気持ち悪い。
それは生理的な嫌悪感。
砂川芽という少女を女は非常に不気味に思った、故に。
「もう一度殺しましょうか。念入りに、もっとしっかりとね」
着ていたコートを脱ぎ、本格的に腰を入れて腕を引く。その動作だけで少女は次に何が起こるかを察したのだろう、瞬時に駆け出した。反応の速さは褒めてやってもいいほどだ──だがそれでも遅すぎる。距離を詰め切られる前にこの手が届くほうが遥かに速い。
「今度こそきちんと死んでおきなさい!」
変形させる。ただの右手を、鋭く尖った細槍へ。そして突き出す。伸縮自在のそれは少女の走力とは比較にならない速度で突き込まれる。
狙うは頭部。顔面を串刺しにしてやるべく放った槍は、しかし僅かに逸れた。手元が狂ったわけではなく少女のほうが頭を振ったのだ。まるでどこを攻撃されるか予めわかっていたかのように──恐るべき反射神経だ。だがやはり、遅い。この槍を相手取るにはそれでも遅すぎる。
ゴリゴリゴリッ!
人骨を削る不愉快な音を響かせながら、砂川芽の左側頭部は完全に消滅した。的の中央からはややズレたが充分な致命傷だ。胸の傷をどうやって治したかは知らないが、同じ即死でも心臓と脳では損傷のわけが違う。心臓の欠損はまだしも助かる見込みがあるし『異能保持者』ならなおのことどうにかできてしまう可能性も──珍しい事例ではあるが──あることにはある。
しかし脳の損壊ともなるとそうはいかない。身体機能を司る要にして最大急所。いかな異能を持っていようと脳の半分を吹き飛ばされて生還することなどあり得るはずも──。
「かっ……!?」
女の思考は中断させられる。それは目の前で起こった信じ難い現象と、そして肉体的なな圧迫による苦しさからのものだった。
頭部を半壊させ、すぐにも倒れるはずだった砂川芽が──それでも走ることをやめず、そのうえで抱き着くように迫ってきて、こちらの首を掴んだせいで。
「なっ、んで……!?」
床にぶつかる衝撃。ぎりりと締め上げられる痛み。一瞬で酸欠へ陥った女は疑問と相まってパニックを起こす。もがく彼女の顔に、少女の血がしたたり落ちてくる。その温かにぬめった液体の質感が余計に女を錯乱させる。
こいつはなんなのだ? 自らを押し倒しているこいつは、容赦なく喉を握り潰さんばかりに絞めつけてくるこいつは。
削ったはずの顔面が瞬く間に元の状態へ戻っていくこいつは、いったい──?
「ッ、カッ、……ぁ!」
酸素不足の女は、しかし残された力を振り絞って再度腕を変形させる。精密な操作はできそうにもないが、互いが密着しているこの距離感でよもや狙いを外すはずもない。槍はきちんと命中し、少女の腹をぶち抜いた。
「ぐぶ……っ」
ほんの少し、少女の上体がびくりと跳ねた。だがそれだけだった。腕の力は緩まない。喉の痛みはちっとも和らぐことなく、むしろ更に絞められた。息ができない。酸素がほしい。視界が滲むように暗くなってきた──だんだんわけがわからなくなって、て、てて、ててて、てててて、しぬ、しぬ、しんでしまう──このままではし、
「駄目ですって、おばさん。あなたは私を殺したんだから。まさか許すはずがないじゃないですか──そうです。死ぬんですよ、あなたは。ここで私に殺されるんです。ああ……なんて羨ましい」
その細腕のどこにそれほどの力があるのか。人一人を容易く殺せるだけの握力を発揮しながら、それでも砂川芽は笑っていた。悪魔のような蕩けるその笑みが、女が最期に見たものとなった。
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例えば今まさに斬り落とされた生首。それが衆目の前で瞳を動かし、瞬きを繰り返したというエピソードをご存知の方はいるだろうか。あるいは、斬首された当人が自身の頭を小脇に抱え、首なしの身体で数歩分を走った逸話などは? ……やたらと断頭に拘っているように思うかもしれないがこれはあくまで例え話として思い付いたのがこれらのエピソードだったというだけで。何も私が首切りフェチだとかそういうことではない。
一聞して眉唾と断じられるだろうこういった類いの説話を、実のところ私は本当だと信じていたりする──というか確信していたりする。
何故なら他でもないこの私自身が、それを証明できるから。
人の体というのは面白いもので、行動の指令を出す頭部と体が離れ離れになってもある程度なら動くことができるのだ。たとえ即死したとしても、その直前に強く思い描いた動作を肉体はなぞる──何度も何度も何度も何度も死んでは生き返っている私は、この現象を意図して起こせるようにまでなった。脳みそを削り飛ばされながらも敵に接近しその喉を掴めたのはこの技(?)のおかげである。
これぞ名付けて『死後工作』。私の会得した七つの奥義のうちのひとつだ──なんて、気取ったところでこんな隠し芸に大した意味なんてないんだけど。
でもまあ場面によって役立つと言えば役立つ特技だ。覚えたくもないのに覚えてしまったという習得の経緯を除けばなかなか有用で便利な技術と言えるだろう。現に今も、こうして正体不明のおばさんの油断に付け込んで仕留めることができたわけだし。
そんなことを考えながら両腕に更に力を込める。絞められた喉は酸素を少しも運べないようになっているし、赤を通り越して青くなってきたおばさんの顔色からしてたぶんもう死は免れないだろうけど、けれども私は油断をしない──そして容赦もしない。
私は私を殺した奴を、悪意を持って手にかけた奴を絶対に許したりはしないのだ。
自分に出せる握力の限界を超えてもっと力を込める。死んだ直後だと強化の調整が難しいがもう充分に感覚も戻ってきているし──よし、いける。
ごぎり。
不愉快な音。
それはおばさんの頸椎が捻じれ壊れた音だ。
──これで完璧に殺せた。
私のような存在でもなければ、これで蘇ることはない。酸欠で死亡し、しかも首の骨まで折られているのだから。
「こ──殺したの?」
「うん?」
完璧な仕事っぷりに私が達成感に浸っていると、背後からそんな風に声がかかってきた。ああ、そうだった。この子がいたんだった。子供に見せるような光景ではなかったなと反省。でも元はと言えばこのおばさんが私を題材にスプラッタな現場を作ったのが始まりなのだからもう今更だろう。私は正当な復讐を果たしただけだし、それはこの子を守るためでもあった。寮の扉を壊された恨みもあるしね。
「殺したよ。そうしないと不安でしょ?」
「そう、だけど……」
少女は煮え切らない。彼女が今いったいどういった感情を抱いているのか私にはまるで判然としなかった。死の淵から蘇ってまでロリコンおばさんを討ち果たした私へお礼のひとつでもあるんじゃないかと期待したのは間違っていたか──ま、いいけどさ。繰り返すが、私は礼を言われるためにこういうことをやっているわけじゃないんだ。
「さて。帰ろっか」
「え!?」
少女はひどく驚いた顔をする。いや、なんなのそのリアクション?
「帰りたくないの? まかさここで泊っていくつもり?」
朝帰りは本当に勘弁してほしい。寮長や生徒たちに気付かれる率百パーだし明るくなってから街中を歩くとなると現在の私のなかなかハイセンスなファッションが人目を引きに引きまくるだろう。胸と背中を大胆に露出させ、ソックスや首回り、胴体部にかけて一面に血の跡がべったりなのだ。ダメージ加工にしても行き過ぎているし、そもそもペイントではなく本物の血なので匂いが酷い。ぶっちゃけると今一番したいことは服を放り捨てて温かいシャワーを浴びることである。この際冷たい水でもいいから頭から被っておきたいところだ。
「そうじゃなくって……死体をこのままにするの?!」
「うん」
「……、」
少女はお口をあんぐり。見るからに絶句している。さっきから反応が大きくて面白いな。クラスメートなんかは二歳も年上である私に気を使って妙に委縮してしまって対等には話せないので、こういうリアクションはちょっと新鮮かもしれない。いつも苦笑いばかりされているからなぁ……。
「ほ、放置するなんてありえない。ロッドが手を回すとしても、もしも間に合わなかったら──めいが捕まるんだよ!?」
「捕まるって、隣化機関に?」
激しく首を上下させる少女。どうやら肯定の意らしい。ふーむ、この言い方だと、得体の知れない組織であるところのロッドとやらも、さすがにスケイルズにまで手を伸ばしているということはないらしい。あそこのトップ、というか活動部隊の数人とは遺憾なことに顔見知りなのでちょっとばかし安心する。あの正義超人たちが怪しい組織と癒着なんかしていたらいよいよもってこの世の何を信用していいかわからなくなるところだった。
「大丈夫、捕まりはしないから」
「え……? それって、めいはもしかしてスケイルズの人と関係でも持っているの?」
「関係なんてないよ。いや、よくないほうの繋がりならあるけどね。私の犯罪現場を抑えたらむしろ他の犯罪者を放ってでも喜び勇んで捕まえようとしてくるだろうけど──そういうのとは関係なしに。私はいつもこうしてきた。だから、大丈夫だよ」
「いつもこうしてきた……?」
「そ。私もね、命のやり取りは何もこれが初めてじゃないんだ。まあ私の命はあげたくてもあげられないから結局は一方的に貰うだけなんだけど……つまり人を殺したのはこれが最初じゃない」
「っ……」
「でも、死体を処理したことなんて一度もないよ。それでも今まで逮捕なんてされてこなかったんだから、今回も心配ないでしょ。きっとどうにかなるよ」
これは紛うことなき事実だ。疲れたから早く帰りたくて嘘をついているわけじゃない──こんな言い訳をすると余計にそう思われちゃうかもしれないけど、誓って本当。やるだけやって現場をほったらかしにした回数なんて数えきれないくらいだけど、それが問題になったことなんてただの一回もない。自分でも不思議だよ。でもなぜかそうなっている。だから今回もきっといけるはずだ。
と訴えるも少女の不安そうな顔に変化はない。当然か。逆の立場だったら私だって何ひとつ大丈夫だとは思えないだろうしね。
しかし困ったな、やったことがないから処理しようにも死体の扱いに困ることは確かだし、かといって放置案で少女を説得できるような材料を持ち合わせているわけでもないし……と悩む私をよそに、少女は何やら決意の表情を見せた。
「私がやる」
「……やる? やるって何を?」
「この死体は私が消す──めいは離れてて。危ないから」
「…………」
物騒というか不穏というか。急に少女の雰囲気ががらりと変わったことで私は口を挟めなくなった。大人しく言われるがままに数歩分後退する……それで、いったいこの子は何をしようというのだろうか。
「──『終極』」
おばさんの亡骸へ近付く少女。彼女の口から小さく言葉が呟かれ、その途端──。
「お、おお? うっそ……、」
死体が消失していく。
おばさんの体全体が黒く染まっていき、そこから糸目が解けるようにして、まるで空間に溶けるようにして消えていく──散っていく。跡形もなくバラバラに、ぱらぱらと、ひらひらと、崩れて失われて……やがてそこには何もなくなった。
初めから死体なんてどこにもなかったかのように。
「これ、は……」
ごくりと喉を鳴らす。いま、何を見せられた? 私にはまるで、少女の意思ひとつで死体が消え去った──否、「消し去られた」ように見えた。
「はあ──っ、はあ──っ。やったよ、うまくいった……う」
顔色を青くさせながら荒く肩を上下させる少女。そこに私は慌てて駆け寄って、その背中をさすってやる──。
……どうもこれは、思った以上に、面白いことになってきたかもしれない。
6
死体を消し去ったのは少女の異能と見て相違ないだろう。しかしてここまで攻撃的で、ここまで絶対的な異能など、私は寡聞にして知らない。もうひとつ絶対的な例で言えば、他ならぬこの私の不死身の肉体こそが挙げられはするが──これはそもそも異能などではないので。
だから私は、人とは違う。
何者も本当の意味で私を傷付けることも殺すこともできないのだ──けれど。
この子ならあるいは?
この絶対的な異能なら、ひょっとしたら。
私という呪われた生命に真の終止符を打ってくれるかもしれない。
「めい……?」
「…………、」
訝しげな目を少女から向けられて、私は思わず自分の顔に手をやった。すると案の定私の口の端は吊り上がって弧を描き、無意識に笑みの形を作っていた。
そうだ、笑わずにはいられない。
ようやく見つけた可能性を前に、私は喜ばずにはいられないのだ。
「──めいは、怖がらないんだね」
「え?」
「だって、わたしの力は……」
言い淀む少女。自分を抱きしめるようにしながら、彼女は辛そうに俯いた。
……ま、説明されなくったってなんとなくわかる。異能にしても異色すぎるこの力は、身体能力や肉体機能の延長線上という定義から明らかに外れている。そして『危ない』とか『うまくいった』という少女の発言。更にはロッドとかいう謎の研究機関に捕らわれていたという事実……これらの情報から導き出される結論は、細部こそ違えど大抵の人が思い浮かべるパターンとしては一種類しかないだろう。
危険な力。開発された力。そして操り切れない力。
生ける兵器。
この少女はおそらく、そういう風に扱われてきたのではないだろうか。
「このままじゃわたしは、いつか多くの人を殺すための道具になっちゃう。それがイヤで、あそこから逃げ出したの。塩木博士が協力してくれて、ちゃんと逃げられたはずだったのに……見つかった。塩木博士は怪我をして、でもわたしのことを守ってくれて……」
で、疲れから眠りについて、気が付けば私の部屋と。
それは確かに、寝起きで即信用なんてできやしないな。ただし私がロッドの関係者であるのならとっくに研究所だかなんだかへ連れ戻しているはずなので、そうしていない時点で少なくとも「敵」ではないと彼女は判断したらしい……その少女らしからぬ筋道立てた推察力には私も助けられている。あそこで大声で騒がれでもしていたら寮長に誘拐容疑で通報ないしは彼女から直接の成敗が下っていたかもしれない。おおくわばらくわばら。
──そんなことはともかく。
「とにかく、帰ろうよ」
「え……?」
「死体も片付いたことだし、もうここにいる意味もないでしょ? じゃあ寮に戻ってこれからのことを考えようよ。詳しい話はまたその時に」
「……いいの? だってわたしは、人殺しも厭わない人たちに狙われてて……それにわたし自身、いつあなたを能力で傷付けてしまうか──ううん。傷付けるだけじゃ済まない。この力が暴走したら、わたしは確実にあなたを……『殺して』しまう」
「──クヒ」
ビクッ、と少女が肩を竦めた。おっといけない、ついまた下品に笑ってしまった。
まだ駄目だ。私のこの本性を大っぴらにしてしまうにはまだ少女からの信用も信頼も足りていない。彼女にとっての私はきっと、ちょっと変だが無辜なる善人といったところだろうか。何時隣人を愛せよとは言うが、ただの隣人ならばそりゃなあなあで良い付き合いもできるだろう。ただし私はそんなんじゃ満足できない。
殺してしまいたいほどに憎まれるか。
殺してあげたいほどに親しまれるか。
正負に限らず、とかく熱く激しい感情をこの子から私に向けてもらう必要があるのだ……だから。
「名前」
「……?」
「名前、ないんだよね?」
「う、うん……。研究所では番号で呼ばれてた。塩木博士は、わたしのことを『雛鳥ちゃん』って」
「雛鳥か……そっか。じゃあヒナちゃんだ。これから私は、君のことをヒナちゃんって呼びたいんだけど、いいかな」
「あ……」
最初は呆然と。だけど次第に、嬉しさの感情を覗かせて。
「──うん、めい。わたしは今日から、ヒナになる」
「よかった。言っとくけれど、ヒナちゃん。私はヒナちゃんのことを見捨てる気はないよ。頼まれたってそんなことはしない。絶対に、絶対にね」
「…………」
「だから、よろしくね。塩木さんが帰ってくるまでは、何があろうと私がまもるから」
「……う、うぅうっ!」
ボサ髪の女が脱ぎ捨てたコートを羽織ってスーパーパンクなファッションを隠した私は泣きやまない少女の肩に手を回しながら廃墟を出た。人の目は気になるが好きなだけ泣かせよう。私は泣き方なんてとうに忘れてしまったから──流せるうちに涙は流しておくべきだと知っているから。
◇◇◇
愛しの我が家である寮が見える通りには、人だかりができていた。その輪の一員と化しながら私も皆と目線を合わせてそこを見る──他でもない私の使用する部屋。先ほど玄関とベランダが被害に遭ったその部屋から、火の手が上がっている。
中でキャンプファイヤーでもしているのかと言いたくなるくらい猛烈な勢いで燃え盛っている……が、奇妙なのは火災が起きているのがそこだけということ。下からでもハッキリと勢いの強さが分かる火事だというのに、他の部屋には一切火が回っていないのだ。
群衆からも不思議がる声が聞こえる──しかしヒナちゃんには事態の真相が既に掴めているようだった。その予想は私と一致しており、たぶん正しい。
「これは範囲指定で火を操る異能……? まさか第二の刺客がもう来てるなんて……!?」
「そのまさかってことだね。さ、行こう」
手をつないだまま人混みから離れようとする私に、ヒナちゃんは驚いたような顔をするが。
「見られてる。このままじゃ周りの人たちごと燃やされる」
「……!」
事の深刻さがそれでわかったのだろう。ヒナちゃんはぐっと覚悟を決めた表情となって黙って私についてきてくれた。……きっと無関係の人を巻き込むわけにはいかないと考えているんだろうなぁ。私がここから離れようとしているのも同じ考えだと思っているのかもしれない。単に誰が異能者かわからないまま一方的にやられるのを避けたかっただけなんだけどね。私は燃やされても気が狂いそうなほど苦しむだけで済むけど(焼死はガチのマジでキツい、経験談だ)ヒナちゃんはそうはいかない。
「さーて、どうしたもんかな……」
謎の発火異能を相手にヒナちゃんを守りながら戦う。捨て身戦法くらいしか能のない私にとってこれはなかなか厳しい状況だ。しかも、仮にこの敵を退けたとしても第三第四の刺客が間を置かずやってくることが目に見えている。それでも逐次投入が続くならまだいいほうで、物量で攻められたら一溜まりもない。ロッドの人材がどれだけ豊富かは知らないが、少なくとも小娘二人を追いかけ回すに不足はしないだろう。
「……!」
ぎゅっと、少女が私の手を握りしめてくる。意図せずそうなったのだろう。緊張か、不安か、あるいは私を頼ったことをもう後悔でもしているのか──まあ、私に判じられることではないけれど。
それでも。
「大丈夫だよ、ヒナちゃん。どんなことをしたって、必ず守ってあげる」
「めい……」
嬉しそうな、悲しそうな、寂しそうな、泣きそうな。
おおよそマイナスばかりを感じさせる声で、しかしほんのわずかなプラスを確かに含む声で、ヒナちゃんは私の名を呼んだ。
いいね。いい感じだ。
ロッドとの戦いが激しくなればなるほど、この子との信頼関係も強固なものとなっていくだろう──私の望み通りの展開になるだろう。
守るとも、ヒナちゃん。
君の魅力にはそれだけの価値がある。
いつか君に殺されることを願って……その日までは私が、君の絶対的な味方になろうじゃないか。
「来るなら来い、ロッド。私からヒナちゃんを奪おうだなんて──そうはいかないよ」
背後から熱を感じた私は、ヒナちゃんを抱えて脚部強化で跳んだ。宙を舞いながら私はまた笑う──楽しい。真下を嘗め尽くしていった炎とは関係なく、私は今並々ならぬ熱を実感している。
そうだ、やっぱり私はそうなんだ。
死ぬべき努力をしているその瞬間にこそ生きている実感がわく。
死を諦めないからこそ生きている……なんて矛盾に満ちた、気持ち悪い生命だろうか。
ああ──早く早く、死にたいな。
死にたいけど、死にたくないけど、やっぱり死にたい。
一言で言うならそんな感じの私だった。
「めい! 髪が燃えてるよ!」
「ウソ? そりゃ熱いはずだ!」
──ま、締まらないけど、とにかくそんな感じで。今日も私は死ぬために生きているのだった。
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